2018-02-11

【週俳1月の俳句を読む】珈琲店で雑文を書く 瀬戸正洋

【週俳1月の俳句を読む】
珈琲店で雑文を書く

瀬戸正洋


尊徳記念館は小田急線栢山駅から酒匂川に向かって徒歩で十数分程度のところにある。ここは二宮尊徳生誕の地であり、生家が保存され、隣に記念館が建っている。以前、ここで、小田原俳句協会の大会があった。「珈琲E***」は、道路をはさんで反対側にあり、そのとき入ったのがはじめてであった。窓側の席に座ると、茅葺の生家と青空が見えた。小田原俳句協会の大会へは、佃悦夫さんや大石雄介さんに誘われて、たまに、出掛けている。

蜜柑剝くたびに地球が濡れている  塩見恵介

地球は濡れていると感じたのである。蜜柑を剥くたびに何故か地球は濡れていると感じてしまうのである。指が蜜柑の皮にふれたとき、その皮への感触が濡れているということばを思い起こすのである。まだ、口に入れていない果実の甘さをイメージすると蜜柑もひとも眼前のあらゆるものが濡れた地球のうえに存在していることが理解できる。

どうどうと皹ている日本海  塩見恵介

ひとは負を意識すると、こころもからだも縮みはじめる。手の指やあしのうら、踵に小さな皹ができると一ミリ程度の痛みであっても、そこに精神が集ってしまう。それに引き換え日本海は、そんなことお構いなしにどうどうとしている。負を意識しているひとたちにたいして、こんな表現をつかい励ます方法もあるのである。

花びらはふちより傷み寒椿  塩見恵介

花びらには花びらの悩みがある。花びらのふちにも花びらのふちの哀しみがある。花びらの芯にも花びらの芯の苦しみがある。となりの芝生など、どこにもないのである。椿の花はぽとりと落ちる。寒椿の花もぽとりと落ちる。ひともいずれはぽとりと落ちて闇のなかに消えていってしまうのである。

熱燗のそれぞれに貴種流離譚  塩見恵介

貴種流離譚とは、「物語の類型の一種であり折口学の用語の一つ。幼神の流浪を中核に据えたもの」とある。これは、大国主命や日本武尊のものがたりだけではなく現代のひとびとの人生にも同じことがいえるのだ。ひとびとの考え方に古代も現代もない。ひとの一生とは、とどのつまりは類型なのである。熱燗とは日本酒、あるいは紹興酒に燗をすることだ。湯で割りうすめることではない。「熱燗の」とは、それを飲むひとたちということだ。まいにちを苦労してなんとか生きているひとたちのことだ。だが、苦労して生きていくことなど、誰でも、あたりまえにすることなのである。熱燗は、五臓六腑にしみ込んでいく。

AIをこじらせている雪女  塩見恵介

AIとは「ひとの知的能力をコンピューター上で実現する、様々な技術・ソフトウェアー・コンピューターシステム」とある。それを雪女が、もつれさせ、解決をむずかしくさせているのだという。私は、雪女は実在すると思っているが、この場合の雪女は「ひとのこころに存在する」ぐらいでいいのだと思う。作者も雪女に加勢したいと思っているのだが、ふんぎりがつかずにいる。それが「こじらせている」という表現になったのだと思う。

冬晴れ間手乗りインコは肩も好き  塩見恵介

嫌いだと警戒心、猜疑心がうまれる。好きならば何のことはない、どんなことをしても笑って済ますことができるのだ。このセキセイインコは、このひとの手や肩に楽しい思い出があるのである。幸せなセキセイインゴなのだ。だから、何の屈託もなく乗ることができるのである。冬の太陽はセキセイインコもひともあたたかくつつみ込んでくれるのである。

乾鮭のコーナーキックのように塩  塩見恵介

コーナーキックとは、サッカーの試合で、コーナーアークからのキックによってプレーを再開するルールである。そして、シュートへと繋がることが多々ある。ゴール前の選手は「塩」なのである。ひと粒の「塩」が、乾鮭のあたらしい何かを生み出すことができる。さらに、予想だにしなかった全く新しい何かを生み出すことができるのである。

山茶花よアジアの空の瘡蓋よ  塩見恵介

アジアは常に動いている。動けば「傷」ができる。「傷」を保護するために瘡蓋ができる。瘡蓋とは、動物の生体保護現象のひとつであるが、「アジアの空の」となると、また、違った意味での瘡蓋となる。内から外へ飛び出さないための、外から内を守るための瘡蓋なのである。山茶花は、赤い花を咲かせ、ただ、ただ、「アジアの空」を感じている。

初空の百万ドルの乳房かな  塩見恵介

惚れているということなのだろう。惚れていれば一万ドルが十万ドルにも百万ドルにもなる。元日を、みなみの国で迎えたのであるならば、それは非日常である。非日常の乳房なら百万ドルでも足りないと思っているに違いない。老人にしてみればうらやましい限りである。

お布団を干してあしたの作り方  塩見恵介

布団を干すということは気持ちよく眠るためのものである。気持ちよく眠れば、朝は、気持ちよい目覚めとなる。体調がよければ何でもできるのである。あしたのために今日できる唯一のこととは布団を干すことだけなのである。太陽の匂いにつつまれ熟睡すること。これこそ正しく生きるための唯一の方法なのかも知れない。

寝ながらに笑ふ泰山木の花  橋本小たか

よこたわって笑うのではなく眠っていて笑うということなのだろう。眠りながら怒る、眠りながら泣くなどということもある。ストレス、あるいは、何らかの体調不良、作者は、日々、生活に苦労しているのである。泰山木の花は、白いおわんのような花。花言葉は「真の輝き」とある。真にかがやくために乗り越えなくてはならないものはいくらでもある。そのためには、眠らなくてはならないのだ。浅かろうが深かろうが眠りながらに笑うことで睡眠が確保できれば、それでよしとすることも折り合いのつけ方のひとつなのである。

葛の花このかさぶたはいつの傷  橋本小たか

子どもの頃、かさぶたができると無性に剥がしたくなった記憶がある。この場合は、いつけがをしたのかわからなくてかさぶたを見て思い出そうとしているのである。過去について思いをめぐらすことは正しいことなのである。庭の片すみには葛の花が咲いている。葛は花も葉も濃い色をしている。忘れてしまっていることに多少の不安を覚えつつ、人さし指の爪で記憶のないかさぶたを剥がしてみる。

とんばうの向き変へるたび残す音  橋本小たか

空中に止まっているとんぼが急に向きを変える。そのときとんぼは音をたてる。これは、とんぼだけのはなしではないのである。誰もがそうなのである。生き方を変えたとき、愛することを止めたとき、哀しみからのがれられたとき、ひとは音をたてる。そして、その音を残すのだ。目を閉じて、自問自答をしてみればいいのだ。かすかな音が、あちこちから聴こえてくるだろう。

冬眠や昔の受話器重かりき  橋本小たか

黒い受話器は重い。赤い受話器も重い。受話器は重くなくてはいけないのだ。熊やモグラやひとは電話をかける。当然、ひとも冬眠をするのだ。受話器が重いから、夢を見るのである。黒い電話や赤い電話の夢を見るのである。最近は、熊やモグラやひとも、夢を見ることもなく、軽いスマホを持ちゲームやラインなどをして楽しんでいる。

フルートは三人ゐたり浮寝鳥  橋本小たか

フルート奏者が三人といえば、このオーケストラは多めの編成だと思う。越冬のために日本に渡ってきて湖や沼で一冬を過ごす水鳥の群れを浮寝鳥という。浮寝鳥といえば種類も多く、沼で眠るさまをながめ、オーケストラのようだと思ったのかも知れない。作者のあたまの中ではすでに音楽が鳴りひびいているのだ。冬の沼の浮寝鳥。フルートはどんなメロデイーを奏でているのだろう。

オリオンやテトラポットに波の音  橋本小たか

オリオンとはポセイドンの子で星座となったギリシャ神話の巨人である。死後は愛犬とともに天に昇り、オリオン座と大犬座になった。テトラポットとは波消しブロックであるが、この場合は大波を消しているというよりも、おだやかな波を受けとめているような感じだ。晴れた夜空ではオリオン座が輝く。オリオン座は海と陸とを穏やかに照らしている。地上ではいろいろあったから、天上では穏やに暮らしていこうと思っているのである。

虹を吐くことも忘れぬ勇魚かな  橋本小たか

勇魚にも悩みや哀しみはいくらでもある。それを口からものを吐きだし、あるいは、肺から息を吐きだし、こころの均衡を保っている。勇魚も自分が、何故、生きているのかと自問自答する。自分は、虹を吐くことができるのだから、他者のために、これだけは続けていきたいと願っている。

みづうみに聖夜の橇を休めをり  橋本小たか

クリスマスプレゼントはトナカイに曳かれた橇に乗ったサンタクロースが運ぶものなのである。聖夜とはクリスマスイブの夜のことである。この夜にみずうみでは、サンタクロースが橇を休めている。老人たちは、その間をついで、孫のためにクリスマスプレゼントを買い宅急便の窓口に並ぶのである。クリスマスイブの日は、何千、何万のトナカイと橇とサンタクロースが、そこらかしこを走り回っている。それらは、宅急便の会社がチャーターしたものなのである。

呼鈴の生きてをるなり冬館  橋本小たか

とある冬の日の夕ぐれ、古ぼけた洋館を訪れたのである。呼鈴を押すとき、もしかしたら、壊れているかもしれないと思ったのである。しばらくして、館の主が扉を開いて現れたときに、何故か裏切られたような気持ちになったのである。振りかえると冬木立のなか石だたみが続いている。

春はあけぼの鸚哥の小さくまりにけり  橋本小たか

「春のほのぼのと明けようとするときの」とおだやかな調べのあとに、「鸚哥は小さく尿をし、あるいは糞をする」とした。ひとも、小さくはないだろうが、日が昇れば、尿をし、糞をするのである。鸚哥もひとも何も変わらないのである。禽獣とは、ひとの道・恩義を知らない者と比喩的に使われたりもする。だが、禽獣ばかりではない。ひとの道・恩義を知らないひとも、いくらでもいるのである。

街道に銭を散らしてゆく鯨  福田若之

海にも街道はあるのである。正月はおめでたいのである。鯨はこころもからだもおめでたく街道を進んでいく。鯨がおめでたく街道を進めば街道だっておめでたくなるのである。何もかもがおめでたくなるのである。おめでたくなれば銭を散らす。これは自然の真理なのである。鯨は鯨の意思に関係なく銭を散らして進んでいくのである。

冬桜失禁の父慰めて  今井 聖

歳を取ると、止めようと思っても止めることができないのである。自分の力ではどうすることもできなくなること、それが老いなのである。作者は父を慰めている。その父のすがたこそ、二十数年後の自分であることに気付き驚いたのである。冬桜の花ことばは「冷静」とある。

舞初の洗濯物をたたむ所作  石原ユキオ

舞初の所作がなにやら洗濯物をたたむすがたに見えたのである。舞初をながめていて、このようなことを思いついたことに驚きを感じたのである。この舞の作者は、暮らしのなかから、ひとが何かをたたむ所作に何かを感じ、この仕草を創り出したのだと思う。このようなことは文学にも、音楽にも、絵画にも、ひとが創りだすすべてのものに言えることなのである。

御降りや御詠歌の歌詞うろ覚え  岡村知昭

仏さまはお許しになるのである。たとえうろ覚えであろうと意志さえあれば許してくれるのである。世の中とは、そんなものなのである。堅苦しく考える必要はないのだ。仏さまに供えたあとの食べものは、みんなで仲良く分け合えばいいのである。正月三が日に降る雨や雪のことを御降りともいう。

神さまもとぼけて坐る仏の座  佐山哲郎

とぼけていても神さまは神さまなのである。仏の座としたことで「とぼけ」加減がいちだんと増す。私の家族と私だけをお守りいただきたいと願えば、それでいいのである。誰もが、そう思って神さまに手を合わせている。そうすることが幸せならば神さまは許してくれるのだ。仏の座とは道端や畦などでよく見られる雑草のことなのである。

初夢が赤々と口開けにけり  関 悦史

初夢とは元日の夜、あるいは、二日の夜に見る夢であり、一年の吉凶を占う風習がある。だが、この場合は、開けた口の中が赤々としているというよりも、行き先に何か大きなもの、得体の知れないものが待ち伏せている。そこに初夢も人生も何もかもが吸い込まれていってしまう。何か不吉なものを感じる。そこへ落ちるか否かは運、不運、それに尽きるのである。まさしく、吉凶を占うための初夢なのである。

駅員はいつもの人や初詣  清水良郎

毎年、出かけている有名な神社の駅というのではなく、毎日、乗降している駅なのだと思う。あらたまった初詣ではなく、日常のなかでの初詣なのである。駅員も正月だから特別なのではなく、いつもと同じような所作を繰り返す。年が明けようが明けまいが、神社に参拝しようと思うこころは、ひととしてはあたりまえのことなのである。正月であろうとなかろうが一日は何も変わらないのである。

荒淫ときに蓮華坐を犬跳ぶも  九堂夜想

荒淫なのは作者なのである。荒淫なのは紳士淑女たちなのである。誰でも、そんなときはある。そうしたいときはある。ときには、蓮華坐を犬も跳ぶが、蓮華坐を跳んでいるのは作者なのである。眼の色を変えて蓮華坐を跳んでいるのは紳士淑女たちなのである。

犬棒に当たるカルタへ手を伸ばす  小林苑を

何の変哲もなくあたりまえのことを言っている。つまり、正月とは特別な日ではなく三百六十五日のどの日とも何も変わらないのである。「江戸いろはかるた」の「犬も歩けば棒に当たる」に手を伸ばした。ただ、それだけのことなのである。このことわざの意味、よくもわるくもどちらにも取れる内容だ。手を伸ばしたひとのこころもちによるのである。ことわざとは「ことばの技」であるとは、うまいことを言ったものだと思う。何百年も生きつづけることばを侮ってはいけない。

ゆるやかに上り坂なる初詣  村田 篠

ゆるやかな上り坂に何もかもが象徴されている。たとえば、日々の暮し、ひととのふれあい、生きることの意味。これらのものの全てがゆるやかな上り坂を歩くことから生まれるのだ。初詣とは、年が明けてからはじめて神社や寺へ参拝することである。ゆるやかな上り坂をゆるやかに歩く。あたらしい年の無事を祈願するために、ひとはゆるやかな上り坂をゆるやかに歩く。

初しののめ熊野は人を統ぶるなし  谷口智行

熊野に立ち、熊野につつまれ、眼前の熊野に対して改めて思ったのである。熊野からは、私たちは何も縛られてはいない、全くの自由であると。熊野には歴史と自然があるだけなのだと。私たちがそれぞれ考えたこと、それぞれのこころで受け取めたことを、ただ、噛みしめるだけでいいのだと。元日の寒さのなか昇る太陽をからだ全体で受け止め、このことを確信したのである。

初富士の濃くなつてゆく日の終り  上田信治

富士山をしみじみと眺めるのは元日がもっともふさわしいのかも知れない。日が沈むのも富士山も西方にある。元日の富士山が濃くなってゆくとは、闇が生れてくるということなのだ。闇とはその日いちにちのできごとのすべてによって育てあげられたものなのである。これからは、富士山も作者自身も今までと同じことを今までと同じように繰り返していく。そして、日の終りを迎えるのである。

マスターの淹れる珈琲は美しい。美しいとは、味がしっかりしていて、すっきりしているということだ。どの珈琲カップもやさしく唇になじむ。「珈琲E***」は、若いころ入り浸っていた喫茶店の匂いがする。窓から見える尊徳の生家の茅葺も、まことに風情がある。時おり、観光客も紛れ込んで来る。俳句を読んだり、作ったりするのには、居心地のいい場所なのである。定休日は月曜日。たとえ、振替休日であっても、この日は、美しい珈琲に出会うことはできない。


2018年 新年詠
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橋本小たか 残す音 10句 ≫読む

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