2020-11-15

【週俳10月の俳句を読む】黄昏時についての考察 瀬戸正洋

【週俳10月の俳句を読む】
黄昏時についての考察

瀬戸正洋


ホームセンターでパイプ椅子を買いました。軽くて持ち運びの便利なものです。夕暮れになると、それを担いで出掛けます。気に入ったところで、腰を下ろし辺りを見回します。小さな集落ですので顔なじみのひとばかりです。畦や休耕地にパイプ椅子を広げていても、不審者に間違えられることはありません。農作業を終え、家に帰る軽トラックは、クラクションを鳴らして通り過ぎていきます。

数年前までは、この時間、赤ちょうちんの揺れる駅裏の路地をうろついていたことを考えますと雲泥の差です。もちろん、どちらが「雲」でどちらが「泥」なのかは、よくわかりません。調べないこと、考えないこと、これも「考察」であると思っています。


夜寒なり手をつけて大学の門  郡司和斗

大学の門に手をつけたのではなく、てのひら全体に体重をかけたのだと思いました。大学を信頼しているだけではなく、大学の門そのものを信頼している、そんな気がしました。もちろん、いちばん信頼しているのは、「夜寒」なのだと思います。

彫刻を映して汝(なれ)の眼のしづか  郡司和斗

彫刻を見ているひとの眼を見つめています。その眼をしずかだと感じたとありました。脳髄が感じたのではなく、眼が眼をしずかだと感じたのが面白いと思いました。彫刻と、彫刻の作者と、汝と我との関係が気になりました。

壁越しの嘔吐の声や秋の草  郡司和斗

目がまわり始めるのが危険な兆候です。電車やバスやタクシーのなかでもなく、駅の階段やホームでもなく、壁越しであったことが、救いであったのだと思います。嘔吐したのは、壁の内側なのでしょうか、それとも、外側なのでしょうか。風に揺れているのは、秋の草だけではなかったのだと思います。

すこと言ひ桃の産毛を撫でてをる  郡司和斗

すこと、軽くいってみました。それでも、照れくささは残ります。桃があったのだとすれば、その産毛を撫でることしか、照れくささを隠す方法はなかったのだと思います。

未明それから葡萄の旬の過ぐるころ  郡司和斗

未明も、旬の過ぐるころも、悪い言葉ではないと思います。ただ、未明には希望があり、旬の過ぐるころには、多少の淋しさも感じます。

秋晴の海へ向きたる梟首かな  郡司和斗

ひとは、相手にしません。ひとからも、相手にされません。秋の海の指示で梟首をしたのだと思います。

目薬の眼より零るる赤蜻蛉  郡司和斗

赤蜻蛉を意識したことにより、眼から赤蜻蛉があふれ出てきました。これは記憶のことなのだと思います。このいくらか先にあるものを、心眼というのかも知れません。心眼を磨くのには目薬が必要なのです。この目薬は、ひとそれぞれ異なるものなのだと思います。

ありあまる夜に滞納を払ひけり  郡司和斗

ありあまってはいないのですから、それを、いつ払うのかは重大な問題です。夜に窓を開けて空を見ると、ありあまっているものがあるということに気づかされました。そして、それは、大切な発見であることにも気づかされました。

ぷぷぷぷとストロー曲ぐる夜学かな  郡司和斗

ストローを曲げたくて、そうしたのですが、ストローにとっては、あまり面白くなかったのだと思います。「ぷぷぷぷ」は、ストローが不快さを表現しているような気がしました。夜学とは、未来(希望)への象徴です。未来(希望)とは、不快、不安の先にあるものだと思います。

秋の初霜を蛇行の兄と姉  郡司和斗

蛇行とは人生そのものです。秋の初霜が、蛇行の原因ではありません。秋の初霜は、蛇行する兄と姉を祝福しているのだと思います。

越えてゆく黄蝶の記憶霧の海  桂凜火

黄蝶が越えていく、それも、霧の海とありますので、その通りなのでしょう。帰っていく、そんな気もします。記憶が持ち帰ることのできる黄蝶の財産の全てなのだと思います。そして、それは、誰もが、そうなのだと思いました。

孤独の島みたいに浮かんでる水蜜桃  桂凜火

何を見ても、何を考えても、このひとは孤独なのだと思います。そんなときは、水蜜桃を食べるに限ります。水蜜桃の甘さは、さらに、作者を孤独の奥底へと連れ込んでいってくれるのだと思います。

夏の原牛と目が合うはにかみ合う  桂凜火

はにかむことは必要なことです。人生とははにかむことなのです。牛もはにかんだとあります。りっぱな牛なのだと思いました。広々した緑深い夏の原野。はにかみあうには、最も、ふさわしい場所なのだと思います。

方位盤ふと白百合の雄しべかな  桂凜火

方位について調べることよりも、ふと、気づいた白百合の雄しべの美しさに、こころが動いたということなのでしょう。それは、吉なのでしょうか、凶なのでしょうか。そのことを考えることも人生には必要なことなのだと思いますが。

うみうしの海の森なる葡萄房  桂凜火

黒い岩だらけの磯を海の森であるとしました。うみうしから海ぶとうへ、そして、葡萄と連想を続けたのかも知れません。森は、恐ろしい場所です。当然、海の森も恐ろしい場所なのだと思います。うみうしにとって葡萄房は、こころのささえだったのかも知れません。

どんぐりやときどき子どもで絵の具匂う  桂凜火

ときどき子どもになることができるということは、変幻自在でうらやましいか限りです。それができるのは、どんぐりのおかげなのです。そして、創作するということになるのですが、「絵の具匂う」としたことで、その先に進んだということがわかります。

屈託の3割混ざる白い秋  桂凜火

あることが気になって、くよくよすることは日常茶飯事です。つまり、「あること」が、代わっていく。それが生きているということなのです。三割程度で次に移ることは、人生の知恵なのかも知れません。

水っぽい午後のテラスや色鳥来  桂凜火

日々のくらしが、何か、頼りなく充実していないと思っているのかも知れません。色鳥とは、秋に渡ってくる小鳥のことです。慰めてくれるのが色鳥であるのなら、それで十分なのかも知れません。

ぬすびとはぎいにしえびとの身軽さよ  桂凜火

果実が泥棒の足跡に似ているので、この名がつけられたのだといいます。ぬすびとはぎにしてみれば、いい迷惑なのかも知れませんが、これも、よくある話だと思います。いにしえびとの身軽さよ、とありますが、得てして、いにしえびととは、身軽なものであるのだと思います。

くたばるとき盛装でゆくよ酔芙蓉  桂凜火

はなやかに着飾るのか、普段着のままなのか、生き方の問題なのかも知れません。ただ、見得を切ることも必要なのかも知れません。そのことによって、「変わること」ができるのなら、たとえ、くたばるときであっても、そのことに価値はあると考えます。

酔芙蓉の花言葉は、「しとやかな恋人」「繊細な美」「心変わり」「幸せの再来」なのだそうです。

氷水ふと眼鏡の遺影めく  田中泥炭

何かで間違ってしまった。そう思ったのかも知れません。こころもからだも、波長が乱れていると感じたのかも知れません。氷水を食べているとき眼鏡の変化に気づきました。その眼鏡の変化から、遺影めいていることを感じたのだと思います。

宿木に焔点かばや風狂す  田中泥炭

焔が点いたのが宿木でした。風雅に徹して他を顧みないことを風狂といいます。つまり、風の気が狂うということです。俳句に徹して他を顧みない生活というのは間違いではないと思います。

蜩や誰も笑つてはいない  田中泥炭

これが人間関係の真実です。笑っているように見えても、誰も笑ってなどいないのです。故に、他人を欺くのには「笑い」ほど便利なものはありません。蜩など好きなだけ鳴かせておけばいいのだと思います。

狼の屍を分ける人だかり  田中泥炭

腑分けです。つまり、解剖することです。それを見ようとひとが集まってくるのは当然のことなのだと思います。ひとの本性の不快なところです。ニホンオオカミは、二十世紀初頭に絶滅したといわれています。

破小屋に馬現れる大西日  田中泥炭

壊れている小屋とは何の比喩なのかわかりませんが、そこに馬が現れました。これも比喩なのかも知れません。現状を打破したいと願っているのかも知れません。それには、大西日は、最も、ふさわしいロケーションのような気もしました。

月天の風の玩具に天の狼  田中泥炭

月の世界の風の玩具といっています。天狼とはシリウスの中国名です。ギリシャ語では、「焼き焦がすもの」「光り輝くもの」を意味します。つまり、「風狂」とは、そういうものではないのかといっているのかも知れません。

短日は凪の兆も只ならず  田中泥炭

日がつまってくると、ひとのこころも何となく身構えてきます。寒さと隣りあわせの暮らしも、それに拍車をかけます。故に、凪の兆も普通でないことのように感じてしまったのだと思います。季節の移り変わりというものは、ひとのこころを惑わすものだと思います。

凍凪や心拍を肺追り上る  田中泥炭

心拍とは、心臓が拍動する回数のことをいいます。心拍数が速くなったので肺が追り上ってくるように感じたということなのでしょうか。上五を「凍凪や」としたことで、複雑な何かを感じます。 

月赫く影は夜刻を鈍る哉  田中泥炭

勢いがさかん、かっとする、いかるという意味が「赫」にはあります。鋭さがうすれる、働きが弱まるという意味が「鈍」にはあります。不吉さも感じます。もちろん、これは、月のことだけではないと思います。加えて、影とは非常に恐ろしいものだとも思います。

白昼の植民地より黒蝶来  田中泥炭

植民地としたことで、暗く重く難しい話になってきました。これは、欲望のはなしなのだと思います。故に、白昼なのかも知れません。故に、黒蝶なのかも知れません。

秋澄んで水の流れを登りけり  藤原暢子

流れに逆らうことは難しいことですが、誰もが、一度や二度、経験することだと思います。そんなときは、覚悟をすることです。覚悟さえすれば、目に映るものだけではなく、耳で聴くものでさえも澄んで響いてくるように感じられます。つまり、自分自身をふくめたすべてのものが澄んでいるということなのだと思います。

花梨の実鞄の闇の甘くなる  藤原暢子

鞄のなかではありません。鞄の「闇」なのです。鞄には、明るい未来だけではなく、過去から引きずりつづけている「闇」があります。そんな鞄のなかに、花梨の実を放りこめば、甘いかおりがします。工夫してみることは必要なことなのだと思います。

さんかくの草の実つけて足かろし  藤原暢子

同じ出来事であっても、受け取り方は千差万別です。草の実がついてしまったことが嬉しかったのだと思います。草の実のかたちまで確認したことから、不快さよりも、喜びの多いことがわかります。足だけではなく、からだそのものも軽くなったのだと思います。

毬栗のたくさん当たる石仏  藤原暢子

毬栗と石仏が遊んでいます。まいねん、この日の出来事を毬栗も石仏も楽しんでいるのです。にんげんも、このように暮らすことができれば幸いなのだと思います。

きばなこすもすひと休みする合図  藤原暢子

決まりにもとづいて、あることがらを知らせることを合図といいます。ひと休みすることは、誰もが待っていることです。簡単な合図で伝わるものだと思います。おそらく、ぎばなこすもすが、その合図を送っていたのだと思います。

仰向けを空へ見せれば小鳥来る  藤原暢子

渡り鳥がやって来ます。山から人里に小鳥が降りてきます。それは、空の指示によるものかも知れません。空(自然)が、にんげんのいうことを聞いてくれるなどということは奇跡です。それでも、たまには、このようなことがあってもいいと思ってもかまわないのかも知れません。

爽籟や伐り出されては薫る木々  藤原暢子

山の木を出荷しているところに出会ったのだと思います。爽籟も聞えます。切り出された木々の匂いもたっています。爽籟からも、伐り出された木々からも、それを見ているにんげんからも喜びが感じられます。

火打ち石かちかちかちかち天高し  藤原暢子

口をついて思わず出てしまった。そんな作品のような気がしました。「火打ち石」から、「かちかちかちかち」と続き、「天高し」で終わります。題名(「息の」)が、作品のうしろに立っているような気がします。自然な言葉のながれに安堵感を覚えました。

結んでひらいて秋の日をてのひらに  藤原暢子

前作と同じような感想を持ちました。子どもたちの遊んでいる声が聞こえます。「秋の日を」が記憶に残りました。

コスモスを揺らせる息のいつか風  藤原暢子

風とは、ため息が、はじめの一歩なのだと思いました。ため息には種類があります。風にも、同じように種類があります。コスモスも、大地も、にんげんも複雑であるということは、間違いのないことなのだと思っています。


黄昏時の風景をながめていますと、おだやかな気分になります。十月の風は、暑くもなく、寒くもなく、しずかに流れていきます。不安もあれば、心配事もひとなみにあります。風に揺れているコスモスをながめていますと、首のうしろあたりに、ため息を、確かに感じることがあります。


【対象作品】

郡司和斗 夜と眼 10句 ≫読む

桂凜火 盛装でゆくよ 10句 ≫読む

田中泥炭 風 狂 10句 ≫読む

藤原暢子 息の 10句 ≫読む

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