【週俳9月の俳句を読む】
雑文書いて日が暮れてⅥ
瀬戸正洋
T市立図書館で「Sの会」主催の「井東泉の俳句を読む」という集まりがあった。「ぶるうまりん」の山田千里に誘われた。結婚してしばらくのあいだ、R134沿いのアパートに住んでいたことがあった。海辺の街を訪れることには、それなりの感慨もあった。「Sの会」とは、湘南に住む、俳人、歌人、詩人による二カ月に一度の集まりだという。
「地獄」と言ったひとがいた。前後の話は聞き洩らしたが、「地獄」ということばが気になった。井東泉の俳句と「地獄」とがどう繋がるのかはよく解らなかった。「あのひとは誰なの」と山田千里に聞くと「詩を書いているひと」だと教えてくれた。
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大空を傷つけて去る鬼やんま 及川真梨子
ひとと会って話をしたあと必ず後悔する。微笑んで頷いて話だけ聞いて帰ろうと思っていても、つい余計なことを言ってしまう。黙っていればよかったといつも思う。私が余計なことを言った分だけ、相手は不快であったのだと確信する。鬼やんまとは、私のことなのである。どこへ出かけようと必ず誰かを傷つけて帰って来る。まさしく「鬼」であり、余計そのものの存在なのである。
放心の女を見ている紫陽花 及川真梨子
女は見抜かれているのである。紫陽花は戸惑っているのだ。目の前に立っている女に対してどうしたらいいのかわからず困っているのである。女は、自分が放心していることに気づいていない。紫陽花に見られていることにも気づいていない。ただ、紫陽花を見ていると思っているだけなのだから。
生家ありグラジオラスの乱立す 及川真梨子
自分自身を持て余している。乱立しているのはグラジオラスだけではない。生家のグラジオラスは整然と咲いている。乱立しているのは自分自身の思いなのである。その思いをどう立て直していこうか考えている。そんなとき、生家があるということは幸いなことである。ただ、何らかの縛りも働くのではあるが。
ぬいぐるみに肉球のあり明易し 及川真梨子
夜は碌なことを考えない。短いにこしたことはない。闇は、思いが「負」に向かって広がっていく。ぬいぐるみとは夜にこそ必要なものなのである。闇からひとを守るために必要なものなのである。私は、ぬいぐるみのことを何も知らない。ぬいぐるみを愛した記憶もない。肉球のあるなしにかかわらず自分のことは自分自身で守るしかないとしたら、それは空しいことだと思う。
学生は墓石のごと西日の電車 及川真梨子
墓石とは文化である。先祖を供養することは生活そのものでもある。西日に向かって乗る電車とは自宅へ帰るためのものである。ひとの到着点である「死」をもイメージする。学生とは学業を修めている者である。学業の行きつく先は「死」である。「死」の確率は、すべてのひとにとって百パーセントである。日々の暮らしについて、よく考えなくてはならないと思う。
万策が尽きて夕立の止みし街 及川真梨子
万策が尽きるのは日常茶飯事である。そのたびに折り合いを着けなければならない。日が暮れること、あるいは、太陽が東の空に昇ることが、それを後押ししてくれる。夕立が止んだのは街が折り合いを着けたからである。そのおかげで、西の空に太陽が顔を出したのである。
市役所の泥長の痕菊日和 及川真梨子
市役所にとって天気がよいということは大切なことなのである。菊の花の咲くころには、市民のための盆栽展、菊花展、あるいは文化展などが開催される。泥長とは、よく盆栽などに使われる長方形のものだと思うが、正直言ってよくわからない。泥長の痕の「痕」もよくわからない。ただ、ひとごみは菊日和によく似合うことだけはよくわかる。
弟の無骨な指や巨峰剝く 及川真梨子
生家へ帰り父母、弟たちと談笑をしている。皿のうえにはひと房の巨峰。それぞれが手をのばす。巨峰を剥く弟の指が骨ばってごつごつしていることに気づいた。生家を守り父母の面倒をみてくれている弟の無骨な指への感謝の気持ちなのだと思う。
自転車のおとうと転ぶ刈田道 及川真梨子
稲を刈りとった田を通る道のことを刈田道という。その道を自転車で通ったおとうとが転んでしまったのである。転んだおとうとのすがたを微笑んで見ている姉がそこにいる。稲刈りも終わり一息ついた農家の暮らしのひとこまが描かれている。稲刈りさえ終わってしまえばすべては些事なのだと思う。
秋風のつきあたりなる隠門 及川真梨子
城には敵をあざむくための隠門がある。ひとにもひとをあざむくための隠門がある。だが、その門は、ひとには隠せても秋風には隠すことはできない。俳句にも俳句をあざむくための隠門がある。その前に立った秋風は、素知らぬ顔をして通り過ぎていく。
白くらげ蕾のやうな芯もてる 対中いずみ
白くらげの体内に透きとおってないものがある。それは「芯」であると思った。それも「蕾」であると思ったのである。「蕾」とは、まだ開いていない花のことである。まだ、先に何かがあるということなのである。
沢蟹が沢蟹を嫌がつてゐる 対中いずみ
知っているということは不快なものだ。理解し合っているということも不快なものだ。ひととは、行きずりの関係がいちばんなのである。たまたま、ここで出会ったから話す。それで十分なのである。
あなたがあなたを嫌がっている。あなたが私を嫌がっている。
水遊びする子の父は祖父となり 対中いずみ
子どもたちは結婚し孫もすくすくと育っている。水遊びが平凡なくらしを象徴している。家族それぞれが、精神生活においても実生活においても危機をのりこえてきたからこその結果なのである。懸命に生きているときは気づかない。振りかえれば、危ない橋ばかりであった。よく渡って来ることができたと思う。「奇跡」としか言いようがない。平凡な人生とは綱渡りの人生ということなのである。水遊びの水が、そんな苦い思い出を少しずつ溶かしていってくれる。
あふむけのかなぶん返しやれば飛ぶ 対中いずみ
ひとが困っていても素通りするのがひとの世の常である。とにかく、ひとが怖いのだ。かかわりたくないのである。だから、かなぶんが飛んでいくすがたを思いうかべると、身もこころも病んでいる自分に気づく。
同じだけ傷ついてゐる石榴かな 対中いずみ
石榴というと小学校の校庭を思いだす。取って食べた記憶もある。五十年近くむかしのはなしである。
同じ太陽、同じ風、同じ雨に傷つけられてきた石榴である。石榴は自分自身を傷つけてきたのである。同じだけ傷ついていると思うのは、石榴にとってはあたりまえのことなのである。
けつこうな大小のある石榴の実 対中いずみ
同じように傷つけられてきたとしても個人差はある。その個人差を「けっこうなもの」だとした。向日的な考え方であり正しい生き方であると思う。
子が二人秋の蚊ほどにしつこかり 対中いずみ
蚊が血を吸い赤く太っていくすがたを、じっとながめていることのできるひとなのかも知れない。蚊は夏も秋も変わらないのである。しつこいと感じたのは気になったからなのである。
私には、絶対無理なことなのだが、子をそだてることと蚊をそだてることが同じことだと考えれば、「死」に対する思いとか、それまでの行いとかが変わるのかも知れない。
草の実や赤子大きな犬叩く 対中いずみ
大きな犬の気まぐれが赤子の人生を決めるのである。叩いた結果、大きな犬はどうしたのか。塞翁が馬なのである。そのとき、どんな結果になろうとも、それは、未来へと続いていくのである。赤子も母も、正しく受け止めなくてはならない。草の実とは秋草になるための実ということである。また、実は「まこと」とも読み、まごころ、誠意という意味もある。
まつしろに雨ためてゐる穂草かな 対中いずみ
実ることができたということは幸せなことなのである。穂草は、地味でもあるが、したたかさも十分に持っている。秋の雨に濡れている穂草のまえに立ったとき、雨の落ちていないことに気づいたのである。穂草が自らの意志により雨をためているように思ったのである。
菱の実の打ちあげられて石の上 対中いずみ
水ぎわに落ちていた菱の実が石の上に置かれている。沼や池の近くにある大きな石の上に置かれているのかも知れない。子どもたちが拾って、並べ、そのまま帰ってしまったものなのかなと思う。菱の実にとっては、何が、最良なのか。子どもたちにとって、どうすればよかったのか。そのことを考えるのは、「石」でしかないのである。
ネクターの缶かわいくてもう九月 佐藤 廉
ネクターといえば不二家のネクターである。あまく、とろりとした感触で子どものころに飲んだ記憶がある。学生時代には、駅のホームの自動販売機で売られていた。それから四十年近くが過ぎ、この俳句作品で再会した。ギリシャの神さまの飲みものとして愛されてきたと聞けば頷ける。人類が滅びるまで飲まれ続けることだろう。現在は、缶ばかりでなく、紙パック、ペットボトルもあるという。
缶がかわいいということは大切なことだと思う。「もう九月」でさえもかわいくなくてはならないのだと思う。
どうしても猫背で鰯雲が飛ぶ 佐藤 廉
「どうしても猫背で」あることは間違いのないことなのである。だから、何があっても鰯雲を飛ばさなければならないのである。それならば、どうしたら鰯雲を飛ばすことができるのか。それには、考えることだと思う。そして、その考えを書くことだと思う。俳句にすることだと思う。
鳳仙花ゴミ捨て場まで寝癖のまま 佐藤 廉
怠惰は身を亡ぼすのである。たかが、ゴミ捨て場までのこと。たかが、ゴミを捨てるだけのこと。そう考えることが間違いのもとなのである。鳳仙花に見られているのである。鳳仙花は、しっかりと見ているのである。何も言わない鳳仙花だからこそ怖いのである。
はじめて聴く君の寝息と秋の雨 佐藤 廉
寂しいということなのである。それは何なのか、どこから来たものなのか戸惑っているのである。俗に言えば、まじめなひとなのである。まじめの背中には、怖さが貼りついている。まじめを漢字で書くと「真面目」となり、怖さはさらに増す。やさしさとは、不真面目なことなのである。秋の雨はいつまでも降り続き、その先には冬が待っているだけなのだ。
爽やかに目覚めてなにもしたくない 佐藤 廉
何かをしなくてはならないと思うことは間違いなのである。何もしないことは正しいことなのである。ましてや、気持ちよく目覚めた朝は、その「気持ちよさ」を十二分に味わうことが大切なことなのである。幸福である数少ない時間なのだから。
秋彼岸切られるものは俎板に 佐藤 廉
切られるものとは食べもののことである。切るものを、ひとが俎板にのせるのではない。切られるものは自ら進んで俎板にのらなければならないのだ。彼岸とは、岸の向こう、悟りの世界のことである。生死のサイクルを速めることは必要なことなのかも知れない。何らかの心象風景なのだと思う。
蜘蛛の巣を破いて歩くすぐやめる 佐藤 廉
蜘蛛の巣を取り払い先に進もうとしたが立ち止まる。しばらくのあいだ動かなかったのか、引き返したのか、それとも進んだのか、それは不明である。ひとは気まぐれなのである。ひとは他人に対して残酷である。そのつもりはないのに傷つけてしまう。すぐやめるのならば壊してはいけないのである。
栗ご飯混ぜつつプレスリーを聴く 佐藤 廉
エルヴィス・プレスリーは、1935年、アメリカ合衆国ミシシッピ州生まれのロックンローラーである。彼のスタートは、リズムアンドブルースとカントリーアンドウエスタンを融合した音楽である。深刻な人種問題をかかえていた当時においては画期的なスタイルであったと言われている。
栗ご飯を混ぜたとき、そのかおりが立ちあがり、プレスリーを聴いているときと同じようにゆたかな気持ちになったのである。
秋うららお釣りが手のひらに落ちる 佐藤 廉
お釣りを渡されたことを手のひらに落ちるとした。ないはずのものが、どこかから落ちてきて、たまたま手のひらにあるということとは違うのである。
お釣りは、どのように受け取っているのか思い出そうとしてもはっきりしない。しずかに手のひらに置かれるのかも知れない。トレーに入れて渡されるのかも知れない。
コンビニにでも行って確認してみようと思う。コンビニは、秋のひかりに満ちあふれていると思う。
真夜中の桃の産毛がやわらかい 佐藤 廉
桃の表面に生えている毛のことを「毛じ」、あるいは「産毛」とよぶ。害虫から守るため、雨をはじいたりするため。つまり、自己防衛のためのものである。昼間は、明るすぎるので、気が散っているので、気にもとめないのである。闇はよけいなものを隠すので、桃の産毛に気づき、その産毛がやわらかいことにも気づく。桃は産毛を洗いおとし皮のまま食べるのがおいしいのだという。
つまり、不二家のネクターということなのである。
秋天や目玉を揉めば水の音 津田このみ
目玉を揉むとは大げさだが目をこすると確かに音がする。その音が水のしまった音に聞こえたのである。秋天とは澄みきった空のこと、目玉を揉めば風景もしまって見えるのである。
鰡日和とて土佐堀川匂う 津田このみ
海を見たくなると大磯の花水川の河口へよく出かける。河口では魚がよく跳ねている。鰡は、汽水域に多く生息する海水魚だという。私にとっての鰡日和とは、湘南というよりも、すこし寂れた西側の相模湾の海のイメージである。
土佐堀川とは大阪市内を流れる旧淀川の一分流であり小説のタイトルにもなった川である。鰡は繁華街(?)を流れる川にまでさかのぼって来ることもあるのだろう。匂うには色が染まっていくという意もある。
象少し笑ったような秋の昼 津田このみ
鳥や獣は見ているひとと同じ表情をする。鏡と同じなのである。おだやかな眼差しで見つめれば、おだやかな目をしてくれる。悲しい顔をすれば悲しい顔を返す。秋の昼とは、少しさびしく、さわやかで透明感がある。そんなとき、動物園で象を見たのである。そんなひとを象は見て、おもしろさを感じたのである。
大阪の夕暮色の秋薔薇 津田このみ
秋薔薇といえば落ちついた雰囲気、何か寂しい感じがする。この夕暮とは、黄昏、夕映え、茜、夕焼け、薄明...。雨あがりなのかも知れない。作者は信州のひとだと思うが、大阪には、何かこだわりがあるのかも知れない。
水引や自説あっさり覆す 津田このみ
自説なのであると力んで言ってみても、碌でもないことばかりである。気にすることなど何もない。そんなものは、どんどん覆せばいいのである。だが、作者は、上五に「水引や」と置いている。覆したことに罪悪感のようなものを感じているのかも知れない。
水引には、封印、魔除け、人と人を結び付けるという意味あいがある。それを、あっさり覆すのである。大切なものを取り戻すために、なにが何でも覆さなければならなかったのである。
触り倒して買わぬタオルよ秋うらら 津田このみ
店員が悪いのである。お客様に「触り倒して買わぬ」などと言わせるなど、もっての外なのである。まして、タオルなのである。デザインも大事だが、使い心地こそ一番なのである。下五に「秋うらら」としたのは、作者のやさしさなのである。そのことを店員は肝に銘じなくてはならない。
角砂糖溶けて泡や星月夜 津田このみ
煎れたての珈琲の表面には泡がたっている。その珈琲に角砂糖を落し、くるくるとスプーンでかき回す。珈琲は照れ隠しのために、ふたたび表面に泡をたたせるのである。スプーンでかき回すひとも、向かいに座っているひとも照れている。ひとは泡をたてることができないのだ。星のひかりは月のように明るく、テラスカフェのふたりを照らしている。
十六夜の体側適当に伸ばす 津田このみ
仲秋の満月の次の夜である。体側など適当に伸ばせば十分なのである。この場合の適当とは、俗に言うところの「イイカゲン」ということである。たとえ、真剣に体側を伸ばしていたとしても、上五を「十五夜の」としたい気持ちがあったとしても「テキトー」さを装った方がいいと思う。
草紅葉ゆっくり曲がる樹木希林 津田このみ
樹木希林の追悼番組で女優のEIとふたりベンチに腰掛けている場面があった。番組のはじまりであったが、並んだふたりのうしろすがたを視て不気味な迫力を感じた。大女優とはそういうものかと思った。樹木希林は「孫には嫌われている」というようなことを言っていたが何となくわかるような気がした。
草紅葉の野道をゆっくり曲がってどこかへ行ってしまう。二度とは戻って来ない。「生きざま」とはそういうものなのかも知れない。
めちゃくちゃに踊って秋の蠅になる 津田このみ
秋の蠅の本意とは弱りながらも生活のまわりにつきまとう生態なのだそうだ。つまり、秋の蠅はめちゃくちゃに踊ったひとの成れの果てなのである。弱りながらも生活のまわりにつきまとう。何て素敵な生き方なのだろう。
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「Sの会」の二次会は、駅前の居酒屋だった。「地獄」と言った老詩人は、全員で箸をつけることのできる料理の数品分を店員に注文していた。前に座った今泉康弘と話した。井東泉に対して辛辣なことばかり言っていたが、二次会の酒の席でも何も変わらないところが面白かった。
五十枚近くある今泉康弘の評論「地獄絵の賦―地獄絵から戦火相想望俳句へ」を読んだ。最後の一行は
地獄絵に描かれた世界には、核爆弾も原子力発電所もない。である。想像力も感受性も、大切なものは何もかもが失われてしまっている。それが、私たちの生きている時代なのだと思った。
第593号 2018年9月2日
■及川真梨子 隠門 10句 ≫読む
第596号 2018年9月23日
■対中いずみ 嫌がつて 10句 ≫読む
■佐藤 廉 かわいい缶 10句 ≫読む
第597号 2018年9月30日
■津田このみ 大阪 10句 ≫読む
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