2021-02-07

【週俳12月・1月の俳句を読む】その月の感想2 瀬戸正洋

【週俳12月・1月の俳句を読む】
その月の感想2

瀬戸正洋


ロッカーにしばし手を置く冬の朝  藤田俊

新しい仕事、あるいは、特別な仕事の前、気を引き締めるために、ロッカーに手を置いたのかも知れません。あるいは、仕事のモードに切り替えるため、会社に着くと、必ず、ロッカーに手を置くという、ひとつのルーティンなのかも知れません。冬の朝は、夜の寒さを引き摺っています。てのひらが、それらのすべての時間の冷たさを知ることは、必要なことなのだと思います。

手袋のままで証明写真撮る  藤田俊

手袋のままとありますので、証明写真を使うことに、自分自身でも批判的な何かがあるのかも知れません。それとも、気がのらない証明写真であるのかも知れません。狭い小さな箱に入り、カーテンを閉めます。数百円で証明写真が簡単に手に入ることができる。そんなことにも、何らかの批判があるのかも知れません。

ボーリング場ももれなく小夜時雨  藤田俊

「小夜時雨」とは、夜の時雨のことです。ボーリング場だけ降らない。そんな依怙贔屓に出あうことができたりしたら、こころは乱れます。それにしても、「もれなく」とは、いいことばだと思います。近ごろ、「もれなく」でないことが、多すぎます。小夜時雨を、見習わなくてはならないと思っています。

映るまで冬日にひたるディスプレイ  藤田俊

反射や投影により、他のもののうえに現れることを「映る」と言います。映像が、スクリーンやブラウン管などのうえに現れることも「映る」と言います。また、人の目にある印象を与えることも「映る」と言います。ショーウインドの商品が、冬日にどっぷりとひたっています。思いもよらなかった冬日が助けてくれている。こんなことも、たまにはあってもいいのだと思います。

定位置に靴べら挿され神無月  藤田俊

靴べらの置いてあるところは決まっています。それも挿して置かれています。神様のいらっしゃるときは、どうでもいいことなのだとは思いますが、いらっしゃらないときぐらい、靴べらは、あるべきところに、挿されて置かれていなくてはならないのだと思います。

すそ広のズボン両手でもつミカン  藤田俊

両手にミカンを持つ男性が、立っています。何故か、ミカンを持つ、その男性は、すその広いズボンを穿かなくてはならないのです。理由などありません。しかしながら、そうでなくてはならないと確信しています。

水鳥へメガネケースのかぱと鳴る  藤田俊

メガネケースを閉じたときに、「かぱ」という音がしたのです。水鳥に対して、メガネケースは、その意志で、「かぱ」と鳴らしたのではありません。だが、そのストーリーにしたいと考えたのに違いありません。そのときの、作者と水鳥の関係は、わかりません。水鳥がいたことは事実です。メガネケースが「かぱ」という音をたてたのも事実です。不思議な光景だと思いました。

むかし来た押入えらぶ枯蟷螂  藤田俊

かつて、枯蟷螂を押入で見つけたことがありました。また、同じ押入で枯蟷螂を見つけました。あの日と同じ枯蟷螂であるはずはありませんが、同じ枯蟷螂であると確信してしまったことも間違いではないのだと思ったりしています。

冬川にショベルおろしたショベルカー  藤田俊

川底の砂利をすくうために、ショベルをおろしました。冬は、水量が減っています。作業をするには、都合のよい季節なのかも知れません。まさに、その作業が始まろうとしている。そんなところを、通り過ぎていきました。

街灯のしたでひといき白菜と  藤田俊

街灯のしたで白菜をかかえてひとやすみしています。あるいは、街灯のしたで白菜とにんげんがひとやすみしています。当然、後者なのだと思います。白菜も、にんげんも対等であると考えることが、大切であると思います。

螺子工場歯車工場石蕗の花  箱森裕美

螺子とは、ものを締めつけるために使います。歯車とは、動力を伝達するためのものです。それらを製作する工場が並んで建っています。工業団地のようなところなのかも知れません。そこならば、緑地もあり、公園もあります。ベンチに坐って、昼食を取っていたのかも知れません。かたわらには、石蕗の花が咲いていました。ベンチに坐ったことにより、あらためて、この三つのことに気づかされました。

山眠るクッキーの真ん中にジャム  箱森裕美

クッキーの真ん中にジャムをのせるのです。どちらが、いいというのではありませんが、この場合は、珈琲ではなく、紅茶なのだと思います。山は、眠るに限ります。もちろん、にんげんも眠るに限るというのは当然のことなのです。

水鳥を指す利き腕の重たさよ  箱森裕美

腕の重さを実感するのは、老人だけだとばかり思っていました。それでなくても、にんげんは、利き腕ばかりを使うものです。利き腕は、疲れきってしまっているのです。水鳥を指すには理由があったのだと思います。からだにも、こころにも、水鳥にも、いたわりが必要なのだと思います。

北塞ぎ聞き耳ばかりたててゐる  箱森裕美

寒さを防ぐために北窓を塞ぎます。にんげんは、何かをすると、そのことにこだわるようになります。北窓を塞いたので、聞き漏らしてしまうことがあるのではないかなどと考えてしまうのです。これから、寒い季節が来ると思うことにより、その不安に、拍車をかけているのかも知れません。

柿紅葉握るや電車降りぬまま  箱森裕美

どこかで、何かの拍子で、柿紅葉を拾ったのだと思います。手に取ってみると、今まで、思っていた柿紅葉と違うことに気づきました。それで、捨てることをためらったのです。ただ、握っていただけですから、持って帰ろうとまでは思っていなかったのに違いありません。そんなことは、お構いなしに、電車は目的地へと進んでいきます。

丼と丼の間の枯野かな  箱森裕美

どんなときに、どんな場所に、丼が置かれていたのでしょう。ポリエステルの容器でも、丼というのであるのなら、かつ丼、あるいは、牛丼でいいのかも知れません。昼食のために、人数分、屋外のテーブルに置かれているのかも知れません。枯野からは、恐怖心を感じることはありません。唯一、安心してながめることのできる自然なのだと思います。

長靴のずぼずぼと来て大根引く  箱森裕美

畑の土のやわらかさを感じます。遠くから長靴が歩いて来ます。何のために、こちらに来るのかと思えば、畑に入っていきました。長靴はずぼずぼと、畑の中を歩いています。大根を一本引き抜き、そのまま、もと来た道を歩いて帰っていきました。

冬薔薇ドールハウスの天から手  箱森裕美

ドールハウスに似合う花といったら、冬薔薇なのかも知れません。「天から手」という表現に、意外性を覚えました。手は、天から入れるものではありません。申し訳なさそうに、わからないように、入れるものなのだと思います。

毛布くるまり海底となるこころ  箱森裕美

熟睡とは、海底となるこころなのです。毛布の肌ざわりとは、海底の肌ざわりのことなのです。寒い夜は、毛布にくるまり、熟睡するに限ります。温かい海底に、身もこころもゆだねることに限ります。冬の夜の、これ以上の幸せはないと考えます。

煮凝りの中に眠たき王都かな  箱森裕美

魚や肉の煮汁が冷えて、それらと固まりゼリー状になったものを「煮凝り」といいます。その中に、眠たき王都を感じました。帝制国家や王制国家の首都のことを「王都」といいます。「眠たき」としたことから、「王都」対する盲目的なあこがれのようなものを感じました。

ふゆかもめ出航式はオンライン  木田智美

出航式は、経験したことはありませんが、新型コロナウイルスの流行している昨今では、然もありなんということなのでしょう。従来の出航式について、考えるきっかけになったのかも知れません。加えて、ふゆかもめとにんげんとを対比しているような気もしない訳ではありません。余計なことをすることは、罪悪です。必要なときに必要なことだけして生きていく。他に幸せなことなどないのだと思います。

お歳暮の煎餅つつむ青海波  木田智美

煎餅をいただき、うれかったということなのだと思います。お歳暮とは、日ごろ、お世話になっている方や先輩、知人に、感謝の気持ちと健康を願う気持ちとを、こめて送るものです。包み紙の柄が、縁起物の青海波であったことも、うれしさを倍増したに違いありません。

あかぎれに悲鳴ちいさく手を洗う  木田智美

悲鳴ちいさくという表現が、たいへん的確であると思いました。今まで、水に沁みる痛さを、どのように表現していたのだろうかなどと考えました。この場合は、手を洗うことが目的です。意志をもって、ちいさくしたこの「悲鳴」を、このときだけではなく、どんなときに発していたのかということを思い出したりしています。

鳥かごにパーカーかぶせたらおやすみ  木田智美

頭を覆うフードのついている外套をパーカーといいますが、綿でつくられたもの、肌にやさしいものをイメージします。おやすみと言っているのは、鳥かごへでもなく、鳥へでもなく、本人へでもなく、そこにいる誰かへでもありません。その空間だけではなく、そこにあるすべてのものに、すべてのやさしさに対して、言っているような気がします。

去年今年いちどやりたき天の声  木田智美

天の声などになるものではありません。指導的立場のにんげんだなどとふるまっているやからに碌なやつはおりません。誰からも相手にされず、世のなかの片隅で、ぶつぶつと、どうでもいいことを呟いている生き方、これに勝るものはないと思っています。

それでも、たまには、一度ぐらい、胸を張り、堂々と、正論などというものを、お吐きになればいいのかも知れません。恥ずかしさのあまり、身の縮む思いでいっぱいになります。余計なことは、言わないこと。これに勝るものはないと思っています。

雪いろの冬毛のじかんみじかいね  木田智美

猫や犬だけではなく、にんげんにも、冬毛があるのだということを知って驚きました。にんげんも、猫なみであった、犬なみであったということなのです。少しばかりの自信も生まれてきました。

赤いひと赤いマスクを選びけり  木田智美

これは、正しいことだと思います。気取る必要など、何もありません。ひねくれる必要など、何もありません。素直に生きることが肝要です。それ以外に、幸せになる方法など何もないと思いました。

操演の人形の距離ひろく凍つ  木田智美

操演とは、特撮技術のひとつだということです。何故、こんな技術が生まれたのかということにも、興味を覚えました。人形とは、何であるのか、思いをめぐらせています。何かが、なくなってしまう前触れのような気がしない訳でもありません。

スリッパもこもこ踵の透けて黒タイツ  木田智美

暖かそうなスリッパです。踵が透けて見えるほど穿きこんだタイツでも、十分に、暖かさを保つことができます。黒タイツだから、そうなのかも知れません。黒タイツだから、透けていることに気づいたのかも知れません。

冬の星フルフエイス脱ぐ精米所  木田智美

生活感を感じます。オートバイで、コイン精米所を訪れた、一挙手一投足が目にうかびます。冬は一年中でもっとも星空の美しい季節です。そんな寒さのなか、コイン精米所を訪れます。生きているのだなと思いました。にんげんの暮らしとは、このようなものであるということに思いを馳せました。


藤田俊 はく 10句 ≫読む
第713号 2020年12月20日
箱森裕美 天から手 10句 ≫読む
木田智美 ひろく凍つ 10句 ≫読む

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