【週俳9月の俳句を読む】
たぶん、かなしみ
井上雪子
井上雪子
なつかしき風を通せり西瓜の鬆 相馬京菜
「なつかしき風」と言われて、ああ、西瓜ってなつかしいものだったのかと、少し驚き、今年の夏はこの風に吹かれたかなと振り返りました。
「鬆」という小さな欠損を通って風はなつかしき風になり、その小さな明るい暗さから、私たちはそれぞれの西瓜の記憶を鮮明に呼び戻します。
田舎のじいちゃんの声、子どもたちがワイワイ騒いでいた縁側、種の飛ばしっこをした夜。
そんな親密さや開放感、それは今年の夏、誰もが諦め我慢した何かそのもの、西瓜の本質がここにあります。
失ってみなければ気がつかなかった、そんな夏の終わりです。
葡萄みな食べてはだかの房あをあを 淺津大雅
「うまく言えないけど、すごくいいんよ。」
面白さのヒミツがそこにあると分かっていても、それがうまく言えません。
「見る」と「ひらめく」と「言葉」が同時なのでしょうか、直感のスピード、ちょっとヤンキー入った野放し感です。
よくよく読むなら、「はだかの房」は何だろう。はだかの軸とか枝?
葡萄を食べた子どもがはだか?房とはクラスターだけど?などなど。
けれど、理詰めで考えることがいつでも正しい、とは思えません。「房あをあを」、書かれたそのままをコクンと呑むなら、それが一番美しい。
この勢い、貴重です。
月代の濠は四角く流れけり 吉川わる
つきしろ、辞書を引けば、さかやきと読むとも書かれています。
そして「濠」。
侍がいるわけではない、と思いながらも、視覚のどこか、トリックアートを見るように楽しんでしまいました。
幾度も篩に(ふるい)にかけた言葉で、光や空気を描こうとしている俳句の作者です、きっと侍なんてところに思いはないはずですが、ひょっとするとね、とも思います(笑)。
「泣けよ」とふ本屋のポップ夏の月 吉川わる
「泣けよ」、という強烈なひとこと。
だけど、このポップは、命令しているのでもないし、同調圧力をかけてきたのでもない、と私は感じます。「じゃ、何?」と聞かれても、今は未だ、優しさに似た何かのように感じる、としか言えません。
かなしみは、たぶんひとの耳には届かない弱さで羽ばたくのだけれど、それでも、「泣けよ」と手渡したい本が、私にもあります。何を読むのも自由な、今日の夜を大切に思っています。
失ってから気づく、その前に。ただ「思えよ」と、月は輝きます。
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