【週俳4月の俳句を読む】
対岸よりアンニョン
沈成玟(シムソンミン)
シムと申します。俳句を始めて3ヶ月ほどの韓国人でございます。原さんの日本語と朝鮮語とでの句を拝読し、半島側からの味わいをご共有できたらという試みです。2倍面白くなったら良いなと思います。
◆原麻理子 おぼえる
아이 우유 오이 なぞつてゆけば文字となり 原麻理子(以下同)
ハングルのポスター(カナダラ表と我が家では言っており)が小さい頃にあったなと。
確かに仮名よりも簡単な図形の組み合わせなので、ハングルをなぞることは記号に情報を閉じ込めるという、文字習得の仕草をよく描写できるなと感じました。
아이(アイ/子供) 우유(ウユ/牛乳) 오이 (オイ/きゅうり)は、日本語でいう「アメンボ赤いなあいうえお」のような、基本の文字の簡単な用法の例です。因果関係のない語の並びのバカっぽさがよい。
この句が一番初めにあるのも、よい。朝鮮語が織り込まれた10句の世界に入る呼び水になっておろうと思います。
ぼくが나(ナ)できみが너(ノ)かうして向きあつて
「向きあつて」で、やはりハングルの手習いの場面なのかなと。そうすると、隣の子と指を差し合って、言い合っている様に読めてきます。一人称、二人称、どちらも一音、その語気の強さが指差し感をよく表しているなと思いました。
나(ナ)/너(ノ)の、ㅏ(a音)/ㅓ(o音)もちょうど向かい合っており、字面を意識したときの図形の面白みもあります。
口が音をおぼえるこれは雨のはうの비(ピ)
피(ピ/血)ではなく、ということ、おそらく。
日本語だと同じ「ピ」とされる音も、微妙な発音の違いで数種類ある朝鮮語です。
頭ではあくまで日本語の世界から朝鮮語を捉えているが、身体感覚としては全く未踏の朝鮮語世界に飛び込まざるを得ない、という言語習得までの抑圧、孤独が「口が音をおぼえる」の気付きでした。
「はうの」が音数的にはなくても?とも考えましたが、日本語より母子音の多い朝鮮語のややこしさ、初学者みんなが躓くこの部分を表現するためにはやっぱり必要と。
目(눈)と雪(눈)が同じでまぶしさの仲間
これは、朝鮮語の母語話者には気がつけない切り口かも。
同音異義語の概念は日韓ともにありますが、外部の言語表現から眼差される場合にこそ、視点の発見になる気もします。日本語の文化圏内で、「柿と牡蠣の共通点」で何か句を作っても、それは謎かけや都々逸のテリトリーになっちまいますしね。
「まぶしさの仲間」も可愛くてグー、눈と눈とまぶしさは本当に仲が良さそう。「タラバガニはヤドカリの仲間」と言われても二者は全然仲良くなさそうだけれど、これは仲が良さそう。
雪(눈)だつた水(물) 目(눈)の水(물)を涙(눈물)といふ
朝鮮語では、涙を目(눈)の水(물)と言ったり、魚を水(물)の肉(고기)と言ったりします。別の言語体系では語の作られ方のグルーヴが違かったりする、そういうおかしさが現れています。
なのだが、雪ー水ー目ー水ー涙の接着でなんだか清らかで涼しげな洗練された感性に見せているのが面白いところかと思います。
雨が来る(비가 온다) 春(봄)そして眠り(잠)を連れて
ピ(雨/비)がボム(春/봄)とジャム(眠り/잠)を連れて来るのはかなり好き。「低気圧おとぼけ愚連隊、参上!」といった感じがしませんか?
春眠を朝鮮語で再構築すると存外、チャーミングな響きになり、発音する詩としても価値が出てきます。
→シューリンガンとグーリンダイみたいな気持ちよさがある。
また、この響きの可愛さを感じられるのも、言語の恣意性につけ込んだ日本語話者のみに許された遊びでしょう。
春草にきみは솔솔(ソルソル)と風を吹かす
朝鮮語のオノマトペの美味しいところを使った句が作られたのは嬉しく思います。美しい言葉です。
ややキザな句だけども、솔솔の語イメージと合っていると思います。おっとり爽やかな、おぼっちゃん/お嬢様育ちな感じがあります。オノマトペは特にネイティブに感性が近づかなければ、なかなか理解が難しいですよね。솔솔という語の持つイメージの機微を伝えるのにも、この句はぴったりでしょう。
教はつて呼ぶその花を개나리(ケナリ)として
「教はつて」がかなり効いております。ケナリとはレンギョウのことなのですが、上五でレンギョウが初めてケナリとして認知された「おぼえる」ことのライブ感を伝えているかと。
余談ですが、レンギョウを観に行く行楽バスツアーでは、コリアンマダム(=アジュンマ)たちがバス内でポンチャックを踊り狂うとか、踊り狂わないとか。
燕来る半島の国島の国
一つの種の燕が日本、韓国(国/国土として捉えている)を飛来するという表現は、この句が両者の言語を相対化したことを表します。
日本語ー朝鮮語の言語世界で作られた10句がこうも素晴らしいということは、さらに広い多言語、多文化をも句材に取り込めるという俳句文化の可能性と、文学としての懐の深さにまで触れられている句ですよね。大切な句だと思います。
読めてもう文字で花と葉いつぺんに
「木」の色んなパーツの読み方を覚えたぞ!という言語世界が広がり固まる喜び、と読めました。「もう」「いつぺんに」が、あなたの尺度すぎて良い。おぼえの早い自分を褒めてあげたのか、そういう無邪気な雰囲気が嬉しい。
感覚的な話なんですが、韓国語って他の、例えば英語とかに比べて、口で言えていることが、文字で書けるようになることの達成感が大きい気がします。五百余年前、世宗の治世に作られた若い人工言語なので、法則性に矛盾や例外も少なく、パズルとして楽しんでるのかも。
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