【週俳7月8月の俳句を読む】
そうそう
大石雄鬼
◆喪字男「ごはんやで」
もうすでに次の花火を待つてをり 喪字男
俳句には、共通体験からそうそうと思う句がある。その場合、そうそうと思ったことを過去に意識していなかった、あるいは言語化されていなかったことが大事。この句はそんな感じ。打揚花火がひらき、散るか散らないかの時に、心のどこかでもう次を待っている感覚は確かにある。煙草を吸いながら、次の煙草に火をつけてしまうように。
どこまでも子供転がる熱帯夜 同
どこまでも転がってゆく子供。どこまでと言ったって部屋の中であろうが、部屋の中をあちこちと転がってゆく。部屋を出て、魂がどんどん転がっていくようでもある。ただし、熱帯夜としたことで、暑苦しくて転がる様子がわかりすぎ、共通体験どまりになってしまった。
夏蝶の暗さに妻を見失ふ 同
夏蝶と暗さと妻の関係の曖昧さが気持ちよい。共通体験ではない、異次元体験の面白さ。夏蝶のの「の」を所有格とすれば、夏蝶に覆われた暗さ、夏蝶の影に入り込んでしまった妻を見失ったということになるが、「の」が主格とも読め、夏蝶が暗さの中で妻を見失ったようにも、同時に感じられる。
◆山中広海「本に紙魚」
直線で雨は描かれ鉄線花 山中広海
雨は、線ではなく粒として降っているのだろうし、風などの影響で必ずしも直線の軌跡で降るわけでもないだろう。しかし絵で見る雨は、たしかに直線で描かれているようである。そうそうという俳句。それゆえ類想感は免れないが、鉄線花がよい。鉄線花は直線を内蔵しているような花(というのが私の印象である)。目に見える形にした俳句。
棘さらに指のなかへと半夏生 同
そうそうそんな感じ。最近ではあまりないが、子どものころはしょっちゅう棘が刺さっていた。棘抜きで抜こうとするがますます中に入っていく。共通体験としてはそんな感じなのだが、省略により棘が自ら意思をもって指のなかに入っていくようでもある。意味は違うが、そこから夏が半分生まれるように、「半夏生」の字面から感じられる。
海を見に行けずきらきら本に紙魚 同
海を見に行けないことと、本に紙魚が走ることの組み合わせが新鮮で楽しい。この二つのことはそれぞれ体験しているが、この組み合わせの体験は私にはない。海を見に行けないことの心情がほんのり紙魚に託されているようだ。この二つを結びつけているのが、海の波と紙魚の「きらきら」とすれば、そこに表面的な繋がりと感じてしまう。
◆若杉朋哉「八月後半」
木戸開いてをりしところに秋日かな 若杉朋哉
静かな俳句。俳句の世界においてそうそうという句。木戸は日本の昔ながらの生活そのものの象徴。その木戸が開いていて秋日がさしこんでいる。秋日がそこに住む人々を慰めているようにも感じる。
さまざまに当たる音して秋の雨 同
秋の雨は一つであるが、雨が当たる方はさまざまなものがある。一瞬、さまざまな秋の雨があり、さまざまな音があるように感じられるが、実際はその逆である。秋の雨の音に絞り込んだ句であり、そこから雨に打たれるさまざまな生活空間がひろがっていく。
破れたるままに朝顔ひらひらと 同
朝顔が破れたままでひらひらしている。薄い花びらが咲ききって、風の力によって破れている。それはマイナスのイメージではあるが、そのままひらひらと優雅ともいえる姿を見せている。破れることの美しさ。そうそう。
◆有瀬こうこ「古語」
折鶴のかほ下を向く薄氷 有瀬こうこ
折鶴の嘴を中心にした顔は、折過ぎなかったとしても、その顔はたしかに下を向いている。下を向いている先には薄氷。溶けて壊れてしまいそうな薄氷に折鶴の顔が映っている。折鶴の気持ち、折鶴を折った人の気持ちが伝わってくるようだ。今まで気づかなかった共通体験。
夜の更けて小箱を閉じる瑠璃蜥蜴 同
灼けるような昼の世界を通り抜け、瑠璃蜥蜴の一日が終わる。夜が更けて瑠璃蜥蜴は小箱を閉じるようにして眠りだす。いや、その小箱は瑠璃蜥蜴そのものである。瑠璃色の小箱。幻想的で楽しい句。異次元体験。
ほうたるや浅い眠りを真珠の香 同
螢を見た夜、その浅い眠りに真珠の香が漂ってきた。いや、螢自身が浅い眠りのなかで真珠の香を感じたのかもしれない。いや、浅い眠りのなかを螢が真珠の香をまきながら舞っているのかもしれないし、螢そのものが真珠かもしれない。句全体の受け止め方は人それぞれ。でも表現している芯の部分は同じである。
勾玉に古語の湿りや野分立つ 同
勾玉はたしかに湿っている。野分の中の勾玉は、勾玉に映る景色も勾玉の中心も湿っているようである。この湿りが古語であるとは・・・。古語の意味合いを野分との関係において勾玉の中で探らなければならない。それに辿り着いたとき、そうそうという句になる。
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