2022-04-24

『ゴリラ』読書会 第2回 6号~10号を読む〔前篇〕

『ゴリラ』読書会 第2
6号~10号を読む〔前篇〕

開催日時:2021年12月30日 13時~16時
出席者:小川楓子 黒岩徳将 外山一機 中山奈々 中矢温 三世川浩司 横井来季

『ゴリラ』
6号 1987年7月15日発行
7号 1987年10月3日発行
8号 1987年12月25日発行
9号 1988年3月15日発行
10号 1988年6月25日発行


黒岩
前回につづき『ゴリラ』6号~10号を読んでいきます。10句選の中から印象的な句と全体所感について教えてください。横井くんからお願いします。

横井
本意の固定化された季語ではなくて、今捉えた自分の目を使って、それがたまたま季語という形になっているという話があったと思うのですが、原満三寿や谷佳紀はそういう感じはします。他の方はそうでもないのかなと。普通に取り合わせが新鮮だと思ったのは《冷蔵庫妻のにほひの白馬かな》ですね。白という面で合わさっているんですけれども。冷蔵庫と白馬が。これは、在気呂は9号という後半からの参加ですが、原満三寿たちとは意見の違う人たちも混じっているのかなとは思いましたね。だとしたら、谷や原の意見は個人のものであって『ゴリラ』の指針というわけではないかなと思った次第です。

後は、妹尾健太郎は阿部青鞋研究会で名前だけは知っていたのですが、『ゴリラ』に出していたのかと、驚きがありましたね。《火口紫陽花ああ甘ったるい抜歯待ち》。〈紫陽花やああ甘ったるい〉だったらつまらないんですけど、火口なのが面白いですね。やや常道を外れたようなことをしようとしているのかなとも。

毛呂篤はともかく、原満三寿や谷佳紀以外は案外まとまったものを作ろうとしているのかな、と印象としてはそんな感じでした。

黒岩
谷佳紀や原満三寿、毛呂篤以外の俳句が結構まとまっている印象を得たっていうふうなお話でしたが、10句選に挙げられたこのお三方以外の句は、割と穏当なのが良いということなのか、通念をはみ出しているところに魅力を感じているのか、どっちですか。

横井
まとまってはいるんだけれども、まぁ魅力を感じたっていうことですね。谷佳紀はあんまりまとめようとしないと言うか、暴れというか、力を力のままぱっと放出するような句が目立っていたのかなと思うんですけれども、その他の方は抑えられているが、それでもいいと思ったっていうことです、

中矢
『ゴリラ』の方々のそれぞれの違いがまだ言語化できていないのですが、「まとまっている」というのは、句の型があるということなんでしょうか。

例えば、横井くんの十句選に、久保田古丹の《拡大鏡の中の砂は大古の目》(10号)があり、これは〔名詞+の中の名詞+は名詞〕のように、句の形としてはとても「俳句らしい」整った形のように思います。そして同じく横井くんの十句選の鶴巻直子の句《雪の下で宗教は歯を磨きおり》(9号)も、〔〜で〜は〜を〜おり〕というように、句の形はシンプルです。使っているワードやモチーフで個性を感じるが、実は句の型というか構成はしっかりしているから、「まとまっている」という印象を横井くんは受けたのかな。あと、さっき横井くんが挙げていた、在気呂の《冷蔵庫妻のにほひの白馬かな》(9号)も、上五で切れているものの、〔〜の〜かな〕という型のなかで詠まれているように思います。

ちょっと長くなったんだけれど、横井くんの言ってくれた「まとまっている」というのを、もう少し噛み砕いてお聞きしたいかも!

黒岩
句の構造を一つ一つ単語レベルで分析した時の「まとまり」の話をされているんだと思いますが、横井さんの言う「まとまり」っていうのは、今の中矢さんの話に何パーセントぐらい含まれているのか。別の観点からまとまっているのかそうでないかを線引きしているのか、どうなんでしょう。

横井
9号の12pの鶴巻直子の「象を触る」なんですが、言い訳じみたっていうと違うんですが、例えば《姦夫姦婦は急ぐでもなしバラライカ》とかは、飯島耕一が座談会でもこの唐突な感じを評価しています《雪の下で宗教は歯を磨きおり》《常闇の枝垂れ桜へ肉薄せむ》といった、穏健というか、中矢さんが言ったように型がある句があるんですよね。面白いと思うんですが、そこに若干の言い訳じみたものと言ったら変ですけど、それを感じるというか。

穂村弘に「耳で飛ぶゾウが本当にいるのなら恐ろしいよねそいつのうんこ」という歌があります。子供っぽいじゃないですか。素人の歌じゃないかと批判を受けたこともあったろうと。ただ、それでも穂村弘は子供っぽい、モラトリアムな歌を並べて、歌集に仕立て上げたわけです。その中に「象のうんこ」のようなモラトリアムから外れた、たとえば水原紫苑のような歌があったらちょっと萎えると思うんですよね。「暴れることができるんだけどもこうやってちゃんと伝統的なものも作れるんだよ」という口実のようなものを感じたという話です。

三世川
自分も今見ていたら、横井さんが言い訳とおっしゃったように、この鶴巻10作品に関してはなにかこう着地点がある感じがするんですね、文意がきれいに流れていくみたいな。言葉は飛び跳ねたものがあるのだけれど、最終的にそれが一つの作者が表現したいもの読者に伝えたいものに、ぴゅーっと収斂していくようなのです。

その点が、伝統的とおっしゃったかな、従来の俳句の書き方となにかリンクしているのではないかという印象を受けました。

黒岩
横井さん、中矢さんは付け加えたいことなどありますか。

中矢
横井くん、三世川さんありがとうございます。二人のお話を受けて思ったのは、連作の中の既存の型に乗って「まとまっている」句がどれぐらいの割合であるかによって、「まとまっている度合い」が変わってくるのではないかと思いました。

十句選は連作の中から一句抽出する形なので、みんなの十句選からその割合だったり、作者ごとの「まとまっている度合い」を見ることは難しいかもしれませんね。元の雑誌『ゴリラ』の方で読み直せば、「まとまっている度合い」についても、あるいは他の観点についても、今とは違った読後感を得られるのかもしれません。

黒岩
仰る通り、連作の意識をどこまで働かせながら読むかと、一句、抽出して読むかでは、毛色が違って見える作品も見られたと思います。俳句の形を、既存のよくある俳句の型とかパターンとかに照らし合わせながら、逸脱してるかどうかと、一個一個検証して、そのトータルでどうなのかっていうバランス調整を考えながら読むとですね、バランス調整のことばかりに意識が行ってしまわないかなっていうところを逆に危惧したりする気持ちもこういう連作を見てると出てきます。

私は、〈雪の下で〉の句は、わりとアナーキーな句だなというふうに解釈したので。一字、〈雪の下で〉で余ってるんですけど、余ってるからどうかというよりかは、内容とかモチーフとか言葉の印象だけで、ややグロテスクな気持ち、恐れとか。そういったテーマの方が、俳句の形がどうかっていう物差しを当てることよりも優先して考えたいかなと思います。横井さん色々問題提起してくださってありがとうございます。

小川
鶴巻直子の「象を触る」は一連としてのまとまりや定型を意識しながらも字余りの作品を書いている印象がありました。

冒頭の《リボン結びのはらからレバー色して喪》は姉妹(しまい)などではなく〈はらから〉と言うことでハラカラという乾いた音がリボンの質感にふさわしく感じます。一転して〈レバー色して喪〉まで読むと〈はらから〉が急に臓器を抱いた生々しい印象になるのがおもしろいです。ちょっとグロテスクな感じがあって…内蔵がリボンのようにするすると外側に出るみたいな。土方巽などの舞踏のモチーフに近いのかなと。同時代性を感じました。《星蝕や蒼い昆布に巻かれつつ》は、山中智恵子の歌の世界にも近しい印象でした。

雪の下で宗教は歯を磨きをり》ですが、〈宗教は〉って、お坊さんや神官などのことを言っているのか、宗教そのものについていっているのかわからないのですが。雪の下も雪の降る日を差すのか、あるいは根雪の底のことを言っているのかもよくわからない。意味が固定しなくていいのだという作り方です。《星蝕や蒼い昆布に巻かれつつ》の作り込み方とは違うのがおもしろいと思います。

雪の清潔なイメージのなかで、宗教という神聖とされるものをさらに清潔にするため、あるいは、見せるための歯磨きをするという取り合わせは、どこか句にこめられたアイロニーがあるのかなと。それが一本調子で表現されているので、作者の生真面目な様子が思い浮かびました。

一連に《バックミラーの犍陀多と眼があう》があることを考えると、お坊さんが歯を磨いているのではなく、宗教というイメージについて言っているようにも感じられました。

さて、隆盛期の「海程」を離脱して『ゴリラ』が結成されていることを考えると「海程」に在籍しながら『ゴリラ』にも参加しているメンバーは相当勇気が必要だっただろうと思います。また、現在よりも女性が「家を空ける」ことや集団と違うことは、やりづらい時代だっただろうと想像します。気合は充分だが練れてはいないという印象が女性たちの作品に少し見えるように思います。外山さん、いかがですか。

外山
自分は6から10までを読んでて、どちらかと言うと女性の参加の割合が結構高いんだなーっていう感じがして、それがまず、面白いですよね。こういう、かなり尖ったことをやろうとしているところに、高い割合で女性が参加していたということと、作品の周辺の話になっちゃうんですけど、川柳をやっていた人や詩人がいたりして、わりとボーダーレスだというか、そういう雰囲気があったのかなーっていうのが、まず面白いなーっていう感じがしました。

ジェンダーの問題に関して作品に即して言えば、鶴巻直子の《星蝕や青い昆布に巻かれつつ》というのは、「青踏」の時代以来の女性の抑圧みたいなものに触れているような気がしますね。『ゴリラ』が単に前衛的なことをやろうとしているだけの所ではなくて、いろんな人がいるんだろうなって思いました。

一点だけ、いままでの話でちょっと思ったのは、鶴巻直子に限らずですが、『ゴリラ』っていうのは「季語に頼っちゃいけないんだ」という考えが、割とはっきりでている場所だったんじゃないかなって気がするんですけど、そうなった時の拠り所については「形式」って言ってますよね。

でもその俳句との渡り合い方というのが、まだ模索してる段階って言うんですかね。だから、結局は、みんなが既に知っている措辞とか文字の順番とか助詞の順番とか、季語を使わない代わりに、そういうところを工夫することで仕上げている感じを出しているみたいな、でもなんかベタなところで終わってしまうのかなーって思いましたね。

なかなか苦しいところだなって。季語を使わない代わりに、なんとか季語ではない別のもの、確かなものを、つい求めてしまうと言うか、そういうのが現れてるのかなって思いますね。また追々句を見ながら考えたいなーって感じです。

黒岩
まさに後半でたくさん話題に出るところだと思います。私は、作り手の側の意見と読み手の側の意見の両側から今の問題をどう考えるかをちょっと話してみたいなと思っています。

鶴巻直子が現代川柳をやっていた経験から、こういう俳句の雑誌に来られたっていう話とのことですが、中山さんも川柳を書かれていたり読んだりされていると思うんですが、通い合う所があるかどうかお聞かせください。

中山
なんとなく川柳で話を振られるのではないかと思っていました(笑)

鶴巻直子の経歴はそうなんですね。今回読んだ句で、俳句とか川柳とかということで考えると、みなさんが思う川柳的な要素はあるんですけど、俳句の方に近いのかなとわたしは感じています。すべての句に季語が入ってる訳ではなく、いや季語があるなら俳句という訳でもないのですが、やっぱり、句の中で季語をここに置くのだという確かさはありますよね。それは川柳ではない。後から季語の話は出て来ると思うので、その時にまた。

それから、たしか原満三寿の評論「俳諧の日常」だったと思うのですが、俳句に描かれているものが日常か非日常かということ。読者には非日常に見えるものでも、作者からすれば日常だから、どんなにトリッキーであっても、そこには目指すものがある。これって意外に大事な話ではないのかなあと思って。ひとつに常に自分が生きている世界のことなのだけど、例えば、犍陀多とか宗教とかの何ていうか、自分の世界とは違う別の発想、視点と結びつける。そうなると自分がいるところとまた別の、つまり非日常に見える。このねじれが句が俳句ではなく、川柳に見えてしまう要因なのかなあと思って、見ていました。

あと「川柳っぽい」(反対に「俳句っぽい」)という言い方は川柳ではあまり言わないんですけど、便宜上、川柳っぽいものと言いますね。それでいうと鶴巻さんのより、他の方の句の方が川柳っぽいです。他の方のももちろんなんですが、鶴巻さんの句はすごく面白かったですね。人気句の、《雪の下で宗教は歯を磨きをり》は特に惹かれました。

黒岩
他の句にも、そういう川柳っぽい手触りがあるかどうかも、話してみたいですが、一旦ここまでにして戻ります。三世川さん。お願い致します。

三世川
6号から10号までの全体的な印象になりますとやはり1号から5号までと同じでして、『ゴリラ』での俳句というものが、『ゴリラ』としての俳句のプロトタイプみたいなものがよく見えてこないことでした。

それでこれは余分な事ですが、『ゴリラ』は谷佳紀と原満三寿が今話しておきたいとか主張しておきたいことを発表するための器であって、そこに谷佳紀や原満三寿が興味ある方やゲストに、評でも論でも作品でも提供してもらう場なんだなと思いました。ですから同人誌でも何でもないので、お互いに何か教え合うとか勉強し合うという場でもなかったのだなとも思いました。

それで自分が選んだ10作品のうちに特に話させてもらいたいのは、まず毛呂篤《ふらんすのひらめいちまいは術か》です。ここでの「術」は「じゅつ」と読んでもいいだろうし「すべ」と読んでもいいと思います。とにかくひらがなのこの線とそれに伴うこの空間との感じ。それと韻律というほどではないですけども、濁りを持たない音がなんとも美しく感じられました。くりかえしますが、この作品に対しては意味を追っていないので、「じゅつ」と読んでも「すべ」と読んでも、読者の好きでいいんじゃないかと思っています。毛呂篤の意識の流れの中でのみ価値のある言葉が書かれているのであって、ただそれだけの作品だと思っています。ただそれだから、なにか自分にはとても魅力的に思えました。

それとこの作品に限っては、前回ちょっと提起されていたと思うんですが、やはり阿部完市の影響があったのかなと感じました。措辞においても内容やコンテンツにおいても、阿部完市作品を彷彿とさせるものがありました。

次は山口蛙鬼《朝が来ているキュウリ畑の一周》です。「一周」は「いっしゅう」ではなく「ひとめぐり」と読みました。それで最初に言っときますが、9号の原満三寿の鑑賞に丸乗っかりしています。すこし緊張感をはらんだ、青臭いような朝のひとときの感覚でしょうか。それを余すところなく写生している作品だなと思いました。本当になんでもない写生で大人しいのに、感覚はとても鋭い感じがしました。

そして最後は椎名弘郎《にわとりを鉛筆で描くちゃんとしなさい》でして。あんたがちゃんとしなさいよ、とでもツッコミたくなるような親しさのある作品なんですね。何か意識的に作品として俳句を仕立てるとかでなく、かろやかでやわらかに面白がるところ、あるいはモノから感受することに興味津々なところにとても惹かれました。

黒岩
軽やかで、意味内容の薄めな作品を結構上げてくださいました。特に、お話しされた三句がそうだったかなという感じがします。みなさん、三世川さんに、何か聞きたいことなどありますか。

外山
朝が来ているキュウリ畑の一周》っていう句がありますね。山口蛙鬼さんの句なんですけど、自分はこれをいっしゅう」っていう風に読んでたんですね。なんとなく、そういう風な気がして読んでたんですけど、ひとめぐりって言われて、改めて考えてみると、山口さんの作品は、全体のボリュームとしては、17音を超えていたり、17音ぐらいのものだとしても、字足らず的な下五の終わり方に見えるものがあるような気がして、なんとなくその流れで、自分は「いっしゅう」と読んでいたんですね。

例えば「静かさ」という連作の中の三句目、《トマトの苗空箱に入る静かさ》っていうのは、全体のボリュームとしては字足らずじゃないんですね。ただ、なんとなく「静かさ」で終わっているから、字足らず感がある。

あと《眼下国道ぶらっと実梅みて帰途》とか、《蝶追った妻子の余波の完ぺき》とか。その感じが印象に残るっていうか。《車内に谷川流れセキレイ追う眼》は、「め」とも「まなこ」とも読めそうだし、どっちなのかなってのもありますけど、「め」だったら、やっぱり字足らずに見える。これは、山口さんだけの問題じゃないような気がするんですね。最後の下五をちょっと字足らずで終わらせるみたいなのって、同時代に他にもあるような気がして。

そういう、同時代的な、なんとなく下五をシュって終わらせるような、そういう感じがあったのかなーと。でも三世川さんが「ひとめぐり」という風な形で読まれていたんで、その辺って自分の感覚が合ってるのか、逆に全然見当違いなものなのかが分からなくて。当時の山口さんとか周囲の人の下五の処理の仕方って、結構字足らずの句があるような気がしてたんですけど、三世川さんの感覚としてはどういう印象ですか。

三世川
自分は不勉強なんで、誰がとはちょっと言えません。でもこの10作品に限って言えること、それと『ゴリラ』の中で谷佳紀たちのいろいろな話にも出てきたことを考え合わせますと。多くが名詞体言止めになっていますが、それで終わるのは言い尽くさないということが共通認識としてあったのかなと思います。一つの作品をポンと閉じる。ちゃんと言い尽くして閉じるのでなく、言い尽くさない。

それはなぜかというと、ある意図やニュアンスだとかが、よぶんに付随してきてしまうのを避けるためだと思います。状況や映像だけを提示して、後は読者に任せてしまうというやり方の方が、読者それぞれの想像性が膨らむでしょうし。そういったことはこの時代のある種の傾向に、さらに『ゴリラ』の周辺にはあったようには思います。

それと先ほどの「ひとめぐり」と「いっしゅう」なんですけど。「いっしゅう」とすると、自分だけのニュアンスでは、動作として山口蛙鬼がきゅうり畑を歩いた感じが強くなるんですね。しかし「ひとめぐり」とするとその空間、きゅうり畑を取り巻いている空だとか地面だとかが持ついろいろなものが見えてくるんです。そういった空間としての雰囲気、atmosphereだとかを作品にしているのだろうと解釈して、そういった意味で「ひとめぐり」と読みました。

小川
「海程」では、字足らずが問題視されなかったので、わたしも特に数えて足りないと思ったことがないです。初心のころに《潤目鰯とてもみじかい祈り》という作品を、超結社句会に出したら、みんなに字足らずをわーっと言われて、こんなに字足らずが嫌われるんだっていうのにびっくりしたことがあります。

字足らずで終わらせて、読者を取り残して行ってしまうような感じっていうのは、この時代に限らず、私が「海程」にいた頃も、通常だったように思います。《朝が来ているきゅうり畑の一周》は「いっしゅう」と読むのかなという気がなんとなくわたしはしました。でも、おそらく読者が好きなように読んでくださいというタイプの作家なんだろうと思います。

黒岩
字足らずの議論がいろいろ出ました。不勉強なのですが、字足らずについての議論の蓄積が字余りよりは意外とあんまり見つかってないなと思っています。その中で「海程」の人が字足らずについては、許容が多かった、普通だと、ナチュラルに捉えていたっていうのは、面白いですね。阿部完市の『絵本の空』には、《十一月いまぽーぽーと燃え終え》があります。「十一月」で上六音なのに、燃え終えるじゃなくて、「燃え終え」って言うのが、あっ、終わっちゃったみたいな感じがして。そういう置いてかれるって感じがあったという話がありましたけど、それって、まだまだ掘り起こされてない可能性って私は眠っているんじゃないかなと思ってます。私も山口蛙鬼の《眼下国道ぶらっと実梅みて帰途》っていうふうなものも良いなと思います。眼下とか、帰途とか、構造とか状況を説明することがすごく多くてまどろっこしいなと思いながらも、最後字足らずによって、気分だけが過ぎ去っていく、雰囲気というのが出て楽しいなというのも、より一層そっちの方が明るく見えたりしないかなとか、そんなことを考えました。

三世川
字足らずとか字余りとか、四音とか六音とかということは、なにかこの韻律感にも触れてくるような感じがとてもしています。ですから四音にすること六音にすることで、何らかの印象の違いが出てくるんだろうと、ぼんやりと感じています。大切な要素かもしれないですね。

黒岩
では、中山さんお願いします。

中山
選んだ句を改めて見たんですが、パッとその状況が分かりづらくても、難しい言葉が入ってない句を選んでいます。先ほどから話題にあがっている山口蛙鬼の句は熟語が多いんですが、そういった熟語を使われてないものに今回惹かれました。

あとは俳句の面白さを重視して選んでいるので、みなさんから季語の話が出てきたんですけど、季語が入っているか、いないかは特に気にせず。なんというか、みんなで鑑賞して、面白いねっていうよりはひとりでくすくす笑っていたいような句に惹かれました。架空のものだったとしてもそのひとがそこに立っていると実感というんでしょうか、それがある句はいいですよね。原満三寿《オムレツの割れ目に関東二日酔い》はいろんな要素、情報があるんですけど、二日酔いをしている実感がありありと見えてくる。

特に好きだったのが、浅野晴弘《何もかも捨てていい家時計鳴る》。もうここの家財を全部手放してもいい気持ちになっているところに、時計が鳴る。まあそんなに大きい時計なのかもしれないけど、鳴る時計の存在感、なんとなくやっぱり家に縛られている感じがしてきて。この矛盾した感じが面白いなあ。

それから、あ、椎名弘郎の句ですが。《にわとりを鉛筆で描くちゃんとしなさい》という句もあったんですが、椎名弘郎《舌出して春のゴキブリうろちょろするな》の方が好きでした。春なのにゴキブリ。夏のとは違うんだろうかとか、それとゴキブリに舌はないんじゃないかとか、首を傾げる。だけどどんどん突き詰められていくんですよ。春の穏やかさに油断してて、舌がないと思い込んでで、というひっくり返される面白さがあります。

谷佳紀《長くあれ一日スカートくしゃくしゃの球》はどういったらよいのか。どこで切って読むかによって場面が変わってくるのですが、どう読んでもはちゃめちゃ。そこが好きです。一日が長くあって欲しいというところに、季語はないですが春の感じがしました。高桑聰《薬かんの蓋で飲む左利きの厚い土場》、これはいわゆる社会性俳句と呼ばれる句ではないですかね。全部がこういった句ではなくて、そういう傾向の句〈も〉並んでいる。そこが面白い。社会性というけれど、日常なんですよね。

それにしても選んでいる時に下手したら、猪鼻治男の句ばかり採ってしまいそうになりました。結構面白かったんですよ。

黒岩
猪鼻の句ばかり採りたくなる気持ちになったのは何か理由がありますか。

中山
猪鼻治男の7号の作品連作「狂うこと狂うこと」が、さっき話題にあがった「川柳っぽい」句でいうなら、川柳っぽいのは猪鼻さんの句の方じゃないかなあ。川柳っぽいといったんですが、紛れもなく俳句です。本当に俳句なんだけど、飛び抜けた方が、読んでいてただただ面白い。その面白さは説明しにくいんですが。句自体に意味を持たない、あるいは持たせていないのに、句のなかには世界がきちんと存在している。しかも書かれていることが今現在ではないのか。意味を求めてしまいがちですが、意味を飛ばすという読みでの裏切りの面白さがじわじわ来ます。

富士山のそんなに遠くは掴んでいない》の把握の仕方に惹かれました。この連作は鷲掴みにされます。

黒岩
これ、五十句となかなか長編じゃないですか。意味をつかもうとしても、つかみきれないところの面白さですかね。

中山
そうですね。そして意味を掴みきれないところに対して、掴みに行かなくてもいいと思わせてくれるんです。

黒岩
読み手は読み手で、ある意味自分勝手に楽しむということですか。

中山
ストレートに書かれている分、そういうことだろうなあとその事象に理解、納得は出来るんです。ただ例えば、猪鼻治男の《にんげんの倒れる音が大すきです》の句のような、意味は分かるけれど、これをどうして書いたのか、書いてしまったのかという別の面白さがあるんです。意味、いや意図というのか、改めて言われて、一応考えるんですけど、考えなくていいか。そのままで充分面白いからいいかと放置してしまう。もちろん描こうとしている世界が独特で、本当に受け取り方があっているのか不安になることもありますが。

黒岩
書かれた瞬間に勝負がすでについている、という感じですかね。じゃあ、次に進みましょう。中矢さんお願いします。

中矢●
そうですね6から10号の全体の印象としては、盛り上がりを感じたということです。

1号から10号まで、作家別に表にまとめてみました。やっぱり6号から10号の方が単純に雑誌全体のページ数も多いですし、参加してる人も、ほぼ10人以上というと増加していました。後は薄い赤の網掛けは作家論ですね。6号で久保田古丹、7号で猪鼻治男、そして9号では谷佳紀が「ゴリラの人々」として8号以前の寄稿者全員の作家論を書いていました。こういった様々な点で盛り上がりを感じました。

後は『ゴリラ』内の評論にも盛り上がりというか、蓄積を感じました。例えば、谷佳紀は7号の「感性全開」で、2号の原満三寿「真空行動」や5号の谷佳紀の「形式の根拠」を引用しています。読書会後半で評論のことを話すと思うので、その時にまた話そうと思います。

十句選の方に移って、今回は三句だけお話します。私がどういう感じで十句選を行ったかと言うと、中山さんとちょっと近いのかもしれないのですが、簡単な言葉というか、辞書を引かずに分かる言葉で書かれたものをピックアップしたように思います。ちなみに私が俳句を書くときも同じような気持ちで、読者に辞書を引かせたくないという気持ちがあります。

中山さんからのつながりで少しお話すると、私もこの猪鼻治男の「狂うこと狂うこと」から一句選びました。猪鼻治男の「《鏡の街へ遠い拳をふりおろす》です。どんな風に句を読んだかというと、遠いから、その街は割ることができないんです。でも、鏡という、ガラスが鏡になるようなビル街だったり、鏡の国のアリスのような世界だったり、あるいは想像やイメージではない実としての鏡でもいいんですけど、そういう虚と実のあるような所へ、自分の憤りの「拳をふりおろす」という。でもそれは空振りに終わるというか、何も意味を持たないという、そういう句のように、深読みをすると思いました。

同じ7号には、谷佳紀による作家論も載っていまして、猪鼻治男については、以下のように記しています。「猪鼻は日常の新しい表情を書いて見せる表現者の一人なのであり、伝統派的日常を否定する日常派の表現者なのだ。ただ問題は日常がいささか単調であり、……。」これはやっぱりちょっと引っかかるんですよね。谷佳紀のいう「伝統派」って何を指しているんだろう、何を括っているんだろうっていうところが気になりました。

一方で、「日常派の表現者」というところは納得ができました。猪鼻の句のモチーフは日常敵なものだからです。でもその「日常がいささか単調」というのは、少し首肯しかねました。何故なら外から読んでる読者として、猪鼻の句のモチーフに重複や手狭さは感じなかったからです。

谷と猪鼻には実際の交流もあっただろうから、句だけを知っている私ではわかりかねるところもあるのかもしれません。7号の猪鼻論も、9号の「ゴリラの人々」も、愛に溢れた作家論であることはわかるんですけど、全部の論に対して「よくぞ言うた!」というような気持ちには、正直ちょっとなれなかったかもしれません。

何というか谷佳紀は、自分にも厳しいけど、同人にも厳しい、身内であればあるほど厳しい感じの方なのかなみたいな気もしたりしています。私は谷に会ったことはなく、顔も声も知らず、文章だけで人柄が見えるってかなりすごいことだと思います。『ゴリラ』の谷の文章は、感情とか気持ちとかを乗せて、前のめりになりながら、書かれてる文章なのだという感じがします。

次に触れたいのは、久保田古丹の《横に座す人関係のない関係で》をいただきました。この句は、バスや電車、あるいは喫茶店など、関係のない関係の人たちで構成する空間を詠んだ句であると思います。6号の50句の久保田さんの句「一」という漢字がまあまあ目につき、50句のうちに7句ありました。「一」とは唯一の一であり、現前にある唯一性を指します。そして同時に集団の中の一人みたいな言い方もするように、代替性のある唯一性みたいなイメージもあります。そういうものを、「一」という漢字を「一日」や「一人」にして、表そうとしてるのかなと思いました。

久保田古丹は井尻香代子『アルゼンチンに渡った俳句』(2019年・丸善プラネット)っていう本で紹介されています。久保田は肩に新品の写真機を下げて、小脇にバイオリンを下げたて、二十一歳のハイカラなモダンボーイの装いで、およそ農業とは縁もゆかりもない装いでやってきたみたいな書かれ方がしていたのが印象的でした。後に画家として活動したとあります。久保田は崎原風子を見出したという書き方があって、それが実際どうだったのかは見方にもよるかもしれないんですが、久保田にとって崎原が、崎原にとって久保田が、よき相談相手であり、かつ同志であったことは確かなように思います。久保田は最晩年で「源」っていう結社を立ち上げていて、スペイン語俳句を現地のアルゼンチンの人々としていたそうです。以上が、私が『ゴリラ』以外で仕入れた久保田の話です。

最後ですね。私は十句選内で、早瀬恵子の句を二句頂いています。《朝市のみどり語から売れて》(第8号)と《コスモスの耳ふたつ欲しいまま》(第8号)です。

多分「みどり語」は造語で、「みどりご」と聞くと普通、赤ちゃんを意味する「嬰児」を読者は思うじゃないですか。こういうダブルミーニングというか、洒落みたいたものは、俳句だとちょっとくだらないという評価も受けやすいのかもしれませんが、これはただの洒落ではないと思うんですよね。まず既存の言葉二つを同音異義語として使っているのではなく、「みどり語」という誰も知らない新しい言葉を生み出しているからです。また「売れて」ということから、言葉や赤子という売買のイメージを持たないものに新たなイメージを付しているからです。

うすら怖いだけでなく、「朝市」の活気や、「みどり」の明るさもあって、明るさと怖さの共存ってすごいなと思いました。

続いて《コスモスの耳ふたつ欲しいまま》です。9号で谷佳紀が「ゴリラの人々」の早瀬評の中で、このコスモスの句を取り上げています。私はさきほど読書会の冒頭で、横井くんの全体感想を受けて、「型があって、そこに独自の面白いモチーフが入ってるのかな」みたいな話をしたと思います。ですが、谷は早瀬の「コスモス」の句に対して、ここではだいぶ中略してしまうんですが、「(耳やコスモスといった)モチーフなんか書くきっかけであり、たいしたことではない」と書いてていて、なんだかすごく面白いと思いました。

そして谷は「コスモスの」の「の」を所有格だと捉えています。確かに頭から読むと、〈コスモスの〉になるからそうだと思うんですけど、「欲しいまま」っていうものが接続されることで、コスモス「が」という、主格の「の」の可能性も出てくるだろうと思いました。「欲しいまま」を接続することによって、「コスモスの」の「の」意味がちょっと揺らぎ出すみたいなところは、谷佳紀が書かれてることとは別に、自分が思ったことです。

最後に句についての全体感想です。『ゴリラ』の人同士だったら、私のような読者とは違って、お互いの句を読むのも結構ツーカーで分かり合っていたり、読みやすかったりするのかと思っていました。でも結構みんながそれぞれ手探りで俳句を書いて、手探りで読みあっていたのかもしれないと、谷佳紀による作家論を読みながら思いました。長くなりましたが以上です。

黒岩
ありがとうございます。動き出したなという感があるのは、他の方の感想ともちょっと近いところにあるでしょう。外山さん、お願いします。

外山
そうですね。さっきから猪鼻の話がずっと出てますけど、自分は10号の猪鼻作品が一番良かったなーっていう感じですかね。その他の句について先にいくつか言うと、《桃畑逃げる少年たち琴に》には、典型的な美感を持っているような言葉、たとえば桃だとか琴だとか、そういう言葉を使って、きちっと世界観を作っている。口語なんですけど、非常に古典的な美しさみたいなものを感じましたね。命の源のイメージであったりする桃の畑から逃げてゆくっていうところに、母的なものとか女性的なものへの怯えというか、そういうものに非常に臆する男性性というか、そういったものを割とうまく描けてるような気がしたんですよね。古典的な美意識みたいなものを持ち込むことで、ミソジニーをただの概念だけで句にしている感じがしない。ただ、これって『ゴリラ』では異質な感じがしましたけどね。6号から10号まで見てて、これは何か急に妙な感じがして、でも、すごく完成されてる感じはありました。

その他で言うと、先ほど触れた鶴巻さんの句とか。あとは、椎名さんの《離農家族いつも笑顔でいる菜の花》っていうのは、ものすごくリアリティがあると感じました。ただ、離農家族っていうある種非常に時代を感じるモチーフを持ってきて、「いつも笑顔でいる」っていう風にわざわざ書くことで、その裏があるってことを思わせつつ、菜の花っていうまた明るいもの持ってくることで、よりその裏の部分を暗に強調するっていう。割とベタな書き方な気はするんですけど、これはこれで非常に時代を感じさせる。これって結構得難い句じゃないかなっていう気はしました。

猪鼻ですけど、10号の8ページに、「疾走中」という作品があって、これって結構わかりやすい仕組みで作られている感じがしたんですね。そこが、さっき出てた谷佳紀のツッコミを呼び込んじゃうかなという気はしたんですけども。

でも、これって谷佳紀が批判するようなところに結構魅力あるよなっていうのが、自分が感じるところですね。

この「疾走中」の作品見てると、要するに、対照的なものを持ってくることで、日常風景をいかにも新しい感じに見せるっていうトリックみたいなものなんだと思うんですよね。例えば、《たんすをあけて菜の花畑を疾走中》っていうのはタンスっていうものすごい狭いところから広いところに、一気に視点を真逆のものに置いていくことで、要は極小から極大へっていう、それによって、菜の花畑の美しさっていうものとか、疾走感っていうものを、効果的に出すっていうことなのかなって。

それがもっと露骨になると、《自転車ゆっくり全速力の山河かな》なんてのは、「ゆっくり」から「全速力」へって、真逆のものを持ってくることで、全速力感とか、山河っていうものの広さっていうものをうまく表そうとしているような感じもあるし、《洗面器の水突き抜けても嵐は無く》なんかも結構近い感じ。ただ、タンスの句が「疾走中」っていうポジティブな方向に抜けてゆくのに対して、これはネガティブな感情に移るというベクトルの方向は違うんですけど。やっている言葉の操作っていうものはかなり近いものがあると思うんです。《死んだ雀に思想繁多の蠅集う》とかもそうですしね。だから新鮮味でいうと、だから新鮮味はないといえばないっていうんですかね。

分かっていることをいかに面白く書くかっていうような、そういう意志はすごく感じる。「心理的トリック」って谷佳紀は言ってますけど、トリックに過ぎないっていう批判もできるような書き方をしている。でも、じゃあそれで終わりかって言うと…。自分が取ったのは、《踏切に横臥の少年明日も未来》っていうやつなんですよね。これ、めちゃめちゃ地に足のついた書き方をしてる気がするんですよ。

これって、「明日も未来」の「も」のところがおそらくポイントで、ただの真逆のことを言ってみせました、じゃなくて、「明日も未来」っていうことは、今日も未来であるっていう風に言われがちな、あるいは昨日も未来であったと言われがちな、少年がおしつけられがちな純粋性とか、「明日がまだあるんだよ」みたいなそういう少年に対する紋切り型の語り口っていうものに、疲れ切っている少年の有り様っていうものを、すごくよく描いている気がするんですね。そこに疲れ切って投げ出してしまったような、少年の身体っていうのがすごくよく書かれている。少年の疲れた様子みたいなものも、ベタっていえばベタだし、だからわかりやすい書き方をしてはいるんだけれども、なんていうか、もっと情が通ってる感じがする。

で、こういうところが、猪鼻さんの書き方の魅力なのかなって感じたんです。もっと情感を伴ってくるのは《花を買う釣り銭は手に飽いたるよ》で、これなんて、これが『ゴリラ』みたいな冊子に載ってるのかっていう感じの、めちゃめちゃ情緒的な書き方って言うんですかね。

この書き方は、花を買ってその花を持っているっていう事と、その花を買って残った釣銭にまなざしを向けていくっていう、華やかなものと、そうじゃないものとを書くことで、何か詩的なものを書こうとしたのかなっていう気がする。他の句との流れで見ると、たまたまこうなったのかなって気もするんですけど、それ以上にやっぱりこれも、すごく情感を伴っているっていうか、叙情的っていうか。それがすごく強く出てくる。

猪鼻さんが本当にやりたかったことかどうかは分からないですけど、資質として、割とベタなものを書こうとする。そこから抜けきれないところがある。それなのに、新しいことをやろうとしている感のある書き方をするから、地に足がついているという資質が、かえって飛び立てないもどかしさみたいなものに見えちゃう。そういうことじゃなくって、別に飛び立つ必要はなくて、こうした句のように地に足の着いた書き方をすれば、十分にこの人は面白いのになーって。現にこの二句なんかは、そういう感じがするのになーっていう。そのことに周囲はどこまで気づいていたんだろうなってちょっと思いましたね。まぁそんな感じです。

黒岩
7号から10号の間に、何か模索があったのかもしれないなっていうのは、私も思っていて、異質なもの、逆のベクトルのものを一生懸命作ろうとして、その中でふっと、緊張していると時々緩みが生まれるっていうのが、俳句をいっぱい作っている時って生じる事ってあるんじゃないかなと思うんですけど、そういう、一瞬緩んだところが、逆に魅力があるって言うのは結構、猪鼻さんに限らず、ありそうなことかなと思っています。

三世川
外山さんのご指摘にあったように、猪鼻治男の作者像は実は情緒的、というのは同感させていただくところです。とてもナイーブな側面を、谷佳紀が「神経の現れ」と言っていますよね。そういったところを、言葉と格闘ー格闘ってほどでもないですけどーしながら本人が志向する表現を模索していったのだと考えます。それが日常性の中で提示されていて、ですからどこか懐かしみのある情感が、色んな作品で見てとれるんじゃないでしょうか。

黒岩
ありがとうございます。読書会を続けていく上で、今後もどうなるか興味があります。

小川
猪鼻治男を注目していなかったのですが、皆さんのおっしゃることを窺って、なるほどという感じです。その良さもわかりつつも、やっぱり、内容的に定型を使わない必要があるのかな、という気がします。さらに、季語を使わない必要があるのかなという。

やっぱり定型を使わないならば、そのための自分の文体が必要になるとか、季語を使わないのであれば、それ相応の覚悟や季語に変わる何かが要るような気がするんです。無季については、とりわけ林田紀音夫とかが苦労して書いている印象があることを思うとそんなに簡単に作っていいのかなと思ったりもします。文体は少し猪鼻の文体っぽくなっているけど、内容は普通っていう感じがちょっと混乱します。でも、作者ならでは道を模索しているというのはよくわかります。

黒岩
文体も内容も韻律も、割と全部頑張らないといけないんじゃないのっていうお考えがあったってことですか。

小川
そうですね。つまり、作品がどれも意味的なんですよね。破調を使ってる割に、その音がそんなに効いていなくて、意味が前面に出てきちゃって、わかりやくなってしまっている。破調は何のためにしたのかなと。猪鼻治男の《雪やなぎ昔日の白の多さかな》《自転車はしらせ森中の時間を浴びに》など定型に納めた方が効果的のような句に思えて。私の中では、少しもどかしいなと思っていました。

黒岩
定型で言うことと、意味っていうものが、割と仲良しという風に今のご意見では見えました。はみ出していくっていう時は、意味すらも超えてゆくことが…?

小川
そうですね。私の中では、定型を基本に不定型に転換した時に、やっぱりそこに不協和音的な、ときには和音かもしれないけど、何かが生まれる中で、意味を消してゆく効果があると思っていて。こうやって、不定型で書いたけれど、意味が強く出ると言うのは、どうなんだろうなっていう感じがするんですよね。

三世川
それに関しては小川さんご自身が、もう答えを判ってらっしゃるのではと思うのですが。

不定型というか破調の方が意味性を消すというのであるならば、定型にすると意味性が強くなりすぎてしまうことを、おそらく猪鼻治男は本能的に感じとっていたんじゃないでしょうか。だからこそ定型を避けて、不定型とか破調にしていたんだと思います。

黒岩
外山さんの話からいろいろ展開して面白かったです。後半でも、意味を超えるといったところのお話もできたら面白いかなと思います。

黒岩は後二句だけ話しますね。《泉こぼすのよ花こぼすのよ・天体 毛呂篤》っていうのがあって、リフレイン構造で、句が弾んていく、ドライブしていくという感覚があって、泉も花も、天体が溢しているっていう、意味で考えたら、そうかもしれないなと、何が何をしたのかということはわかりやすいけど、この中黒は驚きましたね。読点じゃ無くて、二つを等質なものとして扱っているのかなと思うと、句の構造がぐちゃーってした感じがして。泉と花を溢すことと、天体の宇宙の中にいるよってことが、同じぐらいの重さで天秤に乗っかっている感じがして。そんなことある?って今でも戸惑いを覚える感じです。「泉」と「花」は対になっていて、「泉と花をこぼすこと」と「天体」が対になっている。リフレイン構造を、あーリフレインですねってこと以外の読み解き方、広げ方がしたいなって最近すごい思うことが多くて。自分には新鮮な捉え方でした。

もう一句に、谷佳紀の《星の輪にぽとり心の直線定規》勢いがあって、気持ち良くてすごい好きな句でした。木星でも土星でもなんでもいいと思うんですけど、ぽとりってなんか、目薬とか雫とかそういうイメージあるかなと思ったけど、定規を、その星の輪にぶん投げる感じがあってですね、そしたら、ヒューンとその直線定規が落ちてゆく。

なんかこう、自分の体の中にも、直接定規が落ちていって、背筋がピンとのびる感じも、私はそういう身体的な感覚に落とし込んで勝手に読んだんですけど。心がシャンとするなっていうのと、速度感、ダイナミズム、全部入ってて、しかもそれを「ぽとり」でつないでいく気持ちよさがある。非常に面白いなと思いました。1号から5号の時も言いましたけど、私のこういう読みは非常に図式的なんじゃないかなっていう不安は拭えないままです。

中矢
黒岩さんが今話された二句って、モチーフだけに着目すると、宇宙と私の心というように、大きな天体系と今ココにいる私という対比でまとめているなと思いました。私のこの読みのようにモチーフだけ抜き出すやり方だと、読み落とすものも多いとは思うのですが……。

黒岩
私は普段は、あんまり大きい俳句が好きじゃないんですね。できるだけまとめて、ちっちゃくて、ちゃんと見たぞみたいなのが好きなんですけど。

大きい俳句がはみ出していっているのがいいなぁと思えるのは、もしかしてさっきの話で、定型感をはみ出してるところに魅力を感じてるのかもしれませんね。それと、大きいだけだったら不安になるんで、そこに我が介在しているときに、ちょっと安心するんだと思います。

じゃあ最後、小川さんお願いします。

小川
谷佳紀の《全体の始終は書店巨大なギューッ》って。意味はわかんないですよね。書道展みたいなのがあって、長い半紙みたいなのが、ぺろぺろってなってるのかなって。そこで「巨大なギューッ」がなんで来るのかわからないのですが。1日の大きな塊がギュってなってる感じなのかなとか。読みは読者に任せる感じの作り方ですよね。音の句だと《日暮れきゅうきゅう雑踏僕も線のかたまり》山口蛙鬼のこれもなんか、きゅうきゅうっていうのが、効いていて。きゅうきゅうって、汲々としてという感じでは無くて、若々しい、みずみずしい感じにとりました。アニメーションの線が、きゅぅーと書かれて、この雑踏の線が書かれてゆくような、そんな様子が見えました。

長くあれ一日スカートくしゃくしゃの球》谷佳紀は、無理やり景を考えれば、バルーンスカートの皺でが気になっているという風にも読める。でも、わたしは〈長くあれ一日〉=何かがくしゃくしゃだけれどもまだ球体を保っている様子、と読みました。この時代、球体がよく句に出てくるなって思います。毛呂篤、崎原風子などなど。太陽のイメージなのかな。太陽もよく出てくる印象があって。太陽の塔の万博のイメージもまだ引き継いでいるのかもしれない。今の俳句に突然、具体的な球じゃない球とか、太陽そのものが頻繁に出てくる印象がないので、その辺が面白かったです。全体としては、6号から10号まで、それぞれの作家が本調子になってきた感じがして。それだけに読むのが大変で、格闘したなーって。向こうがバリバリやってくるんで。どれも読むのが楽しかっです。

黒岩
「格闘」っていうキーワードも出てきましたが、今映ってる画面から力ほとばしる感ありますね。十句に。是非みなさん小川さんにお話ししたいこと、聞きたいこと言ってみてみたいこと、あったら言ってください。

中矢
少し戻ってしまうのですが、さっき小川さんが鑑賞された、鶴巻直子の《リボン結びのはらからレバー色して喪》の鑑賞が面白かったです。私は初読のときに、姉妹兄弟の意味だけで読んでいたので、「腹から」とも読めるのが面白かったです。私が先ほど鑑賞した、「みどり語」と「嬰児」にも似た意味のイメージの重複だと思いました。

小川
はらからは、姉妹だと思いましたね。私から聞いてもいいでしょうか。《全体の始終は書店巨大なギューッ》ってどのように読まれたのか気になります。横井さんはいかがですか。

横井
巨大なギューって面白いキーワードと思うんですけれど、僕はちょっと格闘に殴られたまま終わってしまった感じもありましてね。でも、まぁ、書店の広さを表してるのかなって思って。そこに、意味を合わせてきたのかな。書店という全体の始終が、ギューッと張り詰めているような感じのね。ちょっと魅力は感じるんですけれども、もしかしたら戦い切れていなかったのかなという感じもしましたね。

小川
外山さんはいかがですか。

外山
そうですね。「全体の始終は」の句ですね。空間的な全部感っていうのが「全体」だとすると、「始終」っていうのは時間的な意味での全体に当たる言葉だと思うんですね。それを「の」でつなげているんですね。ちょっと、先まで読んじゃうと、書店、巨大なギューッ、ていう風に、全体、始終、書店、巨大、ギューッっていうのを、助詞だとか、「な」とかで繋げていく。ブロックみたいなものをぼんぼんぼんという形で、くっつけていくっていうのかな、そんな感じがあって。10号の座談会で、腸詰俳句という言葉が、前衛俳句の批判であるんですよっていう話があったと思うんですけど、それにかなり近い危うさを感じますね。

これと似ているようで違うものに加藤郁乎の《とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン》がある。あれなんかは、言葉を音で連鎖的に繋げていくものですよね。あるいは、高柳重信のしりとり俳句も、ある種の音というものを確かな手掛かりとして、言葉を繋げていって、なるべく遠いところに行こうっていう、そういう言葉の積み重ねの仕方をしている。でも「全体の始終」の句はそうではないですよね。韻律には頼ってるかもしれないですけれど、言葉の音自体には頼らずに重ねていくっていうやり方をしていて、その分逃げ場がないというんですかね、苦しいものがあるよなって。言葉のチョイスを、ほとんど自分の勘みたいなものに頼らなくてはいけないというか。

たとえば、かごめかごめの唄がありますよね。「後ろの正面」みたいな、ああいう表現に似ているなーとも思っちゃいまして。でも「後ろの正面」の方が、むしろ詩的な感じがして。「全体の始終」だと、理屈っぽい感じが見えて、だから、自分はあまりピンと来ないかな。どうしてこういう言葉の重ね方を良しとするんだろうか、どの辺に詩情を見ていたのかなというのは疑問なところがあります。だから、《長くあれ一日スカートくしゃくしゃの球》っていうのも、そういう感じに見えちゃうというのかな。何にもないところから、自分の感覚だけで言葉を積み重ねていって、あまりにもそれが無防備すぎるので、粗が見えると、これ大丈夫なのかなとなってしまう。そこが、谷佳紀のを読んでいてとても思うところですね。

小川
そうですね。意味に寄らない世界を、谷佳紀は作ろうとしていたと思います。意味に寄らない世界というのは確かにあやういし、粗が見えたりもする。完成しないところを目指していたような気がします。だから例えば外山さんのおっしゃった《とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン》などは、誰が読んでも完成度は高いし、言わんとしていることはなんとなくわかる。谷佳紀や毛呂篤は、その完成の着地点を見せないことに集中していたと思います。

黒岩
ありがとうございます。

前半がいい感じに終わったというか、後半につながる話もいくつか出てきたと思うんで。この議論をいかしつつ、後半で話したい評論の話とかをするときに、もう一回ほじくり返していただけたらと思います。次は評論のほうに行こうと思います。


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