【週俳12月の俳句を読む】
雑文書いて日が暮れてⅨ
瀬戸正洋
山のおくに蟄居しているようなものなので心配することはないと思っていた。健康保険料や町県民税が、こんなに高いものだとは思わなかった。節約して生きていかなければならないのだと思う。「預金残高と寿命」、これは難問である。考えてもしかたのないことなのかも知れない。
まいにち空をながめている暮らしは飽きない。晴れてあたたかい日は節約のために雑木林を歩く。この散歩は自由気ままでなくてはならない。俳句を作ってはいけない。疲れてもいけない。とにかく、無目的でなくてはいけないのである。
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引く波のひき込む真砂憂国忌 花谷 清
波とは誰のことなのかわからない。何のことなのかわからない。真砂とはどんなひとたちのことなのかわからない。「三島由紀夫の世界」村松剛(新潮文庫)が書棚にあったので引っ張りだした。買ったままにしておいたものだ。山おくに引きこもって十カ月が経とうとしている。これを機会に三島をすこし読んでみようと思う。
山をおりて街中に出掛けた。書店の新潮文庫のコーナーをのぞいたら三島由紀夫の作品は十数冊並んでいた。
ふれば鳴るけれど団栗もう振らない 花谷 清
振らないことは賢明である。確認するのは不安だからである。自分ではどうすることもできないことをあれこれ考えてみてもしかたのないのだ。この瞬間の判断だけ細心の注意をはらう。正しくなくてもいいのである。間違っていてもしかたがないのである。貧しくて不安な暮らしであっても団栗は振らない。そんな暮らしだからこそ団栗はもう振らないのである。
御講凪ライトアップの水かげろう 花谷 清
親鸞については何も知らない。知りたいとも思わない。水かげろうにひかりをあてた理由も知らない。水かげろうの幼虫は水生で成虫は軟弱で寿命は短いのだそうだ。だから、ライトアップでもしようかなどと思ったのかも知れない。
立ち入りのできる順路が緋絨緞 花谷 清
決められていることは幸いである。行き先も順番も決めてある。こんな楽なことと思わない訳でもない。これは人生の縮図なのかも知れない。得体の知れぬ「何か」に操られる。あたかも自分で決めたつもりになって緋絨緞のうえを胸を張って歩く。出口に立ち笑顔で迎えてくれるのは誰なのだろう。
風邪心地使わぬ鍵を魔除けとし 花谷 清
生きているということは綱渡りである。綱を渡るのであるから細心の注意を払わなくてはならない。自分で決めたと思っていても、ほとんどのことは他人が決めている。疲れているとき、酔いからさめたとき、からだが弱っているときなど、ふと、そのように思ってしまうのである。
魔除けとは魔物を避けるためのものである。そのためのお守りである。何でもいいのである。自分で魔除けだと決めればいいのである。魔除けだと信ずればいいのである。「使わぬ鍵」は間違いなく守ってくれるのである。
狐火を放つは死後か生前か 花谷 清
放つのは神さまである。神さまに生き死について問うことは恐れ多いことなのである。死後にかかわらず生前にかかわらず狐火は放たれている。誰に対しても、生き死について問うことは、恐れ多いことなのである。
堡塁に深き砲眼ふゆかもめ 花谷 清
「深き」とは歴史のことである。それにかかわったひとたちの歴史のことなのである。越冬のため飛来したかもめは堡塁の跡地でからだを休める。何もかも知っているのに何も知らないようなかおをして堡塁の跡地から海をながめたりしている。
綿コート革のコートの列横切る 花谷 清
綿のコートを着たひとが革のコートを着たひとの列に交わったのである。故意によるものに違いない。もしかしたら「恋」によるものかも知れない。意志を現したのである。結果がどうなるのかは誰も知らない。黙っているよりも何かをした方がいいと考えたのである。
火の恋し石包丁に孔ふたつ 花谷 清
晩秋のころ身辺に小さな火が欲しくなったのである。石包丁とは刃物状の磨製石器である。側面にはひとつ、あるいはふたつの孔が開いている。そこに紐をとおして指を入れて使うのである。燐寸でもない。ライターでもない。石包丁を使って火を熾したくなったのである。
凩はおとぎ話を紡ぎだす 花谷 清
凩とは、冬のはじめにかけて吹く北よりの強い風のことである。おとぎ話とは御伽衆による昔ばなしのことをいう。「かちかちやま」などがそれである。紡ぐとは、ことばをつなげてものがたりや詩歌を作ることである。俳句は詩歌とは異なる。故に、紡ぐとは言わないのである。
どんどん増える清潔な靴 樋口由紀子
不潔とはきたならしいこと、けがらわしいことである。清潔な靴がどんどん増えるのだから不潔な靴もどんどん増えていかなくてはならない。靴とはひとそのものなのである。清潔な靴も不潔な靴も「どんどん増える」ことを考えなくてはならないのである。自分の靴だけ清潔ならば、それでいいと思ってはいけないのである。
直に置かれる風呂敷包み 樋口由紀子
直に置かれたことを納得しているのか否かは分からない。直に置いたのは誰なのかも分からない。何の上に、直に置いたのかも分からない。風呂敷には何が包まれていたのかも分からない。分からないことは幸いなことなのである。そのことを分からなければ何もはじまらないのである。
つめたいものとぬくいものごと 樋口由紀子
つめたいものは嫌いである。あついものも嫌いである。刺激のあるものは苦手である。刺激のあることはしたくない。興奮することなど真っ平である。「ぬくいものごと」、を取っ換え引っ換えして生きていく。そんなまいにちを送りたいと思う。
白い子犬がつきまとう午後 樋口由紀子
いつもついてくる。いつまでも離れない。習慣とは恐ろしいものなのである。他人の行為は不快である。自分の行為も不快である。
また、ひとの顔が曇った瞬間を視てしまった。
こんな漢字が読めないなんて 樋口由紀子
年に数回だけ句会に出掛ける。基本的にはひとりで俳句を作っていた。ところが、何もすることがなくなったので句会へ出掛けるようになった。それも毎月。選句し披講する。そんなときだ「こんな漢字が読めないなんて」とつぶやくのは。
セダンに乗って南へ向かう 樋口由紀子
アルトもセダンである。軽自動車であっても「5」ナンバーなのである。山おくの暮らしには、ひとり一台は必要なのである。西に下れば足柄平野。東に下れば二宮、大磯。南へ向かえば国府津である。陋屋から二分ほど、坂みちを登ると相模湾が見える。水平線と何も動かないかたまった相模湾が見える。
欠伸我慢の青銅の馬 樋口由紀子
飽きたのである。疲れたのである。眠くなったのである。深呼吸したくなったのである。しかたなく我慢している。飽きてはいけないと思ったからである。疲れてもいけないと思ったからである。眠くなってはいけないと思ったからである。故に、青銅の馬を観るのである、聴くのである、感じるのである。おおきく深呼吸して青銅の馬を観るのである。
宮司の息子年齢不詳 樋口由紀子
プロフィールに「年齢不詳」と書くひとがいる。そう書かなければならない理由があるのだろう。何も書かなければいいのにと思う。そんな単純なはなしではないのかも知れない。宮司の息子は宮司であるのかも知れない。宮司でないのかも知れない。それとも、存在などしていないのかも知れない。
どこまで摂津どこから播磨 樋口由紀子
国ざかいとはひとが決めたものである。太陽も風も雲も鳥も植物も昆虫も化学物質も何の関係もない。歴史や地質学などに興味があるひとがこだわるのかも知れない。
国ざかいに壁を造るなどと胸をはって声高に叫ぶひとがいる。
錦糸卵が足りない少し 樋口由紀子
足りないから気になるのである。全く足りなければ諦めもつく。少しだから気になるのである。錦糸卵だから気になるのである。
太陽は細り細りて冬もみぢ 浅沼 璞
太陽の意志ではない。風が、雲が、太陽のひかりを細くしたのである。外からのちからを受けることは不本意なのである。それでも自分を守るためには、しかたがないと思っているのだ。冬のもみぢの美しさだけが救いなのかも知れない。
雲まるで動かず勤労感謝の日 浅沼 璞
ひとかたまりの雲が動かないのではない。いちめん厚い雲に覆われているのだ。かたくなに雲の意志がはたらいているのだ。勤労感謝の日は十一月二十三日。国民の祝日である。もともとは新嘗祭とよばれていた。新嘗祭ということばは、子どものころ聞いた記憶がある。山おくの暮らしでは使われていたのだ。こちらの方がしっくりしているような気がしない訳でもない。雲が動きたくない理由もこんなところにあるのかも知れない。
手をあげて冬天にうらがへるなり 浅沼 璞
手をあげて冬天にうらがえるとは浮きあがることだ。何かとても気持ちよいような気がする。だが、とどのつまりは、そのまま地面に叩きつけられるのである。とても痛いのである。うらがえるとは、裏切る、心変わりするという意味もある。したがって痛いのは当然のことなのである。
寒天にくるくるとまるまるとして 浅沼 璞
寒天はどんなかたちにもなる。だから、「くるくると」とか「まるまると」のような表現となったのかも知れない。黒蜜寒天、牛乳寒天、みつ豆の寒天も悪くない。四角い寒天しか思い浮かばないことは罪悪であるということなのである。
アパートの障子も見えて西武線 浅沼 璞
アパートの見える西武線に沿った道を歩いている。あるいは西武線をまたぐ高架橋を歩いている。西武線の車中からアパートを見ている。アパートには障子がなくてはならない。アパートに障子があることが大切なのである。障子のあるアパートには作者にとって忘れることのできない思い出があるのかも知れない。
ゆつくりと空みせてゐる障子かな 浅沼 璞
障子があるだけなのである。ゆっくりと空をみているだけなのである。障子が空をみせているのである。これで十分なのである。本を読んでいればいいのである。俳句を作っていればいいのである。
伸びてゆく飛行機雲に布団干す 浅沼 璞
何もしないことは幸せなことなのである。干した布団で眠ることは、それと同じくらい幸せなことなのである。布団を干すところはどこにでもある。いくらでもあるということが幸せなのである。どこまでも伸びてゆく飛行機雲に布団を干すことができる。それが幸せなことなのである。
なげやりのオブジェうごかぬ冬の空 浅沼 璞
そもそもオブジェとはなげやりなものなのかも知れない。シュルレアリストやタダイストは天才なのである。凡人は動かないのである。こころもからだも動かないのである。冬の空は凡人であるに違いない。だから、その下のひとびとの精神も動くことはないのである。
凍空の雲なき青をたへてをり 浅沼 璞
誰もが耐えて生きている。ましては凍空なのである。耐えることができなくてどうする。他人のためにも自分のためにも耐えているのだ。青い色は寒い色である。誰もがそう感じるのだ。ひとも耐えている。どうせ、死ぬと思っているから凍空と同じように耐えているのだ。
手も足もでない夜空の布団かな 浅沼 璞
負けたと思えばいいのである。力が及ばない。どうすることもできないと思えばいいのである。勝とうとする手立てがないのである。太陽の燦燦とかがやくそらではない。夜空に敷きつめられた布団なのである。おおきな布団なのである。ただひたすら朝を待つことしか方法がないのである。
枯草を踏めば火の音ありにけり 相子智恵
枯草は燃えなければならないのである。山のはたけでは、あちこちからけむりがあがっている。晴れた日などは、それをながめているだけで、こころは落ち着くのだ。のどかな十二月の風景である。火はあたたかくやさしい。通りすがりのひとは世間話をして立ち去っていく。
いちまいの冬青空や葬ひとつ 相子智恵
幾人のひとが死んでいくのだろう。だから、ひとりの死を悼むのである。確かに冬の青空はいちまいなのである。集まったひとのこころもいちまいなのである。
句帳置けば棺の冬菊沈みたり 相子智恵
生きているときでも句帳は必要なのである。死んだあとの句帳は、なおさら必要なのである。そのことは誰かが気付いてやらなければならない。棺の冬菊が沈んだということは故人の意志なのである。句帳は、そんなことも語ってくれるのである。
せめて句集のこせよ冬晴をゆくなら 相子智恵
俳句を作っていればそれだけでいいのだといわれた。読みたい本があるときは、どうすればいいのかと尋ねた。読むことよりも俳句を作らなければいけないといわれた。ひとは俳人となるために俳句を作るのだといわれた。
俳句を作っていきたいと思う。読まれないことはあたりまえのことだといわれた。それでも、句集だけはのこしていきたいと思う。
短日や胸に払へる清め塩 相子智恵
死は穢れたものではないのかも知れない。穢れたものであるのかも知れない。だから、清め塩は存在するのである。通夜のあと親しいものどうし蕎麦屋へ入る。清め塩が黒いネクタイのあたりに残っていることに気付く。哀しみと心細さが増してくるのはそんなときなのである。
チンドン屋のサンタサックス吹きゆけり 相子智恵
サンタクロースに扮したチンドン屋の奏でるジングルベルは哀しい。サックスよりクラリネットならば、なおさらに哀しい。楽しくもないのに笑顔をふりまいているひとたちを見ることは哀しい。働きたくもないのに働いているひとたちのなかで働くふりをするのは哀しい。誰も何もいってくれないのに俳句を作りつづけることは哀しいことだと思う。
サンタクロース衣裳に深き畳み皺 相子智恵
サンタクロースの衣裳は素敵だ。深い畳の皺がついているから、なおさら素敵なのである。そんなサンタクロースが目の前にいるのなら、どこまでもついていきたいと思うのは当然のことなのである。だから、こちらから誘うのである。場末のBARで、スコッチウイスキーの水割を奢るのである。始発電車が走り出すまで、サンタクロースと人生について語るのである。
月冴ゆるビルの上なるクレーンも 相子智恵
クレーンはかまきりの腕なのである。かまきりは、いつも、たてもののかげに隠れている。かまきりがビルを建てていることは誰も知らない。かまきりが自然を破壊していることを誰も知らない。鏡のような冬の月が、ひとのこころをすこしずつ侵していくことを誰も知らない。
飛行機も車も喋り絵本冬 相子智恵
飛行機も車も、いつだって喋っているのである。もちろん、絵本のなかだけではない。冬のある日、それに気が付いたのだ。たったひとり気付いたひとがいたのだ。だから、いっしょうけんめい喋ってみたのである。誰かひとりでも信じてくれる。誰かひとりでも解ってくれる。たまには奇跡がおこってもいいと思う。
歳晩や長靴洗ふ店の裏 相子智恵
お世話になったのである。だから、長靴に感謝を述べたのである。感謝を述べるには「表」ではいけないのである。自分自身にも気が付かないように、さりげなく「裏」で述べなければならないのである。「裏」には真実がある。「表」よりもまごころが伝わるのである。
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日が沈むころ落葉をあつめて火をつける。落葉焚である。老妻が「町の『広報』に、焚火禁止と書いてあったわよ」といった。はたけのなかの陋屋である。老人がひとり落葉と小枝を燃すだけのことだ。誰も気が付かない。誰に迷惑をかける訳でもない。
落葉焚には柿の葉がいちばんだ。渇ききっている葉と、すこしだけ湿っている葉を混ぜて火を点ける。炎が湿った葉の水分をとばす。いちまい、いちまい、何ともいえない色で柿の葉は燃えていくのだ。それほどあたたかくはないが暇つぶしにはもってこいなのである。
第608号 2018年12月16日
■花谷 清 おとぎ話 10句 ≫読む
第609号 2018年12月23日
■樋口由紀子 清潔な靴 10句 ≫読む
■浅沼 璞 冬天十韻 10句 ≫読む
■相子智恵 短 日 10句 ≫読む
2019-01-20
【週俳12月の俳句を読む】雑文書いて日が暮れてⅨ 瀬戸正洋
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