2024-09-08

田中目八【週俳7月8月の俳句を読む】俳句に鑑賞文は必要か

【週俳7月8月の俳句を読む】
俳句に鑑賞文は必要か

田中目八


俳句の鑑賞文とはなんだろう。
大辞泉によると鑑賞とは
「芸術作品などを見たり聞いたり読んだりして、それが表現しようとするところをつかみとり、そのよさを味わうこと。」
とある。
よさを味わうということであるから基本的にはポジティブな行為と捉えてよいだろうか。
しかしそのよさを味わうには「表現しようとするところをつかみ」とることが前提、必要ということになる。
私などにはなかなかハードルが高い。
また「表現しようとするところ」であるが、そもそも俳句は表現するものなのだろうか。
いや、表現するものなのだろう。
しかしそれだけではあるまい、とも思う。
作者の意図、想像を超えて立ち現れる、表現される、ものがあるはずで、それを詩と呼ぶのではないだろうか。
などと大袈裟に書いたのはつまり、「表現しようとするところ」なんて私にはわからないよ、という言い訳のためである。

俳句という文芸の形式は他の形式よりも読者の担う比重が大きいと思われる。
作者と作品と読者の三角関係のようなものだ(言ってみたかった)
故に「作者の表現しようとするところ」があるとしても鑑賞における重量として三分の一程度であると言えないだろうか。
また実景を書く、今ここを詠む客観写生に於いて「表現しようとするところ」はあるのだろうか。
または必要なのだろうか。
長くなるので割愛させてもらうが、究極的には必要としないのが理想であるように思える。
とはいえ、そこは言葉に変換する以上やはり表現してしまうことになる、なのではないだろうか。
読む側としては実景かどうかは関係ないし、そもそも書かれたものが実景なのか実景ふうなのかは私にはわからないのだが、ひとまず「花鳥諷詠」「客観写生」のいわゆる伝統俳句的な(大雑把で申し訳ない)句に対して、要は鑑賞「文」は必要なのだろうかという身も蓋もない疑問を持ったのである。
現実(と作者が認識する)の事物事象を言葉に変換したものをさらに言葉を使って……というのは例えとして少しズレてはいるだろうが、どこか翻訳から原文を推測するようなまどろっこしい感じがしなくもない。
また鑑賞ではなく書かれたことをそのまま少し長くしただけの説明文に終わってしまうことが、私の場合は多々あるのである。
しかし思うに、実景であろうとなかろうと、言葉で組み立てられたものでも想像を掬い取ったものでも、その書かれた立ち姿そのものや韻律の音楽を味わうだけでほんとは十分なのだと思う。
と、またもや身も蓋もないことを書いてしまったところで。
以前にも書いたと思うが、句のよしあしと鑑賞文の書きやすさ、文字数は関係ないというのは言うまでもないので各作者におかれましては悪しからず。
この前書のようにいつも無駄にだらだらするので今回はなるべくシンプルを心がけました。
よろしくお願いします。


◆喪字男 ごはんやで

ごはんやでカラーバットと捕虫網  喪字男

母親か誰かが(誰かが)ごはんできたよと呼んでいる。
カラーバットはプラスチック製のバットだろう、それと捕虫網のセット。
捕まえた虫をバットで……の可能性を否定できるだろうか?

おぼこさに脅かされしあげはかな  同

捕まえたのだろう。
幼いが故の力加減のない、ちょっと雑な扱いにアゲハチョウが怯えているようにも見えたのだ。
このおぼこさは感覚としては幼稚園、保育園児からせいぜい小2くらいまでの感じがする。

このやうにハンカチだけで倒せます  同

どのようにやねん!……何か達人のようにも思えるけれど、何も倒すのが人間やモンスターとは限らず、プラモデルくらいならハンカチで文字通り倒せるだろう。
もちろんアゲハチョウを包んで握り以下自粛。

もうすでに次の花火を待つてをり  同

おおきな花火大会とかではなく家族、友人たちとの手花火の様子だろうか。
大人が火を着けて子どもたちに渡してあげているのだが花火は呆気なく直ぐに終わってしまう。
大人であればそこに儚さを見たりもするのだろうが子どもの興味は火が出ること。

どこまでも子供転がる熱帯夜  同

大人であれば身体も大きいし寝苦しくて寝返りを打ってもまた反対へ向いたりするなどやはりそこに理性というか、分別というか、そういうものが働く。
しかし子どもの場合身体が小さいから大人より回転数が稼げるし、布団の上に戻らねばならないなどということはない、どこまでもどこまでも転がってゆくがよい。

夏蝶の暗さに妻を見失ふ  同

夏蝶の暗さとはなんなのか。
わからないが何故かわかる感覚がある。
暗さと書きつつ夏の眩さに漂白されてゆくような感触もする。
さっきまで子どものアレコレを見せられてたのに突然大人を見せられてびっくりした。

雲の峰あの時揉んでみるまでは  同

どの時なのか、何を揉んだのか。
わからないがその結果、雲の峰がむくむくと沸き起こった、ように感じる。
雲の峰を揉んだようにも読めるが、その場合揉んでみるまでは雲の峰だったということになるか。

腹巻がピンクで顔がハンニバル  同

ハンニバルと般若は似ている(音が)
カルタゴの名将ハンニバルなのかレクター博士なのか。
レクター博士としても演じた俳優は四人いて、ピンクの腹巻がお似合いなのはどなたかしら。

なけなしを子にせびらるる梅雨入りかな  同

なけなしといえば大抵はお金にかかる枕詞のようなもの(違う?)で、本来「なけなしの」何か、と使われる。
この句では恐らく「なけなしの何か」ではなく「なけなしという何か」なのだろう。
それを子どもにしつこくねだられるは梅雨入りするはで肌がベタつく感じがする。

生前は金魚が世話になりました  同

普通に書かれたとおりに読めば金魚の生前のことである。
しかし金魚の飼い主なら世話をしていたのは自分か家族だろう。
では誰が誰に言っているのか。
こういうふうに書かれると、この生前は金魚のことではなく語り手のことのようにも思えてこないだろうか。


◆山中広海 本に紙魚

直線で雨は描かれ鉄線花  山中広海

浮世絵の雨をイメージしたが、漫画でもなんでも雨はたいてい直線で描かれる。
鉄線花の花ではなくその名前の由来である鉄線のような茎と直線で描かれる雨という共通性、天から降る雨と地上から伸びる鉄線花という対象性がある。
また天を仰ぐ花は雨を受ける形とも言える。

蜜豆や画像データの解像度  同

詳しくないが、画像データの解像度とは画像の密度を表す数字とのこと。
ドットとかピクセルとかは知っている。
ドットは豆、ピクセルは寒天、というイメージなのかもしれない。
蜜豆の豆や果物は色濃く、映りよさげだが、白蜜に沈む寒天はぼんやりとして映りが悪そうだ。

文字起こしアプリの速度雲の峰  同

文字起こしアプリを使ったことがないので調べたところ、とあるアプリは一時間程度の音声データなら五分前後で、とあった。
コレが一般的に速いのか遅いのかはわからないが、普段使ってる人の体感として、気づけば雲がもくもくと湧き上がって峰をなしている感じと近いのだろう。

濃紫陽花声をあげない選択肢  同

ここには声をあげることが前提、当然のような雰囲気があるのだろう。
声をあげることもあげないことも自由に選ぶことができるはずだが、いわゆる同調圧力が働いている、或いは感じている。
声をあげないでいる間も紫陽花の色は変わってゆき、気づけばこれ以上なく色濃くなっている。
紫陽花の声なき声が声をあげろと迫っているようにも感じてくる。

頭蓋骨のなかの空洞南風吹く  同

胎児の頭蓋骨だろうか。
いや、別にそうでなくてもよい。
とにかく頭蓋骨のなかに空洞があるのだろう。
南風は湿っていて暑苦しいが、空洞というものは基本涼しいものだから風穴のようになっているのかもしれない。

棘さらに指のなかへと半夏生  同

棘が刺さり、爪を使ってなんとかそれを取ろうとするが結局指の中に押し込むことになる。
よくあることではある。
ここでの半夏生は七十二候のそれだと読んだが、季節の変わり目と指先という感覚の鋭敏な部位とが響きあっている感じがする。

眠り足りぬ日々に睡蓮水を吸ふ  同

人間には眠りが足りないが、睡蓮は健やかに水を吸っている。
まるで睡蓮が吸っているのは本当は人間の眠りなのではないかと思えてくる。

さうめんは湯にほどかれて母の声  同

一度茹でておいたものが冷えて絡まり、ひっついていたものをお湯で解すということだろうか。
子供の頃、茹でたそうめんを御椀に入れてラップしたものがよく冷蔵庫に入っていた。
お味噌汁やお澄ましの残りを温めてにゅうめんにして食べなさいということだ。
母の声が聴こえたような気がする。
強張っていたものが解かれる。

経血は揺れて金魚となりにけり  同

経血が水面に落ち、揺らいだと思えば金魚になってしまった。
一匹なのだろうか、何匹もいるのだろうか。
その金魚は流されたのだろうか、掬われたのだろうか。
世界中の金魚が流され、行き着く先は、あるのだろうか。

海を見に行けずきらきら本に紙魚  同

海を見に行けなかったのは何故だろう。
ほんとは行かなかったのかもしれない。確かに海には行きたかった、行きたかったけれども、行けなかったのではないだろうか。
波間を反射する光のようにきらきらするものがあるなと見れば紙魚。
活字の海を紙魚が泳ぐ。

◆有瀬こうこ 古語

折鶴のかほ下を向く薄氷  有瀬こうこ

折り方にもよるだろうけれど、確かに折り鶴の顔は俯きがちだ。
折り鶴と薄氷は関係ないが、その目線の先に薄氷があるように思えてくる。
また、折り鶴というもの、折り紙、薄氷が確かに響きあっている。

水草生ふ前方後円墳に雨意  同

前方後円墳の周濠に水草が生えはじめたのだろう。
まるで呼応するかのように雨の気配が立ち込める。
古代の雨乞いが重なる。

亀鳴くや湖をただよふ旧字体  同

亀は鳴かないし湖に旧字体は漂わない。
しかし亀が鳴くとき、湖に旧字体が漂うのだろう。
何かの前触れだろうか。
或いは湖に旧字体が漂っているのを見て亀が鳴いたのだと知ったのかもしれない。
新字体は空に浮かんでいるのか、地上を闊歩しているのだろうか。

母系とは白木蓮に触れること  同

触れることであり、触れることができるということでもあるのではないだろうか。
この「触れる」とは白木蓮そのものに肉体が触れるということでもあり、目に触れることであり、話に触れるということでもあろうか。
父系とは触れないことであり、触れることができないことでもあるのだ。
母系という名の一本の巨大な巨大な白木蓮の樹を想像する。

藤棚の房の長さを入内かな  同

藤棚であるから人の手が入っている。
房の長さを言っていることから、おそらく1メートル以上の立派なものだろうと想像する。
その長さの中を入内するのは作中人物であろうか。
それとも目撃したのだろうか。
入内するのは人ならざるものか。
藤棚は内裏なのである。

夜の更けて小箱を閉ぢる瑠璃蜥蜴  同

朝が来ると小箱を開けるのだろう。
夜が更けると一日を終えるようにまた小箱を閉じる。
瑠璃蜥蜴が宝石を連想させる。
閉じなければ、開けなければ、何かが起きてしまうのだろうか。

ほうたるや浅い眠りを真珠の香  同

蛍がいるのかどうかはわからない。
うとうとしていると真珠の香りに包まれている。
いや、真珠に香りなどしない。
夢を見ているのだろう。
真珠の香りと思ったのは蛍の光だったのかもしれない。

青嵐の絹を孕んでゐる棺  同

青嵐の絹なのか青嵐の棺なのか。
青嵐のなかの棺のなかの絹という入れ子になっていて、棺のなかにもやはり青嵐が吹いて絹をはためかせているのかもしれない。
棺というのは字義的には蓋を閉めているものなので確かめようがないが、確かに絹を孕んでいる、その予感のようなものが青嵐にある気がするのだ。

遺作ひらかれて少女の涼しい眼  同

誰の遺作なのかはわからない。
少女なのかもしれない。
遺作がどのようなものなのかもわからないが、ひらかれるのだから書物のような気がする。
遺作に少女の涼しい眼があるのならそうではないかもしれない。
ひらかれたそれを見る少女の眼が涼しいのだろうか。
だとすればそれを見ている人物もまた涼しくなるのだろうか。

勾玉に古語の湿りや野分立つ  同

出土したばかりの勾玉だろう。
長い間土に埋れていた湿度が残っている。
古代の言葉を思う。
古語の湿りとはつまり古人の息吹でもあろう。
その湿りと息吹が野分を呼ぶかのようである。
野分には台風にはない何処かぞわりとした遠さがあるように感じる。

◆八月後半 若杉朋哉

秋の庭何かことりと音のして  若杉朋哉

秋の庭は季語としては庭園のことだがこの句は家の庭の感じがする。
いや、やはり庭園で木の実なんかが木のベンチなんかに落ちた音かもしれない。
ことり、という擬音が小鳥来るも連想するだろうか。

飛ばし合ふ西瓜の種の宙にあり  同

漫画の一コマのようである。
飛ばし合うと言ってもまさか互いに向けてではないだろう。
並んで飛ばしっこをしているのだ。
屋内は当然、マンションのベランダでも無理だからやはり庭と縁側があるお家だろう。

親戚にまじりて一人盆休み  同

一人親の生家へ帰省したのだろうか。
そういう場合、親戚というのはまったくの他人である。
むろん、家族も他人ではあるが。
まじりて一人、だから親戚たちは盆休みではないのかもしれない。
祖父の弟の息子みたいな人に説教されないことを祈る。

墓参りざぶざぶ水をかけにけり  同

墓石は基本水洗いである。
しかしざぶざぶと、そんなにかけなくてもとも思うが余程汚れていたのだろうか。
それとも親戚に押しつけられて適当に済ませたか。
マァご先祖様なんてそれこそ知らない他人ではある。

木戸開いてをりしところに秋日かな  同

秋日が木戸の影を、木戸の影が秋日を際立たせる。
秋は影豊かな季節。
秋日がちょっとお邪魔しますよと言っているようでもある。

さまざまに当たる音して秋の雨  同

当たる音、とあると雨粒が大きい感じがする。
夕立なんかが降りはじめるときにばらばらっと音がしたと思ったらざーっと降るあの感じと同様のものだろう。
いわゆる秋雨ではなく驟雨と思われる。
さまざまに当たる音が聴こえることに焦点があることから恐らくこの人物は濡れない場所に、屋内にいると思われる。

石多き秋の浜なり石を蹴る  同

季節に寄って石の多さは変わらないはずだが、夏の浜を照らす強い光が弱まることで石の存在が浮かび上がるのだろう。
そして石を蹴るのはやはり秋なのだ。

しづかにも家を揺らして野分かな  同

古い木造家屋だろうか。
台風のように雨で打つこともなく、乱暴に揺らし続けることもなく、ちょいと失礼しますよ、とばかりにさっと通り過ぎるのが野分の風情なのだろう。

破れたるままに朝顔ひらひらと  同

風で破れたのだろうか。
肥料をやり過ぎると破れて咲くこともあるらしい。
朝顔の花破れけり初嵐 子規
を踏まえての句だろうか。
破れたるままに、は単なる事実の描写なのだろうが、どこか破れたままを肯定し感心しているような視線を感じないだろうか。

寝息へと変はつてゐたる夜長かな  同

正しい夜長の過ごし方、閉じ方。
夜ふかしして、隣り合って話しをしていたのかもしれないし、電話やスマホで通話していたのかもしれない。
言葉が、声が寝息に変わって、それをまだ聴いているのだろう。
やがてうとうとしてくる。
その幸せに眠れる、ことの幸せ。


喪字男 ごはんやで 10句 ≫読む 第898号 2024年7月7日
山中広海 本に紙魚 10句 ≫読む 第900号 2024年7月21日
有瀬こうこ 古語 10句 ≫読む 第903号 2024年8月11日
若杉朋哉 八月後半 10句 ≫読む 第904号 2024年8月18日

0 comments: