【句集を読む】
ここではないどこか
藤原暢子句集『からだから』
村田 篠
どこからを旅と呼ばうか南風
たとえば、写真で見た風景に惹かれてやってきた旅先で、写真とは違うことにがっかりすることがある。ほとんどは期待しすぎたことを「現実はこんなもの」と笑って終わるのかもしれない。
でも、そうなのだろうか。「ここではないどこか」は、じつは日常を離れるために出かける旅先ではなくて、自分の中にあるのではなかろうか。
最近そんなことを思うようになってきた。
『からだから』を読みながら、藤原暢子は「ここではないどこか」が自分の中にあることをよく知っている人だと思った。彼女は毎年ポルトガルに出かける筋金入りの旅人だけれど、この句集を読むと、「さあ行こう」という意識より先に、日常の中で体や五感がどんどん「ここではないどこか」へ彼女を誘ってゆくという感じがある。
夏至歩きたがる体をつれてゆく
からだから海あふれだす夏休み
歩くこと歌ふに似たり小六月
体は歩きたがり、海を見れば海があふれだす。そして、歩くことと歌うことは、たぶん彼女の中では同じことなのだ。歌えば、「ここではないどこか」は向こうからやってくる。
長き夜のたましひ出づる大き耳
風光る手は音楽を生みながら
体はいろんなものを生み出す。放出する。そうしながら、日常より大きなものを醸成している。たとえば、蒲団の中で見る「夢」っていったい何なのだろう。無意識のまま「ここではないどこか」へ行っていることを、みんな忘れているのではないか。
裸なら私も山になれるはず
夏濤になりたがる紙飛んでゆく
顔取りかへて夜神楽のはじまりぬ
「変身」への希求もまた、旅のひとつだ。なれるはずがないと知っていても、希求する。仮面を付け替える。ふだんは見えないものに出会う。そのために、旅はある。
赤子から声の出てゐる竹の春
人の手を離れ春野にある鞄
この2句は「変身の途中」なのかもしれない。赤子から出た声、人の手を離れた鞄は、ほんとうに私たちの知っている「声」であり「鞄」なのだろうか。当たり前を疑うことは重要だ。「竹の春」と「春野」の魔術的な力よ。
駅ひとつ緑雨の島となりにけり
したたりをたどれば神の居るところ
風あればとんぼの国へ来てしまふ
そして見慣れた風景は、いつの間にか「ここではないどこか」として眼前に現れる。雨が降れば、したたりをたどれば、風が吹けば世界は変わることを、藤原暢子は知っている。そして、彼女の体がそれを実践する。そうすると、彼女の心身を通して、旅の根源が立ち現れる。『からだから』は、その実践の記録そのものなのだ。
藤原暢子句集『からだから』(2020年9月刊 文學の森)
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