【週俳10月の俳句を読む】
希望は坂を下ってから
柏柳明子
白い部屋林檎ひとくち分の旅 なつはづき
部屋の白。林檎の皮の赤。美しく明確な色の対比。でも、もしかすると、作者は林檎の皮の中から現れ出た白を「白い部屋」と捉え、「齧った」瞬間を「旅」と感じたのかもしれない。また「食べる」という行為において、その白を捉えた入口としての唇も、赤。だとすると、食という行為は生体と「かつては生体だったモノ」との邂逅(あるいは衝突)なのかもしれない、とも思えてくる。
単純、かつ不思議な色の連鎖。それは、いつしかエロス/タナトスの関係にも似てくる。
読者の想像というひとときの旅の中で。
鵙の贄希望ヶ丘の駅は谷 市川綿帽子
「希望ヶ丘駅」は横浜市旭区にある相鉄線の駅。お隣の二俣川駅は、同じく横浜出身の私もかつては行った自動車免許の運転試験場のあるので有名な場所。
申し訳ないけど希望ヶ丘駅は記憶がなく、名前しか知らない。しかし、「谷」という止めにはある種の感慨を抱かずにはいられない。
横浜というと、決まって海のあるランドマークタワーなどの風光明媚なイメージで語られることが多い。でも、地元民の横浜のイメージは、「とにかく坂が多い、それも結構な急坂」。
「駅は谷」、それはすなわち「そこ以外は割と坂が多い希望ヶ丘の街」を意味している。それだけといえば、それだけだ。でも、駅名にある「希望」というきらきらしい言葉が、どこか不吉な想像を呼ぶ季語「鵙の贄」と重なる時、面白いトーンが句の中に浮かんでくる。
上りもきついが、実は下りも結構急角度で怖い横浜の坂を下りてくる途中にでも鵙の贄を見たのだろうか。あるいは見てなくてもいい。その坂を降りきって谷に出た時の安堵感、空間の広がりが「希望」に向かってふくらみ、ざわついていた十七音がすっと「谷」の文字の前に落ち着く。
こういう横浜の描き方もあるのだなと、思う。
丹波栗鳥獣戯画に拾ひけり 今井 豊
丹波栗と鳥獣戯画。その取り合わせからして、何とも魅力的だ。Wikipediaによれば、丹波栗とは持統天皇が栽培を奨励したとされ、古事記や万葉集などにも登場するほど歴史ある植物とのことである。その丹波栗が動物を擬人化されて描かれた鳥獣戯画の中に登場してくる。人間の生き様や社会をユーモアと皮肉を込めて描いた作者不明の作品に、どこか歴史を背負った趣と品を漂わせて存在する丹波栗。その栗をどんな思いで作者は手にしたのか。意外性と親和性が一句の中で心地よく響き合い、味わい深い。俳句でしか描けない出会いであり、景色だろう。
ゆつくりと吐く息大事花木槿 中岡毅雄
自律神経の緊張を解くには、細く長く息を吐く繰り返しが効果的という。確かに何度か続けていると、次第に全身の筋肉が緩みリラックスした心持ちになってくる。心身のこわばりがとれれば、自ずと五感も活性化し働きだす。そんなときに目にする花木槿は、どんなに明るく鮮やかに映ることだろう。作者にとっても読者にとっても、解き放たれた象徴かのような木槿の誇らしげな咲きぶりが、一句を凛としたものとして支えている。
記憶とは松茸ほどに匂ふもの 馬場龍吉
「週俳600号に寄せて」という見出しのとおり、お祝い句のうちの一句。松茸の芳しい香りのイメージに600号に至るまでのさまざまな記事や企画を重ねあわせ、振り返っているのだろう。記憶は時間とともに上書き保存されがちなものだが、幸福な出会いや新鮮な驚きを伴うものならばそれもよいのかもしれない。さりげない詠みぶりだが、作者の「週刊俳句」への親近感と感謝がほのぼのと感じられる。
部屋の白。林檎の皮の赤。美しく明確な色の対比。でも、もしかすると、作者は林檎の皮の中から現れ出た白を「白い部屋」と捉え、「齧った」瞬間を「旅」と感じたのかもしれない。また「食べる」という行為において、その白を捉えた入口としての唇も、赤。だとすると、食という行為は生体と「かつては生体だったモノ」との邂逅(あるいは衝突)なのかもしれない、とも思えてくる。
単純、かつ不思議な色の連鎖。それは、いつしかエロス/タナトスの関係にも似てくる。
読者の想像というひとときの旅の中で。
鵙の贄希望ヶ丘の駅は谷 市川綿帽子
「希望ヶ丘駅」は横浜市旭区にある相鉄線の駅。お隣の二俣川駅は、同じく横浜出身の私もかつては行った自動車免許の運転試験場のあるので有名な場所。
申し訳ないけど希望ヶ丘駅は記憶がなく、名前しか知らない。しかし、「谷」という止めにはある種の感慨を抱かずにはいられない。
横浜というと、決まって海のあるランドマークタワーなどの風光明媚なイメージで語られることが多い。でも、地元民の横浜のイメージは、「とにかく坂が多い、それも結構な急坂」。
「駅は谷」、それはすなわち「そこ以外は割と坂が多い希望ヶ丘の街」を意味している。それだけといえば、それだけだ。でも、駅名にある「希望」というきらきらしい言葉が、どこか不吉な想像を呼ぶ季語「鵙の贄」と重なる時、面白いトーンが句の中に浮かんでくる。
上りもきついが、実は下りも結構急角度で怖い横浜の坂を下りてくる途中にでも鵙の贄を見たのだろうか。あるいは見てなくてもいい。その坂を降りきって谷に出た時の安堵感、空間の広がりが「希望」に向かってふくらみ、ざわついていた十七音がすっと「谷」の文字の前に落ち着く。
こういう横浜の描き方もあるのだなと、思う。
丹波栗鳥獣戯画に拾ひけり 今井 豊
丹波栗と鳥獣戯画。その取り合わせからして、何とも魅力的だ。Wikipediaによれば、丹波栗とは持統天皇が栽培を奨励したとされ、古事記や万葉集などにも登場するほど歴史ある植物とのことである。その丹波栗が動物を擬人化されて描かれた鳥獣戯画の中に登場してくる。人間の生き様や社会をユーモアと皮肉を込めて描いた作者不明の作品に、どこか歴史を背負った趣と品を漂わせて存在する丹波栗。その栗をどんな思いで作者は手にしたのか。意外性と親和性が一句の中で心地よく響き合い、味わい深い。俳句でしか描けない出会いであり、景色だろう。
ゆつくりと吐く息大事花木槿 中岡毅雄
自律神経の緊張を解くには、細く長く息を吐く繰り返しが効果的という。確かに何度か続けていると、次第に全身の筋肉が緩みリラックスした心持ちになってくる。心身のこわばりがとれれば、自ずと五感も活性化し働きだす。そんなときに目にする花木槿は、どんなに明るく鮮やかに映ることだろう。作者にとっても読者にとっても、解き放たれた象徴かのような木槿の誇らしげな咲きぶりが、一句を凛としたものとして支えている。
記憶とは松茸ほどに匂ふもの 馬場龍吉
「週俳600号に寄せて」という見出しのとおり、お祝い句のうちの一句。松茸の芳しい香りのイメージに600号に至るまでのさまざまな記事や企画を重ねあわせ、振り返っているのだろう。記憶は時間とともに上書き保存されがちなものだが、幸福な出会いや新鮮な驚きを伴うものならばそれもよいのかもしれない。さりげない詠みぶりだが、作者の「週刊俳句」への親近感と感謝がほのぼのと感じられる。
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