【週俳4月の俳句を読む】
俳句のしくみ
鈴木茂雄
俳句を読むとき、そこになにが書いてあるかということより、いかに書いてあるかということに、わたしは注視するようにしている。俳句にかぎっていうと、そこに書かれたものが意味することより、書かれた俳句のしくみの方を重視して読むことにしている。十七文字の一語一語に創作のヒント、読解の手がかりがあると思うからである。俳句を書くときは、わたしたちがいまこうして閉じ込められている日常の世界のほかに、もうひとつ別の次元の世界があるのだということを鮮やかに示す。それは想像力によって新しい世界を切り開くこと、あるいは現実の世界に少し穴をあけたり歪みを作ってみせたりすることである。そうすることによって、俳句という短い詩形はかろうじて一行詩として屹立する。たった十七音の俳句形式は、すべてレトリックで成り立っている。だからだろうか、俳句がいつも修辞的技法を要求するのは。だがしかし、よくよく考えてみると、実は、俳句はさらに至難の業を書き手に要求しているのである。実際にあるがままの現実ではなく言葉を、そしてただ言葉と言葉を並べたらいいというのではなく、その結合の仕方に異議を唱え続けているのである。俳句はいかにして詩でありうるのだろうか、と。
書く前の言葉つぶやくシクラメン 千鳥由貴
「書く」という行為と季語「シクラメン」の新しい関係を考察しようとすると、かつてものを書くということは、原稿用紙かレポート用紙、あるいは便箋に直接書いていたことを思い出す。万一書き損じた場合は、その箇所を消したり書き足したり、ときには紙そのものを丸めてゴミ箱に捨てたものだ。いまではキーボードを十指で打つ軽快さを得た代償として、文字を線でたどって紙の上に言葉をつづるという楽しみを失くしたような気がする。揚句は「書く前の言葉つぶやく」というのだから、おそらく想いを込めた言葉を舌頭で確かめながら書こうとしているのだろう。だとすると、万年筆で便箋に一画づつ丁寧に書いているところに違いない。季語のシクラメンは文字が書き込まれる前の白い紙片を鮮やかに記号して、漆黒の字句を想望する。
花菜漬わたしも休みとれたると 田中木江
「花菜漬」は「わたしも休みとれたると」の続きを物語ることが出来るのだろうか。季語は俳人の有力な武器である。目の前にひろがる風景をひとつの花に、日々流れ行く暮らしを、たとえばこの句の場合、一鉢の「花菜漬」に鮮やかに収斂させ、そのイメージによって読者の心をとらえようとする。「わたしも」という台詞はさらに読者を物語の中へ引きこみ、「も」と言外に対話の相手はすでに「休み」を取っていることを提示する。「次のセリフは?」と読者に思わせたらこの句は半分成功したことになる。あとの半分はこの句が詩的であるかどうか、再読、再々読してその記号表現を自由に浮遊させてみることである。
ぼくが나(ナ)できみが너(ノ)かうして向きあつて 原麻理子
無季の句。コンクリート・ポエトリーを連想させる。「나(ナ)」は韓国語、意味は「ぼく」、「너(ノ)」は「きみ」。韓国語は表音文字だというが、この句に使われたハングル文字にかぎっていうと、なるほど表意文字として「ぼく」と「きみ」が「向き合つて」いるように見えなくもない。他の言語では思いつかない発想だろう。ハングルの形の発見が作句の動機。この句の見せ場はそこにある。「おぼえる」とタイトルに明記しているように、作者はこの韓国語を学習しているところなのだろう。揚句のようにハングルの象形を楽しみながら。
花曇内線電話番号表 うっかり
季語の「花曇」は桜が咲くころの曇り空のことだが、この句では季語そのものが作者の内面をも記号する。現在の部署に来てまだ日も浅いのだろう。各部署の内線番号はまだよく覚えていないと思われる。人間関係もまだよく確立していないのだろう。机の上にある「内線電話番号表」は会社の組織図であり、各部門の名称と数字は人間関係を複雑に暗示して、現在自分が置かれた立場をその番号表が簡潔に明示する。一句全体にわたって漢字表記であるということもまた、そのあたりの事情を表現するアンニュイのシグナルとして受け取ることができるだろう。
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