2024-06-16

柘植史子【週俳5月の俳句を読む】度肝を抜かれる

【週俳5月の俳句を読む】
度肝を抜かれる

柘植史子


傘いつか骨となりにし雛の間  加藤右馬

なるほど、と思い読み下していくと「雛の間」が登場。あわててもう一度前に戻り、そうか、雛の調度のことか、と思い直す。

調べると、仕丁(外出時の従者のこと)の持ち物に「台笠」と「立笠」があるという。そういえば3人の従者がそれぞれ何かを持っていた。長い方の台笠が現代で言う日傘、もう一つの立笠が同じく雨傘であるとあった。そしてもう一人の従者は脱いだ履物を置く台を持っているのだ。

そうか、雛道具の傘も時を経て骨だけになってしまったのか……そう思いながらも「傘」と「雛の間」との繋がり具合の微妙さが私の脳内に奇異な情景を描き出す。骨だけとなった雨傘で雛の間がいっぱいになっていく、ちょっとシュールな画がいつまでも頭から離れない。


花樗くちに口笛透けるまで  楠本奇蹄

昔は口笛が割合しっかりした音で吹けたのに、今では鴬の声に応えてホーホケキョと吹こうとしても、空気が漏れて頼りない音しか出せなくなってしまった。口の周りの筋肉が衰えたのだろうか。

「くちに口笛が透ける」という感覚は口笛を響かせたときの実感で、「透ける」の措辞が、口笛が繰り出す音の透明感を脳裏に蘇らせてくれる。

「くち」と「口笛」を畳みかけるレトリックが、口笛は人体のパーツである「口」を楽器として奏でるものであることに思い至らせる。

端正な紫色の樗の花と清澄な響きの口笛。床しい取り合わせである。


髪が減る新樹のまへをとほるたび  鈴木総史

打ち出しの五音にまず度肝を抜かれる。そしてああそうだった、何をどう言ってもいいのだ、詠むのも読むのもその人の自由なのだという、先ず以て当然のことを再認識する。
新樹の圧倒的な瑞々しさに気押されての「髪が減る」であろう。たとえば、囀りの真下を通るとき、私は自分のおでこが広くなる感覚に襲われることがある。眉間も心持ち広がるような感覚だ。新樹にしろ囀りにしろ、それに対するこちらの意識がとても先鋭的に働いているときに生じる反応である。おでこと囀りの句はまだ詠めていないので、先を越された、とちょっと思う。

「新樹の下」ではなく「まへ」であるところに、新樹と向き合う作者の眩しいほどの矜持を感じた。


五月闇釘のまはりに槌の跡  野城知里

これは確かに見たことのある景だ。DIYでトンカチを使うとき、手元が狂って釘を打ち損じることはままある。たまに釘を押さえている指も打たれることだってある。掲句の槌の跡は恐らく一つだけではないだろう。

「跡」とそっけなく言い切ることで、読み手にさまざまなことを想像させる。自分で作った槌の跡を自分で詠んだのかもしれないけれど、この句を支配するどこか他人事のような空気は見逃せない。作者と事象との距離感がこの句を屹立させている。季語の「五月闇」が確かに働いているのだ。

梅雨時の、湿度を含んだ暗がりが句に奥行をもたらしている。


白瓜のしろの平気の平左かな  上田信治

「平気の平左」という言い回しを久しぶりに目にした、というか、そもそもこのフレーズを今までの人生で使ったことがない。正確(?)には、「平気の平左衛門」で、「平気孫左衛門」というのもあるらしい。孫左衛門は初耳である。

「白瓜」の柔和で泰然としたフォルムに周囲を圧する存在感がある。そしてそれに刃を入れた時に現れる白の夢見るような風合。それはこれから奈良漬をはじめ、さまざまな漬物に変身していく、その原初の「しろ」である。

●●○○の●●の・・・という反復は一つのパターンであるが、その類型の枠を白瓜が平気の平左でぶち壊した。一読でもう忘れられない句となった。


加藤右馬 アラベスク 10句 ≫読む  第889号

楠本奇蹄 白髪 10句 ≫読む  第890号

鈴木総史 汀と呼ぶ 10句 ≫読む   第891号
野城知里 槌の跡 10句 ≫読む

上田信治 平気 10句 ≫読む  第892号

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