2022-10-16

村田篠【句集を読む】■ここではないどこか 藤原暢子句集『からだから』を読む

【句集を読む】
ここではないどこか
藤原暢子句集『からだから

村田 篠


どこからを旅と呼ばうか南風

たとえば、写真で見た風景に惹かれてやってきた旅先で、写真とは違うことにがっかりすることがある。ほとんどは期待しすぎたことを「現実はこんなもの」と笑って終わるのかもしれない。

でも、そうなのだろうか。「ここではないどこか」は、じつは日常を離れるために出かける旅先ではなくて、自分の中にあるのではなかろうか。

最近そんなことを思うようになってきた。

『からだから』を読みながら、藤原暢子は「ここではないどこか」が自分の中にあることをよく知っている人だと思った。彼女は毎年ポルトガルに出かける筋金入りの旅人だけれど、この句集を読むと、「さあ行こう」という意識より先に、日常の中で体や五感がどんどん「ここではないどこか」へ彼女を誘ってゆくという感じがある。

夏至歩きたがる体をつれてゆく

からだから海あふれだす夏休み

歩くこと歌ふに似たり小六月

体は歩きたがり、海を見れば海があふれだす。そして、歩くことと歌うことは、たぶん彼女の中では同じことなのだ。歌えば、「ここではないどこか」は向こうからやってくる。

長き夜のたましひ出づる大き耳

風光る手は音楽を生みながら

体はいろんなものを生み出す。放出する。そうしながら、日常より大きなものを醸成している。たとえば、蒲団の中で見る「夢」っていったい何なのだろう。無意識のまま「ここではないどこか」へ行っていることを、みんな忘れているのではないか。

裸なら私も山になれるはず

夏濤になりたがる紙飛んでゆく

顔取りかへて夜神楽のはじまりぬ

「変身」への希求もまた、旅のひとつだ。なれるはずがないと知っていても、希求する。仮面を付け替える。ふだんは見えないものに出会う。そのために、旅はある。

赤子から声の出てゐる竹の春

人の手を離れ春野にある鞄

この2句は「変身の途中」なのかもしれない。赤子から出た声、人の手を離れた鞄は、ほんとうに私たちの知っている「声」であり「鞄」なのだろうか。当たり前を疑うことは重要だ。「竹の春」と「春野」の魔術的な力よ。

駅ひとつ緑雨の島となりにけり

したたりをたどれば神の居るところ

風あればとんぼの国へ来てしまふ

そして見慣れた風景は、いつの間にか「ここではないどこか」として眼前に現れる。雨が降れば、したたりをたどれば、風が吹けば世界は変わることを、藤原暢子は知っている。そして、彼女の体がそれを実践する。そうすると、彼女の心身を通して、旅の根源が立ち現れる。『からだから』は、その実践の記録そのものなのだ。

藤原暢子句集『からだから』(2020年9月刊 文學の森)

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