【週俳5月の俳句を読む】
微かな違和感と妄想と
西澤みず季
傘いつか骨となりにし雛の間 加藤右馬
「アラベスク」10句より。
傘いつか骨となりにしまで読んで、いきなり雛の間が出てくることに戸惑いを感じる。
何故なら中七までの景で頭は勝手に傘の置かれている場所を想像しているからである。
それが雛の間であるという。この意外な場所に、読み手の想像は見事に裏切られてしまう。女の子が生まれると実家から送られてくる雛人形。その雛を飾る部屋、そこに置かれているいつかは骨となるであろう古い傘。この三つをどう組立てたら納得のいくストーリーが構築出来るのか悩み始める。この時点で、読み手は作者の罠にまんまと嵌まっている。何故なら、この句は雛の間に古びた傘が置いてある。ただそれだけの景なのだから。
父親ごつこ新緑の手を掴むたびに 楠本奇蹄
「白髪」10句より。
親子ごっこでも、母親ごっこでもなく、父親ごっこという言い方が何とも新鮮で可愛い。
新緑の中、子供の手を繋ぎ楽しそうな景が浮かんで来る。
きっとこの男性は近々父親になるのではないか、などと想像が膨らむ。
しかし、掴むという強い言い方に微かな違和感を感じる。
この子供が見知らぬ子供でないことを願うばかりである。
冷麦や太ももは傷すぐ治り 鈴木総史
一読すると、冷麦と太ももの傷には何の関連性も無い。
しかも太ももの傷はすぐ治る傷だという。どんな傷か。
我家は猫を二匹飼っているが、膝の上に抱いているとき、急に暴れて爪で腿を引っ掻く時がある。その時は服を着ているので一瞬の痛みですぐに忘れてしまう。
それを思い出すのはお風呂に入ったときである。太ももに薄らと赤く猫の爪痕が残っている。ふと昼間食べた冷麦を思う。白い麺の中に赤や緑の麺が二三本。
その一本の赤い麺と太ももの猫の赤い爪痕が結びついた時、少し嬉しくなった。
憂ひつつぬるき苺を噛みにけり 野城知里
「槌の跡」10句より。
苺といえば甘酸っぱくて、美味しくて、可愛い、そんなイメージをぬるきという言葉ひとつで見事に打ち砕く。ぬるい水、ぬるいお茶、ぬるいビール等、ぬるいという表現は液体にはよく使われるが、ぬるい苺という表現に出会ったのは初めてである。かなり斬新ではあるが、それより、苺をぬるいと言わしめるほどの憂いとはどれほどのものなのか、そこが気になる。
風呂敷の水に緋鯉のゐて緑雨 上田信治
「平気」10句より。
風呂敷の水とは、しかも緋鯉までいる。
どう解釈すれば良いのか、混乱が起きる。
何度も読み返し想像しやっと一つの結論が出る。
風呂敷に描かれている水と緋鯉。
しかも絵柄からしてすこし高級な風呂敷であろう。そこに包まれている物は、その時のシチュエーションによって色々だが、ここでは和菓子としておこう。
何かのご挨拶の出かけ、玄関先で風呂敷を開く。
その途端、風呂敷に描かれていた緋鯉が勢いよく飛び跳ね、開け放たれた玄関から緑雨の中を泳ぎ始める。これはもう妄想の世界である。
0 comments:
コメントを投稿