【週俳3月の俳句を読む】
サングラスと珈琲
瀬戸正洋
紫外線から眼を守るためサングラスを勧められた。どこへも行くところがないので珈琲屋へ行く。二十歳の頃、喫茶店のはしごをしたことがあった。二時間で四軒、ちょうど八時間になる。
珈琲を飲みながら俳句を読む。その頃、珈琲は一杯、百五十円か百八十円だったような気がする。五十年も前のことだ。そのときも、どこかに同じようなことを書いた記憶がある。
●
春や春ひと日の窓を開け放し 浅川芳直
ひと日には、終日、ある日などという意がある。春といえば前に進む季節である。入学、入社と新しい生活がはじまる。新しい生活とは現在とは異なる生活ということだ。窓を開け放しにしているのは春だからである。
猫柳弾けば大き雨雫 浅川芳直
猫柳は明るい。猫柳はあたたかい。指でふれてみたくなる。せせらぎが聞こえる。猫柳が弾ける。大きな雨雫も弾ける。あたらしい世界に飛び出すことになる。雨雫は大きければ大きいほど行末は不透明になるということだ。
大空や犬繋がるる梅三分 浅川芳直
犬は大空に繋がれている。犬は梅の木に繋がれている。犬は何の疑問も持たずに繋がれている。ひとは大空に繋がれている。ひとは梅の木に繋がれている。ひとは何の疑問も持たずに繋がれているのである。
てふてふの小石に翅を余したり 浅川芳直
余すことは間違いなのである。除外することは間違いなのである。もてあますことは間違いなのである。ひとはいつも同じ間違いをくり返す。戦前に発表され教科書にも載っていたてふてふの詩を思い出す。
針葉樹被りて飛ばす斑雪かな 浅川芳直
飛ばすのは雪である。飛ばされるのも雪である。斑雪とは時間のことなのである。関東で目にする斑雪とは違うような気がする。針葉樹とは針葉をつける樹木のことである。
薄氷の浮沈の崩れバケツの黄 浅川芳直
崩れること、その欠片、沈んだ薄氷。これは生きているということなのである。このことを繰り返していくことが人生なのである。バケツの黄は見たことがない。
服薬は菓子食ふやうに春の風邪 浅川芳直
薬を飲むこと。菓子を食うこと。これらは同じことなのである。自然な行為なのである。春の風邪だから騙すのである。春の風邪だから騙されるのである。春の風邪は騙したり騙されたりしていることを理解していない。
閏日を寝返り夢のなき朝寝 浅川芳直
寝返りとは質の高い睡眠を持続するためのものである。夢とは睡眠中に見続けるものである。夢とは希望のことである。夢とは幻覚のことである。夢とは真実のことである。閏日は・・・・である。老人が朝寝を嫌うのは死にたくないと思っているからなのかも知れない。
福耳のやをら田螺へ串を刺す 浅川芳直
ゆっくりと田螺に串を刺している。福耳が田螺に串を刺している。二度とはない一日である。串は確実に刺さなければならない。
宅上灯ほのぬくくあり卒業期 浅川芳直
卓上灯にてのひらをあててみることはしない。満たされているからである。何かが足りないということを忘れている。卒業期とはそのことを確認する時間のことなのかも知れない。
きさらぎの銀河の果てのパイプ椅子 宇佐美友海
パイプ椅子には誰も座らない。誰も座らないから銀河の果てなのである。パイプ椅子は美しく並んでいるだけなのである。
ぼたん雪大きな指の攫ふ塔 宇佐美友海
気づかれることなく奪い去ってしまうのである。塔とは仏舎利を安置し供養、報恩などのために設ける建造物のことである。大きな指でかくすのである。大きな指であることは幸いである。何をするにも気づかれないことは幸いである。ぼたん雪が降っている。
流水やいつかの私だったもの 宇佐美友海
氷のかたまりが溶けている。氷塊となり海面を漂流する。流れていなくても流れていても氷塊とは海水のことである。氷塊とは私のことなのである。
伸びすぎた影から春の水離れ 宇佐美友海
影は緊張している。春の水も緊張している。影の緊張がゆるむ。春の水の緊張もゆるむ。いつのまにか緊張のかたちが崩れていく。
薄氷の絶命の跡つづきをり 宇佐美友海
薄氷である。絶命のあとが続く。薄氷であるから絶命のあとが続くのではない。
寝室に一つ灯れるヒヤシンス 宇佐美友海
ヒヤシンスが寝室の花瓶に投げ込んである。ただ、それだけのことである。だが、そのことによってどれだけこころが動いたのか。それは理解することはできない。
平日のまんなか春コート泳ぐ 宇佐美友海
スクランブル交差点を春コートの老若男女が渡りはじめている。平日とは休む日のことではない。働かなければならない日のことである。
山笑ふどろりと眠くなる頭 宇佐美友海
濁ってとろけてやわらかくなる。眠くなる頭とはそんなものなのかも知れない。山は笑っているように見えるのではない。げらげらと声をたてて笑っているのだ。こんなときは、なにも考えずひたすら眠ればいいのだと思う。
成人の背中の産毛おぼろ月 宇佐美友海
温泉の露天風呂である。産毛についた水滴がきらきらと輝いている。湯けむりとおぼろ月。知らないひとの背中ばかりが見える。
黄水仙へその真上に手指を組む 宇佐美友海
腕の置きどころが不安定である。不安定であるから落ち着かない。手指をへその真上で組む。思いのほかこころは安定した。黄水仙の花は重く首を傾げている。
血沼海むらがりとぶは杉の胤 岩田奎
血沼海とは「大阪府和泉地方の古名」とある。「穢れを嫌い、穢れを洗い流すことを風習としていた」「太陽に向かってではなく太陽を背にして戦った」「故に、南から回り、この地に到着し、その手の血を洗い流した」とある。杉である。植物である。血筋である。ひとは海に飛び込めばいいのだ。ひたすら泳げばいいのである。
ながし雛ながれ腐りや血沼海 岩田奎
ながし雛とは「ひとがたに厄を移して水に流す」「こどもの無病息災を祈る行事」腐るとは「食物が微生物により食べることのできない状態になる」「比喩的にはだめになったひと」とあった。腐ることと穢れることは似ている。悪いときはそれを並べてみればいいのである。濃淡を見極めてみればいいのである。
血沼海かぢめ醜と女学生 岩田奎
かぢめとは搗藻のことなのかも知れない。血沼海、醜、女学生と続く。泳ぐことは罪悪である。それでも泳がなくてはならないのである。
卒業の脛美しや血沼海 岩田奎
脛は美しいものである。卒業であればなおさらである。血沼海という地(血)にたどり着く。こころは騒めいている。
血沼海骨くきやかに春手套 岩田奎
手套のなかに手がある。骨がはっきりと見える。春が来る。血沼海の春が来る。
べとべとと桜餅あり血沼海 岩田奎
道明寺餅はべとべとしている。長命寺餅とは違う。特別なことでもない。ふだんの暮らしである。道明寺餅を食べる。ありふれた春のいちにちの出来事である。
血沼海蝶脈脈ともやう継ぐ 岩田奎
船をつなぎとめる。生業は大切である。血沼海あたりでの博覧会。××と××にまみれたひとたちの騒乱である。世の中に対する批判は私には分不相応だと思う。自分に対する批判。そのことだけで手いっぱいである。
朝寝して間寛平血沼海 岩田奎
悲劇とは喜劇である。喜劇とは悲劇である。悲劇とは悲しい結末の劇である。喜劇とは笑いを誘う劇である。間寛平は役者である。朝寝をしたあと血沼海で清めるのである。悲しみで穢れたからだを血沼海で清めるのである。
新社員配属血沼海ぞひに 岩田奎
一般的な行事である。※※支店とはいわず血沼海ぞいにといった。ひとつの祝意なのである。これから何十年のあいだたっぷりと穢れるのである。そのはじめの一歩が血沼海ぞいにある。これはまぎれもない祝意なのである。
夏蜜柑殖ゆるなかぞら血沼海 岩田奎
夏蜜柑は生っている。なかぞらに生っている。遠くに血沼海が見える。なかぞらが殖えていく。夏蜜柑も殖えていく。
建国日花粉が涙あふれしめ 若林哲哉
建国日とは花粉の飛びはじめの季節である。神話とは歴史が創り出したものである。季節性アレルギー性鼻炎はじわじわとひろがってきた。古代から花粉をたっぷりと浴びてきた。急にいまさらなどとは思わない。その理由をうすうすと気付いている。
芽柳の下まで包丁を運ぶ 若林哲哉
包丁もたまには違うことをしたい。同じことは飽きるのである。小川のせせらぎが聞こえる。芽柳の下まで包丁を運ぶ。そのあとのことは芽柳が決めるのである。
火を点し火を拝み火へ春の雪 若林哲哉
火とは燐寸から生まれるものである。火からはじまり火で終るものが燐寸なのである。春に感謝しなくてはならない。春雪に感謝しなくてはならない。燐寸に感謝しなくてはならない。
蘆牙へ翅ひとひらの浮き届く 若林哲哉
いっぺんの翅が蘆牙のあたりで落ちた。水辺はゆらゆらと動いている。水もゆらゆらと動いている。春とはゆらゆらと流れる水のことなのである。
黄沙降るつややかなるは八手の実 若林哲哉
黄砂とは「酸性雨を中和する。海洋の栄養源となる」とある。体調が悪くなる。不快になる。つややかな八手の実がそこにある。
煮し三葉載せし三葉や玉子丼 若林哲哉
三葉は幸福である。誰からも喜ばれない生き方は虚しい。玉子丼の味については別の話なのである。
その部屋のひねもす灯る雪柳 若林哲哉
ひとつの花が咲いているのではない。いくつもの花が咲いている。いくつもの花が咲いているから灯るのである。部屋にはおおきな花瓶がひとつある。
白蓮や吾が跫に鳩の飛び 若林哲哉
跫で鳩が飛んだのは白蓮が咲いていたからである。白蓮でなければ跫ぐらいでは鳩は飛ばない。情報は見ることより聞くことの方が鋭い。耳からだけしか入らないとなるとなおさらである。
花馬酔木土嚢破れて土あらは 若林哲哉
積んで何年も経った土嚢である。詰め込まれた土もすっかりと馴染んでいる。破れたとしても土嚢袋の役目は十分に果たしている。馬酔木の花はころころと咲いている。
てふてふのなかかはせみのゐしやうな 若林哲哉
翡翠は美しい鳥である。狙った獲物は逃さない。縁起の良い鳥だともいわれている。てふてふがいる。翡翠はいるかいないかはわからない。なんとなくそんな気がするということである。考えてみれば世の中はそんなことばかりなのである。
●
カウンターの端の席が好きだ。話すことは嫌いである。そのことを知っているから誰も話しかけてこない。珈琲屋の良し悪しは水である。今年の春は雨の日が多い。雨の日が多いと水は不味くなる。足りすぎると碌なことがないということなのかも知れない。
0 comments:
コメントを投稿