2021-11-14

田中目八【週俳7月9月10月の俳句を読む】句は今も句のままで句と知っていたのに

【週俳7月9月10月の俳句を読む】
句は今も句のままで句と知っていたのに

田中目八


2年前にここで書かせて頂いた時も書いたけれど普段句の意味を一つ一つ検討しながら読むことをしない。勝手に浮かぶことはある。個人的にはそれでよいと思う。つまり句は句のそのままを愉しめばよいのではないかと。しかし言語化しようとする事で浮かび上がるもの、得られるものもあるとも思う。それはつまり失うことも伴なうわけだけれど。

という事で?頑張って全句読ませて頂きました。

タイトルに特に意味なく悪しからず。


湊圭伍 あまがみ草紙

エプロンのポケットにあんなものこんなもの  湊圭伍

あのポケットだろうか。勝手に調理用のものと思い込み掛けたけれど工作用のエプロンの可能性もある。しかしやはり調理用のものに調理とはおよそ関係のないと思われるものが入ってる方が面白い気がする。あ、入ってるとも限らないのか。入れてゆく可能性もある。つまりポケットは可能性なのだ。

ゆるキャラが当然もつべき悪意  同

そもそもゆるキャラというのは概ね存在としてゆるくないと感じているがどうだろう。このゆるキャラだけが持つべき悪意を持たぬのか、顕になった悪意に対してそれはゆるキャラなら当然だと開き直っているのか、誰かが擁護しているのか。ゆるキャラなら許されるのか。

生きかたが尻とりの彼氏  同

何時も人の尻拭いをしているようならまだよいが言葉尻を捕らえるというような人なら御免だろう。他人が何か行動を起こしたら自分も続いて行動する、ということか。尻とりならば模倣では無いのが実はしたたかな人なのかも。尻取りは言葉の最後に「ん」がつくと負けである。つまり最後に「ん」を言わない事で相手とのコミュニケーションは続く。少なくともこちらからは終わらせる事はしない、常にそういう事を考えて生きているのかもしれない。

失敗を恐れずに甘噛みしよう  同

甘噛みと噛みつきの際を見極める。加減というのを身体に馴染ませる事は難しい。それを身につけるには強、或いは弱のそれぞれ極端なところから始めてゆくのがベターだろう。この場合は「恐れずに」だから噛みつくつもりで始めて徐々に弱めてゆく。噛まれる人が甘噛みと判定するまで噛まなければならない。ツラいところだ。

アルファベット通りもんどり打ってモンドリアン  同

プリンスのアルファベットストリートのPVは英数字が沢山出てくる。モンドリアン、アルファベットで検索するとモンドリアン風のベクトル文字が出てきた。

マキャベリの桔梗はいつも炒めすぎ  同

マキャベリといえば君主論、桔梗といえば明智光秀、坂本龍馬!とやや強引に結びつけてみる。炒めもののコツは具を余りいじらないこと。土井善晴先生に習うとよい。

ホイホイと一面に載るG7  同

G7で検索すると画像には7人では無く9人の人間が写っていた。他の写真には13人写っているものもあった。ホイホイと気軽に旅行にゆきたいものだ。

玉音が洩れとるパッキン替えときや  同

そうかそうか、パッキンが古くなってヘタってたんかー。どうりでナァ。ってオイ……とでもツッコむと思うてか!

刑法や腰をひねつてゐる糸瓜  同

突然の切れ字と旧仮名遣いに戸惑う。糸瓜は季語ではあるが、かと言って俳句とは断言出来ないのはこの句の何か故か川柳の連作中にある故の私の先入観か。「嘘もへちまもない」「糸瓜野郎」などと言うように糸瓜はつまらないもの、取るに足らないものの喩えに使われる。それが腰を捻っている。捻ってあるのではなく捻っているのだから自分の意志と思われる。もし刑法に対して思うことがあるのなら首を捻るだろう。よし、腰のストレッチをしよう。

はあローストビーフ来い  同

注文受けてから調理を始めるので90分ほどお待ち頂きます。


上田信治 犬はけだもの

茄子虹色みなみに喇叭鳴りぬれば  上田信治

わからない。が無理に読んでゆく。茄子とみなみ(南)から仏教に結びつけてみる。仏陀は南を向いて説法したらしい。また南は観音浄土がある。補陀落渡海。季節はずれるが茄子はお盆の精霊馬になる。舟焼という料理もある。虹の色というのは七色とは決まっていない。この場合は五色だろう。

テーブルの紫陽花錆びて煮干散る  同

紫陽花の色が褪せた様を錆びてと形容したのだろうか。因みに紫陽花が枯れることを「しがみつく」と言うそうだ。花がついたまま枯れてゆくかららしい。代わりにと言ってはなんだが煮干が散ってしまった。そういえば煮干は形色味が刃物を思わせるし脂が酸化して変色する。

住むことの今年花栗にほふ夜に  同

春辺りに引っ越したのだろうか。夏、ようやくここでの暮らしに慣れた頃、栗の花の匂いがすることに気づく。以前の住居には無かった匂いに、住むこと−−それは移り住むことかもしれないし、或いはここに住み着く事かもしれない−−について思い巡らす夜。

横日さす花の空木よ蟲飛びつ  同

空木の花ではなく花の空木であること、呼びかけの「よ」にこの空木が特別であることが感じられる。周りに他にも空木はあるのだろうが、恐らくこの一本だけに横日が差しているのだ。虫は蝶だろうか、蜜を吸いに近づいてくる、横日と同じ水平の動き。

翡翠のこゑとぶ雨の山つつじ  同

翡翠の姿は見えないが声は聴こえるのだろう。声の移動する方を追えば雨に濡れた山躑躅に出会った。

くらい日の水に日のゆれ半夏生  同

梅雨曇の日に僅かながらも晴れ間から日が射し込む。その日の揺れる水の中に半夏生が咲いている。梅雨が終わる。

雨の鳥たうもろこしの花のうへ  同

雨の中普通鳥は飛ばない。なのに玉蜀黍の花の上に、農家なら鳥害対策をしてるだろうからその上を飛んでいるのだろう。鳥が飛ぶということはもう雨は止む。

青年は実梅の落ちて影のない  同

青年は、で切って読んでみる。青梅が黄熟して落ちる。既に青年の姿はなく、一人の大人が居るのみだ。

国破れて赤いチェリーに味のある  同

ブラックチェリーなど黒っぽいものもあるがさくらんぼのイメージとしては赤を思い浮かべるのは普通だろう。それを赤いと強調する。勿論甘酸っぱい味がするが味のあると強調する。私は缶詰の着色されたさくらんぼを思った。国が荒廃したことと、さくらんぼを着色しシラップ漬にすることを結びつけて考えてもよいが、ここは古い喫茶店で注文したものに缶詰のさくらんぼが乗っていた、とイメージした。

ほつれてもアロハのシャツよ思ひ出の  同

アロハシャツではなくアロハのシャツ。の、に強い思い入れとこだわりを感じる。ファッションとしてではなくハワイへの愛の証としての本物のアロハのシャツなのだ。

くりかへす太郎のそれは電車なり  同

積乱雲、入道雲を地方によって○○太郎と呼ぶらしい。その太郎、入道雲が連なっているのだろうか。電車で移動する窓外に繰り返し現れる入道雲、やがて線状降水帯になるかもしれない。中には電気を蓄えていることだろう。確かに電車のようだ。

階段は遠目に枇杷が生つてゐる  同

階段は、で切れるのか。遠目に灯のように枇杷が生っているのが見える。一方階段は目の前にあるのかもしれないが、それより枇杷の灯一つ一つが部屋だとして、ならばそこに通じる階段は何処にあるのか、と読んでみるのはどうだろうか。

犬はけだもの苦瓜の種赤くあり  同

熟した苦瓜なのだろう。中の種と綿は甘くなる。そんなふうに犬が獣らしく見える何かを見た。マウンティングかもしれない。

夏の偉人汗のゆふがたの河原の  同

夏の偉人が誰なのかわからないが、汗と季重なりしてまで夏の、とつけなければならないぐらい偉い人なのだ。炎帝に比肩すると見た。そんな偉人故に敬遠され独り立つ。夏の偉人は汗をかかない。

と、ここまで書いて気づいた。「夏の偉人」「汗の偉人」「ゆふがたの偉人」「河原の偉人」という構造になっているのかも。そしてそれらが「或いは」「又は」「であり」「にして」などで繋がる一人の偉人なのか、別々の偉人なのか。

夾竹桃ジンをどぼどぼと捨てにけり

私は全くお酒が飲めないけれどジンが強いお酒であることは知っている。飲みすぎたのか、断酒を決め込んだか。どぼどぼと、の「と」に一抹の未練が感じられるような気がする。或いはその様子を見ているのか。鮮烈な花のピンク色と毒性がある夾竹桃の花が何やら示唆的だ。

エゴノキの若木の咲いてゐる斜面  同

エゴノキの若木なのでまだ樹肌が滑らかで地衣類も着いていないのだろう。そんな若木の生えている斜面を登るか降りるかするのだろうか。ひょっとしたら同じように滑らかで気をつけないといけないのかも。

海へ行く胡瓜をたくさん持つて風に  同

胡瓜は水分補給にもなるし沢山持ってゆくに越したことはないだろう。海へ行く、で切れて場面が変わり、既に海に着いて海風に当たっている光景を思う。瑞々しい胡瓜を沢山持って。

無花果の空見上ぐればたましひよ  同

木に生っている無花果を見上げたのだと思う。それが(漫画などに出てくる)魂に見えたのかもしれないが、花嚢の中に咲く花は肉体と魂の関係ようにも思えるし、更に種のような小果一つ一つもまた魂の様に思えてくる。

人は自分を奏でて秋のコップかな  同

どんな感情も外部によるものでなく自分自身によって起こるとすればそれは自分という楽器を奏でていると言えるだろう。よい音を出すにはコツがあってなるべく中を空洞にすること。するとよく響くようになる。空のコップのチンと澄んだ音。

神は見ない水に砂糖の溶けてゆく  同

無季の句でよいのか、砂糖水とするなら夏の句になり秋の句の中に入ることになる。それは置いといて、「(私は)神を見ない」のか、水に砂糖の溶けてゆくことを神は見ないのか。割と見るのが好きな人は多い気がする。私は神を見ないが砂糖が溶けるのを見るのはファンだ。

梧桐に日は八月のかげをなす  同

梧桐の大きな葉に日が射す。まだ残暑と呼べる日の強さだが、葉影は初秋のそれへと変わっている。

秋の蟬フィルターを乾かしてゐる  同

このフイルターはクーラーのものだろうか。一夏の役目を終えて洗われ干されている。まだ蝉は鳴いているが最早盛時のそれでは無い。フイルターが蝉の声の暑苦しさも減衰してくれていたのかも。

透明な魚で生きて星祭  同

透明な魚とはサルパなどの地球上の魚のことか、天の川を泳ぐ夢想の魚か。例えばこの季節に見える南の魚座というのがあるが、星座というのは骨格?のみで透明と言えるかもしれない。地球の外へ流れ出たいという願望か。

秋草のむかしは赤い電話かな  同

調べると公衆電話の赤い筐体のものは1995年に絶滅したらしい。機器も絶滅と言うのかと妙なところに感心した。名もなき草花に赤電話で言葉を交わした無数の名もなき人々を思う。また春に萌え出た草種が秋になり花を咲かせるまでの時間と公衆電話の移り変わり――恐らくここにも昔設置されていたのだろう――今はスマホを持って立つばかりである。

人情の秋の布団の軽さとは  同

軽さとは、と言われましてもこちらが教えて欲しい。と一瞬思ったがこの「とは」は連語で後に何か省略されてるのだろう。人情が一入沁みるのが秋だとするなら、布団の軽さは何となく薄情を思い起こさせる。しかし羽毛布団なら軽くて暖かいんだよなあ。

うみやまのあひの匂ひや糸とんぼ  同

海山の間の匂いとはどんな匂いだろう。糸蜻蛉は水辺に多い。ならば山から流れ海へと注ぐ川の匂いか。匂いを感じれば糸蜻蛉の姿。

小さな秋光る音してセロハンの  同

手花火の火薬部分にセロテープを巻くと水の中でも消えず、しかも火薬の酸化剤によって燃え続けるらしい。それを句にしたものかどうかはわからない。

ベランダがペリカンに似て秋の空  同

ペリカンそのものに似てるのかペリカンの嘴に似てるのか。恐らく後者の方のイメージが強い気がする。壁面から張り出した部分が嘴の下側、喉袋、ベランダはバルコニーと違って屋根が着いているので屋根が嘴の上部か。そんな事を思う私、ベランダペリカン、秋の空の三点の高低。

芝枯れて給水塔のフォークロア  同

給水塔のファンは多いが、団地の老朽化による建替え、取壊しや給水設備の刷新などにより急速に姿を消しているそうだ。団地跡に芝が生え、枯れ初める頃給水塔の伝承が生まれる。ネットロアではなくフォークロアというところに昭和という時代が現在どう捉えらているかが見える気がする。

アパートに考へ無しの冬日かな  同

なんとなくがらんとしたアパートの一室を思う。考へ無しの、で切って読んだ。気ままなその日暮らしのような生き方に見えるかもしれない。けれどもそんな場所にちゃんと冬日は射し込む。

水仙やジャージ上下に足はだし  同

水仙は冬の季語だから裸足では寒いと思われるのだが、そうか、という事は室内。外であればサンダルなど履いているだろう。庭に咲いているのか卓の上に飾ってあるのか。ジャージは部屋着や寝間着にもなる。水仙が水辺に咲くことやその香の強いことなどを考えると恐らくお風呂上がりなのではないか。ナルキッソス的な事も考えれば思春期の只中にある様に思える。また仮に女性と捉えるなら化粧始め社会の中で押し付けられる女性性的なものを洗い流して開放された一時なのかもしれない。

甘栗は冬のくもりの空に割る  同

甘栗屋さんか露店の焼き立ての甘栗。冷めたものや、市販の既に剥かれているものもそれはそれで美味しいものだが焼き立てのそれの愉しさには敵わない。ぱきりと皮を割ればほくりと湯気が曇天に立ち昇る。それが美味しい。句末の「割る」の後に「ものだ」が省略されているのだろう。

たんぽぽのあひるの春の夜の海  同

動詞は一つもなく名詞がずらりと並んでそれが全て「の」で繋がれている。うーむ。たんぽぽが咲いて、あひるが浮かんでいて、それが春の夜の海だ、という事だろうか。とここまで書いて「夏の偉人」の句と同じ構造なのかもと気づく。「たんぽぽの海」「あひるの海」「春の海」「夜の海」

クロッカス歩けば歩くほど休み  同

どうしたってCROCSを思ってしまう。履いたことが無いので歩き難そうに見えるがどうなのだろうか。歩けば歩くほど疲れて休む時間も長くなる。

まんさくや物が置かれて事務机  同

まんさく、金縷梅は早春の象徴的な花とのこと。恐らく窓外、庭木の金縷梅が見事に咲いてる。一方部屋の中目の前には様々な物が置かれた机。年末大掃除で片した筈だが初仕事から早くもこの有様。しかしこれこそが事務机なのだ。

春堤や一二歩下りてから佇む  同

春の堤が目に入った瞬間の感慨。その後堤の中に身を収めるように一ニ歩下りる。

根切虫きみどり色の町の夜を  同

黄緑色の町は若葉で溢れる町の事だろうか。その町の夜を根切虫が知らぬ間に蝕んでゆく。社会的な事に喩えて読む事もできるだろうがここで止めておこう。

顔赤くして哀しみのはうれん草  同

一体何があったのか。分からないけれど顔が赤くなるほど泣き腫らしたのだろう。いや、怒りかもしれないし恥ずかしさからかもしれない。後者なら「哀しみの」ははうれん草に掛かる。感情で味もわからないまま食べられるほうれん草の哀しみ、或いは茹で過ぎてくたくたのお浸しなのかもしれない。因みにほうれん草の根本の赤い部分が美味しい。

はるのくれ明日敷く石のタイルの山  同

新築或いはDIYでリフォームか。敷くとあるから外壁などではなく庭や門から玄関先へと敷くのだろう。今日はその下準備で終わったのか、タイルが届いたのが夕暮れ時だったのか。タイル風のシートではなく石の物を使うこだわりようだから夕富士を眺める如き心持ちかもしれない。

限りある家の暮春を拭いてをり  同

家の数というのは無限にあるようにも思えるが、その中の、恐らく我が家という一つ限りの家を思う。暮春は夕暮の方と取ったが、限りあるというのが時間のことなら春の終わりも含むかもしれない。。この家で暮らし春を迎えることがあと何度あるのか、そんな事を思いつつ春も終わりに近づく。昼間埃で汚れた窓を拭いたり机を拭いてゆくその後に訪れる夜は団らんのひと時。

いつぴきの白山羊の鳴く卯月野へ  同

卯月野は陰暦四月頃の野原の事。一匹の白山羊は夏を告げているのだろうか。卯の花の化身かもしれない。その卯月野へゆく、とも読めるが卯月野へとなってゆくとも読める。

夕蛙構造物へみづのなみ  同

構造物が堤防として蛙とくれば秀吉の高松城攻めを想起してしまった。夕方不意に蛙を見かけた途端、構造物へ掛かる波が見えたものか。実景かもしれないが音の描写が無いところに私は身内に訪れた景だと感じた。


恩田富太 コンセント

天の川すこしく切れて童歌  恩田富太

悠久に流れる天の川ではあるけれど、それが僅かばかり途切れた。物理的に視界から消えたと捉えてもよいが、そうではなく、時間も星の運行も一瞬一瞬の連続に過ぎない、その一瞬。童歌も昔より歌い続けられてきたもの。しかしそれもまた宇宙の時間の中では一瞬のようなものだ。

一面にジャムを平せる花野かな  同

パンにジャムを塗って花野のようだ、或いは花野がまるでパンにジャムを塗ったようだ、と読むか。ともあれジャムをならすのだから最初は一箇所から咲き始めたのがやがて一面に広がったのだろう。

配線をこぼして秋の兜虫  同

配線用差込接続器などを取り外したときの様子と兜虫の裏側は似ている。持ち方も一緒だ。秋になると兜虫の雌は穴を掘って産卵に備えるが掘り返されてしまったのだろう。差込口、コンセントはメスとも呼ばれる。

はつ嵐手帳の癖も手に余り  同

秋、初めての嵐に足を止められる。春に使い始めた手帳もはや癖がついて端がめくれ上がっていて使いにくいことこの上ない。風で捲れやすくもなる。秋が終わる頃にはどうなっていることやら。

青蜜柑剝くやコンセントに火花  同

再びコンセント、青蜜柑のまだ皮が青いものは固く、向くときに汁が飛ぶ。少し早いかもしれないが炬燵に蜜柑、だろうか。コンセントにプラグをゆっくり挿すと火花が見える。

鶏頭の何であらうと怒らない  同

鶏頭なのに怒らないのか!鶏冠に来ないのか!そりゃあ怒らないだろう、植物なのだから、などと簡単に言ってよいものだろうか。怒らないと思っているのは人間の勝手な思い込みかもしれない。

パンドラの箱鈴虫を残したる  同

パンドラの箱(匣)に鈴虫といえば太宰治の小説を思い起こすが関係なく読む。パンドラの箱に最後に残ったものは希望だということだが、現実の世界を眺めると実はそうではなかったのかもしれない。しかしこの世に鈴虫は存在する。というワケでパンドラの箱の如き様相の虫籠から結局鈴虫だけを残したのだろう。

台風を湯に鎮むれるあひるちやん  同

台風が近づく最中子供とお風呂に入ってる(と決めつけなくてもよいけれど)沈めても浮かび上がるあひるちゃんと戯れてる(子供を見ている)内に不安は静まる。上がる頃には台風もほんとに弱まっていたかもしれない。

火や恋し兎のくちの固結び  同

なんとなくディック・ブルーナのうさぎちゃんの口が浮かぶ。私はずっと口を☓の字で描いてるものだと思っていたがあれは鼻と口だと近年知った。ぬいぐるみだろうか、口を糸で刺繍して最後に固結で完成だが、もうだいぶ寒く、冷えて手が上手く動かなく失敗したかもしれない。

コットンの買物袋秋惜しむ  同

薄手のすぐにダメになりそうなエコバッグではなくしっかりとした気に入りの買物袋。勿論コットン100%。買物も愉しくなる。特に何かと美味しい秋なら尚更本領発揮、故に終わってしまうのが尚更惜しまれるのだ。買物袋は胃袋。


本多遊子 ウエハース

さがしをりガラスの街の今日の月  本多遊子

ガラスの街はガラス張りのビル建ち並ぶ街か、ガラスケースの中のミニチュアの街だろうか。昨日までは容易に見つけることが出来た月が今日はまだ見つからない。日付が変わる前に何としても探さなければ。曇に隠れて、或いはそもそも新月で見えないのかもしれない。ひょっとしたら月は日替りで街の何処かにある今日の月を探す仕事なのかもしれない。

ウエハースに鉄カルシウム小鳥来る  同

鉄とカルシウムが添加されたウエハースといえども普通のウエハース同様脆く概ね角が削れていて屑や粉が落ちる。口にしてもやはり落ちる。外であれは小鳥が啄みに来ることだろう。

流れ星メールにエラーメッセージ  同

流れ星は一方通行で一度きりのものだけれどメールは相互にやり取りする事が一般的だ。それが何かが原因でエラーメッセージと共に返ってきた。これがもし相手のメールアドレスが変わっていて教えてもらっていないという事ならそれは流れ星のようじゃあないか、とか。

花巻にはオオタニもゐる賢治の忌  同

スポーツに疎いが片仮名からたぶんそうでは無いかと検索したらやはり現メジャーリーグロサンゼルス・エンゼルスの大谷翔平選手のことらしい。花巻にはオオタニも、と言っているが寧ろ今は宮沢賢治もいた、と言わなければならないのかも。因みに賢治に野球に関する詩があるらしいが未読。

運動会サンドイッチを窮屈に  同

運動会に張り切ってお弁当はリクエストからか自分で用意したものかサンドイッチ。手作りでも買ったものでもお弁当箱でもバスケットでもとにかくめいっぱいぎゅうぎゅうに詰め込む。パンはへしゃげて詰まってるし水気も吸ってべしゃとしてるかもしれないがそれもまた美味いことだろう。

十六夜のぬつと鼻出すポルシェかな  同

満月の翌日の少し欠けた月。いざよふ、いざよひはぐずぐずする、ためらう意味だが、ポルシェは遠慮ためらう事なく角から鼻を出して来るから怖い。

迷つたら人にすぐ訊く牛膝  同

世の中には地図を見てても、また行ったことのある場所でも迷ってしまう人がいる。何を隠そう私がそうだ。そういう時はとにかく当てずっぽうでやたらめつたら動かず人に訊いてみるべきだろう。若い時は自意識過剰もありそれが出来なかった。何処かで付いた牛膝が惑わせているのか、それとも無事目的地に着くか心配で着いてきたのだろうか。

秋の蜂霊園区画抽選日  同

調べたら公立の霊園で区画公募が行われているんですね。色々思わずにはいられませんが。蜂は冬眠するまで動き回る。もしかしていつか自分が入るための場所を確保しようとしてるのかしら……。確保できなければ村上鬼城の冬蜂のようになってしまうのか……。

赤い羽根先だけ磨く夫の靴  同

所謂鏡面磨きされた革靴。汚れのつきやすい、目立ちやすい靴の先だけ磨くのだろう。赤い羽根は夫の貰ったものか。赤い羽根はまた愛の羽根とも言う。外面だけはよい人のように思えてくる。心配だ。

無花果を尻から剝いて行き詰まる  同

私は皮ごと食べるので知らなかったが蔕からでなくお尻、一般的に割れてるところから剥くとの事だ。なのでコレは正しい剥き方をしているはずなのだけれど行き詰まった、のはどういう事か。途中で切れてそこから上手く剥けなくなったのか。考えも行き詰まった所で何となく連作冒頭に戻る様な感覚がする。


第741号 2021年7月4日 湊圭伍 あまがみ草紙 10句 ≫読む

第752号 2021年9月19日 上田信治 犬はけだもの 42句 ≫読む 

第756号 2021年10月17日 恩田富太 コンセント 10句 ≫読む

第757号 2021年10月24日 本多遊子 ウエハース 10句 ≫読む

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