【週俳11月の俳句を読む】
舗道の車輪は
浅沼璞
水を轢くまぶしい車輪だが寒い 大塚凱
表層テキストをなぞれば、中七までの視覚表現が「だが」によって触覚表現へと接続されている、というような解釈もできよう。その「転じ」に俳句性をみるのはさして困難ではなかろうが、都会のどうしようもない孤心のようなものが掲句に潜在していることは確かで、それを言いとめるのはそれほど容易くはない。
「水を轢く」というフィジカルな措辞は舗道の硬質なイメージを惹起させる。動体視力のおよぶ範囲で解せば車輪は自転車のそれだろうか。そうだとすると、反射的に浮かぶのは、むかし観た寺山修司の映画のワンシーン――浅い河川に捨てられた自転車のクローズアップである。この句の文体にのせれば「水に漬かる錆びた車輪だが温い」といった反転世界だ。映画名すら思いだせない曖昧な記憶だけれど、脳裡によみがえった反転世界そのものに虚偽がなければそれでいい。とはいえ全く手がかりがないわけではない。周知のように寺山にはこんな歌がある。
村境の春や錆びたる捨て車輪ふるさとまとめて花いちもんめ 修司
第三歌集『田園に死す』(1964年)の「犬神――寺山セツの伝記」における一首だが、菱川善夫はこの歌集を「日本人の原郷に対する質問の書」(『前衛短歌の列柱』2011年)と規定した。この一首の上句/下句のコレスポンデンスもその「日本人の原郷」にふれていないだろうか。かつて寺山は「現代の連歌」(「ロミイの代辯」1955年)という作歌技法を提唱したことがあったけれど、それはそれとして、上句の俳句的表現と、人買いの唄を本歌取りした下句との照応は「日本人の原郷」のほの暗い「温さ」を私に感じさせるのである。
ひるがえって掲句はどうか。「日本人の原郷」など彼方へ置きざりにし、その忘却を逆エナジーとしているかのようだ。温む水にとどまる錆びた車輪の、うす暗い記憶など一かけらもなく、舗道の車輪は水を轢いてゆく。それはまぶしさであり、寒さでもある。先に「都会のどうしようもない孤心のようなもの」と記した所以だが、寺山ワールドを対句的に連想させる所以でもそれはあるのだろう。
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