【週俳10月11月の俳句を読む】
神の國
関灯之介「橋」を読む
叶裕
木仏の手粗々と夜を束ねたる 関灯之介(以下同)
木仏とは文字通り装飾もない素朴な木彫りの仏像だ。 はじめは仏陀の遺骨を収めた舎利塔を崇めたものが、ヘレニズムの影響で仏像彫刻が始まり現在に至るのだと云う。国宝クラスの荘厳なる仏像も勿論だが、円空仏を代表とするプリミティヴな木仏はアニミズムを始原とする神道と仏教の融合するわが国の祈りの対象として今も愛されている。反面この語は感情の冷ややかな情の薄い人間に対して「木仏のような人」などと使われもする。
掲句、普通なら闇夜に強いコントラストで浮かび上がる仏の荒々しく彫られた手がまるで夜を束ねるように見えると読むべきところ、ぼくは不夜城のような繁華街を統べる冷酷なるヴィラン(悪漢)を想起した。本当の悪とは穏やかな、人を魅了してやまないように見える人物なのだ。
千の繭浮かぶ蔟(まぶし)の格子中
「蔟」とは「蚕蔟(さんぞく)」ともいい、蚕が繭を作りやすいように藁や竹、紙で作った仕掛けの事である。たくさんの仕切の中に一つずつ繭が作られる様は生命の持つある種の迫力を感じるものだ。掲句からはマンションなどの巨大集合住宅が想起され、無数の部屋それぞれにある人生に思いを馳せている。
少し偏った見方をすればぼくの地元に暗然と屹立する東京拘置所にも見え、格子一つ一つに囚われとなっている罪人達から感じる物言わぬ圧を覚えるのである。
われらの夢を集めし塔のうすけむり
憧れの人物が火葬され、灰になるまでの待ち時間、ふと見上げた煙突から薄い煙が見え感慨に耽っているさま、つまりこの「塔」とは火葬場の煙突なのではないだろうか。 そして掲句に画家熊谷守一の名画「ヤキバノカエリ」が重なるのだ。
結核で21の若さで亡くなった長女・萬を荼毘に付し、骨壷を収めた小箱を抱え帰る熊谷一家の姿をシンプルな構成で描いたものだが、シンプルだからこそ熊谷の激痛のような絶望が伝わってくる。「われらの夢」が死によって断たれたこの時の作者の嘆きが聞こえてくるようだ。
鹿の皮被りて鹿の姿なす
先日、弘理子監督の映画「鹿の国」を観た。日本のヘソと呼ばれる長野県諏訪に御座す諏訪大社。ここでは年間二百を越える祭事が行われるが、その中でも謎とされる古神「ミシャクジ」を降ろす秘事「御室神事」を再現するドキュメンタリーだ。ここで生き神の少年に捧げられる七十五頭もの鹿の首に思わず息を呑む。古来よりこの地方の四季と豊年を司る神のつかいであり、貴重なタンパク源でもある鹿と人間の関係は現代の価値観では計り知れぬ深さがある。
御室神事では鹿狩を模した舞を神前に供するのだが、掲句はまるでそれを見てきたかのようなリアリティがある。プリミティヴな、しかし生命力を感じさせる儀式はぼくらの深いところを揺らして止まない。
鬼迫り来芒薙ぎ倒し薙ぎ倒し
大陸で死者を意味する「鬼」がわが国へ渡り、初めは自然を司る畏怖の対象として崇められ、時代の趨勢に合わせ人間の内部にある欲望や罪、葛藤を表す「悪」を象徴する存在に変じ現代に至るとされる。(馬場あき子著「鬼の研究」より) 超常の者としての鬼は今も恐怖と畏怖の対象としてぼくらの潜在意識に刻まれている。 掲句の白土三平の忍者漫画のようなダイナミックな描写力は白眉といって良い。句意がどのようなものか知る由もないが、ぼくには四季を連れ、豊穣をもたらす荒神「鬼」の本来の姿が垣間見えるような一句であった。 氏の句にはぼくらの遺伝子に刻まれた祈りのありかを句の形に抽出した手触りがある。モダン、ポストモダンを経て、更なる激動期に入ろうとする今、最も大切なものとは何かを見せてもらった気分となった事を特記したい。
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