【週俳3月の俳句を読む】
「珈琲店」午前**時
瀬戸正洋
打たれ弱いと思う。気力が湧かないのである。何をするのでもなく、海を眺めながら珈琲を飲んでいる。晴天の海は荒れている。見知らぬひとは誰も彼もが親切なのである。
本を読むひとがいる。レポートを書いている学生がいる。片手で子どもをあやしながらスマホから目を逸らさない母親がいる。老夫婦は並んで座り海を眺めている。
カレーの匂いが店内にたちこめる。それが合図のように立ち上がるひとが増えた。午前と午後の客の入れ替わる時刻なのである。
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雪の中来て二本の腕の重さ 近江文代
疲れているということなのである。からだが重いとは言っていない。あしが重いとも言っていない。二本の腕が重いのだという。何もしたくないということなのである。当然のことなのだが、からだもあしもこころも疲れ切っているのである。雪に埋もれた鄙びた温泉宿にでも行きたいと思っているに違いない。
デベロッパーとやら核家族に餅 近江文代
批判的な意味も混じっているのかも知れない。開発業者であることを疑っているのかも知れない。核家族とは、一組の夫婦、一組の夫婦とその子供、父子(母子)世帯のことをいう。不安定なつながりであることの心細さ。縁起物である「餅」を置いたことで、ささやかな幸せでもいいからと、それを求める気持ちが感じられる。
執拗に咲いて母親の水仙 近江文代
母親の愛情は執拗である。執拗でもしかたがないと諦めることが、やさしさなのである。母親が丹精を込めて育てた水仙なら執拗に咲くに決まっている。それが、水仙のやさしさなのである。執拗な愛情で育てられた子どもは執拗な愛情を持つおとなになる。それは、正しいことなのである。やさしさとは、生きていくうえでいちばんたいせつなことなのだから。
そぼ濡れてあたり白梅ばかりなり 近江文代
びっしょりと濡れていなければ気が付かなかったのである。びっしょりと濡れなければ何事もなく通り過ぎてしまったのである。ひとが自分以外のことに気が付くのは「負」に取り囲まれたときなのである。そんなときは、白梅ばかりでなく余計なことまで気付いてしまうのである。
たんぽぽになって足音聞いている 近江文代
たんぽぽは視線を落として見る花である。茎の短いものになるとなおさらである。野原や土手にへばり付くように咲いている。だからだといって蔑んではいけない。たんぽぽは、ひとの足音を聞くための花だからである。ひとの足音をいちばんよく聞くことのできる花だからである。花には花の個性がある。そのことを知ることは大切なことなのである。
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蒙古とは、モンゴル高原と、そこに居住する遊牧民のことだ。作者は、西暦2015年に、その地を訪れた。それから、二年とすこしかけて「乙未蒙古行」50句を書き上げた。二年とすこしかけて書いた作品は同じ時間をかけて読まなければならない。だが、それは難しいことだと思う。蒙古のことはよくは知らないが赤羽末吉のモンゴル民話「スーホの白い馬」は読んだことはある。福音館書店刊、現在も書棚にある。馬頭琴とホーミーを聴きながら、この50句を眺めてみる。それしか、方法がないのである。いつも思うのだが、ホーミーとは、大草原を吹き渡るさわやかな風というよりも、何か地の底から湧き出てくる、そこで暮らす人びとのうめき声のような気がする。うめき声を発することは、生きていくうえで大切なことなのかも知れない。
風葬の峰々(ねゝ)か秋の日惜しみなく 高山れおな
峰々を眺めている。ただ、それだけのことなのである。風葬に思い入れがあるのかも知れない。人生をふり返ってみれば、火葬のあとの骨のすがたはあまりにも美し過ぎるのである。風葬により弔われたひとびとは、風や雨にさらされ、獣や鳥の餌となる。それでいいのだと思っているのかも知れない。肉体の滅んでいく過程を、しっかりと認識した方がいいのだと思っているのかも知れない。モンゴル高原の秋の一日は惜しみなく過ぎていく。
ゲル・キャンプ 二句
草上に鷹のしぐさや相撲(ブフ)始まる 高山れおな
相撲(ブフ)たけなは相搏つ肉の響きのみ
鷹のしぐさで登場する場面はニュース映像等で見た記憶がある。鷹のしぐさをすることは何か意味のあることなのだろうか。モンゴル相撲のクライマックスでは、ひととひととがぶつかる音だけとなる。技を掛けあうのではなく相搏つ肉体の響きが全てなのである。それこそ、モンゴル相撲の醍醐味なのかも知れない。たたかいが終われば、勝者も敗者も鷹となりおおぞらへ飛びたっていくのかも知れない。
テレルジ国立公園
露の野や糞(まり)落としあふ馬に乗り 高山れおな
露の野を馬に乗って進む。馬は歩きながら糞を落とした。驚いてはみたものの、合理的なことであることに気付く。周りを見渡せば、どの馬もひとを乗せながら糞を落としていくのだ。
ある国では、犬を散歩するときにはシャベルとビニール袋を持ち歩かなければならない。犬の糞を飼い主が持ち帰らなければならない。それをエチケットという。
天高く広くチンギス・ハンの国 高山れおな
天が高く広いということは大地がとてつもなく広いということなのである。チンギス・ハンは、この地を駆け巡り勢力を拡大していく。その孫のフビライは、モンゴル帝国の国号を「元」と改めた。名もなき蒙古のひとびとも、この地を縦横無尽に駆け巡ったのである。おおそらはどこまでも広がり、博多、壱岐対馬まで続いていくのである。
秋の野を行く秋の野の他見えず 高山れおな
秋の野を行くから秋の野の他は見えないのである。秋の野しか見ようとしないから秋の野しか見えないのである。それは、正しいことなのである。それは、幸せなことなのである。
ハラホリン、エルデニ・ゾーの夕べ 二句
星月夜写真に撮れば渦を巻く 高山れおな
夜空を眺めている。それで十分なのである。そのとき、誰かに伝えたいと思ってしまったのだ。そこから、夜空の美しさを噛みしめることから、少しずつずれていく。星月夜を見ることよりも撮った写真の出来栄え、出来上がった写真について思いを巡らせる。現実の風景よりも記憶の方に意識が移っていってしまったのだ。
市(いち)に溢る中国雑貨かつ残暑 高山れおな
中国の雑貨であふれていることにがっかりしたのである。思い描いていた市とは違う。こころに隙間が生まれてしまったのである。残暑とは雑然と置かれている中国の雑貨のイメージ。釈然としない作者のこころもちも象徴している。
牛・馬・羊・山羊・駱駝を五畜と呼ぶ
香(かざ)すさまじ五畜の肉を売るところ 高山れおな
あきれるほどのにおいだと感じた。荒涼としている、そんな気になってしまうほどの光景なのである。そこは、牛、馬、羊、山羊、駱駝の肉が売られている場所。冷蔵庫、冷凍庫の類などあるはずもない。文明によって隠すことのできた、目を逸らすことのできた現実が、ここではありのままのすがたであらわれる。生命を繋いでいくということは残酷なことなのである。
牛、馬、羊、山羊、駱駝の肉体の滅んでいく(よみがえっていく)過程を、しっかりと認識した方がいいのだと思っているのかも知れない。
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白梅の中抜けてきし鳥のかほ 名取里美
梅林のなかの鳥の顔をまざまざと見てしまったのである。ひとと目が合うと必ず鳥は微笑んでくれる。どの鳥もそうなのである。微笑むというよりも、目が合ってしまったので照れ笑いをするというような感じなのかも知れない。そんなとき、ひとより鳥の方が優れているといつも思ってしまうのだ。
いつときの恋いつときの梅ま白 名取里美
恋とは恐ろしいものなのである。いっときの恋ぐらいがちょうどいいのかも知れない。白梅が咲くこともいっときなのである。いっとき、訪れてくれる幸せをかみしめて私たちは生きていくのだ。白梅の白さが目にもこころにも沁みていくのである。
梅の花たのしきことをかんがふる 名取里美
梅の花をながめているときぐらい幸せだと感じてもいいのである。そうでもしなければ生きていく張り合いなどなくなってしまう。一寸先は闇なのである。心配ばかりして暮らすことは真実なのである。だから、私たちは神様に願うのである。梅の花を眺め、この幸せがいつまでも続くようにと神様に願うのである。
風光るほこほこ乾くもぐら塚 名取里美
幸せのおすそ分けなのである。幸せをおすそ分けすることは、大切なことなのである。春風に、よろこびや希望を託すのだ。もぐらによって掘り起こされた土を見て、やれやれなどと思ってはいけない。不快なそぶりなど見せてはいけない。もぐらにはもぐらの幸せがある。そのことも考えなくてはいけないのだ。
春雪のあひふれあへば雪のまま 名取里美
雪は空から落ちてくるのである。春の雪であると思うのはひとであり、雪にしてみればどうでもいいことなのだ。ただ、ただ、雪なのである。冬に降っても春に降っても、どうでもいいことなのである。雪ばかりでなく、ひととひととの関わり合いでも同じことなのである。他人は、何も理解してくれない。それは、あたりまえのことなのだ。そんなとき、ひとはうつむいて、照れ笑いをするのである。
第568号 2018年3月11日
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