【週俳7月8月の俳句を読む】
サングラスと珈琲Ⅴ
瀬戸正洋
「猫町」を読んでいた。急に入院となった。夢遊病者になった「夢」を見た。病院内を徘徊した。どこを歩いているのかわからず不安であった。看護師にやさしく病室まで連れもどされた。そんな「夢」だった。現実に夢遊病者となり廊下をさまよっていたのかも知れないと思った。看護師に確認することはできなかった。聞いても教えてくれないと思った。
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ごはんやでカラーバットと捕虫網 喪字男
ごはんやでとはいいことばである。誰もが待っていることばである。このことばを掛けられ不幸になるひとはいない。カラーバットも捕虫網も放り投げて一目散に家に帰るのである。そのへんに放り投げてもいいと思えるものは大事にしなければならない。
おぼこさに脅かされしあげはかな 喪字男
脅かすのに「おぼこさ」ほど急所を突いたことばはない。あげはならばなおさらである。「おぼこさ」とは、幼く可愛らしいということである。そんな「おぼこさ」に脅されるのである。十倍も百倍もおそろしいに決まっている。
このやうにハンカチだけで倒せます 喪字男
悪意のある悪と善意のある悪とは異なる。善意のある悪の方が数段に応える。善意とはあやういものである。善意のある悪とはハンカチのことなのかも知れない。
もうすでに次の花火を待つてをり 喪字男
せっかちだと思う。「今」が大事なのである。よいときもわるいときもじっくりとそれを味わいたい。先のことほどあてにならないものはない。
どこまでも子供転がる熱帯夜 喪字男
蒲団のうえを転がっている。畳のうえを転がっている。草原を転がっている。地球を転がっている。宇宙を転がっている。熱帯夜を転がっている。転がっているから子供なのである。
夏蝶の暗さに妻を見失ふ 喪字男
夏蝶が何もかも悪いのである。暗いことは知っていたはずである。夏蝶のことなど忘れることだ。今からでも妻をさがしに行くべきだと思う。
雲の峰あの時揉んでみるまでは 喪字男
雲の峰を揉んでみようと思ったのである。
揉むとは、つまんだりあわせたりすること、ちからを加えること、両手にはさんで交互に回転すること、動作をくわえること、とあった。揉んだあとどうなったのかはわからない。
腹巻がピンクで顔がハンニバル 喪字男
馬鹿々々しさとは生きるための知恵である。馬鹿々々しさとは余裕のことである。馬鹿々々しさとは遊びのことである。遊んでいないひとはつまらない。
なけなしを子にせびらるる梅雨入りかな 喪字男
なけなしだからせびるのである。子は親を見ている。生まれたときから見ている。子は親を知り尽くしている。隠しごとなどできるはずがない。雨の日がつづく。見られていることにうんざりしている。
生前は金魚が世話になりました 喪字男
死後は「わたし」が世話になるのである。申し訳ない気持ちでいっぱいである。金魚は「わたし」よりも数段にすぐれている。「わたし」のことを世話してくれるのか確信はない。
直線で雨は描かれ鉄線花 山中広海
生きることは曲線である。雨も曲線である。鉄線花も曲線である。直線で生きることは願望である。直線の雨は願望である。直線の鉄線花は願望である。
蜜豆や画像データの解像度 山中広海
画像を構成する点の密度を示す数値のことを解像度という。解像度とは蜜豆のことなのである。蜜豆はひとりで食べるものなのである。解像度について考えながら食べるものなのである。
文字起こしアプリの速度雲の峰 山中広海
スマホを内ポケットにしのばせておくだけでいいのである。文字を起こすアプリまである。そびえ立つ山並みのような雲である。それは日常である。何もかもが日常である。日常であるからスマホを内ポケットにしのばせておくのである。
濃紫陽花声をあげない選択肢 山中広海
意志を隠すことは大事なことである。主張をしないことは大事なことである。主張したからといってどうなるものではない。主張してもしなくても何も変わらない。それなら主張はしない方がいい。花の色の濃い紫陽花のことを濃紫陽花という。濃紫陽花は自分を主張している。それで十分である。声をあげる必要などどこにもない。
頭蓋骨のなかの空洞南風吹く 山中広海
空洞があるのには理由がある。その理由を知りたいと思う。南風に聞けばいいのである。
棘さらに指のなかへと半夏生 山中広海
困ったことである。痛みはない。化膿もしていない。ほっておけばいいなどと思ったりもする。半夏生とは季節の変わり目をあらわすことばである。
眠り足りぬ日々に睡蓮水を吸ふ 山中広海
眠り足りないから睡蓮なのである。眠り足りないから水を吸うのである。生きているということなのである。だから困ったことなのである。
さうめんは湯にほどかれて母の声 山中広海
ゆでるとは湯にほどかれることなのである。確かにほどかれているように見える。遠くで母の声がする。ずいぶんと母にはほどかされてきた。そろそろほどかなくてはならない年齢になったような気がする。
経血は揺れて金魚となりにけり 山中広海
「経血は揺れて」と「金魚」までには、遠く、複雑で、繊細な行程がある。故に経血とは金魚のことなのである。
海を見に行けずきらきら本に紙魚 山中広海
紙魚はいつもせかせかしている。かくれるものがないと潰される。そう思っているからなのかも知れない。海は見に行くものである。それが行けないのである。だからきらきらしているのである。
折鶴のかほ下を向く薄氷 有瀬こうこ
折鶴でさえ下を向きたくなる世のなかである。前を向いていてもしかたがない。氷が薄いことは誰もが知っている。いつもの暮しが壊れやすいことも知っている。
水草生ふ前方後円墳に雨意 有瀬こうこ
まえが方形うしろが円形である。雨の降りそうな気配である。周濠からは春の訪れを感じる。
亀鳴くや湖をただよふ旧字体 有瀬こうこ
旧字体はさまよっている。さまようとはあてがないということである。旧字体は困っている。世のなかは困っている。鳴きたくもない亀が鳴くのである。湖は壊れはじめている。
母系とは白木蓮に触れること 有瀬こうこ
母系とは母方の血筋をたどった系統。家系が母方の系統で相続されることをいう。自分のちからの及ばないことに悩んでもしかたがない。触れるとは軽くついたりつけたりすることである。白木蓮も悩んでいるのかも知れない。
藤棚の房の長さを入内かな 有瀬こうこ
皇后・中宮・女御になるひとが儀礼を整えて正式に内裏にはいることを入内という。下々のものには何の興味もないことである。藤棚の房の長短については興味がない訳でもない。
興味のないことが少しでもあれば考えないことにしている。疲れないように生きていきたいと思っている。
夜の更けて小箱を閉ぢる瑠璃蜥蜴 有瀬こうこ
蜥蜴は苦手である。瑠璃も苦手である。夜の更けることも苦手である。小箱を閉じることも苦手である。
ほうたるや浅い眠りを真珠の香 有瀬こうこ
真珠とは、純粋・健康・長寿・富とあった。宝石言葉である。「富」が余計のような気もする。それは偏見なのかも知れない。真珠に触れたことはない。「香」があるのかどうか確認したことはない。
窓を開けたまま寝ていたらほたるが入ってきた。うちわで外へ逃がしてやった。そのままにしておいたらほたるは死んでしまう。
青嵐の絹を孕んでゐる棺 有瀬こうこ
絹とは蚕の吐き出す繭からつくる天然の繊維である。「棺」とは遺体の入っていない状態のもの「柩」とは遺体の入っている状態のものとあった。青嵐とは若葉のころの若々しく力づよい風である。
遺作ひらかれて少女の涼しい眼 有瀬こうこ
未発表のまま死後に残された作品のことを遺作という。遺作がはじめておおやけになった。少女の涼しい眼としたことが気になる。
勾玉に古語の湿りや野分立つ 有瀬こうこ
勾玉とは先史・古代の装身具である。祭祀にも用いられたといわれている。古語とは、むかし使われていたが今は使われなくなった語彙のことである。湿りとは時間のことなのかも知れない。あらしのような風が吹きはじめることを野分立つという。
秋の庭何かことりと音のして 若杉朋哉
紅葉・花・虫・木の実とにぎやかな庭である。そこでことりという音がした。ことりとした音により秋の庭の何もかもを消し去ってしまったのである。
飛ばし合ふ西瓜の種の宙にあり 若杉朋哉
子どもたちが西瓜をたべている。西瓜の種を飛ばす。西瓜の種が宙にある。それは記憶のことである。子どもたちの笑い声も聞える。
親戚にまじりて一人盆休み 若杉朋哉
盆に親戚中が集まる。父と母は所用があって不参加。はからずも父と母のかわりになってしまった。親戚もそのように扱ってくれる。誇らしさと不安な気持ちが交差している。
墓参りざぶざぶ水をかけにけり 若杉朋哉
「墓はうえから水をかけるものではない」といわれた。「頭から水をかけられたら不快になるだろう」ともいわれた。ざぶざぶと水をかけるとは愉快なことである。悪くないことだと思う。心情を知りたいと思った。
木戸開いてをりしところに秋日かな 若杉朋哉
秋日からは、暑・爽・衰のどれかを感じなくてはならない。木戸とは木で作った開き戸のことである。
さまざまに当たる音して秋の雨 若杉朋哉
さまざまとは、性質の違うあれこれの種類にひろくわたっていることとあった。音の専門家ならその詳細を聴きわけることができるのだと思う。わたしたち素人は視覚も邪魔をしてありふれた秋の雨音にしか聞こえない。
石多き秋の浜なり石を蹴る 若杉朋哉
閑散としている秋の浜である。石の多いことに気付く。石を蹴ってみた。裸足で石を蹴ってみた。
しづかにも家を揺らして野分かな 若杉朋哉
雨が降るでもなく木々を揺らすのでもない。家だけを揺らすのである。野分の通り道は確かにある。どの集落にもその通り道は確かにある。
破れたるままに朝顔ひらひらと 若杉朋哉
朝顔の花が破れている。花びらはうすくかるくひるがえる。朝顔の花であることには変わりがない。破れていることは個性である。たから、ひらひらと動くことができたのである。
寝息へと変はつてゐたる夜長かな 若杉朋哉
ぽつりぽつりとしていた会話がいつのまにか寝息に変わっていった。夜の長さが身にしみる。
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病室で幾夜か過ごすうちに夢遊病者であったのか否かなどということはどうでもいいことのように思えてきた。時がたてばうすれていくものである。
「猫町」の、三半規管の喪失(知覚の疾病)、景色の裏側(第四次元の別の宇宙)のところに線を引いた。病室のベッドで読む「猫町」はおもしろい。何度読みかえしても飽きない。
(北越地方のKという温泉町へ行きたいなどと思ったりしている。軽便鉄道に乗ってみるのも一興かとも思う。)
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