【週俳12月の俳句を読む】
何かのエネルギーが
小野裕三
雪晴や折鶴に息吹き込んで 岸本由香
小さな折鶴の細かな穴に息を吹き込む行為は、とても精妙でどこか神秘的・秘教的ですらある。それを大きく取り巻く青と白の突き抜けたような世界は、息を吹き込むという秘教的な儀式にどこか相応しい。折鶴という小さな造形的世界、息を吹き込む人体という生命的世界、それを包み込む鮮やかな雪晴の天文的世界。その三つが美しく並置され、それらの間に何かのエネルギーが駆け巡るのをこの句からは感じる。
留守電になって襖に耳あてる 松井真吾
何かの理由で、この人は電話には出られない(出たくない?)のだろう。でも、その話の内容はとても気になっている。それで襖越しに聞き耳を立てる。その姿を想像すると、どこか滑稽だ。でも、本人にとってはけっこうシリアスなことのだろう。こんなふうに滑稽さとシリアスさが隣り合う風景はいかにも現代社会的だし、それゆえに、「になって」といういかにもぶっきらぼうな口語的言い方もこの句では効果的だ。
散髪の椅子の固さや冬紅葉 桐木知実
表面や境界の感覚が、この句では際立つ。まずは固い椅子の表面があり、おそらくその側面か背後には店の大きな窓がある。床屋と外の世界を峻別する透明な窓。それ越しに見える鮮やかな冬紅葉は散り続け、髪の毛は切られ続ける。どちらもどこか儚げなものたちだ。このように移ろいゆく世界では、椅子や窓といった境界だけが、確かな存在なのかも知れない。そう思えば、人を支える椅子の固い表面が、世界自体を支える根底のように、句の中で際立ってくる。
葱畑四五本育ちすぎてをり 鈴木総史
子規の有名な句なども想起するので、なんとなくパロディっぽい雰囲気もある句だ。そしてそれだけでなく、状況もどこかユーモラス。育ちすぎた葱はたぶんもはや美味しくないのだろう。それは栽培する人としては失点だ。しかし、その数はせいぜい四、五本。その失点を後悔しているとしても、まあたかが知れている。と、読み手もそんなたわいないことを思い巡らしているうちに、どこか心が緩む小さなユーモアがそこに芽生えてくる。
短日の意訳のつづく字幕かな 滝川直広
翻訳者は、字幕スペースの節約のためになるべく言い回しを縮めたわけだろう。そしてこの観客は、台詞と字幕のギャップに気づき、そこに翻訳者の思考や意図を感じる。その意訳の巧みさに感心すらしているかも知れない。そんなふうに、意訳のせいで観客の気持ちが少しだけ映画の本筋から離れていく。その先にある、屋外の冬の空にも思いが及ぶ。そうやってスクリーンからちょっとばかり逸脱していく、観客の意識の動きが面白い。
ハンガーを捨てるきれいな冬休み 上田信治
そもそも、「きれい」のような主観的表現は俳句ではなかなか成功しないのだが、しかも、この「きれい」はどこか取ってつけたようだ。前半の光景は「きれい」とも思えないし、冬休みの形容として「きれい」はあまり用いられない。だが、この取ってつけた感じが、なぜか妙に俳句的でもある。なぜなら、俳句という形式自体がそもそも五七五でどんと現れてすぐに去っていく、取ってつけたような存在形式でもあるから。俳句の持つ究極的な本質に、ユニークな感覚を接ぎ木するとこんな句になる、という感じがする。
去る鯨焚書の火がたわむからむ 福田若之
焚書は、具体的な行為であると同時に、抽象的な行為でもある。そこでは実際の行為として紙の本が燃やされるが、そこで追い払われようとするのは、人間の思想自体という抽象的なものだ。句の後半にある「たわむからむ」も、物質としては掴みどころのない火の蠢きであり、さらにそれをひらがなで書いたことで、その文字自体もふしぎな物質性を孕む。かくして句は、抽象性と具体性の間を往還し続ける。それは根本的には、言葉というもの自体が持つ多層的な物質性に対して、常に間合いを測りながらこの作者が俳句を作っているからではないかと思う。
左右から別の音楽クリスマス 村田篠
クリスマスの街では、確かにたくさんの音楽を耳にする。そんな賑やかで浮かれた街を、この人はどこか冷静な視点で見ている。と言ってまったく醒めてるわけでもなく、心の半分は街とともに浮かれてもいるのだろう。まさに、右と左に分かれるように。そんな具合に、浮かれた気持ちと白けた気持ちが入り混じっているのも、クリスマスの頃の街の特徴なのかも知れない。句の表現もいかにもそっけないが、それが逆に効果的に感じられる。
板状にひろがる寒さ日比谷口 西原天気
「板状」という言葉は水平的な空間の広がりを思わせ、そのイメージは、日比谷という近代化の原型のような独特の街へと広がる。その一方で、この句は東京の地下に広がる複雑な空間も想起させようとする。かくして、地表と地下という二つの空間が対比され、この人物はその二つを繋ぐ小さな結節点に立つ。そこで感じた、小さな肉体感覚としての寒さが、新鮮な躍動感を句の中に生み出し、二層の街の空間を駆け巡っていく。
採掘の助手と接吻耳袋 岡田由季
接吻という、どちらかというと西洋的な行為はあまり俳句の世界に馴染むとも思えない。おまけに、採掘という言葉も西洋的な産業や学術研究などを想起させる。そこに、厳しい自然を思わせる耳袋という季語が斡旋される。結果として現れた句全体の雰囲気は、あまり俳句には見慣れたものではない。だが、それでもどこかで俳句的な配合の原理がうまく活かされているのが見事だ。俳句の原理を知悉しつつ、冒険的な要素を大胆に取り込んだ句だと思う。
小さな折鶴の細かな穴に息を吹き込む行為は、とても精妙でどこか神秘的・秘教的ですらある。それを大きく取り巻く青と白の突き抜けたような世界は、息を吹き込むという秘教的な儀式にどこか相応しい。折鶴という小さな造形的世界、息を吹き込む人体という生命的世界、それを包み込む鮮やかな雪晴の天文的世界。その三つが美しく並置され、それらの間に何かのエネルギーが駆け巡るのをこの句からは感じる。
留守電になって襖に耳あてる 松井真吾
何かの理由で、この人は電話には出られない(出たくない?)のだろう。でも、その話の内容はとても気になっている。それで襖越しに聞き耳を立てる。その姿を想像すると、どこか滑稽だ。でも、本人にとってはけっこうシリアスなことのだろう。こんなふうに滑稽さとシリアスさが隣り合う風景はいかにも現代社会的だし、それゆえに、「になって」といういかにもぶっきらぼうな口語的言い方もこの句では効果的だ。
散髪の椅子の固さや冬紅葉 桐木知実
表面や境界の感覚が、この句では際立つ。まずは固い椅子の表面があり、おそらくその側面か背後には店の大きな窓がある。床屋と外の世界を峻別する透明な窓。それ越しに見える鮮やかな冬紅葉は散り続け、髪の毛は切られ続ける。どちらもどこか儚げなものたちだ。このように移ろいゆく世界では、椅子や窓といった境界だけが、確かな存在なのかも知れない。そう思えば、人を支える椅子の固い表面が、世界自体を支える根底のように、句の中で際立ってくる。
葱畑四五本育ちすぎてをり 鈴木総史
子規の有名な句なども想起するので、なんとなくパロディっぽい雰囲気もある句だ。そしてそれだけでなく、状況もどこかユーモラス。育ちすぎた葱はたぶんもはや美味しくないのだろう。それは栽培する人としては失点だ。しかし、その数はせいぜい四、五本。その失点を後悔しているとしても、まあたかが知れている。と、読み手もそんなたわいないことを思い巡らしているうちに、どこか心が緩む小さなユーモアがそこに芽生えてくる。
短日の意訳のつづく字幕かな 滝川直広
翻訳者は、字幕スペースの節約のためになるべく言い回しを縮めたわけだろう。そしてこの観客は、台詞と字幕のギャップに気づき、そこに翻訳者の思考や意図を感じる。その意訳の巧みさに感心すらしているかも知れない。そんなふうに、意訳のせいで観客の気持ちが少しだけ映画の本筋から離れていく。その先にある、屋外の冬の空にも思いが及ぶ。そうやってスクリーンからちょっとばかり逸脱していく、観客の意識の動きが面白い。
ハンガーを捨てるきれいな冬休み 上田信治
そもそも、「きれい」のような主観的表現は俳句ではなかなか成功しないのだが、しかも、この「きれい」はどこか取ってつけたようだ。前半の光景は「きれい」とも思えないし、冬休みの形容として「きれい」はあまり用いられない。だが、この取ってつけた感じが、なぜか妙に俳句的でもある。なぜなら、俳句という形式自体がそもそも五七五でどんと現れてすぐに去っていく、取ってつけたような存在形式でもあるから。俳句の持つ究極的な本質に、ユニークな感覚を接ぎ木するとこんな句になる、という感じがする。
去る鯨焚書の火がたわむからむ 福田若之
焚書は、具体的な行為であると同時に、抽象的な行為でもある。そこでは実際の行為として紙の本が燃やされるが、そこで追い払われようとするのは、人間の思想自体という抽象的なものだ。句の後半にある「たわむからむ」も、物質としては掴みどころのない火の蠢きであり、さらにそれをひらがなで書いたことで、その文字自体もふしぎな物質性を孕む。かくして句は、抽象性と具体性の間を往還し続ける。それは根本的には、言葉というもの自体が持つ多層的な物質性に対して、常に間合いを測りながらこの作者が俳句を作っているからではないかと思う。
左右から別の音楽クリスマス 村田篠
クリスマスの街では、確かにたくさんの音楽を耳にする。そんな賑やかで浮かれた街を、この人はどこか冷静な視点で見ている。と言ってまったく醒めてるわけでもなく、心の半分は街とともに浮かれてもいるのだろう。まさに、右と左に分かれるように。そんな具合に、浮かれた気持ちと白けた気持ちが入り混じっているのも、クリスマスの頃の街の特徴なのかも知れない。句の表現もいかにもそっけないが、それが逆に効果的に感じられる。
板状にひろがる寒さ日比谷口 西原天気
「板状」という言葉は水平的な空間の広がりを思わせ、そのイメージは、日比谷という近代化の原型のような独特の街へと広がる。その一方で、この句は東京の地下に広がる複雑な空間も想起させようとする。かくして、地表と地下という二つの空間が対比され、この人物はその二つを繋ぐ小さな結節点に立つ。そこで感じた、小さな肉体感覚としての寒さが、新鮮な躍動感を句の中に生み出し、二層の街の空間を駆け巡っていく。
採掘の助手と接吻耳袋 岡田由季
接吻という、どちらかというと西洋的な行為はあまり俳句の世界に馴染むとも思えない。おまけに、採掘という言葉も西洋的な産業や学術研究などを想起させる。そこに、厳しい自然を思わせる耳袋という季語が斡旋される。結果として現れた句全体の雰囲気は、あまり俳句には見慣れたものではない。だが、それでもどこかで俳句的な配合の原理がうまく活かされているのが見事だ。俳句の原理を知悉しつつ、冒険的な要素を大胆に取り込んだ句だと思う。
■滝川直広 書体 15句 ≫読む
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