ラベル 八田木枯・戦中戦後私史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 八田木枯・戦中戦後私史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2011-09-04

八田木枯 戦中戦後私史 第8回 紀州の山から深川木場までの旅

八田木枯 戦中戦後私史リンク第8回 紀州の山から深川木場までの旅
聞き手・藺草慶子 構成・菅野匡夫


承前:第7回 「ホトトギス少年」からの脱皮

『晩紅』第22号(2004年7月31日)より転載

ダンスホール通い

――二十歳のときの主宰誌「ウキグサ」を拝見しますと、巻頭に自作二十句の発表、雑詠蘭の選者、俳壇時評の執筆、そして座談会「女流作家を語る」の進行役と、大活躍されています。これを毎月お出しになっていたのでは、ずいぶんお忙しくて、これにかかりきりだったことでしょう。

木枯 いえ、いえ。その間隙を縫って映画を見たり、映画がはねると、ダンスホールへ行ったり…。

――ええっ、ダンスホールがあったのですか。

木枯 戦後は、ダンスホールがたくさんできまして、津にも四つくらいありました。あの商売は、広い場所と電蓄(レコードプレーヤー)さえあれば、簡単にできましたから。

――ダンスホールというと、専属のダンサーがいたのですか。

木枯 いや、ダンサーなんていません。連れ立って行ったり、ひとりで出かけたりするんです。女の人たちも来ますから…。

――月に何回くらい通っていらしたのですか。

木枯 月何回というより、毎晩とか。

――ずいぶん熱中していらしたのですね。ダンスホールといえば、当時としては、進んだ若者たちの社交場ですよね。そういえば、いま気づいたのですが、「ウキグサ」にも恋を詠んだような句が目につきますね。〈靴が痛き秋日の中の別れかな〉とか、〈くちづけの宵の青きは秋鯖か〉など…。これはその頃の実体験ですか。

木枯 いや、いや。僕は本当のことを句にしませんからね。虚実で言えば、僕の句は虚です…(笑)。


五日かかって東京へ

木枯 ダンスホールで思い出したんですが、商売の材木買い付けのため、紀州へ出かけた話はしましたか。

――いえ、伺っていません。

木枯 じつは戦争が終わってからは、家業の材木商もやっていまして…。

――貸本屋をしながらですか。

木枯 貸本屋なんて儲かるものじゃありませんから、それだけじゃ、とても飯なんか食っていけませんので…。

――すごいですね。材木商と貸本屋をやりながら、「ウキグサ」を発行し、映画やダンスにも熱心に通っていたのですね。

木枯 新宮あたりが木材の集散地なんですが、いまと違って紀伊半島は、文字通り陸の孤島でしたから、出かけるのがたいへんなんです。まず大阪へ行って、大阪の天王寺から、夜の十一時ごろに出発する夜行列車に乗っていくと、新宮に着くのが朝の六時ごろなんです。

――山の木を買うのですか。

木枯 いえ、木材組合に行って、伐りだしてある原木を買うんです。

――どのくらい買うのですか。

木枯 時によって違いますが、三百石くらいですか。木材は、一尺×一尺×十尺の量が単位で、一石(いっこく)というんです。

――容積で計るのですね。

木枯 その三百石の原木は、すぐ船に積み込んでくれるんです。当時は木材運搬は貨物列車か船だったのです。原木の積み込みを確認して金を支払うと仕事は終わりです。

それから那智勝浦に行き、温泉旅館に泊まるのですが、当時は客がほとんどいなくて、大きな旅館なのに、私のほかに一人か二人でした。

――貸し切りみたいですね。

木枯 慶子さんはご存じではありませんか。温泉からぐるりと海が見渡せる旅館…。

――岩風呂から海が一望できる旅館ですね。ええ、なんだか海と温泉が一つにつながっているような雄大な感じのところでした。

木枯 岩風呂の丸い窓から太平洋がずっと見渡せるんです。その温泉にゆったり浸かっていると、原木を積んだ船が出ていくのが、よく見えるんです。まるで紀伊国屋文左衛門にでもなったようでしたね。「沖の暗いのに白帆が見える…」というわけです。遠く沖に消えていく自分の船を、湯の中からながめるのは、そりゃ、お大尽になったようないい気分ですよ。

翌日は大阪に戻ると、行きつけの道頓堀の旅館に泊まって、心斎橋へ出かけたり、ダンスホールに行ったり、二日ほど遊んで時間を過ごすんです。

――ああ、そこでダンスホールが出て来るのですね。それから東京に行くのですか。

木枯 いや、いや。それから東海道線に乗って名古屋で途中下車です。名古屋には、赤玉という有名なダンスホールがあって専属のダンサーもいるので馴染みのダンサーを呼んだり…。

――豪遊ですね。

木枯 名古屋で二晩泊まり、小田原あたりでもう一泊してから、やっと東京へ到着するんです。そして鉄砲洲(現在の中央区湊付近)へ行くと、ちょうど紀州で材木を積んだ船が…。

――着いているんですか。

木枯 そうです。鉄砲洲では、「艀(はしけ)渡し」といって原木を材木屋の小舟に積み替えるのです。あらかじめ深川の材木屋に連絡してありますから、到着した原木を渡して、代金を頂戴するというわけなんです。東京へ直接売ったのは、うちがはじめてだったでしょう。三重県や紀州あたりは木材が豊富でしたから、ずいぶん商売になりました。東京のほかにも金沢などにも売りに行きましたね。

――大活躍だったのですね。

木枯 買い付けでは「八田は、めちゃな高い値で買う。あれで儲かるのかな」なんて、よく言われました。むこうでは、木場の相場が分からないんです。東京へ電話することなんてないし、新聞にも出ませんから…。

――信じられませんね。

木枯 だから、おもしろかったんですよ。まだ二十一か二の人間が商売できたんですから。

――十六歳のころに東京へ出て来ていたのが、生きたのですね。


波郷選「新人俳句」に入る

木枯 木場に来ていたころ、石田波郷に会いに行ったことがあります。波郷は昭和二十一年の三月に、女房の実家があった砂町に引っ越したんですね。そしてその年の九月に「現代俳句」という俳句総合誌を発刊したりして、はなばなしい活躍をしていました。

  六月の女すわれる荒筵
  立春の米こぼれをり葛西橋

ちょうどそのころ発表した波郷の句です。

――どちらも有名な句ですね。

木枯 この句の葛西橋というのは、現在の葛西橋ではなくて、同じ荒川の、もう少し北側に架かっていた木造の橋です。当時は、橋に闇米を取り締まる検問所がありました。千葉方面から闇米を運んできた人たちは、みんなここで捕まって、米を没収されたしまう。

――ええっ、そうなんですか。

木枯 そうですよ。「立春の米こぼれをり」は、警察に没収されたときにこぼれた米です。これは新説でもなんでもなくて、ほんとうの話です。

――いままでお米のような貴重なものが橋にこぼれているなんて不思議だなあ、と思っていたんです。そう伺うと、リアルですね。いろんな解説文を見ましたが、そんな解釈を読んだことがありません。

木枯 闇米や買出しなど戦後の状況を知らないと、米屋か、だれかがこぼしたんじゃないか、と思ってしまうでしょうね。

――これは貴重な証言ですね。

木枯 小名木川を詠んだ句にもいい句がたくさんありますね。戦後ずっと、そうした波郷の俳句を読んで憧れていましたので、雑誌で住所を知って会いに行こうという気になったんだと思います。なにしろ砂町は、木場から二キロほどしか離れていませんから。

――あらかじめ手紙を、お出しになったのですか。

木枯 あのころは、手紙で連絡するなんてことは、ほとんどありません。いきなりです。たしか知り合いの材木屋で借りた自転車で行ったんだと思います。当時、あの辺りはまだまだ空襲でやられた焼け跡のままで、ところどころにバラックが建っているだけで、ずっと遠くまで見通せました。目につくのは、操車場の線路と、まっすぐに走っている小名木川でした。ふしぎなことに、川の水が道より上にある、というか水が盛り上がって見えていたことを印象深く覚えています。

――いつごろでしたか。

木枯 記憶がだいぶ薄れているのですが、寒かったような気がしますので、二十一年の十一月ごろだったでしょう。

波郷さんの家は、とんとん葺き(薄板を葺いただけ)の屋根を乗せただけの簡単な作りでした。近づいていくと、縁側に波郷さんが座っているのがすぐ分かりました。そばに石川桂郎さんがいて、なんと波郷さんの髪を刈っていたのです。桂郎さんはご存じのように床屋さんでしたからね。

――どんな話をされたのですか。

木枯 それがまったく覚えていないのです。

――初対面だったら、自己紹介とか「ウキグザ」のこととか…。

木枯 俳句の話をしたことは確かなのですが、記憶がないのです。波郷さんといえば、少しあとになって「現代俳句」に「新人俳句募集」という企画ができて、その第一回に、波郷選で私の俳句が掲載されました。

――それはすごいですね。何句ぐらい掲載されたのですか。

木枯 たしか三十句応募して、十句ぐらい載ったと思います。

――それは、ぜひ拝見したいですね。

木枯 こんど探してきて、お見せしましょう(別掲)。じつは翌年、第二回の加藤楸邨選にも選ばれたんです。

――波郷選・楸邨選と二度も…。すごいですね。それなのに山口誓子の「天狼」を選ぶなんて、ずいぶん贅沢な選択をなさったのですね。

( 了 )



「現代俳句」昭和二十二年七月号より
新人俳句(第1回) 八田木枯

干竿の落ちて漂ふ月の柘榴
手袋の手にて為すべき事一つ
妹が居へ深雪の上の靴の栄
帰り来て蒲団の母に仰がれぬ
兄弟老いぬ牛鍋の耳大にして
水薬枯草すかし山すかし
虹消ゆや顔を凹めて女給ゆく
蔦萌えの荒さよこの人栄しらず
鳥交る世にチンドン屋ある限り

(石田波郷付記 編輯部宛・小生宛のものより選輯した)

2011-08-28

八田木枯 戦中戦後私史 第7回 「ホトトギス少年」からの脱皮

八田木枯 戦中戦後私史リンク第7回 「ホトトギス少年」からの脱皮
聞き手・藺草慶子 構成・菅野匡夫


承前:第6回 貸本屋開業と「ウキグサ」の創刊

『晩紅』第21号(2004年3月31日)より転載

連作「ミヤコホテル」

木枯 話がまた戦前に戻ってしまいますが、先日、「俳句研究と私」という原稿依頼があって、それがきっかけで思い出したことをお話ししたいと思います。

昭和十四年、当時十四歳の私は、父の残した蔵書、大正時代の「ホトトギス」合本や文学全集に触発されて、俳句を熱心に作り始めていました。そのうちに父の蔵書以外の物も読みたくなって、毎日のように古本屋を回り、三十分、一時間と立ち読みするようになりました。

――新刊の本屋さんはなかったのですか。

木枯 二軒ほどありましたが、句集や俳句雑誌は置いてないのです。古本屋の方は、文芸物を扱っている店が三軒ほどあり、そこに行けば、店先に俳句や短歌の雑誌がうずたかく積んであります。「ホトトギス」「アララギ」が目立って多かったのですが、あるとき昭和九年四月号(創刊二号)の「俳句研究」を見つけました。日野草城の「ミヤコホテル」が発表された号です。ご存じのように新婚初夜をテーマにした連作十句ですね。

――あの連作は、実体験のように見えますが、実際は場所も内容も虚構だとされていますね。

木枯 ええ。でも、そんなことは知りませんから。それまで読んでいた俳句とあまりにも違うので、こんなことが俳句になるのか、と吃驚しました。もっとも、内容については半分も分からなかったのかもしれませんが。

失ひしものを憶(おも)へり花曇」なんて読んでも、財布でもどこかでなくしたのかと思うくらいでしたから。

――ああ、少年としては、意味が分からない

木枯 そのころ分かっていたら、たいへんなことですよ(笑)。もちろん、「俳句研究」にかぎらず、ほかの雑誌や句集もとても新鮮で興味深く思えて、読みふけったものです。まだ自由になるお金などありませんから、欲しいと思っても簡単には買えません。読みかけの所に栞をはさんで、積んである山の下の方に戻しておいて、翌日また出かけるのです。

――人目に触れて売れてしまわないようにですか。

木枯 そうです。そうやって立ち読みを続けていたんですが、中にはどうしても手元に置きたいものが出てくるんですね。そうこうしているうちに、うまい方法を見つけました。

古新聞を売るのです。実家では、そのころ大毎(大阪毎日新聞)、大朝(大阪朝日新聞)や地元紙を講読していたのですが、そのころの新聞は、いまのと比べて一部がずっと分厚く、かさばるので、納屋に積み上げてあったのです。その古新聞を一抱えずつこっそり持ち出しては、屑屋に売ってお金を作ったんです。

そのお金で、「俳句研究」もそうですが、ほかにも中村草田男『長子』(昭和十一年)、山口誓子『凍港』(昭和七年)などを手に入れました。これらは運よく戦災を免れて、いまも手許にあります。


新興俳句にも惹かれながら

木枯 「俳句研究」よりすこし後のことですが、別の古本屋で「旗艦」を見つけました。

――草城の雑誌だということは、ご存じだったのですね。

木枯 ええ。やはり、三日にあげず立ち読みに通っていて、おもしろいと思って、とうとう買うことにしたんです。すると、古本屋のおやじが「君のような少年は、こういう危険なものを読まない方がいいよ」と言うんです。もっとも「危険なもの」ほど魅力的でしたから、結局手に入れたのです。

――そうですか。すると、もし、危険視されている時代じゃなかったら、「旗艦」に入ろうとか、投句しようなどと思ったかもしれませんね。

木枯 いやいや、そういうことはまったく頭にありませんでした。「旗艦」は、たしか二冊ぐらいは買ったと思いますが、とにかく二年も三年も前の号でしたからね。

実はそれからしばらくして、その古本屋から連絡があって、草城の『転轍手』(昭和十三年)が手に入ったから、買わないかと言ってきたのです。あれほど「危険だから読むな」よ忠告していたのに…。

――お買いになったのですか。

木枯 買いました。高かったので、お金を作るのがたいへんだったことを覚えています。

――ほかには、どんな俳人に興味を抱いていらしたのですか。石田波郷はどうでしたか。

木枯 波郷や加藤楸邨は、まだ知りませんでした。ホトトギス中心でしたので、ほかには松本たかしとか、川端茅舎ですね。

ただ、たしか昭和十五年ごろだと思うのですが、やはり古本屋で『現代俳句』という四巻本を手に入れました。その中に新興俳句なども入っていましたので、誓子、草城、渡辺白泉、西東三鬼、篠原鳳作などにも憧れたり、興味を持ったりしていましたね。

――おもしろいですね。当時はホトトギスの全盛時代だったし、木枯先生も当然、ホトトギスで俳句を始められたのに、総合誌などで新興俳句にも触れて、つよく惹かれるものを同時に宿していた。なにか将来の八田木枯を暗示するような素地が最初からあったのですね。

木枯 そうかもしれませんね。昭和十四年ごろにホトトギスに入り、一年ほどで初入選を果たしたのですが、それ以来、「ホトトギス」やその系列雑誌に投句しつづけてきました。ホトトギスから離れるのは、戦後の昭和二十一年ごろですね。思い返してみると、その最初のきっかけが「ミヤコホテル」だったんです。

――大きな影響を与えたのですね。しかも、それが発行された直後ではなくて、五年も経ってから古雑誌として少年の眼に触れて、俳句人生に大きな影響を与えるというのは、作品の力でもあるのでしょうが、とても興味深いことです。

木枯 ご存じのように、「ミヤコホテル」は、発表直後、いろいろと物議を醸しました。草田男が厚顔無恥な作品だと非難し、一方、室生犀星が「俳句でこんな新しいことが詠めるのは素晴らしい」と絶賛したりして、有名な論争にもなりました。でも考えてみると、私が読んだときには、そんな論争も全部終わっていたんですね。


俳句少年、そして映画少年

――古本屋以外では、どんなものに関心も持っていらしたのですか。

木枯 映画ですね。当時、津には映画専門の常設館が三つ、ほかに芝居小屋がありました。

――最初にご覧になったのは、どんな映画でしたか。

木枯 弁士つきの無声映画ですね。

――ええっ、本当ですか。

木枯 そうですよ。大河内伝次郎、板東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門なんかが主演した無声映画時代の日活時代劇を子供のころよく見ました。舞台と客席の間にミュージックボックスというのがあって、そこにピアノ、太鼓、三味線などの楽士が五、六人が入って映画の場面に合わせて音楽を演奏するんです。

弁士は、もちろん舞台の上で、スクリーンを見ながらストーリーや登場人物のせりふを語るわけです。ときには「花のパリかロンドンか、月が消えたか、ホトトギス」なんて、よく訳の分からないこともしゃべったりもするんですが、とにかく実に哀調を帯びた名調子で聞かせるんですね。

――入場料はいくらぐらいだったのですか。

木枯 大人十銭、子供五銭だったと思います。うどん一杯が六銭か七銭のころですね。

――どのくらいの頻度でご覧になっていらしたのですか。

木枯 それはあまり言いたくないんですが…(笑)、とにかく映画は好きでしたね。京都山科の一燈園にいたときも、よく抜け出しては電車に乗って新京極まで映画を見に行きました。その当時、封切館があったのは、東京、大阪、名古屋、京都、福岡ぐらいでしたから、新京極へ行けば、最新の映画が見られたんです。

――ご覧になったのは、どんな映画でしたか。

木枯 松竹映画の「純情二重奏」、高峰三枝子の主演の歌謡映画ですね。たしか昭和十四年で、有名な「愛染かつら」は、その前年です。あのころ何といってもきれいだったのは、高峰三枝子、そして高杉早苗でしたね。男優では、松竹現代劇の三羽烏と言われた上原謙、佐分利信、佐野周二がいました。上原は加山雄三の父、佐野は関口宏の父ですね。時代劇は、無声映画から引き続いて日活が全盛期で、さっき話したように役者が揃っていましたし、山中貞夫はじめいい監督が多くいました。

――洋画はどうでしたか。

木枯 フランス映画の「舞踏会の手帖」や「パリ祭」なんかを見ましたが、洋画はそんなに多く見ていません。チャップリンなんかの喜劇映画はともかく、しゃれたフランス映画の上映館は、東京でも銀座に二軒とか新宿に一軒ぐらいしかなかったんですから。

肺浸潤を患って休学して、海軍病院に入院していたことは、前にお話ししましたが、そこからちょこちょこ抜け出しては、東京へ行っていました。そんなときに見たくらいですね。洋画をよく見るようになるのは、戦後、アメリカのハリウッド映画がどっと入ってきてからです。

――長く休学したのですか。

木枯 長かったですね。結局、中学を中退しました。

――ずいぶん病弱だったのですね。

木枯 そりゃ、病弱ですよ。煙草はばんばん吸っていましたが…(笑)。

――十四歳の頃の木枯先生は、俳句少年で映画少年で…しかも不良少年だったのですね(笑)。

木枯 家業の材木屋を継いだ兄は真面目な人間でしたが、それでもやはり映画が大好きでしてね。戦後になって、「映画三重」という映画雑誌まで出したんですよ。

――映画雑誌! 戦後というと、木枯先生が「ウキグサ」を活版で発行したころですね。

木枯 ええ、終戦から一年くらいしてからです。創刊号の表紙がローレン・バコールの写真、いまで言えば、著作権無視です。映画好きが何人か集まって、記事を書いたりしたのですが、兄も津村信夫の映画評論などが好きで愛読していましたから…。新しく封切られた映画の紹介とか、やはり洋画が中心でした。かなりの部数を印刷して、津の映画館とか本屋なんかに置いてもらったんですね。


最高峰の作品を吸収して

木枯 「ウキグサ」の昭和二十二年十二月号(通巻二十一号)が出てきたので、持ってきました。見るとおりの薄い雑誌ですが、当時は印刷所も少ないし、紙もない、活字もないという時代で、「ホトトギス」でも同じように薄かったのです。

――すごいですね。拝見すると、木枯先生は、編集発行人で、選句欄を持ち、評論を書き、座談会までやっておられるのですね。それに表紙を開けると、いきなり「思量」二十句(別掲参照)が掲載されています。

木枯 昭和二十二年くらいになると、私の句もちょっと違ってきてますでしょう。終戦から「天狼」まで三年間。だんだんホトトギス調から離れていくわけですけれども、それでも最初は、なかなか断ち切れなかったんですよ。

――いままでのホトトギス調の句、たとえば「宇陀百句」の頃とは、まったく違っています。〈白壁やとべば小鳥は空の中〉なんていいですね。

木枯 ああ、それは、草田男が「万緑」で取り上げて、誉めてくれた句です。

――この句には、現在の木枯先生と通じる世界があります。でも、どこかいまとは違う青春性も感じられますね。〈靴が痛き秋日の中の別れかな〉にも若々しさがありますね。

木枯 若いですね。

――〈教師病む塩辛蜻蛉干竿に〉、これは人間探求派のような、それこそ草田男が喜びそうな句ですね。

木枯 ええ。この句でお分かりでしょうが、私が戦後に傾倒していた作家の一人は、もちろん草田男です。そのほかでは、強い影響を受けたのは、誓子、楸邨、波郷ですね。

――たしかに、楸邨風の句もありますね。

木枯 そうでしょう。楸邨の戦中から戦後にかけての句を収めた句集『野哭』(昭和二十三年)につよく惹かれていましたから。それと草田男の『来し方行方』(昭和二十二年)、誓子『激浪』(昭和二十一年)。こうした句集にずいぶん影響を受けました。

これらの句集がすぐれているということももちろんありますが、それ以上に読んだときの自分の状況が大きかったのですね。若くて感受性の強いときに、いちばん刺激のあるものに出会ったんですから。

――しあわせでしたね。もっとも多感なときに、いわば現代俳句の最高峰の作品がつぎつぎと世の中に発表されて、柔軟な感性に入ってくるわけですから、どんどん吸収していますよね。〈哲学書支へるごとし昼の蟲〉〈壁の中に風邪の二つの眼を嵌めて〉。楸邨に似ているところもあったりして、いいですね。〈寒梅や鏡老いたる人の家〉これも名作ですね。

木枯 その句は誓子先生が誉めてくださったんです。

――ほんとうに、いい句が多いですね。総合誌でも、こんなに粒揃いの二十句が発表されているのは、なかなか見ません。「ウキグサ」には、毎月発表していたのですか。

木枯 ええ、毎月出していました。当時は、誓子先生でも四十五ぐらい、、多くの作家が三十代、四十代で脂がのりきっていたんです…。

――それを多感な青年がしっかりと受けとめて、自分の作品に生かしているのはすばらしいし、本当に羨ましいです。まだ二十二歳だというのが信じられないほどです。これらの句は『汗馬楽鈔』(昭和六十三年)に載っているのですか。

木枯 載っているのは、二、三句ですね。

――そうですか。『八田木枯少年期句集』には、ぜひとも載せていただきたいですね。


(次回に続く)



 思量  八田木枯

絵葉書の帝都今なし夜の蠅
みちびきや飛燕の一線あるとき輪
夕ぐれを婚れば濃ゆき蚊火煙
嶺を指してからだますぐに花野人
霜焼の指を微塵に湯にひたす
白壁やとべば小鳥は空の中
靴が痛き秋日の中の別れかな
干物や犬家を出る百日草
くちづけの宵の青きは秋鯖か
古下駄やバツタ青嶺に輪を描いて

青胡桃流水せけば村安し
教師病む塩辛蜻蛉干竿に
驚けば驚く鼠孤りの冬
薔薇色の大寒の天米を購ふ
花野には母のうれしき声が待ち
おもふてはならぬことよと虹消えて
壁の中に風邪の二つの眼を嵌めて
哲学書支へるごとし昼の蟲
大揚羽かつ驚きて家凹む
寒梅や鏡老いたる人の家

2011-08-21

八田木枯 戦中戦後私史 第6回 貸本屋開業と「ウキグサ」の創刊

八田木枯 戦中戦後私史 第6回 貸本屋開業と「ウキグサ」の創刊

聞き手・藺草慶子 構成・菅野匡夫


承前:第5回 兵役不適格、依テ即日帰郷を許ス

『晩紅』第20号(2004年11月30日)より転載

芭蕉忌記念俳句大会

木枯 戦中の話は、そろそろ終わりにして戦後に入りたいと思いますので、いままで話し忘れていたことや後で思い出したことなどに触れておきたいと思います。

一つは、ホトトギス発行所に行って、句稿のぶ厚い綴じ込みを繰り入選句を調べることが、どうしてできたのか、そのきっかけを思い出したのです。私は、東京牡丹会という句会に出ていたのですが、その指導者に市川東子房先生がいました。市川先生は、虚子先生や星野立子さんと同じように、ホトトギス発行所に毎日つめていましたので、なにかのときに「発行所に来れば、入選句が分かりますよ。よければ、いちど発行所に来なさい」と声をかけてくださったのでした。

――そうですか。それでは一般の人がだれでも立ち入れるところでもなかったのですね。

木枯 でも、入るとすぐに机があって、その上にぽんと句稿の綴りが置いてあったのですから…。

――同人の人なら、見ることができたのかもしれませんね。

木枯 もう一つ、昭和十八年十一月に伊賀上野で開かれた全国俳句大会のことをお話ししたいと思います。たしか芭蕉の二百五十年忌を記念した行事だったと思うのですが、当時は、戦争中のことで、ホトトギスだけでなくいろいろな結社が集められて報国俳句協会といったような全国組織が作られて、そこが主催した大会でした。芭蕉の旅姿に似せた俳聖殿もこのとき作られたのです。そんなわけで、名の知れた俳人のほとんどすべてが伊賀上野に集まったのです。もっとも、新興俳句の人は別だったかもしれませんが…。

――呼ばれなかったでしょうね。

木枯 おそらくそうだったでしょう。そのとき、何百人という参加者全員の記念写真を俳聖殿の前で撮りました。その中に私も写っているのです。

――ぜひ、拝見したいですね。

木枯 詰め襟の学生服姿で前の方に小さく写っているはずです。写真は戦災で焼けてしまいました。でも伊賀上野あたりには残っているのじゃないかといろいろ探しているのですが…。

――俳人として呼ばれて参加したのですか。

木枯 いやいや、三重県ホトトギス会の一員として参加しました。俳句大会では、あらかじめ投句したものを、虚子先生はじめ二十人ほどの選者が選句して、りっぱな冊子が作られました。芭蕉忌献句集ですね。じつは、その虚子選の最初に私の句がありました。

――それは、すごいですね。どんな句でしたか。

木枯 冊子は、これまた焼けてしまいましたが、句は覚えています。

  あをあをと伊賀の山なみ稲架日和

――いい句ですね。でも、どうして十八歳でこんな挨拶句が詠めるのですか、しかもホトトギス調の…。


素逝先生との八知(やち)吟行

木枯 前回、昭和十九年十二月の伊勢湾大地震のことをお話ししましたが、その少し前に、長谷川素逝先生との吟行句会がありました。戦争がいよいよ激しくなって、俳句どころではなく、まして吟行など考えられない時代でしたので、つよく印象に残っています。

出かけたのは、奥伊勢の八知という幽谷です。句帳には十月二十四日と記してありますが、稲架日和というような天気のいい日でした。素逝先生は八知が好きで、八知を詠んだいい句を残していますが、このころは病気も進んでいて、ときどき咳込んだりしながらの参加でした。

――吟行したメンバーはどんな人たちでしたか。

木枯 三重県ホトトギス会の人たちで、橋本鶏二先生もいました。ホトトギスの巻頭を取ったり、頭角を現しはじめたころですね。

――二泊三日ぐらいの吟行ですか。

木枯 とても、とても。そんな悠長なことができる時代じゃありません。もちろん日帰りでした。素逝先生だけは三日ぐらい八知に泊まっていたようですが…。とにかく戦争中ですから、吟行だからといっても、うろうろしながら、メモでも取っていたら、スパイと間違われてたいへんなことになりかねません。ただ歩いているだけでも、見知らぬ土地では怪しまれて「何しているんですか」なんて声をかけられたりします。普段から、俳句をやっていることなど他人には言わず、夜中にこっそり作ったりしていたくらいです。

――八知吟行では、どんな俳句が作られたのですか。

木枯 そのときの俳句をメモした句帳がありましたので、抜き出してみます。

  ころがれる榾にとまりて鶲(ひたき)かな
  背なの子のおもしろがるや芋運び
(以上鶏二句)
茶の花の蕊には濃ゆき深山の日
  芋の葉のおのおのが立ちなほ暮るる
  かけ稲の前後ろなる日の匂ひ
(以上素逝句)

――素逝、鶏二、さすがにうまい句ですね。木枯先生はどんな句を…。

木枯 こんな句を作っています。

  山影ののびきし稲架のうしろかな
  霧しづくして地にとどく稲穂かな
  すでにして去りし夕日や枯木の根
  柿吊つて厩母屋と一と屋根に

当時は、ホトトギスの虚子選に入選することが最高の目標でしたから、忠実に先輩の言葉を守っていました。しかし、一方では、前にも言いましたように、誓子、草城、白泉、三鬼、鳳作などに大きな憧れを抱いていたのです。

――素逝はどんな指導をしていたのですか。

木枯 指導は、いつも要点を言うだけでした。写生をしておればいい、理屈なしに写生をしなさい、ということでしたね。

――鶏二の指導の方はどうだったのでしょうか。

木枯 鶏二先生の方は、彫るとか、刻むとか、写生が求心的なものでしたね。高野素十よりも松本たかしを高く買っていたのを覚えています。


焼け跡ではじめた貸本屋

木枯 昭和二十年の七月二十八日に、私の住んでいた津もアメリカ軍の空襲による焼夷弾攻撃で町が全焼し、焦土となってしまいました。そして八月十五日の終戦ですね。あの日は、だれが書いたのを読んでも、抜けるような青い空で、日がぎらぎらと照りつけていて、蟬がしきりに鳴いていた、とありますが、津でも同じでした。

――終戦の詔勅は聞きましたか。

木枯 聞きました。

――それは、どこでですか。

木枯 津の焼け跡でした。近所のだれかの家のラジオじゃなかったかと思います。

――みんなが集まって聞いたのですか。

木枯 そうです。電話はない、新聞も来ないという焼け跡ですから、どうして伝わったんでしょうか、大事な放送があるというので集まってきたんですね。ただ、話の内容は、ラジオがガーガー言っているだけで、さっぱり分かりませんでした。それでも天皇がラジオで直接話すというだけで、たいへんなことでしたし、とにかく戦争は終わったらしいよ、ということでした。その前から、広島に何か特殊な爆弾が落ちて大勢死んだらしいぞ、だから戦争ももうおしまいじゃないのか、という噂も聞いていましたので、やっぱり終わったのか、と思いましたね。

――木枯先生の家も焼けたのですか。

木枯 何から何まできれいに焼けました。

――材木もですか。

木枯 いや、そのころは統制経済といって、個々の材木屋が商売をすることはありませんでしたので、広い倉庫はがらんとして何もありませんでした。

――焼け出されてあと、どう生活していたのですか。

木枯 最初は親戚の家で世話になったりしましたが、なにしろ自分の家が材木屋ですから、はやばやとバラック建ての仮住まいをもとの敷地に作りました。そうこうしているうちに、十月ごろから、そのバラックで貸本屋をはじめたんです。

――えっ、貸本屋ですか。でも、蔵書が焼けてしまったのではないですか。

木枯 ええ、父の蔵書は焼けてしまいました。でも疎開してあった自分の本とか、ほかに知人や友人から借りたりして集めたんです。あの当時は、本がなかったので、貸本屋がとてもはやったんです。津にも何軒かできたんですが、私がいちばん早かったと思います。

――二十歳にして、木枯青年は、ずいぶん商才があったのですね。

木枯 その貸本屋の名前が、梨影文庫と言うんです。そう名づけたのは、ちょうど同じころ、鎌倉文庫が有名だったからです。あれも、もともとは久米正雄、川端康成、高見順などの鎌倉文士が、戦争中に蔵書を持ち寄ってはじめた貸本屋なんですね。戦後には出版社になり、文芸誌「人間」を発行したりしましたが…。

――本を読みたいという文化的な欲求に応えたのですね。

木枯 ええ。珍しがられて、地元の新聞に取り上げられたこともありました。


青年俳句雑誌と銘打って

木枯 じつは、「ウキグサ」という名の句誌を、戦争中からやっていたのです。句誌といっても、仲間五人ほどで互選した俳句を手書きしたザラ紙の冊子で、郵便で回覧して、お互いに感想を書き入れたりしていました。

――いつごろからですか。

木枯 昭和十七年ごろからだったと思います。

――仲間は、同じ年頃の人たちだったのですか。

木枯 そうです。もう、みんな死んでしまいましたが、その中の一人は郡山の橋本石斑魚(うぐい)さんです。

――どうして浮草と名づけたのですか。

木枯 そりゃ、浮草みたいなものでしょ。東京へ行ったと思えば、すぐに京都へ出かけたり…。

――ということは、「ウキグサ」のリーダーは、木枯先生だったのですね。

木枯 まあ、そうです。その句誌を、終戦になってからガリ版刷りにしたんです。

――何部ぐらい印刷したのですか。

木枯 せいぜい百部ぐらいだったでしょう。これが実質的な創刊号ということになります。発行所は、梨影文庫です。そして昭和二十一年に入ってからですが、長谷川素逝先生に選者をお願いするようになりました。その最初の号は素逝先生の句稿をそのまま表紙にして発行しました。

――ご病気でも、まだ選がおできになったのですね。

木枯 しかし、まもなく先生の病気が重くなって、選ができないようということで、あとを橋本鶏二先生に引き受けていただくようになりました。素逝先生に選をしていただいたのは二号ほどでしたね。

――そうすると、素逝先生との出会いは、時間的にはわずかの間だったのですね。

木枯 ええ。昭和二十一年の十月十日に亡くなられましたから、先生にお会いして、直接指導していただいたのは、せいぜい四回ぐらいだと思います。しかし、戦中戦後の切迫した時期が時期でしたので、感銘を受ける度合いというものが、普通の時とまったく違って、非常に密度の濃いものだったのです。師との出会いというものは、時間の長さや回数の多さではないんですね。一期一会といいますが、そういう大事な時期に会えたということが重要で、中身が違ってくるんですね。

――「ウキグサ」に俳句を出す仲間は、やはり五人だったのですか。

木枯 いえ、いえ。ガリ版刷りの句誌になってからは、一般からも投句を募集しましたから、投句者は百人ぐらいになっていました。

――えっ、百人もですか。

木枯 「青年俳句雑誌」と銘打って募集しましたので、全国からたくさんの投句が集まりました。なにしろ、終戦まもなくでしたから、俳句雑誌など他になかったんです。貸本屋をしながら、そこで句会をしたり、句誌を作ったり、このころは俳句中心の生活でしたね。すこし後のことになりますが、やはり関係する俳句雑誌に鷹羽狩行さんとか、寺山修司さんなんかも投句してきたこともありました。

――すごいですね。

木枯 その話は、次回以降に詳しく触れるつもりですが、貸本屋に神生彩史(かみおさいし)が訪ねてきたことがありました。

――お知り合いだったのですか。

木枯 いえ、まったくの初対面です。神生彩史といえば、日野草城の「旗艦」でも目立った存在でしたから、ずっと注目していたのです。それだけに、突然の訪問にはびっくりしました。昭和二十一年だったと思います。

じつは、駅前の本屋が「ウキグサ」をぜひ置かせてほしいというので、店頭に置いてもらっていたのです。当時は、発行される出版物が少なかったので、薄っぺらな俳句雑誌でも並べたかったのでしょう。その「ウキグサ」がたまたま松阪出身の神生さんの目にとまったらしいんです。自分も俳句をやっていたから、よほど嬉しかったんでしょうね、奥付の住所を見て、駅前からはかなりの距離があるのに、焼け跡の中を歩いて、わざわざ貸本屋まで来てくれたのです。まだ兵隊から帰ってきたばかりらしく、軍服軍帽姿でした。

――どんな話をされたのですか。

木枯 草城の話はあまり出なくて、しきりに山口誓子のことを話していました。とにかく自分たちは、誓子に大きな影響を受けたのだと言っていたのが印象的でした。


ホトトギスへの入選句

木枯 話は戻りますが、素逝先生は、昭和二十一年の五月に、野村泊月に託されて「桐の葉」の主宰になりました。しかし、半年も経たずに病死されましたので、編集を担当していた橋本鶏二先生が跡を継ぎます。橋本先生は、運の強い方で、翌年には名古屋の「牡丹」を主宰していた加藤霞村が亡くなって、その跡も継ぐことになるんですね。「牡丹」は、私が出ていた東京牡丹会の本部にあたる、ホトトギス傍系誌です。

それはともかく、「桐の葉」は、橋本さんが主宰になってまもなく「桐の花」と改題されるのですが、私も編集を手伝ってほしいと言われて、ちょくちょく伊賀上野に出かけていました。橋本先生という人は、次々と句を作る人で、作った傍から、「木枯さん、こんな句どう思う」「こんな句は、どう」と次々に聞いて来るんです。

――ずいぶん多作の人だったのですね。

木枯 ええ。しかし、他のホトトギスの人と違って、句は上手でしたので、私にも大きな刺激になりましたね。

――ここに、木枯先生の終戦直後の句(別掲)が抜き書きされていますね。

木枯 最初の二句は、ホトトギスの虚子選に二句投句して二句とも入選しました。当時のホトトギスは薄い雑誌でしたので、巻頭でも二句掲載でした。たしか、このときは、十番目ぐらいじゃなかったかと思います。

――すごいですね。

木枯 次の二句は、長島(三重県桑名郡)吟行のときの句で、同じく虚子選に入ったものを、橋本さんが「桐の花」の巻頭句に取り上げ、わざわざ長文を執筆して誉めてくれたものです。

――ホトトギスへの投句は、戦争中からずっと続けていらしたんですか。

木枯 もちろんそうです。

――ホトトギスに欠かさず投句して、吟行があれば、それにも参加し、そして傍系誌の編集も手伝う。一方では、貸本屋を営みながら、「ウキグサ」の主宰でもあったという、まさに充実した二十歳でしたね。

(次回に続く)


終戦直後の入選句

椅子二つ一つに毛糸玉置いて
西洋間ありて大きな瀧の寺
以上「ホトトギス」虚子選(昭和20年)
水郷や舟に案山子を寝かせ漕ぐ
水の上を黄いろく来たり稲の舟
松に降る雨うつくしや扇置く
稲刈の鎌ふり家に用事かな
葉桜の太き枝あり折れさがり
麦秋の留守の大黒柱かな
以上「桐の花」巻頭句(昭和21年)

2011-08-14

八田木枯 戦中戦後私史 第5回 兵役不適格、依テ即日帰郷を許ス

八田木枯 戦中戦後私史
第5回 兵役不適格、依テ即日帰郷を許ス

聞き手・藺草慶子 構成・菅野匡夫

承前:第4回 「みちのく」風生選巻頭を飾る

『晩紅』第19号(2004年7月31日)より転載

陸軍の身分証明書

木枯 戦前、普通の人は身分を証明するものを持っていませんでした。健康保険証もないし、運転免許だってそんなに普及していません。でも、私は、陸軍省に勤めていたとき、身分証明書を持っていました。

――少年でももらえたのですか。

木枯 ええ。しかも、憲兵の身分証明書と同じに、赤線の入ったりっぱな証明書です。陸軍省の仕事は嫌で嫌でたまらなかったんですが、これだけはずいぶん役に立ちました。ムーランルージュのレビューを見ての帰りに夜道を歩いていると、かなら警官に呼び止められるんです。あの時代は、不審者に対する警戒がきつかった上に、こちらはまだ少年でしたから。

――まさに、不良少年ですもの(笑)。

木枯 いきなり「おい、君!」とか、恫喝されるんですが、身分証明書を見せると、年輩の警官が急に態度をあらためて、「あ、たいへん失礼しました」と通してくれます。

――ずいぶんいい物を持っていたのですね。

木枯 ええ。軍の証明では、警官もうかつに手が出せないですから。考えてみれば、かなり恐ろしいことです。もっとも、まだ少年でしたから、ただ、得意になっていただけでしたが…。

身分証明書ほどではないですが、学生証の恩恵にあずかったことがあります・夏休みに、従兄弟の早稲田大学生から学帽、学生服、学生証を借りて、旅行したんです。「てんぷら学生」、分かりますか。

――いいえ。

木枯 にせ学生です。学生になりすまして割引運賃で、新宮(和歌山県)まで旅行しました。東京から大阪まで行き、大阪の天王寺から紀勢西線で、ことこと、ことこと行って、終点が新宮です。

――どうして新宮だったのですか。

木枯 家業の材木のことを知りたかったのと、あそこは佐藤春夫の出身地ですから、どんなところで生まれたのか、それを見たかったんです。

ところが、着いて改札口を出たとたん、目の前に早稲田の角帽をかぶった学生がいたので、吃驚しました。当時の新宮は、陸の孤島と言われるほど辺鄙な町なのに、よりによって早稲田の学生と、いきなり出くわしたんですから。もっとも、むこうも「てんぷら」だったかもしれませんが…(笑)。

新宮は鉄道最果ての地だから当然なのですが、えんえんと続いてきた鉄路が終わりになります。あの風景というのは、じつにふしぎで気味の悪いものです。生まれて以来、はるか彼方から来て、はるか彼方へ去っていく鉄路しか見ていませんから。戦後になって、渡辺白泉が作った「終点の線路がふつとないところ」という句を読んで、うまいなあ、と感心したのを覚えています。

――白泉はすごいですね。

木枯 三橋敏雄さんも西東三鬼の弟子だけれども、本当に影響を受けたのは、白泉だと言ってました。

新宮で、まず印象的だったのは、海の違いです。私が生まれ育った伊勢湾の海とは、まったく違って、これは太平洋だな、なるほど地球は丸いな、と強く実感しましたね。新宮へ行ったことはありますか。

――ええ、夕日が沈む風景を見たことがあります。

木枯 もう一つ、印象的だったのは、風土が明るいことですね。なるほど、佐藤春夫が生まれ育ったところにふさわしいな、とそう思いました。しかし、いまになってみると、一方で、中上健二のような野太い作家も生んでいるんですね。とにかく同じ紀伊半島といっても、伊勢と新宮ではまったく風土が違います。距離から言ったら、そんなに離れていないのですが、やはり黒潮の影響が大きいでしょう。

――熊野は、神の崇高さと土俗性の濃さを合わせ持っていて、私には、すこし怖いところに思えました。

木枯 たしかにその通りで、それは、よく分かります。しかし、また佐藤春夫という詩人が、紀伊半島の尖端で生まれたということも、納得できるものがあるんです。なるほど、あの詩は、こうした風土が育んだんだなあ、と思えるところが、たしかにあります。


宇陀の句を百句作る

木枯 前回の「みちのく」より前、昭和十七年、十七歳のときにこんな句を出して、はじめて「ホトトギス」に入選しました。

  奥宇陀の旅籠長者や初桜
まあ、少年が作るような句ではありませんね。じつは、この頃、鰤だとか、宇陀だとか、主題を決めて百句作るということをやっていました。連作とは違うのですが、とにかく一つの題に頭を集中して、数多く作るんです。

――子規が、一つの兼題で、みんなが集まって十句ずつ作るといったことをしていますが、ホトトギスの流れの作り方なのでしょうか。

木枯 おそらく、そうでしょう。一つの俳句鍛錬法ですね。先の入選句は、「宇陀百句」(後掲参照)として作った中の一句ですが、なぜ、宇陀(奈良県)という地名で作ったのかということを、お話ししましょう。

昭和十年頃のことですが、三重県の田端緑樹という人が、いきなり、「ホトトギス」の巻頭を取ったのです。一句入選するだけでもたいへんだったのですから、地元では大騒ぎでした。虚子は、いい句だったら、作者が無名でも巻頭に持ってくるんですね。

  榾負うて宇陀の長者と誰か知る

五句を投句して、四句が取られて巻頭になったんですが、なかでもこの句が有名でした。地元では、お祝いで三日三晩大騒ぎだったというんです。

――三日三晩もですか。

木枯 本当の話です。なにしろ「ホトトギス」に一句入選したら赤飯を炊くという時代の巻頭ですから。じつは事前に長谷川素逝さんに見てもらったところ、「五句ともよくできているから、二つは入るだろう」と言われたそうですが、その素逝さんを追い越して巻頭を取ってしまったんです。それ以来、伊勢一帯では、「とにかく宇陀の句を作れ」「宇陀の句を作ったら、通るぞ(入選のこと)」ということで、私も宇陀の句を作ったんです。

――季語でなくて、地名で作るというところが、おもしろいですね。宇陀に行って、お作りになったのですか。

木枯 実際に行ったのは、ずっと後になってからですね。「炭馬が通りて宇陀の秋まつり」なんかも、見たことはないけれど、たぶんこうだろうと想像して…。こういう作り方は、若いときから得意でしたから(笑)。

  誘蛾燈宇陀の百戸はねしずまり

この句は、虚子先生から誉められました。

――いい句ですね。ほかに虚子に取られた句はどれですか。

木枯 ここに出した句は、みんなそうです。

――投句は何句だったのですか。

木枯 私が投句する頃は、たしか三句だったかな。

――それで一句取られたら、すごいですね。

木枯 なかなか入らないんです。

――それでも、せっせと宇陀の句を出していたのですね。

木枯 ええ。とにかく春夏秋冬、宇陀の句をたくさん作りました。私だけでなく、三重県の連中は、みんな宇陀の句を競って作りましたから、だれでも一句ぐらいは、宇陀の句が入選しているんじゃないですか。

  たもとほる宇陀の血ノ原曼珠沙華

これは、三重県で出ていた「桐の葉」(ホトトギスの傍系誌)の巻頭を取って、みんなに誉められた句です。

――宇陀に、血ノ原という地名があったのですね。

木枯 なにかで調べて、知っていたんでしょうね。それで、いいなと思って句にしたんです。

――行ったことのない土地なのに、特異な地名と、言葉を手がかりに、景を作り上げてしまう、そういうことに、十代の頃から長けていらしたのですね。

木枯 誓子先生は、樺太の句を作っていますが、樺太にいたのは小学校・中学生の一時期だけでした。だから、その場で作ったものではないんです。

――でも、行ったこともない土地の句を作るのとは、違いますでしょう。

  みちのくの淋代の浜若布寄す

という山口青邨先生の代表句を思い出しました。実際の淋代の浜には若布は寄せない、と言われていますが。

木枯 この句は「ホトトギス」の巻頭句だったと思いますが、淋代という地名がいいですよね。ただ、若布がまったく取れない浜というのでは、ちょっとまずいなと思いますが。

――宇陀の句は、一見、写生句、吟行句のようなのに、実際にはまったく違う。このあたりが、木枯先生の原点なのですね。言葉を手がかりに景を作り上げる方法は、どこか「物と物とを関係のおいて捉え、直感的に統一表現する」という山口誓子の構成俳句に通じるところがあるようです。まだ誓子先生に習っていないころですよね。

木枯 ええ、誓子先生にお目にかかったのは、戦後ですから。

――でも、誓子先生とは、どこか通じるものがあったのかもしれませんね。「血ノ原」「曼珠沙華」という非常に強烈な物が、宇陀という地名に配され、意図的にぶつけられています。これは構成俳句と言えるのじゃないでしょうか。


京都の一燈園に住み込む

木枯 ムーランルージュを見たり、陸軍省に勤めたり、ホトトギス系の句会に出たりという東京生活は、じつは二年ほどでやめてしまった、その後、京都に行ったんです。京都へ行って、一燈園に入りました。

――急にどうしてですか。

木枯 私は、一カ所にじっとしていると、だんだん窮屈になってくる性分なんですね。それと、先祖が京都の出でしたので…。

――それにしても、どうして一燈園のような修行道場へ入ろうと思ったのですか。

木枯 父が一燈園の信者でしたので、子どもの頃、夏になると、父に連れられて、毎年のように行っていたことは、前にもお話ししましたが、それでよく知っていたのと、なにか魅力を感じて、住んでみたいと考えたんですね。

――どんな生活だったのですか。

木枯 毎朝、早起きして、きちっと正座して瞑想をしたり…。六万行願と称して、雑巾とバケツをもって、近隣の家の便所を掃除して回るんです。掃除が終わると、お礼を行って帰ってくるという奉仕の生活ですね。

――そんな生活に入るというのは、身近な人の死とか、失恋とか、大きな動機があると思うのですが…。

木枯 別にそう言うことでもなかったんですが、やはり父の影響が大きいかったのかもしれませんね。

余談ですが、一燈園というと、尾崎放哉も入っていました。私の行く五年ほど前のことです。もし、放哉が一緒だったら、放哉についてあちこち放浪していたかもしれませんね(笑)。

――木枯少年だったら、ついて行ったでしょうね。

木枯 しばらくして、津へ戻ってくるのですが、家業の材木屋も、戦争で材木が統制になり、なかなかむずかしくなっていました。中学を出て家業を継いだ兄も召集を受けて、兵隊に取られたりしましてね。

私の方は、肺浸潤や十二指腸潰瘍を患ったりして虚弱ということになっていて、実際に兵隊検査でも「乙の第三」という判定でしたから、召集はないだろう、と思っていました。健康優良の甲に第一、第二があり、丙は、いまで言えば、身体に障害のあるような人たちで、私は、それよりちょっと上、というわけです。もっとも、徴用を受けて、強制的に工場勤めをさせられ、飛行機の部品などを作っていました。ちょうど、「みちのく」へ投句している頃ですね。

ところが、昭和二十年の二月に、なんと私にも召集令状が来ました。自分が兵隊に取られるなんで思ってもいなかったので、まさに青天の霹靂でした。


即日帰郷で命を拾う

――軍隊に入ることになったのですか。

木枯 浜松の航空隊に呼び出されました。もう浜松は空襲を受けて焼け野が原でしたね。そのとき集まったのは約三千人、京都、同志社、立命館などの学生がおおぜい交じっていました。

じつは、その三千人のうち、十名だけが兵役に不適格ということで、即日帰郷を許されたんです。その十人の中に私も入っていたんです。

――ええ、どうしてですか。

木枯 身体検査の時に、肺浸潤だと話したら、軍医さんは胸のレントゲン写真を見て「この程度なら大丈夫」と言うんです。弱ったな、と思いながら、十二指腸潰瘍も患ってると言ったところ、こちらの方は検査のしようがなくて分からないんです。「どういう症状か」と聞かれたので、「空腹の時に、じわーと痛いし、胃の幽門のあたりが朝晩ひどく痛む」と答えたのです…。

――それだけですか。

木枯 じつはもう一つ。浜松航空隊の広い敷地に、県別に分かれて、全員整列させられたときに、私は白いマスクをしていました。すると、係の兵隊から「貴様、なんでマスクなんかしているんだ」と怒鳴りつけられたので、「これをしていないと息苦しい」と訴えたんです。整列のとき、マスクしている兵隊なんかいませんから、これが効いたのかもしれませんね。

――ふだんからマスクはしていたのですか。

木枯 ええ、いつも厚いマスクをしていました。それにしても、軍医さんが、私の言うことを信用して、兵役免除にしてくれたのは奇跡のようです。あのときの三千人は、あまり遠くの戦場には送られなかったそうですが、それでもだいぶ死んだそうですから。私は運よく、命を拾ったんです。

――健康状態はどうだったのですか。やはり、日常的に身体がきつかったのでしょうか。

木枯 健康は、別にどうということはなかったんですが…(笑)。そんなわけで、その日のうちに浜松から津へ戻りました。途中、米軍の空襲を受けたりして、ずいぶん時間がかかって、ようやく家へ帰ってきたのですが、さすがに玄関から入りにくくて…。

――前の晩はお赤飯で祝ったり、みんなから「バンザイ、バンザイ」で送り出されたんですか。

木枯 そうです。こうやって帰ってきてからは、ましてそうですが、じつは以前から私は俳句をやっていることなどだれにも言わず、毎晩、夜遅くまでこっそり俳句を作ったり、小説を読んだりしていました。ぼちぼちですが、新しい俳句も作り始めていたんです。

そのきっかけは、十九年十二月に起きた大地震です。名古屋の三菱重工の飛行機工場が全壊したり、津でも家がたくさん壊れたり、燃えたりして、たいへんが被害が出ました。このときに地震の俳句を作ろうとしたのですが、伝統的な俳句のやり方では、どうにもうまく行かないんです。そこで、はじめて新興俳句のような作り方を試みたんです。十五、六歳の頃、日野草城の「旗艦」を手に入れたことは、前にお話ししましたね。

――たしか、古本屋さんで買ったのでしたね。

木枯 ええ。その「旗艦」で草城や神生彩史(かみおさいし)を知って、それまで作ったり見たりしてきた俳句とまったく違う俳句に非常に惹かれました。それ以来、折にふれて読んでいたのですが、大地震に遭って、はじめて新興俳句のような方法で自分の気持ちが表現できることに気づいたのです。地震の句はずいぶんたくさん作りました。

この頃から「みちのく」のような俳句を作りながら、同時に、新しい俳句も作り始めていたのです。

(第6回に続く)

2011-08-07

八田木枯 戦中戦後私史 第4回 「みちのく」風生選巻頭を飾る

八田木枯 戦中戦後私史
第4回 「みちのく」風生選巻頭を飾る

聞き手・藺草慶子 構成・菅野匡夫

承前:第3回 ホトトギス発行所とムーランルージュ

『晩紅』第18号(2004年3月25日)より転載

「玉藻」の問・答欄

―― 前回、ホトトギス発行所に置かれていた句稿の綴じ込みのことですが、どなたか詳しく覚えていらっしゃる方はいないかと思いまして、ちょうどお目にかかる機会があった深見けん二さんにおうかがいしたら、「それは戦前のことでしょう。話には聞いておりますが、私は実際に見たことがありません」というお話でした。深見先生は直弟子ですし、八十代になられる方です。それほどの方でも当時のことを知っている方は少ないのですね。ですから、木枯先生が十代に見聞きなさったことは資料的にもほんとうに貴重なものなのだと、あらためて思いました。

木枯 深見さんは、昭和十年代の後半ごろから「玉藻」に出句していましたね。「けん二」という、当時としてはめずらしい名前が印象的で、よく覚えています。あのころ、おそらく大学生だったでしょう。だから、僕らみたいに俳句ばかり作っているわけがないですよ。ましてや、戦争中でしょう。俳句に熱中したり、レビュー見に行ったりなど、学生ができる時代じゃなかったのです。だから、ご存じないのも無理ありません。

――木枯先生ご自身も話しているうちに、記憶の糸がほぐれてきて、忘れていたことをいろいろ思い出されておられるのではないかと思います。ぜひ、思いつくままご自由にお話しください。

木枯 この前、俳句文学館へ行ったときに、戦前の「玉藻」をコピーしてきました。これは昭和十七年ですね。このころの「玉藻」には、問答欄というのがあって、分からないことがあると、手紙で尋ねることができたのです。私はだいぶ質問を出したらしく、ちょくちょく掲載されています。

--俳句に熱中していた様子がうかがえますね。それにとても純粋です。こんなに親身になって答えてくれるQ&Aがあったなんていいですね。

木枯 しかも、答えているのは虚子です。

――たしかに。虚子がしゃべっているみたいです。「はい、私の俳話にも書いてありますが、…」などと出ています。それにしても「玉藻」は、「立子へ」とか「問・答」とか、虚子がずいぶん力を注いでリードしていた雑誌だったのですね。

木枯 それは、もう、虚子先生は、「立子」「立子」でした。よほど娘の立子さんが可愛かったのでしょう。また立子さんも才能が豊かで、句が上手でしたから…。

--虚子先生と直接お話ししたことは…。

木枯 昔は、たとえ句会でも先生に対して俳句の話をするなんてことは、まずないですよ。先生が句会の後で短く話されたことを聞いて、あとは自分で考えていくより仕方がなかったんです。

――それでは、問・答欄はありがたかったですね。

木枯 はい。ほかのホトトギス系の雑誌では、こんな欄はありません。「玉藻」だけでしたね。


「みちのく」と富安風生
――話は変わりますが、ここに赤塚一犀さんから送っていただいた「みちのく」の富安風生雑詠欄に掲載されていた木枯先生の俳句があります。昭和十九年と二十年の作で、巻頭を飾った句も数多くあります(別掲の抄出参照)。きっと赤塚さんが苦労して探してこられたのだと思うのですが、「みちのく」に富安風生というのが、よく分からないのですが。風生と言えば、…。

木枯 「若葉」でしょう。

――風生と「みちのく」とは、どういう関係だったのでしょうか。

木枯 当時はホトトギスの同人で、自分の雑誌を持っている人は、それほど多くはなかったのです。もちろん、今のようにたくさんの結社誌があったわけでもありません。「ホトトギス」があって、「玉藻」があり、年尾さんの「鹿笛」、鈴鹿野風呂(のぶろ)の「京鹿子」、野村泊月の「桐の葉」、そして大阪の「山茶花」。この「山茶花」というのは、ホトトギス系でもいちばん人気があって、大坂の人たちは全員加わっていたほどでした。ここの雑詠欄は、昭和十八年ごろ、選者が四人もいたんです。その中で、会員の投句をいちばん集めて人気があったのは、皆吉爽雨でした。それから田村木国。知っていますか。

――名前だけは。

木枯 そして中村若沙、大橋桜坡子、この四人でした。最後は、大橋敦子さんのお父さんですね。だから、ちょっと憚られるんですが、大橋さんはあまり投句が集まらなかった…。あと十五年も経てば、もっと自由にいろんな話ができるんですがね。十五年といえば、私も九十五くらいですから…。

――恐いもの知らずですね(笑)。

木枯 ええ。そう、そう「みちのく」の話でしたね。記憶では、創刊がもっと前だと思っていたのですが、昭和十九年なんですね。もう、戦争もたけなわのころです。「みちのく」は、もともと福島県下で発行されていた四つの俳句雑誌を統合して、できたものです(注=昭和二十一年に終刊)。戦時中の統制経済下では、そうしなくては紙の配給を受けられなくなっていたんです。そういう合同雑誌でしたから、選者に風生のような有名俳人を招請したというわけです。というのも、自分たちが選者では投句も少ないでしょうし、また、選者によって投句のばらつきが出て、人気の差がはっきり見えてしまうのを、嫌ったんでしょう。

――俳句大会で、投句募集をしやすくするために、著名な俳人を選者にする、といった感じでしょうか。

木枯 まあ、そんなところです。


雑詠欄の巻頭を飾る
木枯 ここに「みちのく」第二号(昭和十九年十二月号)の表紙のコピーがあります。虚子先生の「冬空」二句の原稿がそのまま表紙を飾っています。この号に名前の出ているのが、もともと自分の雑誌を持っていた人たちですね。ホトトギス系というわけではなく、土地の有力俳人たちです。この号で、私が初めて巻頭を取ったんです。鰤の句ですね。

――創刊号には投句しなかったのですか。

木枯 創刊号(十一月号)は、まだ投句欄がありませんから。投句は、二号からです。

――それじゃ、最初の号で、いきなり巻頭ですか。すごいですね。

木枯 ええ。そう、そう、先ほど言い忘れたのですが、風生先生を選者にしたのは、一つには、陸奥を読んだあの有名な句のお陰でもありましょう。

  みちのくの伊達の郡の春田かな

虚子先生が「これ以上の陸奥の句は出ない」と言って絶賛した句ですし、現代から見ても、実に絶妙な俳句ですね。だから、「みちのく」の有力俳人たちも「恐れ入りました」ということになったでしょうし、「陸奥と言えば、風生」と考えたにちがいないです。

――「みちのく」のことを、木枯先生はどこでお知りになったのですか。

木枯 前回、陸軍省に勤めていたとき、橋本石斑魚(うぐい)さんと知り合ったことを前回お話ししましたが、実は、橋本さんは福島県郡山の出身なんです。そんなわけで、戦争中、たしか昭和十八年ごろに、橋本さんを訪ねて、私は郡山に行っているんです。上野駅から夜行列車に乗って、ことこと、ことこと、出かけていって、白河あたりまで行くと、ずいぶん遠くまで来た感じがあって、「ああ、陸奥か、ここからは」と感慨を覚えたものです。郡山に着くと、もう最果てに来た、そんな感じでしたね。戦争中でしたから、駅前も真っ暗でしたし…。ですから「みちのく」創刊のことは、よく知っていたんです。


インテリの街・新宿

――先生が石斑魚さんと知り合ったのは、十六歳ぐらいですね。橋本さんは何歳くらいだったのですか。

木枯 たぶん、十九ぐらいでしょ。前回話しましたが、僕が、十二指腸潰瘍で海軍病院に入院していながら、ちょくちょく東京へ出てきていたのが中学二年です。そりゃ、東京はおもしろいですからね。東京駅を降りると、目の前に丸ビルが聳えていて、あんな大きなビルはどこにもないんだから。

――たしかに、新しくなった丸ビルもお洒落で立派なビルですしね。昔もそんな存在だったのでしょうか。

木枯 「東京行進曲」の西条八十の歌詞にも入っていますね。「恋の丸ビル あの窓あたり 泣いて文書くひともある」「広い東京 恋ゆえ狭い」とか。とにかく日本中の憧れでしたからね。よく「戦争中は物がなかった」などと言いますが、そんなことはありません。ほんとうに物がなくなったのは、戦後ですから。戦争中は、お金さえあれば、どこからか知らないけれども、お酒も煙草も出てくるんです。とにかく東京に来れば、何でもありましたから、僕らにとって東京は魅力的でしたね。

――ムーランルージュとか。

木枯 ええ。そうそう、この間、深夜放送を聴いていたら、ムーランルージュのことを語ってました。あのレビューの開場は、昭和六年の十二月三十一日だったそうです。そして昭和十六年十二月八日の開戦後は、レビューは禁止になったそうですから、僕らが行っていたころは、もう最後のころだったんですね。

  劇場の裏を通りぬ秋の雨

当時、作った句です。ムーランルージュなんかのあったあたりも、裏へ行くと、もう何もなくて真っ暗で、まして秋の雨なんかが降っていると、そりゃ、淋しいものでした。だいたい劇場の裏は、うらぶれて、もの悲しい感じがありますからね。

――新宿のどのあたりにあったのですか。

木枯 武蔵野館は、ご存じでしょう。あの前の通りを甲州街道の方に向かって行って、甲州街道の手前にありました。その甲州街道の向こうは、いまは高島屋ができましたが、あのあたりは、旭町というドヤ街でした。

いまでこそ、西武新宿駅のあたりとか歌舞伎町とかは、ご存じの通りの繁華街ですが、あの当時は、何もない空き地で、人の近づくような場所じゃありません。あんなところを、どうして歌舞伎町と名付けたんでしょうか。賑やかだったのは、新宿通付近だけでしたね。デパートの伊勢丹、三越、そして中村屋、高野、紀伊国屋、洋食の早川亭などがありました。

新宿というと、早稲田の学生、文学青年や絵描きなど若い芸術家たち…、当時の言葉でいうところの「インテリ」たちのたまり場だったのです。おそらく、大正の末からそうだったと思いますよ。おしゃれな銀座、大衆的な浅草とは、ひと味違っていました。


「精進なさいませ」
――前に、波郷がムーランルージュへ通っていたことをうかがいましたが、やはり、都会の芸術的な雰囲気に憧れて、地方(松山)から出てきた少年だったのでしょう。木枯先生に似ているかもしれないですね。

第一句集『鶴の眼』(昭和十四年)に出てくる波郷の青春俳句とでもいいますか、あのみずみずしい青春性は、夢を抱いて東京に出てきた地方の青年特有のものだと思います。

  プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ   バスを待ち大路の春をうたがはず
こういう、みずみずしい喜びの句は、都会に生まれ育った少年には、決して詠えませんね。しかも、生まれも育ちも性格も木枯先生と違う波郷には、よけい解放感が強かったのでしょう。

木枯 波郷がムーランルージュに通ったのは、よく分かります。つまり、あの人は銀座じゃなくて、新宿ですね。お酒を飲むのでも、ちゃんとした料亭より、暖簾に首突っ込んで立ち飲みする方が好きなタイプの人ですよ。

――暖簾に首突っ込んで…ですか。

木枯 そうです。そして飲み終わって帰りには、暖簾で手を拭いて…(笑)、そういう感じの人ですよ。

――「みちのく」の話に戻りますが、他の号を見ても、木枯先生の句が、ずいぶん取られていますね。一句だけの人が少なくない中で、四句、五句が多いですし、巻頭句もあります。

木枯 このころは、この雑誌のレベルでも、五句出して取られるのは一句か二句というのが普通でした。もっともホトトギスなら、一句取られただけで、もうたいへんです。僕なんかでも、そりゃ、「みちのく」なら通りますけど、ホトトギスはほんとうに通らないんですから。

――「みちのく」で、目立って活躍されたので、選者の風生先生から、お手紙をいただいたそうですね。

木枯 お葉書をいただきました。「あなたは大成すると思いますよ。せいぜい精進なさいませ」と書かれていました。精進というと、いまは、精進揚げぐらいにしか使いませんが、あのころはよく使われて、いい言葉ですね。そりゃ、うれしかったですし、励みにもなりましたね。だから、あのままいっていれば、おそらく「若葉」へでも入って、ホトトギス流の俳句を続けていたでしょうね。

しかし、実は、もう少ししてくると、私の句が変わってくるんです。そのあたりのことは、また先の話としておきましょう。 


八田木枯少年期俳句  藺草慶子抄出

桃頭(トガシラ)の晴れゐて遠し鰤を曳く

施餓鬼会のはじまる海の横たはる

遍路宿裏を軽便がたがたと

蓮池へ門火の塵を掃きにけり

舷にくづるる線香川施餓鬼

門火焚く伊勢には古き廓町

花南瓜母屋厩と畑へだて

芝能やひらきし扇金を得て

榾主や壁をたたいて牛叱る

ふたたびの春雨強し藪襖

山川の怒りて白し梅の花

金色の蛇うづまける寝釈迦かな
「みちのく」風生選雑詠欄より


(第5回に続く)

2011-07-31

八田木枯 戦中戦後私史 第3回 ホトトギス発行所とムーランルージュ

八田木枯 戦中戦後私史
第3回 ホトトギス発行所とムーランルージュ

聞き手・藺草慶子 構成・菅野匡夫

承前:第2回 父の句、そして俳句少年以前

『晩紅』第17号(2003年11月25日)より転載


病院を抜け出して東京へ

木枯 俳句少年時代の思い出をひとつお話ししましょう。昭和十五年、十五歳のとき、肺浸潤と十二指腸潰瘍を患って、海軍病院に入院しました。おかげで嫌いな算術から解放されてうれしかったものです。夜の九時半ごろ、津をに東京行きの夜行列車が通ります。あるとき退屈な病院を抜け出して、その夜汽車に飛び乗ってしまいました。

――ええっ。病人なのに、ですか。

木枯 だれにも黙って、たいした荷物も持たずに、東京へ行くためです。実を言うと、一度だけではなかったのです。東京駅に着くのは、朝の六時半ごろ、朝食をとり、ぶらぶらして時間をつぶしてから、前の丸ビルの中にあるホトトギス発行所へ出かけるのです。発行所には前後四、五回は行きましたね。虚子先生や星野立子さんは、十時ごろに鎌倉から発行所に見えます。ほかに三人ほど事務の方がいましたが、東京牡丹会の指導者でホトトギス同人の市川東子房先生も和服姿で出勤されていました。

昭和十年ごろの「ホトトギス」雑詠欄に「丸ビルの八七六区あふひの忌」という句が載っていました。「あふひ」は本田男爵夫人の本田あふひさんのことですね。この句の通り、発行所は、丸ビルの最上階、八七六区にあったのです。

入口を入ると、左手に六畳ぐらいの応接間があって、そこの机の上に選の済んだ句稿が分厚く綴じて置かれていました。この綴りの選句は、すでに原稿になって印刷所に入っているのですが、まだ雑誌にはなっていないものです。そこで自分の句が、虚子選に入っているかどうか、句稿を一枚一枚胸おどらせながらめくり、確かめるのです。

その当時、句稿は雑誌に貼付の雑詠投句用紙を使うようになっていましたが、やがて昭和十八年ごろになると、以前のように半紙に墨書きして投句票を貼るという形式に戻りました。

――えっ、墨書きで投句していたのですか。

木枯 今でもはっきり覚えています。その綴りの巻頭は、「東京・川端茅舎」でした。今考えたら、そっと一枚抜いてきたらよかった(笑)。

――直筆ですものね。

木枯 その句稿に虚子先生の丸が赤鉛筆で、ぎゅっ、ぎゅっと付けられていました。端正な字でしたね、茅舎は。

とにかく巻頭から十人くらいまでは錚錚たる作家が並んでいました。風生、青畝、立子、青邨、僕の師の素逝…。

繰っていくうちに、四日市や津あたりの知った人が出てきて、一つぐらい丸が付いていると、「あいつ、通っとるわ」と思ったり、一句ぐらい丸の付いた自分の投句も出てきてほっとしたりするわけです。全然採られないのが大部分ですから、一句選ばれたといえば、たいへんなものでした。そんなふうに選句を調べて、またその日の夜行列車で津へ帰るわけです。

――ほんとですか。それは、病気の少年のやることじゃありませんね。(笑い)

木枯 帰ったら、病院で叱られたり、いろいろあったんですけれどね。ホトトギスの連中に、その選句結果を教えて上げると、「えっ、入っとった」と大喜びしたりするんです。

――そのためだけに、抜け出して東京に行ったのですか。

木枯 ええ。次号の「ホトトギス」を待っていられないというのと、薄暗い病院の中で、まずい食事を食べるのがかなわなかったんですよ。病気だといっても、とくに身体が痛むわけではないし、退屈だったんです。だから、思い立つと、鞄一つ持つくらいで、切符を買って汽車にさっと飛び乗るという感じでしたね。


レビューとチャーハン

木枯 実は、東京出てくると、ほかにも寄るところがあるのです。ムーランルージュ…。

――十五歳の少年が…。

木枯 ええ、当時、新宿にあった有名なレビュー劇場ですね。

――それを見に抜け出して来ていたのですか。

木枯 まあ、そうですね。

――さっきの話とだいぶ違いますね(笑)。

木枯 実は親戚の者が早稲田大学に通っていましたので、病気がだいぶよくなってからのことですが、その下宿に泊めてもらって、ムーランルージュの同じレビューを毎日のように見に行きました。あとで知ったことですが、石田波郷もムーランルージュが大好きで、ちょうど同じ頃よく通っていたそうです。

――その下宿に何日か泊まってから病院に帰ることもあったのですね。

木枯 だから病院では、ひどく叱られました。

――でも、元気になって帰ってくるのですね(笑)。旅費はどうされたのですか。

木枯 小遣いはもらえませんから、いろんなものを売って金を作ったんです。たとえば、親父の残した『現代文学全集』なんか、古本屋に一冊売ると、一円だったかな、とにかくそんなことをして金を作ってました。

――東京へ行く費用はどのくらいかかったのですか。

木枯 津・東京は往復で十円くらいでした。渋谷から新宿の往復運賃とムーランルージュ、そして牛丼かチャーハンを食べて、あわせて一円ぐらいでした。

――本は高かったのですね。

木枯 本は値打ちありましたね。とにかく病院に入っていると、昼間はそれほどでもないのですが、夕方になって薄暗くなってくると、うずうずしてきて、東京へ行きたくなるんです。だから、『現代文学全集』もあわせて二十冊以上売ったかもしれませんね。

――お母様などに気づかれなかったのですか。

木枯 亡くなった父の書斎にあったものですから、気にとめていなかったでしょう。

――お父様は、たくさんの蔵書を残されたそうですから、少年にとってはたいへんな財産でしたね。

木枯 新潮社の『世界文学全集』もたぶん五十巻ぐらいあって、あれもちょくちょく売っていました。金に困って本を一冊売ったというような文章を何度か読んだことがありますが、なるほど、本というものは値打ちがあるんだなと思いましたね。

ホトトギスの発行所の応接間に、選句の済んだ句稿の綴りがあるということは、あまり聞いたり読んだりしたことがありません。でも、もしかすると、東京近辺の人にはよく知られたことで、発行所を訪ねて虚子先生の選を確かめては、一喜一憂していたのかもしれませんね。

――丸ビルの最上階に発行所があるというのはすごいですね。

木枯 自宅で十分なのに、東京駅前のすばらしいビルの中に置いたんですから、それは虚子先生のすごいところでしょうね。「東京行進曲」に「恋の丸ビルあの窓あたり」という歌詞がありますが、あの歌が昭和四年ぐらいですから、丸ビルは、大震災のあと、大正末年に完成したのでしょうが、当時のもっとも有名なビルでした。

――東京では、ほかにどんなところへ行かれましたか。

木枯 東京と言えば、一番いいのはもちろん銀座です。東京を歌った歌謡曲でも、一番が銀座、二番神田、三番浅草、そして新宿は四番です。その新宿のムーランルージュ以外で僕が行ったのは、やはり浅草六区です。

金竜館とか常盤座のような実演の小屋によく行きましたが、よかったですね。昭和十年代は、シミキン(清水金一)とか、エノケン(榎本健一)、ロッパ(古川緑波)、金語楼(柳家)なんかが活躍していました。先輩の人たちは、浅草へ行って、屋台で天丼を食って映画を二本見て、五十銭だった、とか言ってものですが、盛り場といえば、やはり浅草でした。

銀座へは、親戚の早稲田の学生と一緒に、ビヤホールのライオンなんかに行きました。東京と地方の違いをいちばん感じたのは食べ物屋でしたね。

――そんなに違いましたか。

木枯 チャーハンが好きで、東京へ出てくると、よく食べましたが、チャーハンを食べさせる店なんて、県庁所在地の津でも一軒ぐらいしかありませんし、西洋料理の店が三軒ぐらいはありましたが、どれも若い者が入れるようなところではありませんでした。


陸軍省に勤める

――津では、句会などにも出ていらしたのですか。

木枯 津というより三重県の「ホトトギス」の句会に出ていました。

――十五歳の頃ですか。

木枯 病院へ入る前の十四歳の頃から行っていました。

――ほかに若い人はいましたか。

木枯 私と同じぐらいの、中学二年か三年ぐらいの者もだいぶ来ていましたね。そのあと、東京でも「ホトトギス」の句会に出るようになりました。

――病院を抜け出して、句会にも出ていたのですか。

木枯 いや、そうではなくて、その後、津から逃げ出しまして、東京で下宿して陸軍省にちょっと勤めるようになっていたんです。

――ええっ、どうしてまた陸軍省なのですか。

木枯 実は、親戚に陸軍少佐がいまして、僕が「東京へ出て来て勤めたい」と相談したら、「それだったら、陸軍省に来い」と引っ張ってくれたのです。それで勤めはじめました。

――いくつぐらいのときですか。

木枯 十六歳ぐらいですね。

――どんな仕事をされていたのですか。

木枯 仕事をするというより前に、陸軍省のようなお役所は、それは何時から何時とすべてきちんとしていますから、私のような者にはなかなか勤まらないのです。

とにかく陸軍少佐の伯父さんの一声ですから、すぐ「明日から来い」ということになったのですが、運悪く翌日が雨になってしまいました。何も持たずに伊勢から出てきたもんだから、傘がない。そこで「こんな日に出ていっても仕方がない」と思って、下宿で寝ころんで過ごして、翌日に出かけたら、「雨ぐらいで来ないとは何事だ」とえらく叱られました。

――すごい十六歳ですね。

木枯 そんなことがあって、三宅坂の陸軍省に勤めはじめたのです。晩紅舎(新宿区三栄町)のすぐそばにある市ヶ谷の防衛庁、ここに昔は大本営と参謀本部があったのですが、その参謀本部に三日に一度ぐらい、三宅坂から書類を届けに通っていました。

参謀本部は、木を敷き詰めた広い廊下があって、その廊下を、まるで今の北朝鮮の兵隊みたいに、大股でぱっぱっぱっと歩いて行かなくてはいけないのです。ぶらぶらしていようものならたいへんです、みんな軍人ばかりですから。そして、目的の部屋に着いたら、大声で「はい。だれだれ」と名のってから扉を開けて入り、書類を出すんです。すると、「よし」と言って、書類に判をぽんと押してくれるんです。「戦争が廊下の奥に立っていた」という、あれ、そのままですね。

まあ、そういう仕事をやっていたのですが、なにしろ朝は十時半ごろ出ていったり、早く帰ってしまったりするものだから、長続きしなかったんです。でも、あそこへ勤めたお陰で知り合ったのが、橋本石斑魚(うぐい)さんです。私よりは年上で、もう亡くなりましたが、「雷魚」でも一緒でした。橋本さんはしっかりした人で、当時、夜学にも通っていましたが、私の方はだらしなくて、夜学に行くと言っておいて、ムーランルージュへ…(笑)。

その橋本石斑魚も俳句をやっていましてね、それじゃ句会をしようと言うことになったんです。

――陸軍省句会ができたんですか。

木枯 いや、いや、そりゃ陸軍省は軍人ばかりだから、俳句をする人間なんかいないですよ。

――そうすると、どういうメンバーですか。

木枯 やはり、ホトトギスの傍系誌の人たちです。

――何人くらい集まったのですか。

木枯 「牡丹会」というのが、十人くらいですか。ほかにも会がありました。そうそう、いま思い出したのですが、四谷駅前の喫茶店で、俳句の会がありましてね、僕の句が天地人の天に入って、なにか褒美をいただいたことがありました。

  雲の峰東京駅は古りにけり

こんな句でした。たしか昭和十六年のことです。そんなわけで、東京に出てきてからも、あちこち句会に出ていました。もちろんホトトギス系の句会だけですけれど。


虚子の選に入る

木枯 ホトトギスと言えば、星野立子さんの句会は、参加人数を制限していましてね、通知が来た者だけしか出席できないんです。その通知を貰って句会に出たことがあるのですが、場所はどこだったか、後楽園だったかもしれませんね。そのとき、虚子、立子ほかに同人のえらい人が二人か三人いて、参加者は全部で三十人ぐらいでした。そのときに、僕の句が特選に入ったんです。

――えっ、虚子の特選ですか。どんな句ですか。

木枯 ずいぶん老成したような句なんです。

  上厠使うことなし濃山吹

――いい句ですね。でも、なんで十六歳でこんな句をつくったんですか。

木枯 というのは、やはり僕は「ホトトギス」のこういう句に影響されていたんでしょうね。だから昭和十六年から十七年にかけて「ホトトギス」の雑詠欄にに入った僕の句は、みんなこういった句ばかりですよ。昭和十九年ごろになってくると、新興俳句みたいな句を作ったりしましたけれど、それまでは、みんなこういう句です。

――八田木枯という名前をみんなに覚えられてしまいますね。

木枯 八田木枯という名前は、字画が少なくて、わりに目立つらしいんです。それと、名前を見て、みんな六十歳ぐらいと思っていたらしいんですね。顔を合わすということも、めったにありませんから。

――名前だけじゃなくて、句も老成していますよ(笑)。立子さんの句会には、若い人はいたのですか。

木枯 それはいませんでしたね。それと思い出すのは、あのころの句会には、必ず、隅に披講専門の人が座っていたことですね。すばらしい声で、節回しがよくて、ゆっくり披講していくんです。そのひとが読み上げていくと、どんな句でも名句のように聞こえてくるんですよ。

僕なんか若いから、隅のほうにいるんですが、句が披講されて、「木枯」と名のると、だれだろうと後を振り返る人もいましたね。

――特選を取って、虚子先生の短冊とかご褒美はいただけたのですか。

木枯 いや、「玉藻」の句会は、そういうものはありませんでした。

――ホトトギスの句会というと、ほかにどんなのがあったのですか。

木枯 東京では、「牡丹会」のほかに二つぐらい出ていましたね。

――少年時代の作品を集めた句集を現在、編まれていると、うかがいましたが…。

木枯 いま、ぼちぼち作業をしているところです。『八田木枯少年期俳句集』と題名だけは決めているのですが。

――何句ぐらい収められるのですか。

木枯 二百句ぐらいですね。「天狼」が昭和二十三年ですから、昭和十五年から始めて「天狼」以前の句がまだたくさんあるのです。というのは、戦争中、電灯の明かりが外に漏れないよう黒い布で覆いをして…。

――灯火管制ですね。

木枯 そうです。灯火管制をご存じでしたか。その電灯の下で、一万句を作ろうと思ってはじめて、七、八千句まで作ったんですよ。

――それは何年ごろですか。

木枯 昭和十七、八年ごろからですね。

――それでは、ものすごい数の句があるんですね。

木枯 あるでしょうね。たぶん「天狼」に入るまでに約四万句はあるでしょう。

――ええっ。四万句ですか。それでは、次回は、その少年期の作品についてうかがいたいと思います。



※写真は「週刊俳句」編集部によるキャプチャーと掲載。

(第4回に続く)

2011-07-24

八田木枯 戦中戦後私史 第2回 父の句、そして俳句少年以前

八田木枯 戦中戦後私史
第2回 父の句、そして俳句少年以前

聞き手・藺草慶子 構成・菅野匡夫

承前:第1回「ホトトギス」に始まる

『晩紅』第16号(2003年7月25日)より転載

大正時代の新感覚

木枯 父(海棠)の句のことを話したいと思って、十句ほど書き抜いて持ってきました(後掲)。全部集めれば二百句ぐらいはあるかもしれませんが、残っている資料が実に少ないのです。前にも話しましたが、昭和二十年七月の空襲で、二十年分ぐらいあった「ホトトギス」の合本が全部焼け、父の日記も明治の末ごろから昭和五年ぐらいまで二十年分ぐらいあったのですが、これも全部焼けてしまいました。昔の人は日記をまめに書きましたから、貴重な資料だったのですが。

その父の日記の中に俳句が書きこまれていました。そのほか句会報なんかにも父の句が出ていました。「ホトトギス」には、北海道から九州まで各地で開かれた句会の句会報が三段組にして載ってまして、その中に三重県では父のやっていた寒鴉(かんあ)会なども入っていました。そういうところから、父の句を見つけては拾ったのが手元にあるのです。

――いつごろの句ですか。

木枯 大正十年ごろですね。いまから八十年以上前です。父が結婚したのが大正九年です。実は、私の家は三代続いて婿養子だったのですが、父はその三代目の婿でした。

――そうすると、木枯さんは待望の男の子というわけですね。

木枯 いやいや、私は長男じゃありません。兄が生まれて、ようやく養子じゃなくなったんですが、大正十年十月、兄が生まれたとき、父はこんな句を詠んでいます。

  木枯や出産の電話十時過ぎ

この句を読むと、昔はみんな自分の家で出産したものですが、兄は病院で生まれたということが分かります。そして病院から電話があったんですね。電話といえば、町内で2軒か3軒しかなかった、そんな時代ですね。私の家は、材木商だから電話があったわけですが。

こういう句を読んでみると、俳句というのはあまり架空のことばかりではつまらなくて、折にふれて日記風な句も作っておくと、そのときの様子がよく分かりますね。木枯が吹いていたんだな、兄が生まれたのは十時ごろだったのだな、と。

――お父さんは何年のお生まれですか。

木枯 明治二十九年です。学校を卒業してほどなく製材関係の仕事で、北海道へ行ったようです。その後、仕事のかたわら、新聞社から頼まれて、北海道における製材関係の労働事情といった報告を伊勢新聞に連載していたのです。その連載の記事を読んでみたいと思い、いまひとに頼んだりして探しているところです。たぶん大正四、五年ごろのことだと思うのですが。

――お生まれから計算すると、二十歳くらいですね。ということは、これらの俳句は二十代の作品ということになりますね。

木枯 もちろん、そうです。

――それにしては、ずいぶん大成した句ですね。それにどこか木枯さんの句に通じるところが見受けられるようです。幼いころにご覧になって自分も俳句をやりたいなと思ったり、影響を受けたことがあるのでしょうか。

木枯 いや。父の句を知ったのは、父が亡くなって後、私が小学校を卒業したころです。父の俳句を見てまず思うことは、八十年前といっても俳句なんてあまり変わらないな、ということですね。

  木枯に伐られし山の明るさよ

この「明るさよ」の「よ」の使い方は、大正時代の俳句にはあまりないかもしれませんね。

――高屋窓秋の「山鳩よ見ればまはりに雪が降る」というのはいつごろでしたか。

木枯 あれは昭和十年ごろですからね。

――この時代に「明るさよ」と詠んでいるのは、ちょっとびっくりです。「木枯に伐られし」は、もちろん擬人化ですが、木々が木枯になぎ倒されて広々とした山の明るさを詠むという感覚が新しいですね。

木枯 少年のころに読んだときはそういう感じは全然分からなかったのですが、いま読んでみると、なるほどこれはちょっと新しい感覚だな、と思いますね。まあ、たぶん鈴鹿野風呂(のぶろ)といった「ホトトギス」の人たちとの交わりの中から生まれてきたんでしょうね。この十句の中で「新涼や手桶に赤き仏花」は、水原秋桜子に採られています。「ホトトギス」には、題を出して集まった句を、水原秋桜子や原石鼎が選句する欄がときどきあったんです。

――「新涼や」がいいですね、とくに赤という色を点じたところが。

木枯 私がいちばんはじめに読んだ句というのは、やはりこういう父の句で、そこから俳句に入っていったわけです。

  椎の根に白く匂ふや蘭の花

これなんかも、なんか新しいところがあるように思いますね。

――蛇笏の「春蘭の花とりすつる雲の中」に通じる格調を感じます。昔の二十五歳は、いまの二十五歳とは違うのでしょうが、それにしても年を経た落ち着きの感じられる詠みぶりですね。


島村元の与えた刺激と影響

木枯 話が変わりますが、わずかに空襲を免れて手元に残った父の蔵書を持ってきました。「漱石俳句集」(大正九年刊)、「島村元句集」(大正十三年刊)、そして「袖珍(しゅうちん)・俳句歳時記」(大正七年刊)の三冊です。袖珍はポケット版ですね。あの時代は、夏目漱石は非常に人気があってみんな読んでいたんですね。

慶子さんは、ホトトギスの島村元(はじめ)はご存じですか。島村元という人は、お父さんが、趣味の能を通して高浜虚子と友達だったという縁で、ホトトギスに入ったんですね。慶應大学の学生時代に病気になり、それから俳句をはじめたのです。実際に俳句を作っていたのは十年ぐらいで、若くして死んでしまうのですが、虚子がホトトギスの後継者と考えていたくらいの俳人でした。島村元の句は、いまでは、知っている人がほとんどないでしょう。

  囀やビアノの上の薄埃

――はい。有名な句で歳時記にも載ってますね。

木枯 これ以上の「囀」の句はないといわれた句です。余談ですが、島村元には「春雷や蒲団の上の旅衣」という句もあって、それ以来「…の上の…」というのが大流行したといわれてるんです。いずれにしても大正十年ごろの句ですから、とても新しい句です。

――取り合わせの感覚が新鮮ですね。

木枯 父はこういう句に刺激を受けたのだと思います。非売品だった「島村元句集」を入手して愛読していたんですから。島村元の俳句には品格があって、どこか後年の松本たかしにも似たところがあります。俳句を作りはじめたのは大正二年ごろからで、ホトトギスでは非常に注目された俳人です。

――そうすると、お父様が十代から二十代のころは、島村元の全盛期に当たるのですね。

木枯 だから島村元につよく刺激されたかな、と思うのです。「島村元句集」もそんなに多くの部数を作ったとは思えませんね、それを入手していたくらいですから。ほかに父の蔵書で残っているのは長谷川零余子です。

「袖珍・俳句歳時記」を見ますと、父の旧姓「石井」の蔵書印が押されていますから、これはおそらく学生のころから愛用していたものでしょう。

――そうすると、俳句は十代のころからずっと続けておられたのですね。

木枯 ええ、学校の雑誌なんかにも俳句を載せています。なにしろ俳句の盛んな土地柄でしたから。


母の思い出、父の思い出

――お母様は、どんな方だったのでしょうか。

木枯 母は東京の女学校へ行きました。大正のはじめのことですから、女の人が伊勢からはるばる東京まで勉強に行くというのは、いまのアメリカやヨーロッパへ留学するというのよりたいへんなことだったかもしれませんね。母の叔母さんに当たる人が、東京に住んでいて英語の先生をしていたのだそうで、そこへ下宿して女学校へ通ったのだそうです。最近、偶然に分かって驚いたのですが、その叔母さんの家というのが、四谷坂町で、この晩紅舎(新宿区三栄町)の目と鼻の先なのです。

母は、夏休みになると、汽車で十何時間かかって津の家まで帰ってくるのですが、津の駅に下りると、なにしろ葡萄茶(えびちゃ)の袴に編み上げの革靴という、東京の女学生のスタイルですから、人がおおぜい寄ってきて、もの珍しさでじろじろ眺められたものだそうです。

――ずいぶんハイカラな方だったんですね。でも学校を終えて職業婦人になったりはされなかったのですね。

木枯 まだ職業婦人という言葉があったかどうか、という時代でしたから。

――どういうご縁で結婚されたのですか。

木枯 父は、伊勢の一志(いちし)郡の山林家の三男坊だったんです。

――山林家? 山持ちの家ということですか。

木枯 そうです。山林を持っていて、大きな木を五本も切って売ったら、一年楽に食っていける、というのですから、山林家というは楽ですよ。

――そうですか。それではお父様は、もともと林業の仕事をしていらして、北海道の大沼に行かれたのもそういうお仕事の関係だったのですね。

木枯 そうだと思います。

――ふだんのお父様の思い出というと、どんなだったのでしょうか。いつもうちにいらしたのですか。

木枯 材木商でしたから、普通の勤め人とはまったく違う生活でした。人は多いし、朝は早いし、まず家庭という感じはまったくありませんでしたね。大工なんかが朝早くからおおぜい来て、材木を持ち出して行くわけです。昔の商売人の家はみなそうですが、人が来るまでには掃除なんかもきちんと済ませておかなくてはいけませんし。

――おおぜいの雇い人がいたのですね。

木枯 関東では小僧といいましたが、私たちのところでは丁稚ですね、そういう人が十五人ぐらい朝早くから忙しく動いているんですから、子どもだからといってかまってくれないですよ。

――お父様の働いている姿を間近に見ていたわけですね。俳句を作っているところなどもご覧になっていたのですか。

木枯 商売人ですから、とてもとても俳句なんか作っているような暇はありません。まあ、月に一回ぐらい句会に出たりしていたんでしょうね。それでも、ほかに謡をやっていまして、謡と俳句だけはずっと続けていたようですね。

――ご兄弟は何人ですか。

木枯 兄と私の二人兄弟です。

――お兄さんは俳句はやらなかったのですか。

木枯 やったと言えるほどでもないですが、それでもホトトギスに十回ぐらいは入選したでしょう。

――兄弟で出していたんですね。

木枯 その当時、親戚にも俳句をやっている人は何人もいました。

――お母様はなさらないのですか。

木枯 晩年に「霧の音」ですこしやっていました。


出自は京の五条の問屋町

――ほかにご家族は…。お祖父様はいらしたのですか。

木枯 両親のほかに、祖父がいて、その上の親までいたんです。いちばん上のじいさんは嘉永の生まれですが、そのじいさんとも話した記憶があります。昭和十年に八十四歳でなくなりましたが、身体のがっちりした人でした。そのころの八十四歳はたいへんな長命でしたね。

――三代の養子さんが揃ってご健在だったのですね。

木枯 そうです。三人とも婿養子です。その前の人が京都の五条の人で、おそらく嘉永とか弘化のころに、伊勢へ来たのです。僕が「先祖は京の五条の出だ」と言うと、「橋の下ですか」とみんな聞くんだけれど(笑)。橋の下ではなくて、五条に問屋町(といやまち)というのがあって、そこの青物屋(八百屋)の次男坊だったそうです。跡継ぎじゃないから、おそらくなんかの縁を頼って伊勢へ来たんでしょうね。

――そうですか。京都とのつながりがあるのですね。

木枯 そうです。だから飯島晴子さんともよく話が合いましたね。

――その方が伊勢に出てきて、一代で材木商をはじめたのですか。

木枯 そうです。最初は八百屋だったようです。八百屋といってもだいぶ大きなことを考えていたようで、津へ来てから、何人かの八百屋と連名で、青物市場の創設を藤堂藩に願い出ていて、その願書が、いまも資料館に残っているんです。ところが、魚市場は昔からあったんですが、青果はダメだということで却下されてしまった。どうも青物市場は明治の半ば過ぎから作られるようになったんですね。

――ずいぶん先見の明があったのですね。もちろん、八田さんという名ですよね、京の五条の方は。

木枯 そうそう。京の五条の問屋町あたりには八田という姓が多いんです。

――材木商をはじめたのはどうしてなのでしょう。

木枯 そのへんはよく聞いてないのですが、青物市場がダメということで、転身したのかもしれませんね。

――企業家というか、ずいぶん商才のあった方なのですね。

木枯 まあ、そうかもしれませんね。商才といえば、話が変わりますが、津の殿様、藤堂さんもいわば商才に長けた人で、藤堂家というと、どこへ行ってもあまり評判がよくない。藤堂さんは江州(近江国)出身で、武士というより商売人なんですね。

たしかに藤堂高虎という人は才能のある人でした。豊臣政権の盛んなときでも、先を見越して徳川家康に近づいたり、世の中を見る目のしっかりした人で、そういうところは、やはり江州の商人のセンスなんですね。経済を通して世の中の動きを見ることのできた人です。

最初は伊予藩の七万石だったのが、徳川家康に気に入られて伊勢伊賀の三十三万石の大名になります。その藤堂藩が幕末まで二百六十年の間、禄高がまったく変わらずに来たわけです。それだけ律儀できちんとしていたのだと思いますよ。

おそらく幕府は何かあったら禄高を減らしたり、取りつぶしたりしよう考えていたでしょうから。しかも、尾張と紀州という二つの徳川家にはさまれていたのだから、たいへんなことです。

関ヶ原では徳川につき、幕末には、お付き合い程度に官軍に兵隊を出しただけなのに、藤堂さんは、また器用に明治政府に入るんです。先見の明があるというか、世渡り上手なのです。そのかわりどこへ行っても人気がないし、評判はよくないですね。

――ずいぶんユニークな殿様ですね。

木枯 藤堂藩は、きびしい藩でした。着る物から足袋まで、いろいろ取り決めがあって、それをやかましく守らせたのです。たとえば、三月過ぎたら、足袋をはいてはダメだとか、そんな細かいことまで全部決まっていたそうです。そんなふうに質素に質素にしてきたから、藩が幕末まで生きのびてきたのでしょう。


西田天香の一燈園へ

――話が変わるのですが、お嬢さんが夕刈さんというめずらしいお名前ですね。どこかで、木枯先生の本名も「刈」の字がつくと聞いたことがあるのですが、ほんとうですか。

木枯 ええ、日刈です。

――どういう由来なのですか。

木枯
 それがすこしややこしい話なんですが、日刈の前は光だったのです。

京都の一燈園というのをご存じですか。西田天香という人がはじめた懺悔と奉仕を重視した新生活提唱の道場ですね。父はその一燈園の信奉者だったのです。信奉者といっても一燈園での共同生活に加わったというのではなくて、一年に一回、一燈園の行事に参加したのです。朝早くから掃除などの奉仕をしたり、講話を聞いたりする、そういう集まりに参加した。私も小さいころ連れられて行ったことがあるんですが、近所の農家などへ出かけていって、その家の庭掃除から便所掃除までしてくるわけです。

その一燈園が出していた月刊誌の名が「光」で、そこからとって光と名づけたのです。一燈園は宗教は何教の信者でもかまわないのですが、財産をなげうって俗世間を捨て去った人たちがおおぜい集まって共同生活をしていて、尾崎放哉も一時期入っていました。

――お父様は、ずいぶん理想主義的な方だったのですね。

木枯 祖父は商売一本の人でしたが、父はちよっと違っていましたね。俳句をやったり、一燈園へ行ったり、たいへんな商売をしているわけですから、なにかに救いを求めていたのでしょうね。

――お父様の「姫百合の花二つなり朝曇り」「小山田の水にかばかり散桜」といった作品を拝見しても、清浄さとか繊細さがよく表れている感じがします。そういう方が一方でたいへんな事業をしていらしたわけですね。いかにも自由な雰囲気の大正時代に生きてらしたという感じがします。

木枯 自由な時代と思われていますが、実際には、大正もたいへんな時代だったと思いますよ。もっとも、伊勢あたりは、大金持ちもいない代わりに、今日食べる米もないといった貧乏人もいなかった。なにしろ気候風土のいいところですから。だから大物の政治家も出ないし、作家でも宮沢賢治や石川啄木が生まれるような土地柄ではありませんね。軍人さんも出ません。とにかく戦争とか政治とかに関係なくてもなんとか生きていけますからね。

――山国と違って、海に近い豊かな土地柄というわけですね。

木枯 そうです。同じ三重県でも伊勢と伊賀では、まったく違いますね。芭蕉も、おそらく兄さんの理解と経済的な庇護があってはじめて、俳諧の勉強ができて、江戸へ行くまでになったのではないでしょうか。伊賀は食べていくだけでもたいへんな山国ですから。

――そうなんですか。

木枯 おそらくそうでしょう。経済を通して世の中を見ると、見えてくるものがずいぶんとあるものです。

伊勢は、前には海があり、後には山並みが鈴鹿までつづいている、そのあいだにある平野ですから、それは住みやすいところです。私の生まれた津でいえば、私の小さいころでも今でもほとんど変わりありませんね。たしかに空襲には遭いましたが、それで大きく近代化した工業化したというようなことはまったくないのです。


少年時代の風景

――手鞠とか傀儡とか鳥追いなどの句をよく詠まれていますが、そういうものは少年時代によく目にしたのでしょうか。

木枯 そうですね、私の世代ですと、実際には目にしたことがなくても、分かるところもあるのです。同じ雰囲気の時代を生きてきましたから。もちろん、見たものもありますけれども、見なくても見たような気がするんです。

たとえば、川端康成の「伊豆の踊り子」は、大正末年に執筆されていますが、おそらく大正十年ごろのことを頭に浮かべて書いたと思うのです。しかし、あそこに書かれている風俗というか雰囲気は、大正十四年生まれの私にも十分身体で感じとることができるのです。それだけ時代の変化が少なかったのでしょう。

総合誌「俳句」に「八田さんでも、江戸時代の生まれじゃないのだから、鳥追いを知っているわけがない」などと書かれました(笑)。それはその通りなのですが、津は城下町で、万歳などはよく来ていましたし、これはよく覚えています。

――子どものころは、どんな遊びをしてらしたのですか。

木枯 独楽とか凧とか竹馬、そんなものですね。

――傀儡師なんかも来ていたのでしょうか。

木枯 傀儡師とか鳥追いとなると、見たかもしれない、というくらいですね。三十年前、五十年前の話を年寄りによく聞きました。それが、おぼろげな記憶として残っているわけです。またそういうものに惹かれて、いつも頭に描いていると、いつのまにか「自分が実際に見た」と思えるようになるということもあります。

私が俳句をはじめた昭和十四年のころには、戦争の近づいている時代でもありますし、もうそういうものは消えていました。それでも、鳥追い、十六武蔵(じゅうろくむさし・正月の盤上遊戯の一つ)、獅子舞などを詠んだ句はまだまだありましたね。しかし、だんだんと句に詠まれるものが変わってきて、さらに戦後になると、以前、歳時記でなじんできた句がずいぶん姿を消していくわけです。


八田海棠作品から

木枯に伐られし山の明るさよ

姫百合の花二つなり朝曇り

濁り江や流れ横ぎる大蛙

新涼や手桶に赤き仏花

長雨を厭ふ竈や蠅生まる

椎の根に白く匂ふや蘭の花

かまつかや蟻匍ひわたる日和風

小山田の水にかばかり散桜

行く春や大川に入る落し水

秋近し折れし木賊の土につく


(第3回に続く)

2011-07-17

八田木枯 戦中戦後私史 第1回 「ホトトギス」に始まる

八田木枯 戦中戦後私史
第1回 「ホトトギス」に始まる

聞き手・藺草慶子 構成・菅野匡夫


『週刊俳句』運営より:

八田木枯さんのインタビュー記事「戦中戦後私史」を8回にわたって掲載させていただきます。同人誌『晩紅』からの転載です。大正14年(1925年)生まれの木枯さんが戦中、十代で俳句に触れてから終戦直後まで、当時の社会と俳句の状況が生き生きと蘇る好記事です。存分にお楽しみください。

なお、記事構成を担当された菅野匡夫さん、インタンビューの聞き手という大役を果たされた藺草慶子さん、そして八田木枯さんには、小誌への転載を快諾いただきましたことを心より感謝いたします。

『晩紅』第15号(2003年3月25日)より転載

藺草慶子前白

八田木枯といえば、戦後「天狼」に彗星のごとくに登場し、その早熟で完成度の高い作品で俳壇を湧かせ、山口誓子や平畑静塔に嘱望されながら、忽然と消息を絶ってしまった伝説的俳人として有名です。そして二十五年後に、いままでとはまったく違った作風で見事な復活を遂げた。その作品の変貌には驚くばかりです。

初期作品、たとえば二十二歳の作〈葉桜の大き枝あり折れ下り〉は、いわゆるホトトギスの伝統に則った写生句でした。つづいて新興俳句の中心であった「天狼」で巻頭を飾ったのが二十三歳。そのなかの一句〈汗の馬なほ汗をかくしづかなり〉について、選者の山口誓子は「こういう作品を以て遠星集を飾りたい」とまで書いています。

私が木枯作品に最初に触れたのは、塚本邦雄の『百句燦々』でしたが、そこで取り上げた二十九歳の作品〈洗ひ髪身におぼえなき光ばかり〉〈天にまだ蜥蜴を照らす光あるらし〉について、塚本は「戦慄に値する」と書いています。

そして、長い俳句中断のあと、句集『汗馬楽鈔』『あらくれし日月の鈔』『天袋』を経て現在に至ります。記憶に新しい平成十四年の作品では、〈痂(かさぶた)をこそぐる雁の別れかな〉〈戦死して蚊帳のまはりをうろつきぬ〉など。



木枯 役者なんかのもそうですが、芸談ほどつまらないものはない、といっている人がいますね。というのは、自分から話をすると、偉そうに見えてしまって、文化勲章を貰って喜んでいるような人が、なにが芸人で芸談なんだ、というわけです。だいだい落語家だって役者だって、どこかやくざ者みたいなところがあって、それだからおもしろいのに、構えて芸談をするようじゃ駄目なのですね。

――まあ、そうおっしゃらずに(笑)。読者としては、芸の話もそうですが、そこで語られる時代背景がおもしろい、ということもありますね。     

木枯 それはあります。自分が経験している時代が自然と話に出てきますから。僕らでも昭和十三年といわれれば、あんなことがあった、こんなことがあったと思い出します。それを順序だって文章にして残そうとすると、これはえらくたいへんなことになってしまいます。

話をするほうが、ずいぶんと楽です。昭和十九年、二十年になると、アメリカの飛行機が襲来してきた、ああ、灯火管制がはじまったなあ、とかね。ただ、灯火管制といっても事典で調べて、「ああ、こんなことかじゃ」、分かったことにはならないんですね。僕らの世代が灯火管制と聞いたときに、まざまざと思い出すいろいろなことや雰囲気を理解することにはなりませんから。

――でも、分かる分からないは別として、語らなければ埋もれてしまいますね。たとえば、ご出身地、伊勢の津(三重県)の人たちが当時どんなふうに俳句をしていたのだろうとか、どんな本が八田家にはあったのだろうとか、いろいろ知りたいことがあります。だいたい木枯さんの本名も知らないのですから(笑い)。俳句の出発点はどんなでしたか。

木枯 僕は、だいたい出発がホトトギスです。三重県あたりは、ほとんどの人がホトトギスだったのです。俳句といえば、ホトトギスという時代でしたから。慶子さんもよく知っている長谷川素逝、あの人は僕と同じ津の出身で、三高から京大にすすんで京大俳句会をはじめるわけです。平畑静塔先生も素逝と同級で、その先輩に日野草城がいました。草城は、もう俳句の秀才で有名だったそうですね。三高卒業の年に「ホトトギス」の巻頭を飾ったんですから。それが有名な〈春暁や人こそ知らね樹々の雨〉です。その当時の巻頭といったら、それはたいへんなものでした。水原秋櫻子、山口誓子、阿波野青畝が現れてくるのはこの後です。

僕がなぜ、生まれる前の古い時代のことを知っているかというと、家には昔の「ホトトギス」が全巻揃って置いてあったのです。惜しいことに昭和二十年のアメリカ軍の空襲の焼夷弾爆撃で全部焼けてしまいましたが。実は、僕の親父は昭和十二年に四十二で死んだのですが、その親父の持ち物だったのです。

――ずいぶん若死にされたんですね。

木枯 いや、あの当時はみんな早く死んでいるのです。長谷川素逝が死んだのは四十歳です。正岡子規は三十代で死んでますし、尾崎紅葉だってりっぱな髭をはやして年寄りに見えますが、亡くなったのは、やはり三十代ですから。

その亡くなった親父が俳句をやっていて、ホトトギスだったのです。慶子さんは、鈴鹿野風呂(のぶろ)という人を知っていますか。日野草城なんかと「京鹿子(きょうがのこ)」を創刊(大正九年)した人で、丸山海道のお父さんです。この雑誌はいわばホトトギスの子雑誌で、京都に住むホトトギスの同人などが加わった同人雑誌だったのですが、だんだんと鈴鹿野風呂が主宰のようになっていった。ただ、昔は主宰という言葉はなかったですね。

ホトトギスの子雑誌といってもそんなにはなくて、「京鹿子」のほかには、大阪の「山茶花」、あれは野村泊月が関係していたのかな、それと後になって大橋桜坡子(おうはし)さんが。大橋敦子さんのお父さんですね。主なものは、この二つぐらいしかなかったのです。「山茶花」には、昭和になってから後藤夜半とか森川暁水とか田村木國なんかが加わってきたのです。

うちの親父も、いえば「京鹿子」の系列だったのです。というのは、鈴鹿野風呂が月に一回ぐらい津にも来て句会を指導していた。そういうところにうちの親父も出ておったんでしょうな。ただ詳しいことはよく分からんのです。というのも、親父が死んだのが昭和十二年で、僕が俳句を始めたのが、その二年後ですから。親父があと十年でも生きとってくれたら、もうちょいといろんなことも分かったんでしょうが。

親父が死んでから書斎を見たら、「ホトトギス」が揃ってあったわけです。これははっきり覚えていますが、半年ごとに合本にして、きちっと製本されて並んでいました。そのころの「ホトトギス」は厚さが二センチもありましたから、それを六冊ずつ綴じた分厚い合本でした。それと親父の日記が何冊も出てきました。昔の人は日記をよく書きましたからね。実は、昨日、資料になるものはないかと、いろいろ探していましたら、日記が一枚だけ出てきました。私が生まれる二、三年前の元旦のもので、それ一枚しか手元にないのです。あとは全部焼けてしまいました。日記の中身は、商売人の家ですから、やはり商売のことですね。

――どんなご商売だったのですか。

木枯 材木商ですね。私の小さいことには、家には材木の納屋がずうーっと並んでまして、また林場(りんば)というものがたくさんあって、これに材木が立てかけて置くんです。材木は、紀州、奥伊勢から来ました。それから秋田、天井板などは全部あそこのものです。昔は海運だったんでしょうが、昭和十年代は鉄道が主流で、貨物列車で運んできて下ろすと、それからは馬車です。馬車ご存じでしょ。

――名前だけで、実物は……。

木枯 ああ、馬車をあまりご存じない。そうでしょうなあ。話がすこし横道にそれますが、佐藤鬼房さんの有名な句があるでしょう。〈縄とびの寒暮傷みし馬車通る〉、この馬車は荷馬車に決まっているんですよ。あの当時、トラックもたまにはありましたが、トラックに材木積むなんでことはなくて、だいたいが荷馬車か大八車でした。その馬車が、荷を運び終えて、夕方にガラガラ、ガラガラ帰っていくのです。馬方が馬を引っ張って。それを句にしているは、はっきりしているのに、だれだったか、乗合馬車と思い違いをして鑑賞していたのに驚きました。馬車が分からなくなってしまったのですね。

石田波郷が住んでいた砂町(江東区)一帯には、馬車屋が百軒ぐらいもあったんですよ。それが、朝になると、あちらこちらから、ぞろぞろ、ぞろぞろと木場を目指して集まって来たのです。それくらい多くの馬車があった。昭和二十年三月十日の東京大空襲のときに、砂町では馬が数知れず死んで、あそこは死んだ馬だらけだったというんですから。

木場で材木の運搬は、馬車と船でした。水路が縦横に走っていて、あれはいまの高速道と同じです。紀州から大きな船で材木持ってきて、こちらの鉄砲洲に着いて、別な船に積み替えて、それが深川のほうにどんどん入ってくる。とにかく、船だったら、大量の荷が積めるし、早いし、いちばん楽な運搬だったのです。昭和十六年、十七年あたりまでは船でしたね。

――そのころは、もう東京に行き来してらしたのですか。

木枯 そのころの話は次回にします。おもしろい話がいっぱいあります。すこし話を俳句に戻しましょう。先ほども言いましたように、十四歳くらいで俳句に興味を持って合本の「ホトトギス」を読んでいたなかで、いちばん感銘したのは、「ホトトギス」大正十四年一月号の雑詠巻頭の田中王城の句でした。この人はホトトギスの同人で骨董屋の主人ですが、そのときの句が〈かたまりてあはれ盛りや曼珠沙華〉です。ちょうど僕が生まれた時期の巻頭句ですね。発表された当時は、曼珠沙華の句でそんな句はなかったのでたいへんな評判になったそうで、とくに〈あはれ〉をこんな使いかたしたのははじめてだったそうです。

――お父様の蔵書には、ほかにどんなものがあったのですか。

木枯 父は文学好きでしたから、芥川龍之介とかいろいろありましたね。また、昭和のはじめにはいい本がずいぶん出たのです。たとえば、改造社の『現代日本文学全集』、菊判の大きな本でそれが五十巻ぐらい全部揃っていました。そのなかに「現代俳句集」という巻があって、高浜虚子、河東碧梧桐、西山泊雲、野村泊月、渡辺水巴などがはいっていました。それと「新興文学集」というのがありました。これはその当時の新しい作家を収めた巻で横光利一なんかがはいっていました。

――新感覚派ですね。新興文学というと、そのへんなのですね。

木枯 そう、そう、川端康成とか、当時はみんな新人作家でした。ほかには久米正雄とか。こうした人たちの登場で文学も変わってきたなという印象を多くの人が持ったと思いますよ。だいぶ後のことですが、誓子先生が「新興文学というのは、どうも分かりませんね」とおっしゃっているのを聞きましたが、訳の分からない文学が出てきたと考えていた人もいたんですね。

――俳句も新しい文学の影響を受けるのでしょうが、お若いころは、どんな文学が出てきたのでしょうか。

木枯 とにかく戦争中だから、新しい本はほとんど出なくなっていたのですね。だから、本を読むというと、みんな親父や先輩たちの蔵書のなかから探し出して、読むということでしたね。

戦争に関連して、私のいちばん最初の先生の、長谷川素逝のことをすこし話してみたいのですが、素逝は京大を出て、すこしの間、学校の先生をしていました。そして昭和十二年七月に戦争がはじまりました。いまは日中戦争といっていますが、当時は「支那事変」です。戦争がはじまると、すぐに、たしか八月の末ごろに素逝は召集をうけて砲兵少尉として中国に行き、各地を転戦するのですが、わずか一年足らずで病気になって帰還します。

そして、あの有名な『砲車』という句集が出すわけです。その序文で虚子先生が「戦争の生んだ文芸品の上乗なるもの」と大激賞して、たいへんな評判になります。当時、ラジオにもいろいろと取り上げられて、俳句を知らない人の間でもひろく知られるほどでした。

昭和十三年ごろになって、「新興無季俳句も戦争を取り上げなくては駄目だ」という風潮になってきて、戦火想望俳句というのが出てくるのです。これは、「俳句研究」が特集で、何人かの俳人に、ベストセラー、火野葦平『麦と兵隊』をテーマにした俳句を作らせたのですね。そのなかで日野草城が自分の俳句につけた「戦火想望」という題から来ているんです。

つまり、戦争がテーマの本を読んだり、ニュース映画の戦争実写を見たりして、俳句を作るのが大流行した。西東三鬼なんかも作っていますが、三橋敏雄さんも、そのころまだ十六、七なんだけれども、想望俳句を作るわけです。でも、やっぱり実際に現場に行って作ったのとニュース映画を見て作ったのは違う、といっていました。

――〈いつせいに柱の燃ゆる都かな〉というのもそうですか。

木枯 いや、あれはもっと後です。昭和二十年三月十日の東京大空襲があってからの句です。

――それでは実体験なのですね。

木枯 その前に三橋さんもいかにも新興俳句らしい戦火想望俳句を作っているんです。

――木枯さんは作らなかったんですか。

木枯 僕にもありますよ。実は、十代の句を二百ぐらいまとめて、『八田木枯少年期俳句集』という題にして文庫本ぐらいの句集を作ろうかな、と思っているのです。

――それ、あのまぼろしのホトトギス調作品なんかもはいっているのですね。それはいいですね。俳句をはじめたころはどんなふうだったのですか。

木枯 前にもいいましたが、十四歳ぐらいから、ぼちぼち俳句をつくりはじめたのです。あの当時は、俳句会というのは一月に一回ぐらい、津とか四日市とかで開かれているくらいで、三重県全体でも三つか、四つぐらいしかなかったのじゃないかと思うのです。

――お父様が生きてらしたころに句会に連れていかれたということはなかったのですか。

木枯 いや、それはないんです。ですから、蔵書のホトトギスを見たというのが、いちばんの影響でしょうね。そういう意味では、俳句をはじめたのは親父の影響ということになるんでしょうな。親父の句が百五十句ぐらい残っていまして、それを一冊にまとめてみたいとも思っているんですが。

――それは「ホトトギス」に載ったものなのですか。

木枯 「ホトトギス」というより「京鹿子」とか、日記に書き留めていた句ですね。その中に、虚子先生にとられた木枯の句があるのです。昭和三年か四年に毎日新聞の主催で全国の名所の句を募集したのですが、それに親父が北海道に行ったときの句を応募して、虚子先生の選にはいったのです。

――ああ、あの有名な。杉田久女の〈谺して山ほととぎすほしいまま〉や水原秋桜子の〈啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々〉などが特選だったので知られた企画ですね。

木枯 ええ。入選句を全部集めた本が刊行されていたんですね、寺澤一雄君が「木枯さんのお父さんは、八田海棠というんでしょう、お父さんの句が載ってますよ」と本を買って持ってきてくれました。慶子さんは、大沼というところを知っていますか。 

――はい。行ったことがあります。

木枯 そうですか。私は行ったことがないんだけど。その大沼で〈木枯や沼に繋ぎし獨木舟(まるきぶね)〉という句を作って、その句が入選したのです。

――ああ、いいですね。え、もしかして、それで木枯という名にしたのですか。

木枯 ええ、その句があったので、僕は木枯という号にしたのです。


(第2回に続く)