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2021-04-18

【週俳3月の俳句を読む】すぐれて現代のもの 森澤程

【週俳3月の俳句を読む】

すぐれて現代のもの


森澤 程


コロナ禍で開催が危ぶまれている東京オリンピックだが、本日(4月11日)の聖火リレーが、奈良県の大神神社、明日香村の石舞台古墳、橿原公苑などを巡った。いずれも、わたくしに馴染みの深いスポットだ。聖火は、遠路ギリシアから来たもの、見に行こうと少し思ったのだが、結局行かなかった。

対岸の飛び地へ続くいぬふぐり   篠崎央子

「対岸の飛び地へ」により、不思議な広がりが生まれている。「対岸」は川を挟んだ自然の形、「飛び地」は人間のつくりだした土地、この対照がおもしろい。地を這う「いぬふぐり」の青い花は、何も知らずに足元に満ち、川で途切れ、飛び地へと続く。

山葵摺る夜や探査機の着陸す    篠原央子

一句の探査機を「はやぶさ2」として鑑賞してみたい。探査機の出発と帰還は、科学における綿密な計算の賜物に違いない。が同時に探査機の動きには、人の心に連動するところがあった。科学の上での成果や興味とは別に、小惑星リュウグウに着陸し、採取した砂のカプセル載せて6年後に帰還した快挙に、大勢の人が感動した。掲出の句の「着陸す」は、「山葵摺る」という季語から、リュウグウへのものかもしれない。地球へ帰還したのは冬だった。いずれにしても「山葵摺る夜や」という日常の一コマと探査機の出合いは、すぐれて現代のものである。因みに最近火星にも探査機が着陸した。


布物のまとめ置きある畑打     中西亮太

「布物」とは、織ってあるものの総称。一句の「布物」は、畑打の光景なので、吸水性のよい木綿の上着やシャツなどだろう。朝、家を出る時は、気温が低く重ね着をして出たが、畑で仕事をしている内、身体が温まり、少しずつ脱ぎ、まとめて畑の端においたのだろう。早春の景として、昭和生まれの私などには、親しみがある。現代の化学繊維とは違う「布物」の風合いが要となり、貴重な光景を覗かせている作だ。

片足の潦水に触れ垣繕ふ      中西亮太

「垣繕ふ」は最近あまり目にしない季語だ。冬の間、風雪に傷められた垣根を繕うことをさすこの季語は、主に雪国の風景とも言われているようだ。
一句では、春になり融けた潦水に触れている片足への身体感覚がリアルだ。まだ冷たい潦水を感じさせることにより、「垣繕ふ」という季語に命が吹きこまれたと思う。


雨恋し恋しと落椿腐る       近 恵

長い間、雨が降っていないのだ。この間、椿は散り、地に美しい姿を保っていたが、ついに腐り始めた。しかし、雨を待ち焦がれていたこの落椿にはどこか謎が残る。落椿はその姿を晒すことなく早く消えてしまいたかったのだろうか。雨に遭えば腐敗は早まる。「腐る」には、心理的なニュアンスもあり、諧謔性を秘めた一句だ。

木蓮が光って海をひとが来る     近 恵

海という大景に木蓮とひとが、リアリティを超えて調和している。「海をひとが来る」には、たとえば遣唐使などが思い浮かぶ。大きな艦船ではなく、海に人影が揺曳するような小舟に乗った人、魚舟、あるいは、水の上を歩くことの出来たというキリストのような存在を思うこともできる。
木蓮の花の形や量感、その高さを介して、海とひとの間にいろんな像が生まれる一句だ。


雪下ろす黄色の屋根は我が家のみ  須藤 光

白い雪と黄色の屋根がまぶしい。雪国の暮らしをふと思う。どこかメルヘンチックな一句だ。しかし、雪下ろしは危険な作業でもある。雪を除けてゆくたびに見えてくる黄色の屋根…。黄色という色のもつ明るさ、そしてやや神経質な味わいにより、複雑な世界をも垣間見せてくれるような一句でもある。

夕燕雑木林に鳴るラジオ      須藤 光

スマートフォンなどとは無縁な時空間が感じられる。夕燕の伸びやかな姿とともに雑木林にひびくラジオの音。「鳴る」とあるので、音楽が聞こえているのかもしれない。雑木林の夕暮が、ラジオの音により、その深さを増幅させられている。ラジオの主は、雑木林で何か仕事でもしているのだろうか。

第724号 ■篠崎央子 猫の貌 10句 ≫読む

第725号 ■中西亮太 祝祭 10句 ≫読む

第726号 ■近恵 どこかで 10句 ≫読む

第727号 ■須藤 光 故郷 10句 ≫読む

2018-07-22

【週俳6月の俳句を読む】六月の青い空が好きです。 森澤程

【週俳6月の俳句を読む】
六月の青い空が好きです。

森澤程


ひと雨の予感に栃の花が降る       浅川芳直
 
読んでいて心地よく、読んだあともこの心地よさがつづく。ふと見上げた空の様子に始まる予感が、栃の花の白、薄墨の雲と共にいつまでも虚空を漂っているような一句。

俊敏にうねる毛虫を犬不機嫌         同

きびきびした毛虫を時に見ることがある。人にとっては異次元の動きだが、犬にとっては或いは不機嫌になる要素を持っているのかもしれませんね。面白くて不思議な一句。


洗ひたての鏡のなかにゐて涼し       佐々木 紺

ふつう鏡は洗わないが、一句には、こんなこともあるのだと納得させる力がある。磨きたての鏡の中では、多分涼しくないだろう。猛暑の中「新ひたての鏡」≒(心)の中で涼しげに微笑んでいる作者が見える。

夏の果てまで信号がぜんぶ青           同

「遠くまで青信号の開戦日」という鈴木六林男の俳句を思  出す。青信号にも両義性があるのだ。一句にも、ラッキーとだけは言えない表情が生まれている。でも「夏の果てまで」には、青春の匂いがあり、「ぜんぶ青」と言い切っているところにもナイーブな若さがあり眩しい。

 
鳥けもの出払ってをり葭屏風        小山玄黙

何も描いてない「葭屏風」は、まさに日本の夏のものだ。でもまた季節の移ろいの中、日本の屏風には鳥やけものが帰って来る。それまでどこへ行っているのだろう。「出払ってをり」から、このようなことを思い、「鳥けもの」のいない空白の妙を味わうことができた。

傷つけてみたきみづうみサングラス           同

サングラスをどう位置付けたらいいのだろう。サングラスの作者が「みづうみ」を傷つけてみたいと思っているのか。あるいは、他者のサングラスを「みづうみ」と見立てて、これを傷つけてみたいのか。自虐とも嗜虐とも判然としない心理に誘い込まれる。いずれにしても「みづうみ」の美しさ、神秘が根底に感じられる一句。


落花めまぐるしく彼方ときめく目         丸田洋渡

五七五のリズムから離れ、横書きがよく似合っている。そして何より「彼方ときめく目」に心が動かされる。これは句の発端に「落花めまぐるしく」が置かれているからだろう。目をめぐる情況を概観しながら、最後に「目」という器官そのものをヌッと浮き上がらせているところが面白い。

翡翠を引用しては紙を飛ぶ              同

「引用」という知的操作に、一句の眼目を感じる。引用により「翡翠」が置き換えられていき、ついには何かが「紙を飛ぶ」のだ。十七音という狭い世界だからこそ羽ばたくことのできる何かを創出できるのかもしれない。
「夢はじめ翡翠が魚を呑むほとり」拙句です。


中庭も義肢製作所もすももの海         八鍬爽風

一句の「も」に、ふと「もももすももももものうち」を思い出した。「義肢製作所」の印象が鮮やかで深く沁み込んでくるのは、「も」の力によるのかもしれない。「中庭」というまさに中間地帯を通過して至る「義肢製作所」に、様々な思いを喚起させられる。「すももの海」とは、きれいで可愛らしく澄んだ海に違いない。

道化恐怖症の少女 トマトを切る          同
 
かつて太宰治という道化恐怖症の小説家がいた。私の世代ではよく読まれた作家だ。彼が自殺した日は「桜桃忌」という季語にもなっている。さてこの句の少女には、どこか覚めていてお茶目な感じもある。きっと自分のことをよくわかっている聡明な少女なのだ。この感じは「トマトを切る」という散文調に加え、トマトというあまり陰翳の感じられない野菜も、少女のキャラクター表出にひと役買っていると思われる。




 

■浅川芳直 捩花 10句 ≫読む
■佐々木紺 信号は青 10句 ≫読む
■小山玄黙 倫敦は雨後 10句 ≫読む
■丸田洋渡 夜を濡らす 10句 ≫読む
第583号 2018年6月24日 
■八鍬爽風 そうふうのはいく 10句 ≫読む

2017-09-17

森澤程 レモン捥ぐ 10句

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レモン捥ぐ  森澤 程

鳶色に地球は老いぬ女郎蜘蛛
滝みちの思う存分ひとりかな
オーボエは朗らか水馬に似て
真っ暗な鏡へ踊りより帰る
レモン捥ぐ松の肌あざやかな昼
ひんやりと森の出口の月桂樹
語り尽くした眠たさの草かげろう
階段も雲もテンペラ小鳥来る
さざめきに月の加わる飴細工
核の世の網棚に置く榠樝の実
●

2016-11-13

【句集を読む】「お」で始まるものを探す旅 森澤程句集『プレイ・オブ・カラー』の一句 西原天気

【句集を読む】
「お」で始まるものを探す旅
森澤程句集『プレイ・オブ・カラー』の一句

西原天気


手袋のなか親指と音楽と  森澤程

手袋のなかに親指があるのはごく自然なことで、さて、ほかに何が入っていたら楽しいか。

「親指」の「お」。じゃあ、「お」で始まるものをもうひとつ。探す。

音楽。


読みが安易、と言ってはいけません。俳句って、きほん、安易なものだから。違う?

安易に流れるというのではなく、安易を極める。


「お」で始まるものはたくさんある。一句のなかに、どんな「お」を持ってくるかを探す旅。

視覚(あるいは触覚)から聴覚へと、手袋のなかで切り替わる。その面白さを、句の13音目で味わう句。


2015-07-19

短いクロニクル風に 曾根毅句集『花修』について 森澤程

短いクロニクル風に
曾根毅句集『花修』について

森澤 程



曾根さんの姿を、初めて見たのは、「花曜」の句会だった。格別に若く内省的な風貌は皆の注目を浴びた。その後まもなく彼は、鈴木六林男選の「花曜集」で頭角を現した。13年前のことである。その頃の忘れがたい句がある。

春隣心の地図は水浸し  「花曜」2002年8月号
麦の秋弾道はまだ確かなり  同
桜咲く全速力の馬鹿息子  同

この3句は、「花曜集」に初投句されたものだが、曾根さんは、すでにここで俳句と遣る瀬無いほどの出合いを果たしている。「地図」、「弾道」、「馬鹿息子」などの初々しい表情には、読者の積極的な読みを誘発する力があるのだ。

鶴二百三百五百戦争へ
稲田から暮れて八月十五日


鈴木六林男は、極限状況としての戦場体験を『荒天』一巻に収めた。曾根さんは、師である六林男からみれば、孫に当たる世代だ。「戦争」「八月十五日」は、明らかに六林男の経験したものとは違う。六林男は、「花曜集」で、この若い曾根さんの戦争の句について、「読書などの追体験を基調とした重厚」と評している。この両者の出会いは、興味深い。

冬銀河本日解剖調査拒否
くちびるを花びらとする溺死かな
快楽以後紙のコップと死が残り
いつまでも牛乳瓶や秋の風
木枯の何処まで行くも機関車なり


爾後、曾根さんは「花曜集」で、ナイーブな心性を背後に、言葉と物のあわいに立ち上がる像を、緊密な構成をもって模索してゆく。

鈴木六林男は、この曾根さんの資質を早くから見抜き、「あせらずに基礎づくりに専念した場合多くの人は、彼の重厚に瞠目するにちがいない」という言葉を寄せ、彼の広範な作句対象に対し「モノで情を陳べる方法、読者の読みに任せる作り方に、気づいた曾根君には未来がある」としている。

玉虫や思想のふちを這いまわり

この句が、句会に出句されとき、私は、30歳前の青年の「思想」に対するデンとした落ち着きぶりに戸惑った覚えがある。出来すぎという感じもした。

しかし、最晩年の六林男は「花曜集」の選後随想で、「玉虫も思考も同時進行の形で作者を悩ませている。出来そうでできない思想構成。それにからみついてくる玉虫なる存在。俳句は深い形式である」という感嘆とも溜息ともつかぬ思いを吐露している。

この句を発表し、まもなく曾根さんは「花曜集」の巻頭作家となり、「花曜」同人となった。ほどなく鈴木六林男の死、「花曜」終刊を迎え、彼は、「光芒」(久保純夫代表)に参加する。「光」章は、「光芒」時代の作品だ。

白菜に包まれてある虚空かな
阿の吽の口を見ている終戦日
敗戦日千年杉の夕焼けて
温暖な地球のつるべ落としかな
地球より硬くなりたき団子虫


俳句形式によってのみ、立ち現われてくる像を探り当てるのは、容易なことではない。これらの句には、初発のパワーとは一線を画し、形式のダイナミズムを修得しつつも、予定調和的な世界への傾斜も感じられる。修辞の巧みさがそう思わせるのだろう。この頃の曾根さんにとって、俳句形式は、両刃の刃となっていたのではないか。両刃の刃とは、捉まえたと思った途端、逃がれてしまうもの、というほどの意味である。

「光芒」は10号で終刊、「ロータス」に参加し、曾根さんは東日本大震災に遭遇した。このときの体験を対象とした句群は、「芝不器男俳句新人賞」を受賞し、世評にのぼる。この経緯は、曾根さんの俳句の歩みの確かさにおいて、当然とも言える帰結だろう。しかし、世評とは別に、私は、この句群に先行する鈴木六林男の試みを思い出し、感慨深かった。

桐一葉ここにもマイクロシーベルト
燃え残るプルトニウムと傘の骨
風花の我も陥没地帯かな
放射状の入り江に満ちしセシウムか
布団より放射性物質眺めおり


これら、『花修』の句群に対し、以下は、六林男の句集『王国』、「芳香族」章の句である。

氷雨の夜こんなところに芳香族
凍る夜の塩化眠らぬエチルやビニル
三寒の近づいてくる硫化水素
悪の如し純水・工業用水・飲料水
緊急時用超低硫黄重油槽雪烏


両者の句群に共通する目に見えない物質。六林男の句の対象は、石油化学コンビナートにある。これに対し曾根さんの句は、原発事故の実際の体験上に生まれた。

《海であったところー粗い国土の上に建設された石油化学コンビナート そこには住民の干渉を拒否する聖域がある》

この、六林男の「芳香族」章の前書の「聖域」は、今回の原発事故後の光景にかさなる側面がある。そして、曾根さんの句の、目に見えない物質の現実的な脅威から生まれる像は、六林男の表現意識を止揚しつつ、リアルである。

大震災、津波、原発事故を図らずも体験させられた曾根毅、戦争、戦場を図らずも体験させられた鈴木六林男。俳句形式における、両者の時を超えた出会いの深さと不思議さを思う。

雪解星ふっと目を開く胎児かな
夏の蝶沈む力を残したる
化野に白詰草を教わりし
原発の湾に真向い卵飲む


ストレートで曇りのない像は、曾根さんの俳句の特徴だ。そして、茫洋とした明度のある句の世界には、読み手の触手が伸びていく余地がある。一方的に読ませようとする俳句ではない。逆に、読者を一句の現場へと引き込む。ここに感じられるイロニー、含羞、批評性などは、曾根さんの俳句の大きな魅力だ。

最後に、『風姿花伝』の「花修」を、タイトルにした曾根さんの心意気を頼もしく思う。
《この條々、心ざしの藝人より外は、一見をも許すべからず。》

「花修」の最後に置かれた世阿弥の言葉である。