【週俳10月の俳句を読む】
鶉のジェンカ
山田耕司
初恋よどこ澄む水の夕つ方 田中惣一郎
「どこ吹く風」という言葉が「風がどこを吹いているのか、知ったこっちゃない」という意味で用いられていることを下敷きにするならば、「どこ澄む水」には「水のどこが澄んでいようが、知ったこっちゃない」という意味が込められていることになる。
さて、句の表面的な趣としては、〈こっちは「はつ恋」で忙しいんだから、水がどうなろうが知ったこっちゃないぜ〉という「現場、ど真ん中です」というよりは、〈水がどうなろうが知ったこっちゃないように、初恋ともかなり距離ができちゃっているんだけどね、ちょっと懐かしいじゃないか、「初恋」ってものは〉というような「そんなこともあったね」という外側からの視点こそがメインになるようだ。
だからといって、作者が恋愛から距離のある生活をしているかどうかはわからないことであるし、そんなことを報告したかったわけでもないだろう。
おそらくは「秋の水」という言葉への距離をどのように見定めるのか、そこのところの手触りが作者にとっての面白みだったのではないだろうか。古来多くの人に詠まれた(よく言えば磨き上げられ、悪く言えば手垢のつきまくった)語を、ちゃっかり自分の世界に入れ込んでしまうのではなく、むしろ、遠い手触りを遠い手触りとして詠みあげること。そんな心意気こそが読解されるべきだろう。「初恋」は、自己に限定したエピソードなどではなく、誰にとっても「遠くにあって思うもの」という趣(「初恋」なんて、まさに、それ)で用いられているが、それこそが、自分の作品のテーマをきわだたせるための仕掛けであるといえようか。
てのひらを懐しうする火もがな 同
生身よりも二次元をこそ愛してしまう事態を想起するとわかりやすいのかもしれないけれど、それそのものの現実的存在よりは、〈情報という次元にいったん遠ざけてこそ、身のうちに取り込みたくなる〉という愛のカタチが、この世界には、ある。それが良いとか悪いとか分別する意味はない。さるにても、田中惣一郎氏の作品にただよう言葉との距離には、〈遠ざけてこその愛〉のありようを見ること、禁じ得ず。「てのひら」という自己と分かちがたいものを「懐かしうする」という発想なども、また。
●
この人のベッドの秋の蛾を追ひつ 島田牙城
ほっておくと「蛾」は季語として夏を示してしまうから、わざわざ「秋の蛾」とするわけだけれど、「秋の」昆虫という表現は、〈死に近いところにあるにもかかわらずなお生きようとする〉というような趣を抱え込んでしまいがちである。〈無常にあらがう健気さ〉とでもいうべき趣向は、それなりに俳句の大好物とするところなのだが、であるからこそ、そこに一句の眼目も吸い取られてしまいかねない。
「ベッド」のあたりの「蛾」を「追」うという行為は、これといった屈折もないそのままの事柄であるとも言えるし、写生的な視点における点描というところでもあるのだろう。そこに「秋の蛾」という趣向が加わると、ひょっとして、この「ベッド」が、重い病の床ではないのか、という〈深ヨミ〉が誘発されてしまう。そんな病床から〈無常〉を連想させうるものを追い払った切実さと、〈無常にあらがう健気〉な存在を吹き払ってしまったことへのやるせない後悔のようなものがともどもに入り混じった感情などを〈深ヨミ〉してしまう読者もいるだろう。〈深ヨミ〉が、悪いわけではない。ただ、そうすることにより、写生的な手応えは影を薄くし、むしろ、言葉は、伝えたいイメージの〈喩〉という佇まいに変容してしまうだろう。それを良しとするかどうかは作者によって異なるわけだが。
さて、それはそうと、「この人の」とはどう解釈したら良いものだろう。
「この人のベッド」というところが素直な汲み取り方だが、「この人の」の「の」を主格として解釈すると「この人が蛾を追う」という文脈が浮き上がってくる。そもそも「この人」の「この」とは、どのように飲み込んだら良いのだろう。
作者の置かれている状況を知ることで腑に落ちるところがあるのかもしれないが、俳句読解とは身の上調査ではないので、あまり深く詮索するつもりはない。ただ、わたしは、ここに、〈喩〉として読解されてしまうことに対して、〈あ、現実に、この状況は存在したんです、ほれ「この人」です〉というような意味を感じ取った次第。
これは、作者の意地のようなものであろう。
●
泪声ほやほやと野の鶉なる 青本瑞季
『伊勢物語』における
年を経て住みこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむというやりとりで、「鶉」は女の自己像として、かつ、一首の歌の風情ある眼目として味わい深い存在感を示している。これを本歌とすると言われる
野とならば鶉となりて鳴きをらむかりにだにやは君は来ざらむ
夕されば野辺の秋風身にしみて鶉なくなり深草の里だが、鴨長明の『無名抄』の記述によれば、代表歌を尋ねられた藤原俊成が「面影に花の姿を先立てて幾重越え来ぬ峰の白雲」にもまして自らの「おもてうた」であると応じた一首。
古典の世界で、鶉が鶉を追っている。
青本瑞季氏の一句が、この鶉ジェンカの列に加わろうとして書かれたものかどうかはわからないが、先行する文学への軽やかなイナシ方のような文体を拝読するにあたり、古典と接続させてみたくなった次第。
和歌の世界でいかに風情をこめて心情を描き出そうとも、「泪声」とイッパツでくくりあげるところに、俳句の面目躍如が果たされているようでもある。「ほやほやと」という措辞は、手ざわりを連想させるところではあるが、一方で「野の鶉」と気軽にさわれないような距離感を用意周到に述べられているところを見ると、さわりごこちではなく、列をなしている姿のようにも思えてくる。これも、〈鶉ジェンカ〉の趣。
「野の鶉なる」と連体形で言い収めて、おのずから読者の思いを句の冒頭に循環させようとする配慮は、「あたらしい」リズムや文体は、先行する作品のエフェクト(効果)を学ぶからこそ生まれうるのだなぁ、などという感慨をもたらしてくれた。
まあ、あくまでも、読者としてもろもろ決めつけながら遊ばせていただいたわけで、実のところ、この句の味わいはおおむね「ほやほやと」していて多様なるものなのだろうが。
●
満ちて野の花さいごの水の輪を鳥が 青本柚紀
たしかに「満ちて」は動詞だが、それは「野の花」の状態を表す修飾的な役割として言い収められている。そうすることで、読みのフォーカスは「野の花」に移る。そして、かつ、「さいごの水の輪を鳥が」のあとに動詞が不在であることを強調することになる。そして、その〈不在〉こそが、鳥の営み、鳥の行方などを暗示させて、一句の運動性を豊かなものにしている。
語順をあれこれ入れ替えるのは、それなりに実現できる。その「入れ替え」作業だけでは、「あたらしさ」は姿を現さない。その入れ替えの過程において「これだ!」とシャッフルを止めることができるかどうか、その判断こそが必要になるのだ。
「ここだ!」と句の姿を決めるのは、ひとりの作家における〈読者〉のセンスが際立つところだろう。「あ、おもしろい」という感覚は、〈作者〉として恣意のカケラを持ち合わせていたりすると、おおむねうまくいかないものだ。
そういう意味において、今回の句群において、青本柚紀氏がユニークな「読者」であることを認識した。
0 comments:
コメントを投稿