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2024-12-08

【俳句を読む】 <特別作品50句・相互鑑賞の試み> 田中惣一郎 五十句ずつ葬る遊び

<特別作品50句・相互鑑賞の試み>

五十句ずつ葬る遊び
 

田中惣一郎
 

五十句連作というものは奇妙な作品形式で、ただ一句が良い悪いという判断をするだけでは何か物足りなく、自分なりにこれを読み込むにあたっての仕方というか、道行というか、姿勢のようなものがぽつぽつある。

まずはガワ、見栄えの問題として、季語の選び取りかた、その配置。一から五十と並べる順番もだが、一句の中にどう言葉が配されているか、上五に切字のや、中七に連語で、下五体言止め、一句の中で大きな意味的ウエイトを占める言葉をどのようにでも捉えることができる、という、これは極端に技術的な側面の話だけれども、その点の充足感が高ければ読み進めるテンポが良くなり、俳句を読むのが好きな人間として気分が良い。

こう言うと、季語をどこに置くか、というテクニックを重視していると思われそうだけれど、そうではなくてむしろ、なぜその言葉を拾ったのか、という部分に確かさが欲しい。

無限の様態をとる現実は、言葉の上でもあらゆる姿をとるはずで、だから画一化された型で五十句並んで自然なはずはない、とそういうこと。

そうして句の姿が現れ、いくつもの句を読み進めると、ここを書き残したいという人の執着が見えてきたり、そんなのなかったり、いい句だなあと思う頭の片隅で、なんで俳句書いてるんだろと思ったりして寂しくなったり、そういうことも楽しくて、いつか誰かが書いた、百句ずつ葬る遊び、は今も変わらずあるものかと、次の句へ、次の句へ、驚きに浸りたくて読み進む。



クズウジュンイチ「生木」

 薬効く雨の昼間の沈丁花

「薬効く」がとにかく良い。昼間なのだから睡眠薬ではないし、効いてるんだからサプリメントでもない。雨で低気圧で頭痛なのか、それとも単にお腹を壊してるのか、持病があって普段から飲んでいるものがあるだとかもありうるけれど、そういう想像のあれこれにきっぱりと、答えをくれない「薬効く」が良い。他人の体に立ち入ることができないという、厳然とした現実を言い尽くすのに五音で足る、それを感じられるのが俳句的快感だ。

沈丁花は存在感があるけれど、どこかありふれてもいて、それがこの句の印象をごく個人的なものから人間一般の抱く感懐となるよう橋渡しをしている。

 仙人掌の花は唐突犬は雄

サボテンはそもそも独特のいでたちをしていて、そこへ付く明るい花がやや「唐突」というのはわかるけれど、そのこと自体はわかりすぎるというものでいささか感興薄く思われるところ、この句はそれを唐突に言ったことで光を増した。「犬は雄」も唐突。急によそ見をしている。

この一連は先の二句に見られるような、異物感のある言葉の押し出しが目を引くところで、単語レベルで異質なものの他にも、変わった用言の扱いで風景を動かそうとする意識も多々見られたが、個人的にはこれらは少し強引に感じてしまった。

「隣を夜が過ぎ」と書けば夜は足早に過ぎていく。「松をたたんで」と書けば松は重畳と折り重なる。そのときががんぼは、秋風は、置き去りにされてはいないだろうか。

あまた試みられているこういった方向よりも、かえって単純な句の方に心惹かれた。

 蓋のある水路伝ひのみなみかぜ

水に親しい土地の側溝には豊かに水が流れている。夏の日が照り、軽トラが音を立てて通る人家疎らな風景を縫うように走り抜ける南風。

南風という言葉はとかく大きく詠まれがちで、雄大な景こそ本意とも思いかかるが、しかし日常じっさいに触れて思いを動かされるのはこういった南風でもあるはずだ。「蓋のある水路」という書き振りには言葉を手づかみにした作者の感触も伝わる。気持ちの良い句だと思った。

他に好きな句をいくつか。

 花冷の肩に手を置く写真かな
 濃山吹すのこ伝つて蕎麦のみづ
 アフリカの面に西日の留守の家
 うみかぜもすゑのこざかな冬の虹


藤田哲史「コンソメ」

 零時過ぎ東区驟雨レジを呼ぶ
 自らに珈琲落とす西日中


静画的ではない。シーンがある。事実として、街があり、夜がきて、雨が降る。人と人が関わり交わす心をよそにまずその事実だ。

コーヒーを飲むということもそう。何度もしているはずのあたたかいコーヒーのあたたかさが喉を通り、体の内側に落ちていく感触を、思い出すというほどの大げささもなく思いまた、飲み終えると忘れてしまえるほどの感慨を、のみ下しおさめる体にふりかかる西日はいつかの景であり、またこれからもコーヒーを飲む私にも重なる景だ。

 冷ややかに朝の如雨露の雨溜り

朝も明けたての張り付くような冷えた空気の中、降って溜まった雨の水がジョウロに光っている。

こうした景をまさによくいう季語として露がどうしたって思い浮かんでしまうのだが、露のある景とは何かを、詳解するとこのようになろうかという、露を求める心がこの句を書かせているが、しかし現実に露はないから書かない、という頑なさ、それがしたたかなリアルをかたちづくる。

翻ってなぜ「冷ややか」が季語なのかをはっきり分からせてくれるすばらしい句。

この一連はおそらく意図して古典的表現を退けている。

意図して、と言ってしまうのは私自身が主に古典的表現どっぷりの言語世界で俳句を考えがちだからで、作者としては不本意かもしれないが、とにかくここに書かれた句を構成する言葉は、俳句と昵懇であるか否かを問わず、今人が生きて発しうる言葉、そんな日常語、きりしかない。

しかしだからこそここに現れる語は至極切り詰められていて、数々の言葉に対しそれがそのままで俳句となれるかについて当然楽観的ではありえないという態度が漂っている。

かように日常語の侵入に対して非常に抑制された意識がゆえに、この一連からは声が聞こえてこない。それは決して欠点ではなくて、むしろ簡単に声に覆い尽くされてしまう生の言葉に、俳句としてのつやを与えるための作者の敬意が書き言葉としての無声を際立たせているのだろう。

俳句に真摯であるがために自らの日常語を厳しく矯める。

俳句を書くというとるに足らない馬鹿げたことをある種崇高とでも思いたがる、輝き鈍く打てども響かない俳句にそれでも一片の信を置きたがる俳句書きという人間にとり、こんなに眩しく映る姿があろうものだろうか。

 上々の小春日和の日のひかり

あまりになめらかに過ぎて、この人にしか書けない句、ではないのかもしれないけれど、この人が書いたことに意味がある句ではある、確実に、そう思う。

他に好きな句をいくつか。

 風船がみるみる遠い融雪期
 噴水の形ゆらめき吹かれる日
 衆目にマネキン裸形駅残暑
 路上チェロ寒さも蚤の市のうち
 解け残る三日目の雪だるまです



千倉由穂「花布」

 サンダルに砂の重さがまだ残る

海へ行って帰りの道すがら、足の裏に幾度も触れる砂を確かめている。歩くたびそれは減り、振り落としてもまだある幾らかの重さ。楽しかったでも、悲しかったでも、出かけた思い出自体には何らかの感情が伴うだろうが、このしっかり分かる砂の把握にはそれがない。そこが良い。一瞬で無心になれて。

 稲妻も沈めて風呂に入るなり

私は雷に打たれたことがないのだけれど、この人もきっとそうなのだろう。遠くで光る稲妻、それを聞き、窓から見えてもいるのか、暗闇を感じつつも「風呂に入るなり」。この入り方には気持ちよさしかない、あたたかなたっぷりの湯にふかぶか体を横たえる開放感。

この一連の中には作者がこだわって描こうとするモチーフがいくつかあり、血縁、住む、居るということ、事物に触れ内から湧き上がる身体性を持ったよろこび、そうしたものが度々現れるのだが、私はあまりそれに乗れなかった。

特に親族の句に関して、こうした句をそもそも普遍性を持って立たせるのがとりわけ難しいということもあるが、書き表される語群に、意味する情報を伝えるのみに留まらず読み手が足を取られてしまうような空白が欲しかった。

 寂しさのかぎり首振る扇風機
 扇風機またも夕刊膨らませ


そこはかとなくある8bit感。扇風機を扇風機そのままとして、スノードームのように生とのつながりを断ち切って景としておくならば、そこに閉じ込めるのに夕刊というものはふさわしくはある。

他に好きな句いくつか。

 春雪に塞がれライブハウスの扉
 コンビニの冷気素足に抜けてゆく
 鯖雲は傾くばかり偏頭痛
 寒晴に戻る証明写真機より




高梨章「踏切」

静かにずっと歌っている、そんな印象を持った一連だった。

「さへずりや光合成の途中です」と例示するまでもなく、全篇を包む発話的フレーズの浮遊感に、その繊細さと比しては幾分素朴に取りあわせられる季語の響き方は、寓意の顔をしたただごととでも言いたくなるふうがあった。

 たんぽぽの黄はすいめんに山ふたつ

言葉が言葉に掛かって次々と変転していく危ういバランスと見えながら、そのものまさしく水に映る花のように、きちんと壊れない一線のある美しさ。

 いくらかの深さに掘れば春の月

読んでわからない言葉はないのにつかみ所がないのは「掘」るというイメージで沈降させられていた思考が「月」で突然引き上げられるからで、しかも読み手がこれは俳句、と意識しているせいもあってか、潜るように読み下していた「春の」まで「春の月」として宙づりに持ち上げられてしまう。

その揺さぶられ感に加えて、で、これ一体何してんのという不可思議なおかしさ。

 夕立の気配のなかの醤油差し

これは一連の中ではかなりくっきり物の姿が摑める句だが、それにしたって夕立は気配でしかないし、醤油差しはこれ以上ないくらい適当なものとしてそこにあるけれども、その納得感がどこから来るものか考えてみると落ち着かなくもあり、醤油差しって、何だ? とまでは思わないにせよ、雨が来る、夕立が必ず来る、という気配が確かにあるのみの密室に取り残される心地になる。

惜しむらくはやはりこのように彼の歌い出すフレーズに寄せて現れる季語が、ときおりその依って立つ足場の不確かさに揺れて見えてしまうことだろうか。

それはこの作品に限らず、取り合わせという技法自体が根本的に持つ危うさではあるが、それをおして、中では「夕立の」の句が全ての景物の動かなさとともに夕立の持つ世界を押し広げて描いているように感じ、好き、と思った。

他に好きな句をいくつか。

 肩にのるあんずの花のやはらかき
 花冷えの傷ぐちひらく廊下かな
 花は葉にハムからハムをひきはがす
 数珠玉のいつつでならぶ夜空かな
 透明のシャープペンシル山ねむる


 
久々に生きている人の書いた句をまとめて読んだ。

僅僅十七音。これだけしかない言葉が、なぜ無上に良い感じになるのか、書くたびにそれを考えなければならない。
 

 

■コンソメ 藤田哲史 作品50句 ≫読む

■踏切  高梨章 作品50句 ≫読む

■卯月  田中惣一郎 作品50句 ≫読む

■生木  クズウジュンイチ 作品50句 ≫読む

■花布 千倉由穂 作品50句 ≫読む

 

2024-11-17

卯月 田中惣一郎 作品50句

 

 


 
 

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  卯月   田中惣一郎

自転車の籠に柴犬五月になる
鼻先へ空が押遣るえごの花
虫媒花夏のはじめのくたくたの
子烏の座を選みをり枝暴る
遠に門あり流景に緑さす
新緑の桂に伍する欅かな
野茨は壊るる花と咲きにけり
きはやかに紫蘭の茎の節の色
みな新樹となり一木の枯死を見す
かきつばた鞄に覗くぬひぐるみ
ほろほろと河骨に鉄バクテリア
花菖蒲折皺とてはなかりけり
胴長に石菖なすり沢登り
かはげらもゐもりもゐる溝蓋あけて
又しても青大将か留まらい
実桜の踏みしだかれて痕にのみ
やはらかき辞典一冊さつき咲く
くちくなり夏川黒き昼餉どき
栴檀の花落ちつづく恢復期
寝かしつけて卯の花散らす片辺
石垣の隙が蛇吐く花うつぎ
花うつぎ見ねば忘れて空の貌
柱廊のうつぎ溜りとなりにけり
邂逅に卯月野は弧をなすばかり
麺麭を焼くためだけの火や卯月寒
瑕新た木の下闇のしほれ花
幼くて懇ろに抜く蟻の脚
渦なして雲ふつ飛びぬほととぎす
ばらの色花より外れ吹かれけり
いつかしらつるばらつたふ水は雨
ぬるきサイダーと宿根草の庭
定家葛の花咲くまとふ桜の木
光沢の裂けてざくろの花出だす
台湾栗鼠幹を枝への朴の花
揚羽蝶日輪曳ける二頭立
睡蓮や誰にも言はず好きな色
雲ひとつふたつと育てつつ昼寝
茶につかふ水しまひあり柿若葉
うはごとに頷き返す冷蔵庫
犬川やいよいよ大き誘蛾灯
擬宝珠の花の頭のふくれをり
たまゆらに莕菜乗せたる真鯉かな
息づける泉に揉まれ顔写真
太藺の穂風に起されすぐさま寝
雨蛙これの石より濡れてをり
雲の上にプール開きの笛が鳴る
棗咲く枝満杯にして小さ
公園は日闌けてからが氷菓子
長考に蚊取線香ありにけり
あぢさゐの花たることに疎きかな

2019-10-06

田中惣一郎 はつ恋考 10句

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はつ恋考 田中惣一郎

はや草の露白しとふ歩みけり
わが睨み別烏や退りをる
葦の舟神話のために未来あれ
野も花も新しからず秋茜
初恋よどこ澄む水の夕つ方
覚めがてに秋水が流るるものか
火不入の一献いかに秋の暮
後の世の業にぞ後の村雨は
てのひらを懐しうする火もがな
もみぢ且つちる桜木の巷かな

2016-06-26

【八田木枯の一句】酸つぱけれ三橋敏雄夏男 田中惣一郎

【八田木枯の一句】
酸つぱけれ三橋敏雄夏男

田中惣一郎


酸つぱけれ三橋敏雄夏男  八田木枯

『天袋』(1998年)より。

会ったことがなくすでに死んでいる人とは現実には会いようがないが、文字は書いた人が死んでいようが生きていようが変わらず読めるものだから、死んでいる人のことも書いたものを読めば何となくその人を知ったような気になってしまう。

けれど文字で何を書くかは書く人次第なので、それで何がわかるかは書かれたこと次第なのである。人が何をどう書いて、書かれたものの有り様がどうなるかというのは人によりまちまちなので、書かれたものからはっきりとわかり見えてくる本当のことの見え方もまたまちまちだ。だから書く人のことを別の書く人が書く、というのは違った視点から現実を思い起こさせるという点で重要だ。太陽の光が当たらないところに別の光を投げかけるような。

何を書こうと書くまいと現実に起こることは変わらない。書かれるか書かれないか、起こるか起こらないかである。

ありありとにおいがわかる記録文学としての一句。


2016-05-29

【八田木枯の一句】母の木は北へなびくぞ風の旬 田中惣一郎

【八田木枯の一句】
母の木は北へなびくぞ風の旬

田中惣一郎


南風の季節とはいえ、当り前ながら風はいつも同じ方向へ吹くものではなく、雨ほどにはその風景もあからさまではないから、言われなければ風のよく吹く向きが季節と関係があるということなど少しも考えなくてもおかしくはない。南風とは南から吹く風である。

母の木は北へなびくぞ風の旬    八田木枯

『於母影帖』(1995)所収。北の反対は南なので、風によって北のほうへ押されているのならば吹いているのは南からだとわかる。風になびくような木は大きな木だろうし、大きな木があるところならば空も広くてよく風が通ることだろう。

寒い季節の風は、風そのものよりもその寒さに気がいくし、だから春風も風が寒くないことに春らしさがある。夏の風も涼しさと結びつきはするものの、そのつながりは寒さと風の関係に比べれば風が主なのではないかと思われる。風を風として感じられる、「風の旬」とはそのあたりの謂だろうか。

いったい南風という言葉を展開して作られたような知性の句なのだけれど、「母の木」という名付けに知性だけでは回収されない意識の層がねじ込まれている。

2016-05-01

【八田木枯の一句】母戀ひの春のともしを袖圍ひ 田中惣一郎

【八田木枯の一句】
母戀ひの春のともしを袖圍ひ

田中惣一郎


今も昔も夜は変わらず暗いものなのだけれど、現代ではあかりをとるために使われる本物の火を見ることはまれだろう。キャンプ用のランタンでさえ電気で光るものがほとんどであれば、灯火といって普通にイメージされるものはだいたい電気の光であることが多い。

母戀ひの春のともしを袖圍ひ    八田木枯

『於母影帖』(1995)所収の掲句の春灯ははっきりと火である。油皿に灯芯が立って燃えているような、今はもう生活の中では見られなくなった火を思わせる。

その火が母恋いの象徴であると言えば、感傷が春の灯に趣を一層加えもするし、袖囲いにしてしまえば自分の体に近づいた灯の温度を切に感じることだろう。

昔から変わらず何かにつけ夜は感じやすい時間で、灯火が本物の火でなくなった今でも夜のひかりはなやましく光る。



2016-04-03

【八田木枯の一句】ねころがり彼岸の母と手をつなぐ 田中惣一郎

【八田木枯の一句】
ねころがり彼岸の母と手をつなぐ

田中惣一郎


ねころがり彼岸の母と手をつなぐ  八田木枯

掲句は第二句集『於母影帖』(1995)所収。句意明瞭、と言っていいのかどうか、「彼岸」が実際のその時期を指すというよりも本来的な意味においての向こう岸が見えるような幻めいた効果のあるどちらかといえば虚構的な句ではあるが、それにしても詠みぶりはシンプルな作である。

なのでさらっと、ああそういう幻想的なやつなのね、と流し読みしてしまいそうなものでもあるのかもしれないが、この句の食えないところは上五「ねころがり」にある。観念上の彼岸に母がいる、ということ、その母と手をつなぐ、というところまではある意味想像の範疇なのだ。けれど、「ねころがり」とまで言ったことでこの句にはその言い方でしか出ない切実さが現れたのではないか。いわゆる写生的なものではない、想像と現実のあわいを描こうとするとき、一番大事なのはこういった、それが本当らしいと確かに感じられる手触りをどう生み出せるかというところにあるのではないかと思う。

第三句集『あらくれし日月の鈔』(1995)の末尾には〈手をつなぎながらにはぐれ初夜の雁〉という句が置かれていて、この句はこの句で「に」の助詞遣いに心憎いものがあるのだが、それにしても手をつなぐことを句に読むとき、ねころがり、とまで踏み込んで言える作者なのだと思うとこの句にある暮れ方の雁の鳴き声も立体的に感じられるものだとぼんやり思う。


2016-03-06

【八田木枯の一句】両手あげて母と溺るる春の川 田中惣一郎

【八田木枯の一句】
両手あげて母と溺るる春の川

田中惣一郎


両手あげて母と溺るる春の川  八田木枯

掲句所収の『於母影帖』(1995年)は、率直すぎるゆえにどこか屈折して見えてきてしまう母への思いが巧みに織り込まれた句で溢れている。

描かれている内容そのものはあるいはどこぞから発掘される壁画にあってもおかしくないかのような普遍性をたたえているが、それを損なうことなくまたのびのびと俳句であることの凄みが木枯句にはある。

掲句は何と言っても音の響きが心地よい。「両手あげて」と字余りが助走のように、「母」「るる」「春」と、〈はる〉の音へとなだれ込む。「両」と「溺」にもo音でのつながりがあり、読めば水が流れるように音が流れてゆく。

八田木枯の俳句の中で川やそこに浮かぶ舟と母とを取り合わせたモチーフは、入水など、死のイメージを伴って他にも繰り返し書かれているが、この句の場合もそういう匂いはあるものの、しかし暗い印象ではなくまったく歓喜に満ちた明るいものに見える。狂気の中の恍惚が感じられるようである。


2015-12-27

週俳2015年6月のオススメ記事 リロードしながら 田中惣一郎

週俳2015年6月のオススメ記事
リロードしながら

田中惣一郎



週刊俳句にハマって読みふけった人ならば誰もが経験したことがあるだろう、週俳の配信される日曜が楽しみでいてもたってもいられない病に私がかかったのはこの辺りの時期だった。日付が変わって記事がアップされ出すのを、今かとトップページをリロードしながら待っていて読んだことを覚えている。

第424号では、4月に刊行された北大路翼の句集『天使の涎』の特集が組まれていて、多くの人が彼の句や人となり、あるいは彼が根城にしている新宿について語っていてどれも興味深い。

中でも、自身の個人的な体験を通して新宿歌舞伎町という町の光景を伝える倉野いち。「わたしは北大路翼ファンを減らすようなけなし方をしたいし、サイテーな氏を白日の下に晒したい」と言いながらも「北大路翼はまちがいなく俳壇最高のクズ作家だ」と書いていく筆致になんだか愛のようなものを感じないでもない五十嵐箏曲。そしてパンクロックを引き合いに、俳句を知らない人をも惹き付ける翼句の力を書く喪字男は、富澤赤黄男が「クロノスの舌」で書いた「蝶はまさに〈蝶〉であるが、〈その蝶〉ではない」という印象的な一節の「蝶」をしれっと「うんこ」に変換して句評を広げていて大変痛快だ。喪字男は次々週第426号に十句作品「秘密兵器が掲載されていて、〈おもひでに網戸の穴をくはへておく 喪字男〉などじわりと切ない気分になる句がある。

ざっと読んだだけでもくせのある人たちだと何となく分かるこんな面々の集まってくる北大路翼という人間を思うと甘いような苦いようなもやもやした気持ちに覆われて、またしても『天使の涎』を読み返せばもうなにもかもどうでも良くなって気持ちよくならせてくれるナイスな特集。

第425号には福田若之による村上鞆彦句集『遅日の岸』評。(余談だが村上鞆彦氏は北大路翼氏と仲が良いらしく、もの静かで上品な雰囲気のある鞆彦氏がお酒を飲んで歌舞伎町に繰り出し砂の城での句会に参加していることが度々あると聞く。ぜひともその場に同席してみたい。)

「村上鞆彦『遅日の岸』(ふらんす堂、2015年)にはさまざまな鳥が登場するが、それらの鳥は、どれも一様に、ある動きを決定的に封じられている。それは、上昇すること、飛び上がることである。」とはじまるこの文章で福田は村上鞆彦の句に現れる動物や運動をとりあげてその特徴を論じていく。一句鑑賞など、句をあげてその句について意味や叙法などを読み解くものはよくみかけるが、この句集評はもっと大局的に、句に現れるモチーフや描かれる空間などから村上鞆彦作品の表す世界を明らかにする刺激的な文章だ。

また、6月は毎週4回に分けて小津夜景による俳句誌「オルガン」評が連載されている。「オルガン」は2015年春に生駒大祐、田島健一、鴇田智哉、宮本佳世乃の四人によって創刊された同人誌で、その創刊号における4人の作品それぞれの作品を、テクニカルな小津節で解剖する読み応えのあるもの。田島健一を取り上げた第一回で〈ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ 田島健一〉に含まれる要素を分解する真面目ぶりの徹底が笑える。生駒大祐に見られる句の構造へのこだわりを柳本々々の文体模写をしつつ語る第二回も非常に愉快。「科挙の答案か!?」というツッコミ、使ってみたい。

文体を真似られた柳本々々にしてもそうだが、彼らのように、俳句について語るとき、俳句以外のジャンルのものを存分に絡めていきいきと語っている文章を総合誌などではとんと見かけないので、その啓蒙臭のなさという一つをとっても、何か風通しがよく感じて心地よい。

第426号、柳本々々は、話の核に不条理界のパイオニア、メルヴィルの『代書人バートルビー』を据えて、「なんにもしない」ことを書いた句について書いていく。できるけれどやらない、そしてそれをきっぱりと主張するバートルビーの「できればそうせずにすめばありがたいのですが」の台詞に象徴される「あらゆる〈枠組み〉を〈さておいて〉なんにもしないでいること」を俳句の中に見、俳句はそれを書ける形式なのではないかと言う、朦朧としているようで、けれど不意に強く迫ってくる、柳本さんの語り口もまた「積極的なバートルビー」的なのではないかとも、おもうのです。

6月最終週、第427号は福田若之何か書かれて』15句。言葉を巡る複雑かつ繊細な作品。

  名が鳥を仏法僧にして発たす 福田若之

  何も書かなければここに蚊もいない 同

のように、ことばが生まれる瞬間がじかに体感されるようなものや、

  読むことに伴うまばたきと西日 同

の、書かれた言葉がありそれを読むという、言葉と向かい合う意識に肉体がつきまとってくるけだるさが、また言葉となって現れる重層的な句など、全体に周到な意匠が凝らされていて多彩。

またこの週は福田の評論も掲載されていて、これも読み応えがある。石田波郷『風切』所収の〈霜柱俳句は切字響きけり 石田波郷〉の一句を丹念に読み解き、切れ字とは何か、あるいは文字と音との関係について丁寧な考察がなされている。

2015-08-09

【週俳7月の俳句を読む】田中惣一郎 見えるものに思えた渚

【週俳7月の俳句を読む】
見えるものに思えた渚


田中惣一郎


夜が明けてやがて朝になる。学校なら学校へ、仕事場なら仕事場へ、行く。そういうことを皆それぞれが、だいたい毎日やっている。どこへも行かない人もいる。一日が終わって、寝て起きて始まる次の日も、その前の日とほぼほぼ変わらないことをしたりする。その繰り返しが喜びそのものであるわけではきっとないのだけれど、日々の中には少し、喜びがある。それと同じように喜びとはまた別の、悲しさや、淋しさといったものも、喜びがありうるのと同じ有様で、ある。しかし、ある、ということはわかっても、それが一体何なのか自分では簡単にわからないこともある。そういった感情の深層の緩やかな部分に生駒大祐の句はすんなり入ってくる。

君持つ其れ流木或いは氷菓の匙 生駒大祐

君がいて、どうやら「私」がいる。大げさに言えば既にそこに隔たりがあるのだ。君は何かを持っているが、それが何なのか「私」にはわからない。おそらくは「私」たちは歩いてきて、そこは水辺に近く、君の持っているものは、何か木、といって連想されるものがその辺の道端で拾えそうな流木なのだろうか、あるいは先ほど食べた(のだろうか、などということはもはやどうでもいい。もとよりそれは私たちにはわからないことだ)アイスクリームの木のへらなのだろうか。それらが並べて置かれたならばどちらがどちらだなんてことは誰の目にもすぐ明らかにわかることだろう。だが、わからないのだ。なぜならば君が持っているから。君は「私」ではなくて、君が持っているものは「私」が持っているものではないから。「私」は、あれは何だろうと考える。ここで実感されるのは君と「私」との果てしない距離である。何か棒っ切れを持っていることは見えているのだから、物理的には近くにいるのだろう。見ればいい、見て確認すればいいのに。なのに考えてしまうのだ。それは君の心に近づこうという衝動である。その棒は何なのか、という問いは、「私」が意図的に立てた問いだ。おそらく現実の景として君が手にしているのは氷菓の匙なのだろう。そんなことは「私」も当然わかっていて、なお君と今ここで流木の幻を共有するために迂回するのである。このきっとほんの少しの思考の間の、まるで時間が止まったようなひと時のことはもう、幸福と呼んでもいいのではないだろうか。

なんだろう、わからない、と感じられることは他人やものや人に対しても日々数えきれないほどある。そういうひっかかりには日常何度も直面しているはずなのだ。けれどそれらは当然の、起こりうることとして予想され、ほとんど何も考えないままにやり過ごして解決させることだってできるし、実際そうしてやり過ごし、忘れてしまって過ぎて行くことだ。これら「夏の訃」はみなそこを掬った句である。

真白き箱折紙の蟬を入れる箱


ここには箱があり、箱は、ただの箱だ。何の変哲もない白い箱。そして折紙を折る人がいる。あるいはいた。折紙を折る人は蟬を折る。とにかく折る。蟬なんだから一匹だけではかわいそうだ。折紙を折る人はきっと、蟬をたくさん折るだろう。そこに箱がある。ただの白い箱。折られた紙の蟬もある。折紙を折る人はその箱に蟬を入れるだろう。なぜならそこに箱があったからだ。箱にはものを入れられる。蟬は自分が作り、今、生まれたのだ。だからそこに箱があったならば、入れてやるだろう。それは自然なことだ。箱はそうしてただの白い箱ではなくなり、一句に収まることによってその箱の特別は永遠のものとなる。

渚はるか渚むかし渚三つの影

あるのは渚と、時間や距離のそれぞれの遠さと、そして何か三つのものの影だけだ。ここで一番、かろうじて何かが見えそうだと思えるのは渚だろう。渚の風景を頭に思い浮かべたくなるが、それも遠さに阻まれて明確な像を結んでくれない。なにしろ見ればわかる通り「渚」という言葉は一句の中に三つも出てくる。当然下五の「三つの影」の「三つ」と響き合っているのではあるが、この「三つ」が「渚」を指していて、それは渚の影だ、という解釈に回収されるというわけにはいかない。だいたい渚というものは大きすぎるのだ。一つの影を置くものとしての渚は想像できても、渚そのものの影というのは想像し難い。むしろ何かの影だけがはっきりと見えていて、見えるものに思えた渚も、そのイメージの端のぶれのようなものを摑めるに留まっているような気がしてしまう。大きすぎるものというのは、ただ大きいというだけで異質に感じられる。それは間近に対面したときに、近くにいるにもかかわらずその全貌を視界に収めることができないということに依るのかもしれないが、それにしても渚に立てば、わけがわからないがとにかく大きなものが確かにあるということは見るからに認めざるを得ないのだ。この「渚」はそういった原体験的な渚を思わせる。ここにある一句はただ渚と三つのもののためのデクパージュであり、ただここに意味なくあるだけだが、こうしてここにある、ということに私は確かに喜びを感じている。


第429号2015年7月12日
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