特別作品50句・相互鑑賞の試み
それぞれのアプローチ
クズウジュンイチ
いろいろなアプローチが、ある。
おそらく各自それぞれが切実な何かを抱えているはずなのだが、たまたまなのか全員似ていない。
○
藤田哲史の五十句は他四作とくらべて生活感が希薄である。というより生活を俳句の中で営んでいるような感覚がある。
表現だけが優先される俳句世界に生きていて、内側からこれを押し広げていこうとする運動に見えるのだ。
特徴的な「です」終止や「こと」で纏めていく手法もそのアプローチの一部なのだろう。
衆目にマネキン裸形駅残暑
試験官側の静かな眺めです
マネキン人形の側の羞恥、試験官の側の平穏、ともに別の世界から見つめている光景であって、独特な読後感が強く印象に残る。
○
高梨章については、昨年の角川俳句賞の最終選考での評価が記憶に新しい。
青春性を前面に押し出した句風ゆえ、若いのだからまだ次がある、という見方をされていた。実はどの審査員よりも年長であるというどんでん返しまでセットで特筆されるだろう。
この青春性はむしろ現在の若手の作品には見られないもので、向日的な自我が若さと捉えられる時代はすで終わっている。
高梨が若かりし頃の精神性を持ち続けていることは奇跡的ですらある。そしてそれはノスタルジーを孕みつつ逆に新鮮に感じられるものになっている。
遠雷をポケツトに入れ青(ブルウ)
若い。挑戦的な句形も若い。今回の五十句には異端な技法をことさらに用いているであろうことが汲み取れる。
花は葉にハムからハムをひきはがす
虫籠を持たされ籠の外にゐる
これらの穏当な句には練達ぶりも窺え、詩的世界のキメラのような底知れなさがある。
○
千倉由穂の五十句を読んだとき、書かずにはいられない切実さを強く感じた。
自分自身の立脚点がグラグラしているような、「住んでいる」が「暮らしていない」という感覚の中で見たものを書き留めている。精神的な拠り所は肉体的に存在する場所と別にあって浮遊している。
いぬふぐりいまだ定住者にあらず
があるのでそう思えてしまうかもしれないが、母や祖父母が登場する句の多さからもある種の望郷を感じ取ることができる。
その句群にときおり混ざる
コンビニの冷気素足に抜けてゆく
などのフラットな実感のある句や、
小箱開ければ風鈴舌に包まれて
のような不思議な句にむしろ強く惹かれた。
○
田中惣一郎は毛色の違う連作。
卯月という短い期間に溢れかえる自然の営みを活写することに専念した。
一年の中で新暦五月は最も動植物が生き生きとしている。この状況を俳句に落とし込もうとするはっきりとした意図をもって山野に分け入ったのではないか。
一句中に複数の動植物が登場することも禁忌に近い面があるが、田中はそれを恐れていない。なぜならそれが卯月の現実、押し合いへし合いする生命感であるからだ。
かはげらもゐもりもゐる溝蓋あけて
定家葛の花咲くまとふ桜の木
にあるリアリティは圧巻。
いつかしらつるばらつたふ水は雨
公園は日闌けてからが氷菓子
そして山から下りて街に戻ってきた景色もまた卯月そのものである。
○
角川俳句賞において、独自性が最も重要と考えている。
その意味で全く異なるアプローチで挑んだ各氏の作品に出合えて正直嬉しかった。
■コンソメ 藤田哲史 作品50句 ≫読む
■踏切 高梨章 作品50句 ≫読む
■卯月 田中惣一郎 作品50句 ≫読む
■生木 クズウジュンイチ 作品50句 ≫読む
■花布 千倉由穂 作品50句 ≫読む
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