〈特別作品50句・相互鑑賞の試み〉
コートの出番間近のころに綴る覚書、的なもの、或いは
藤田哲史
角川俳句賞の応募作を読む愉しみは、連作を読む愉しみだ。
一句一句にある作家性が、連作にまとめられたとき、いっそう濃く立ち上がってくる。
○
「花布」 千倉由穂
寂しさの限り首振る扇風機
蜻蛉は還らなかった遺失物
銀の匙一つ一つの秋の色
雪催まばたく毎に過去となる
自らの声啄んで寒雀
惹かれる五句を抜いてみると、「ライブハウス」、「ヘッドホン」、「コンビニ」といった外来語の現れない句が並んだ。
三句目。「銀の匙一つ一つ」からは、なんとなくレストランの食事が想像できる。大きなテーブルに重たげな銀のカトラリーが設えてある情景だ。
金属は、実際に金属そのもののいろを持たない。金属光沢とは、つまり周りの光を反射する現象だ。テーブルを囲む人の肌、装い、テーブルに置かれた花…そういった諸々のいろをスプーンは反射させる。
食事場面の賑やかさのなかにあって、秋の冷厳な印象を掬い上げた点にこの句の面目がある。個人的には秋の夜が似つかわしいと思ったが、果たしてどうだろうか。
○
「卯月」 田中惣一郎
新緑の桂に伍する欅かな
柱廊のうつぎ溜りとなりにけり
光沢の裂けてざくろの花出だす
台湾栗鼠幹を枝への朴の花
たまゆらに莕菜乗せたる真鯉かな
技巧と描写の新しい均衡点を探ろうとしている作り手。
中でも四句目。栗鼠の機敏な動きを動詞で表そうとすると平凡だし、わざとらしくなる。ならば。と、栗鼠の姿かたちを途切れ途切れに捉えている、その認識をそのまま言語化する技巧を見せた。
幹の上を行く栗鼠、枝の上を行く栗鼠。あっという間に枝先の茂みのどこかに潜りこんでしまい、もうその姿はみえない。朴の花のあたりまでは姿を捉えることができていたはずなのに。
下五で安易に抽象的な季語へ流れていきそうなところで朴の花という具体を見せるところにも、絶妙な味わいがある。
○
「踏切」 高梨章
花は葉にハムからハムをひきはがす
てふてふを離れず川はながれけり
虫籠を持たされ籠の外にゐる
鶴わたる海底ケーブル敷設船
薄氷やそこでみんなは待つてゐる
なんといっても一句目。しらべに重きを置く作り手のスタンスが特によくわかる句で、Ha音がなんと五回現れる。(はなははにはむからはむをひきはがす)
回数よりも巧みなのは、下五の1音目がHa音でないところ。たとえば「ひきはがす」を「はがしけり」とすると、上五中七下五の1音目がどれもHa音となって、きっちり頭韻を踏むことができるのだけれども、あえて外すことによって抜け感が生まれ、いっそう魅力的なしらべになっている。
○
「生木」 クズウジュンイチ
アフリカの面に西日の留守の家
仙人掌の花は唐突犬は雄
鯊舟が帰る運河の行止り
鉈切りの生木がにほふ霙かな
ソーセージ榾の強火に裂けさうな
現在、もっとも文体を試行している作り手のひとり。
とはいえ、惹かれたのは表題句を始め、実のあるものが多かった。
アフリカ彫刻を嬲る西日、小さなエンジンをつけた鯊釣ボートの後ろ姿、雑木を使い込まれた鉈、火に炙られ燻されるソーセージの皮、一つ一つのモチーフが単なる好奇をこえて、生々しい把握に至っている…そんな点に惹かれた。
○
「表現は、つねに新しさを、直前のなにかと違うなにかを必要とするので、変わることは必然」と先週号の後記にあるとおり、新しさは必然だ。
そして、そこにあえて言葉を継ぐならば。単に奇を衒うのではなく、何かを表現するための新しさなら、それらはやがて本格と呼ばれるにちがいないのだ。
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