【週俳8月の俳句を読む】
時が重なる
五十嵐秀彦
右手過去左手未来熱帯夜 堀田季何
右手が「過去」で左手が「未来」ならば、「現在」は鎖骨の間あたりだろうか。右手から時間が電気のようにチリチリと流れてきて、いまは鎖骨の間がぼうっと光っている。夜の窓ガラスにその光が浮かび上がっているけれど、窓の向こうは熱帯夜。熱帯夜というからには、その水槽にどっぷりと浸かりたいものだから、部屋の冷房が気に入らぬ。冷房を切って、左手が窓をいま開けようとしている。
破れたる靴の重さやすべりひゆ 佐藤友望
個人的な思い入れなので申し訳ないが、「すべりひゆ」と聞くと永田耕衣の「踏切のスベリヒユまで歩かれへん」を思い浮かべてしまって、なんだかほかのことは考えられなくなってしまう。耕衣は「歩かれへん」と言って、この句の作者は「靴の重さ」と言っている。そのシンクロが面白い。時間を超えて「歩く人」が重なっている。歩くという行為は、目的があるような無いような、無いほうがより歩いているような、そんなものなのだろう。
汝に似し誰と文月の喫茶かな 中矢 温
目の前に二人称の人はいなくて、あなたに似た誰か知らない人と旧暦七月の喫茶店にたぶん居るよ、と予言のように呟いている。あなたはもう過去のある日の人なので、ここにいないのだからあえて二人称で呼んであげよう。文月の喫茶に誰といるのかは知らぬ。だがその人はきっとあなたに似ている。そんな確信のようなものがある。だって、こんなにもあなたが嫌いだから。
鰯雲映画館から広がって 衛藤夏子
「海辺の映画館」という連作。どれも映画。どんなに新しい映画館でも客席の闇の中に座っている限り、昔ながらの映画館だ。そこでは時間が複雑に揺れ動いている。進んだり後戻りしたり、跳んだり消えたり、とっくに死んだ人が愛を語っていたり。映画館では誰もが受け身だ。行動を求められている人は誰もいない。他人の世界、他人の時間が闇の中に現れては消えてゆく。映画が終わり、照明が点いたとき、自分の映画館そのものも消えてなくなるのだが、でもこの鰯雲だけは映画とつながっている。
呼ぶほどに離れる猫よ花木槿 柏柳明子
秋の季語だけど、晩夏の匂いがするよね、木槿の花。猫がその花の下に隠れている。日陰に丸くなっていたのだが、声をかけるとピクリと起きて木槿の根方のもっと奥にもぐりこんで、首をひねってこっちを見ている。さらに奥に逃げてしまうのか。木槿の奥に作者は入っていけない。入ったら帰ってこられない気がする。猫が誘っている。もう一度、呼んでみる。離れながら、やっぱり猫が誘っている。
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