【週俳7月9月10月の俳句を読む】
俳諧徘徊
久留島 元
茄子虹色みなみに喇叭鳴りぬれば 上田信治
「茄子虹色」と「喇叭」の音、それぞれはわかるが、なぜ「鳴りぬれば」なのだろう、なぜ「みなみ」なのだろう。一句の読みとしては「南で喇叭が鳴れば、茄子は虹色になる」と上に返っていくのが常道かと思うが(それも変わった取り合わせだが)、虹色に輝く茄子と、高らかな喇叭の音から、まるで黙示録のような壮大な物語の始まりを予感させる。
テーブルの紫陽花錆びて煮干散る 上田信治
茄子から一転、台所かダイニングテーブルへと視点が移り、
住むことの今年花栗にほふ夜に 上田信治
「住むこと」、そこで今生活をいとなんでいる自分を、栗の花の充満するなかで見つめるような。
横日さす花の空木よ蟲飛びつ 上田信治
ここで視点がまた変わり、爽やかな初夏の夕方、「蟲」の飛び交う庭へ移る。
「花栗」と「花の空木」、「夜」から「横日」へ、と付合のルールには違うのだけれど、どこか連句のような、ゆるやかになだらかにつながって四季折々に展開する、壮大な詩篇のような、不思議な句群だと思う。
42句という数も不思議な、と思ったら、休刊していた「里」誌へに投稿予定だった6号分の句を並べたものという。それならば特に意図はなかったのかも知れないけれど、なんだか読後感が奇妙。
くりかへす太郎のそれは電車なり 上田信治
「それ」は、太郎の好きなもの、とか、おおよそ想像で埋められるのだが、「くりかへ」されても具体的に書かれていなければわからない、肝心なところがわからないのに大事なことだから二度言いますとか言われてもわからないのだけど、とこちらも無駄な饒舌を重ねたくなる。
海へ行く胡瓜をたくさん持つて風に 上田信治
「胡瓜をたくさん持つて」「海へ行く」だけでも変わった人だが、唐突に「風に」なってしまう、畳みかけるように動作や、景物が差し込まれ、組み合わされ、それが結局「風に」なって消えてしまうような、美しくもはかなさの句に幻惑され。
省略や取り合わせによる飛躍、倒置や言い止めによるはぐらかしは、ともに俳句の手慣れた技法なのに、複雑に編み上げられた技法が、とても奇妙なオブジェに見える。
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ゆるキャラが当然もつべき悪意 湊圭伍
川柳が得意としていて、俳句が苦手なものとして「悪意」がある。俳句で「悪意」を扱うなら、たぶんもっとストレートに怒りや憎悪があらわれそうなところを、川柳は軽やかに包み込み、それでいてぞっとする句に仕立てあげる。
その意味で「ゆるキャラ」という人口に膾炙した語彙から思いがけず「悪意」を引き出す掲句は、とても川柳らしい。
マキャベリの桔梗はいつも炒めすぎ 湊圭伍
だから「マキャベリ」のように川柳にとってはおなじみの句材のはずだが、なぜ「桔梗」を炒めているのか、しかもなぜ「炒めすぎ」なのか。一応、咳止め、痰止めの漢方にあるらしいが、たぶんイタリアでは使っていないだろう。それでも、風邪気味なのだとしたら、お大事に。
はあローストビーフ来い 湊圭伍
ちなみにネットで検索すると「桔梗と人参、ローストビーフの炒め物」が出て来たのだけど、まさかこれが元ネタじゃないですよね。それにしても「来い」って言ってないで、買ってこないと手に入りませんよ、「はあ」じゃなくて。
と、なんだかほっこりしてしまう味わいが、ステレオタイプな川柳観をゆるやかに押し戻す。
まあ、川柳でも俳句でも、面白い句であればそれが一番。
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