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2024-12-08

【俳句を読む】 <特別作品50句・相互鑑賞の試み> 田中惣一郎 五十句ずつ葬る遊び

<特別作品50句・相互鑑賞の試み>

五十句ずつ葬る遊び
 

田中惣一郎
 

五十句連作というものは奇妙な作品形式で、ただ一句が良い悪いという判断をするだけでは何か物足りなく、自分なりにこれを読み込むにあたっての仕方というか、道行というか、姿勢のようなものがぽつぽつある。

まずはガワ、見栄えの問題として、季語の選び取りかた、その配置。一から五十と並べる順番もだが、一句の中にどう言葉が配されているか、上五に切字のや、中七に連語で、下五体言止め、一句の中で大きな意味的ウエイトを占める言葉をどのようにでも捉えることができる、という、これは極端に技術的な側面の話だけれども、その点の充足感が高ければ読み進めるテンポが良くなり、俳句を読むのが好きな人間として気分が良い。

こう言うと、季語をどこに置くか、というテクニックを重視していると思われそうだけれど、そうではなくてむしろ、なぜその言葉を拾ったのか、という部分に確かさが欲しい。

無限の様態をとる現実は、言葉の上でもあらゆる姿をとるはずで、だから画一化された型で五十句並んで自然なはずはない、とそういうこと。

そうして句の姿が現れ、いくつもの句を読み進めると、ここを書き残したいという人の執着が見えてきたり、そんなのなかったり、いい句だなあと思う頭の片隅で、なんで俳句書いてるんだろと思ったりして寂しくなったり、そういうことも楽しくて、いつか誰かが書いた、百句ずつ葬る遊び、は今も変わらずあるものかと、次の句へ、次の句へ、驚きに浸りたくて読み進む。



クズウジュンイチ「生木」

 薬効く雨の昼間の沈丁花

「薬効く」がとにかく良い。昼間なのだから睡眠薬ではないし、効いてるんだからサプリメントでもない。雨で低気圧で頭痛なのか、それとも単にお腹を壊してるのか、持病があって普段から飲んでいるものがあるだとかもありうるけれど、そういう想像のあれこれにきっぱりと、答えをくれない「薬効く」が良い。他人の体に立ち入ることができないという、厳然とした現実を言い尽くすのに五音で足る、それを感じられるのが俳句的快感だ。

沈丁花は存在感があるけれど、どこかありふれてもいて、それがこの句の印象をごく個人的なものから人間一般の抱く感懐となるよう橋渡しをしている。

 仙人掌の花は唐突犬は雄

サボテンはそもそも独特のいでたちをしていて、そこへ付く明るい花がやや「唐突」というのはわかるけれど、そのこと自体はわかりすぎるというものでいささか感興薄く思われるところ、この句はそれを唐突に言ったことで光を増した。「犬は雄」も唐突。急によそ見をしている。

この一連は先の二句に見られるような、異物感のある言葉の押し出しが目を引くところで、単語レベルで異質なものの他にも、変わった用言の扱いで風景を動かそうとする意識も多々見られたが、個人的にはこれらは少し強引に感じてしまった。

「隣を夜が過ぎ」と書けば夜は足早に過ぎていく。「松をたたんで」と書けば松は重畳と折り重なる。そのときががんぼは、秋風は、置き去りにされてはいないだろうか。

あまた試みられているこういった方向よりも、かえって単純な句の方に心惹かれた。

 蓋のある水路伝ひのみなみかぜ

水に親しい土地の側溝には豊かに水が流れている。夏の日が照り、軽トラが音を立てて通る人家疎らな風景を縫うように走り抜ける南風。

南風という言葉はとかく大きく詠まれがちで、雄大な景こそ本意とも思いかかるが、しかし日常じっさいに触れて思いを動かされるのはこういった南風でもあるはずだ。「蓋のある水路」という書き振りには言葉を手づかみにした作者の感触も伝わる。気持ちの良い句だと思った。

他に好きな句をいくつか。

 花冷の肩に手を置く写真かな
 濃山吹すのこ伝つて蕎麦のみづ
 アフリカの面に西日の留守の家
 うみかぜもすゑのこざかな冬の虹


藤田哲史「コンソメ」

 零時過ぎ東区驟雨レジを呼ぶ
 自らに珈琲落とす西日中


静画的ではない。シーンがある。事実として、街があり、夜がきて、雨が降る。人と人が関わり交わす心をよそにまずその事実だ。

コーヒーを飲むということもそう。何度もしているはずのあたたかいコーヒーのあたたかさが喉を通り、体の内側に落ちていく感触を、思い出すというほどの大げささもなく思いまた、飲み終えると忘れてしまえるほどの感慨を、のみ下しおさめる体にふりかかる西日はいつかの景であり、またこれからもコーヒーを飲む私にも重なる景だ。

 冷ややかに朝の如雨露の雨溜り

朝も明けたての張り付くような冷えた空気の中、降って溜まった雨の水がジョウロに光っている。

こうした景をまさによくいう季語として露がどうしたって思い浮かんでしまうのだが、露のある景とは何かを、詳解するとこのようになろうかという、露を求める心がこの句を書かせているが、しかし現実に露はないから書かない、という頑なさ、それがしたたかなリアルをかたちづくる。

翻ってなぜ「冷ややか」が季語なのかをはっきり分からせてくれるすばらしい句。

この一連はおそらく意図して古典的表現を退けている。

意図して、と言ってしまうのは私自身が主に古典的表現どっぷりの言語世界で俳句を考えがちだからで、作者としては不本意かもしれないが、とにかくここに書かれた句を構成する言葉は、俳句と昵懇であるか否かを問わず、今人が生きて発しうる言葉、そんな日常語、きりしかない。

しかしだからこそここに現れる語は至極切り詰められていて、数々の言葉に対しそれがそのままで俳句となれるかについて当然楽観的ではありえないという態度が漂っている。

かように日常語の侵入に対して非常に抑制された意識がゆえに、この一連からは声が聞こえてこない。それは決して欠点ではなくて、むしろ簡単に声に覆い尽くされてしまう生の言葉に、俳句としてのつやを与えるための作者の敬意が書き言葉としての無声を際立たせているのだろう。

俳句に真摯であるがために自らの日常語を厳しく矯める。

俳句を書くというとるに足らない馬鹿げたことをある種崇高とでも思いたがる、輝き鈍く打てども響かない俳句にそれでも一片の信を置きたがる俳句書きという人間にとり、こんなに眩しく映る姿があろうものだろうか。

 上々の小春日和の日のひかり

あまりになめらかに過ぎて、この人にしか書けない句、ではないのかもしれないけれど、この人が書いたことに意味がある句ではある、確実に、そう思う。

他に好きな句をいくつか。

 風船がみるみる遠い融雪期
 噴水の形ゆらめき吹かれる日
 衆目にマネキン裸形駅残暑
 路上チェロ寒さも蚤の市のうち
 解け残る三日目の雪だるまです



千倉由穂「花布」

 サンダルに砂の重さがまだ残る

海へ行って帰りの道すがら、足の裏に幾度も触れる砂を確かめている。歩くたびそれは減り、振り落としてもまだある幾らかの重さ。楽しかったでも、悲しかったでも、出かけた思い出自体には何らかの感情が伴うだろうが、このしっかり分かる砂の把握にはそれがない。そこが良い。一瞬で無心になれて。

 稲妻も沈めて風呂に入るなり

私は雷に打たれたことがないのだけれど、この人もきっとそうなのだろう。遠くで光る稲妻、それを聞き、窓から見えてもいるのか、暗闇を感じつつも「風呂に入るなり」。この入り方には気持ちよさしかない、あたたかなたっぷりの湯にふかぶか体を横たえる開放感。

この一連の中には作者がこだわって描こうとするモチーフがいくつかあり、血縁、住む、居るということ、事物に触れ内から湧き上がる身体性を持ったよろこび、そうしたものが度々現れるのだが、私はあまりそれに乗れなかった。

特に親族の句に関して、こうした句をそもそも普遍性を持って立たせるのがとりわけ難しいということもあるが、書き表される語群に、意味する情報を伝えるのみに留まらず読み手が足を取られてしまうような空白が欲しかった。

 寂しさのかぎり首振る扇風機
 扇風機またも夕刊膨らませ


そこはかとなくある8bit感。扇風機を扇風機そのままとして、スノードームのように生とのつながりを断ち切って景としておくならば、そこに閉じ込めるのに夕刊というものはふさわしくはある。

他に好きな句いくつか。

 春雪に塞がれライブハウスの扉
 コンビニの冷気素足に抜けてゆく
 鯖雲は傾くばかり偏頭痛
 寒晴に戻る証明写真機より




高梨章「踏切」

静かにずっと歌っている、そんな印象を持った一連だった。

「さへずりや光合成の途中です」と例示するまでもなく、全篇を包む発話的フレーズの浮遊感に、その繊細さと比しては幾分素朴に取りあわせられる季語の響き方は、寓意の顔をしたただごととでも言いたくなるふうがあった。

 たんぽぽの黄はすいめんに山ふたつ

言葉が言葉に掛かって次々と変転していく危ういバランスと見えながら、そのものまさしく水に映る花のように、きちんと壊れない一線のある美しさ。

 いくらかの深さに掘れば春の月

読んでわからない言葉はないのにつかみ所がないのは「掘」るというイメージで沈降させられていた思考が「月」で突然引き上げられるからで、しかも読み手がこれは俳句、と意識しているせいもあってか、潜るように読み下していた「春の」まで「春の月」として宙づりに持ち上げられてしまう。

その揺さぶられ感に加えて、で、これ一体何してんのという不可思議なおかしさ。

 夕立の気配のなかの醤油差し

これは一連の中ではかなりくっきり物の姿が摑める句だが、それにしたって夕立は気配でしかないし、醤油差しはこれ以上ないくらい適当なものとしてそこにあるけれども、その納得感がどこから来るものか考えてみると落ち着かなくもあり、醤油差しって、何だ? とまでは思わないにせよ、雨が来る、夕立が必ず来る、という気配が確かにあるのみの密室に取り残される心地になる。

惜しむらくはやはりこのように彼の歌い出すフレーズに寄せて現れる季語が、ときおりその依って立つ足場の不確かさに揺れて見えてしまうことだろうか。

それはこの作品に限らず、取り合わせという技法自体が根本的に持つ危うさではあるが、それをおして、中では「夕立の」の句が全ての景物の動かなさとともに夕立の持つ世界を押し広げて描いているように感じ、好き、と思った。

他に好きな句をいくつか。

 肩にのるあんずの花のやはらかき
 花冷えの傷ぐちひらく廊下かな
 花は葉にハムからハムをひきはがす
 数珠玉のいつつでならぶ夜空かな
 透明のシャープペンシル山ねむる


 
久々に生きている人の書いた句をまとめて読んだ。

僅僅十七音。これだけしかない言葉が、なぜ無上に良い感じになるのか、書くたびにそれを考えなければならない。
 

 

■コンソメ 藤田哲史 作品50句 ≫読む

■踏切  高梨章 作品50句 ≫読む

■卯月  田中惣一郎 作品50句 ≫読む

■生木  クズウジュンイチ 作品50句 ≫読む

■花布 千倉由穂 作品50句 ≫読む

 

【俳句を読む】 <特別作品50句・相互鑑賞の試み> 高梨 章 四人を読む


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四人を読んで    高梨 章

 ガ ガンボ 
 ガ
 ガン
 母
 軽くて
 静かで
 少しだけ揺れる

ががんぼには祖母の余命がわかるのか 千倉由穂
   
 眠るやうな 穏やかな
 最期
 でしたよ、

ががんぼの隣を夜が過ぎてゆく クズウジュンイチ

     *

 なにか聞こえた?
 聞こえなかつた
 私には聞こえた
 あなたにも聞こえた
 ほらまた何か

雲ひとつふたつと育てつつ昼寝 田中惣一郎

     *

 ふたたび扉をたたく
 誰もでてこない 

手袋の片方外す鍵のため 藤田哲史

 あるひは
 鍵はあるが
 ドアはない

     *

 わたし何か言つたかしら
 いや、何も言つてゐないかもしれない

朧夜の話し相手がそつとゐる クズウジュンイチ

 わすれられた 人だつた

     *

 彼はまだ
 指を差してゐる、

風船がみるみる遠い融雪期 藤田哲史
 
 規則正しく息をして
 そして 
 空 だけとなる、

      *

 扇風機二台が首を振り、
 ピンポン玉がこんこんこん

寂しさのかぎり首振る扇風機 千倉由穂

 下を見て、
 そして上を見、
 (小声で)

   *

 波が舟にあたる軽い音、
 舟のかすかに軋む音、

やはらかき辞典一冊さつき咲く 田中惣一郎

 舟は下流の入り江で
 軽く揺れ、そして
 明るい

   *

 物を集め
 そして ひとは死ぬ

端居して花布眺めたることも 千倉由穂

 棚にある、
 借りたままの
 本
 草鹿外吉訳

      *

 わたしたちが向かふのは、
 場所ではない、

透明な時間即ち霜柱 藤田哲史

 ただ広くて
 静かで
 ひかりの
 飛沫が あがる

      *

 陽が
 天の
 まんなかにくる

空室へ風を呼び込む鯨かな クズウジュンイチ

 わたしは
 空のクモに
 恋をした鯨を
 知つてゐる



■コンソメ 藤田哲史 作品50句 ≫読む

■踏切  高梨章 作品50句 ≫読む

■卯月  田中惣一郎 作品50句 ≫読む

■生木  クズウジュンイチ 作品50句 ≫読む

■花布 千倉由穂 作品50句 ≫読む

2024-12-01

【俳句を読む】〈特別作品50句・相互鑑賞の試み〉 それぞれのアプローチ クズウジュンイチ

特別作品50句・相互鑑賞の試み

それぞれのアプローチ

クズウジュンイチ


 

いろいろなアプローチが、ある。

おそらく各自それぞれが切実な何かを抱えているはずなのだが、たまたまなのか全員似ていない。



藤田哲史の五十句は他四作とくらべて生活感が希薄である。というより生活を俳句の中で営んでいるような感覚がある。

表現だけが優先される俳句世界に生きていて、内側からこれを押し広げていこうとする運動に見えるのだ。

特徴的な「です」終止や「こと」で纏めていく手法もそのアプローチの一部なのだろう。

  衆目にマネキン裸形駅残暑
  試験官側の静かな眺めです


マネキン人形の側の羞恥、試験官の側の平穏、ともに別の世界から見つめている光景であって、独特な読後感が強く印象に残る。



高梨章については、昨年の角川俳句賞の最終選考での評価が記憶に新しい。

青春性を前面に押し出した句風ゆえ、若いのだからまだ次がある、という見方をされていた。実はどの審査員よりも年長であるというどんでん返しまでセットで特筆されるだろう。

この青春性はむしろ現在の若手の作品には見られないもので、向日的な自我が若さと捉えられる時代はすで終わっている。

高梨が若かりし頃の精神性を持ち続けていることは奇跡的ですらある。そしてそれはノスタルジーを孕みつつ逆に新鮮に感じられるものになっている。

  遠雷をポケツトに入れ青(ブルウ) 

若い。挑戦的な句形も若い。今回の五十句には異端な技法をことさらに用いているであろうことが汲み取れる。 

  花は葉にハムからハムをひきはがす
  虫籠を持たされ籠の外にゐる


 これらの穏当な句には練達ぶりも窺え、詩的世界のキメラのような底知れなさがある。



千倉由穂の五十句を読んだとき、書かずにはいられない切実さを強く感じた。

自分自身の立脚点がグラグラしているような、「住んでいる」が「暮らしていない」という感覚の中で見たものを書き留めている。精神的な拠り所は肉体的に存在する場所と別にあって浮遊している。

  いぬふぐりいまだ定住者にあらず 

があるのでそう思えてしまうかもしれないが、母や祖父母が登場する句の多さからもある種の望郷を感じ取ることができる。

その句群にときおり混ざる

  コンビニの冷気素足に抜けてゆく

などのフラットな実感のある句や、

  小箱開ければ風鈴舌に包まれて

のような不思議な句にむしろ強く惹かれた。



田中惣一郎は毛色の違う連作。

卯月という短い期間に溢れかえる自然の営みを活写することに専念した。

一年の中で新暦五月は最も動植物が生き生きとしている。この状況を俳句に落とし込もうとするはっきりとした意図をもって山野に分け入ったのではないか。

一句中に複数の動植物が登場することも禁忌に近い面があるが、田中はそれを恐れていない。なぜならそれが卯月の現実、押し合いへし合いする生命感であるからだ。

  かはげらもゐもりもゐる溝蓋あけて
  定家葛の花咲くまとふ桜の木

にあるリアリティは圧巻。

  いつかしらつるばらつたふ水は雨
  公園は日闌けてからが氷菓子


そして山から下りて街に戻ってきた景色もまた卯月そのものである。



角川俳句賞において、独自性が最も重要と考えている。

その意味で全く異なるアプローチで挑んだ各氏の作品に出合えて正直嬉しかった。



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【俳句を読む】〈特別作品50句・相互鑑賞の試み〉コートの出番間近のころに綴る覚書、的なもの、或いは 藤田哲史

〈特別作品50句・相互鑑賞の試み〉
コートの出番間近のころに綴る覚書、的なもの、或いは 

藤田哲史


角川俳句賞の応募作を読む愉しみは、連作を読む愉しみだ。

一句一句にある作家性が、連作にまとめられたとき、いっそう濃く立ち上がってくる。



花布」 千倉由穂
寂しさの限り首振る扇風機
蜻蛉は還らなかった遺失物
銀の匙一つ一つの秋の色
雪催まばたく毎に過去となる
自らの声啄んで寒雀


惹かれる五句を抜いてみると、「ライブハウス」、「ヘッドホン」、「コンビニ」といった外来語の現れない句が並んだ。

三句目。「銀の匙一つ一つ」からは、なんとなくレストランの食事が想像できる。大きなテーブルに重たげな銀のカトラリーが設えてある情景だ。

金属は、実際に金属そのもののいろを持たない。金属光沢とは、つまり周りの光を反射する現象だ。テーブルを囲む人の肌、装い、テーブルに置かれた花…そういった諸々のいろをスプーンは反射させる。

食事場面の賑やかさのなかにあって、秋の冷厳な印象を掬い上げた点にこの句の面目がある。個人的には秋の夜が似つかわしいと思ったが、果たしてどうだろうか。



「卯月」 田中惣一郎
新緑の桂に伍する欅かな
柱廊のうつぎ溜りとなりにけり
光沢の裂けてざくろの花出だす
台湾栗鼠幹を枝への朴の花
たまゆらに莕菜乗せたる真鯉かな


技巧と描写の新しい均衡点を探ろうとしている作り手。

中でも四句目。栗鼠の機敏な動きを動詞で表そうとすると平凡だし、わざとらしくなる。ならば。と、栗鼠の姿かたちを途切れ途切れに捉えている、その認識をそのまま言語化する技巧を見せた。

幹の上を行く栗鼠、枝の上を行く栗鼠。あっという間に枝先の茂みのどこかに潜りこんでしまい、もうその姿はみえない。朴の花のあたりまでは姿を捉えることができていたはずなのに。

下五で安易に抽象的な季語へ流れていきそうなところで朴の花という具体を見せるところにも、絶妙な味わいがある。



「踏切」 高梨章
花は葉にハムからハムをひきはがす
てふてふを離れず川はながれけり
虫籠を持たされ籠の外にゐる
鶴わたる海底ケーブル敷設船
薄氷やそこでみんなは待つてゐる

 

なんといっても一句目。しらべに重きを置く作り手のスタンスが特によくわかる句で、Ha音がなんと五回現れる。(なはむからむをひきがす

回数よりも巧みなのは、下五の1音目がHa音でないところ。たとえば「ひきはがす」を「はがしけり」とすると、上五中七下五の1音目がどれもHa音となって、きっちり頭韻を踏むことができるのだけれども、あえて外すことによって抜け感が生まれ、いっそう魅力的なしらべになっている。



「生木」 クズウジュンイチ
アフリカの面に西日の留守の家
仙人掌の花は唐突犬は雄
鯊舟が帰る運河の行止り
鉈切りの生木がにほふ霙かな
ソーセージ榾の強火に裂けさうな

現在、もっとも文体を試行している作り手のひとり。

とはいえ、惹かれたのは表題句を始め、実のあるものが多かった。

アフリカ彫刻を嬲る西日、小さなエンジンをつけた鯊釣ボートの後ろ姿、雑木を使い込まれた鉈、火に炙られ燻されるソーセージの皮、一つ一つのモチーフが単なる好奇をこえて、生々しい把握に至っている…そんな点に惹かれた。



「表現は、つねに新しさを、直前のなにかと違うなにかを必要とするので、変わることは必然」先週号の後記にあるとおり、新しさは必然だ。

そして、そこにあえて言葉を継ぐならば。単に奇を衒うのではなく、何かを表現するための新しさなら、それらはやがて本格と呼ばれるにちがいないのだ。


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2024-11-23

生木 クズウジュンイチ 作品50句






 

生木  クズウジュンイチ

水が来るどこか遠くの猫柳
薬効く雨の昼間の沈丁花
土手が春川のむかふと平行に
窓枠を蜂の歩いてかさつく日
朧夜の話し相手がそつとゐる
さへづりや畳の部屋に招かるる
花冷の肩に手を置く写真かな
うぐひすを昨日見てゐるうすあかり
空室へガスの検針つちぐもり
寝ころんで右の手枕梨の花
すれちがふ遅日に鈴が鳴つてゐる
レシートをたまによく見る花の雨
濃山吹すのこ伝つて蕎麦のみづ
青梅や胸引き寄せてさかあがり
蓋のある水路伝ひのみなみかぜ
金魚鉢はさみ将棋をしてやめる
眠つてと言うて二人のほととぎす
ががんぼの隣を夜が過ぎてゆく
退職や鳥の一羽がかはせみで
梅雨時の親子の断面が平ら
囮鮎曳かれて淵に横たはる
張りながら油光りの蜘蛛の糸
アフリカの面に西日の留守の家
蟻の世の砂がすべてのあけくれで
仙人掌の花は唐突犬は雄
天蚕の森がゆがんで雨後の襞
泥靴が乾き始めて韮の花
めいめいがめまひの昼の造り滝
山風は萩を運んでうらごゑで
手の揃ふみづにゆかりのをどりかな
見渡せばひとのいとなみ鉦叩
カンナは緋うまれながらに唄の家
秋風が松をたたんでやがて海
鹿跳んで跳んで遠くに数を増す
まつすぐな池のしあはせ彼岸花
鯊舟が帰る運河の行止り
十月の終ひが晴れて立ち話
うそ寒をのぼりつめれば崖のきは
土熟れて茸へ雨のひとしきり
ぼそぼそとしぐれて対の煙出
はつ雪のちららに藪の鳥の数
空室へ風を呼びこむ鯨かな
抱き合つてすぐに離るるラガーマン
鉈伐りの生木がにほふ霙かな
ソーセージ榾の強火に裂けさうな
まひるまの雨の枯野を今の人
うみかぜもすゑのこざかな冬の虹
火事消えて子供が犬を見せてゐる
寒釣の練餌をいつまでもさはる
山奥や霰ついでに整ふ木
 

花布 千倉由穂 作品50句





花布 千倉由穂

太陽の傍にしゃがんで蕗の薹
寝転べば胸の底から揚雲雀
春夕焼草の匂いを持ち帰る
灯るから暮れてゆくなり草朧
春雪に塞がれライブハウスの扉
いぬふぐりいまだ定住者にあらず
ペンギンに水面の影ができ遅日
花屑の水に触れてはほどけゆく
ヘッドホン首に重たくして海市
曲がる時また振り返る春日傘
菜飯食うまとめて捨ててきた故郷
滲み出す眠気に触れてヒヤシンス
青蛙昔話を抜け出せり
集落の終わりに虹の懸かりけり
サンダルに砂の重さがまだ残る
小箱開ければ風鈴舌に包まれて
展翅される夏蝶ここが永住地
指広げ蜥蜴になってゆく途中
噴水や何も見ていぬ眼の光
青葉風カーブミラーに影忘れ
身体に宿る記憶として青葉
ががんぼには祖母の余命がわかるのか
夕立や向かいのビルは人まばら
中華屋にビル影伸びてきて夕焼
コンビニの冷気素足に抜けてゆく
袖口よりほつれて烏瓜となる
内側に祖父の戦後や夏簾
夏座敷四肢の遠くに頭がありぬ
端居して花布眺めたることも
寂しさのかぎり首振る扇風機
扇風機またも夕刊膨らませ
おはじきの色を映せり天の川                 
稲妻も沈めて風呂に入るなり
秋蟬や暗き廊下のひとところ
竈馬母の怒声の端におり
蜻蛉は還らなかった遺失物
秋風や馬頭観音並び立つ
鯖雲の傾くばかり偏頭痛
銀の匙一つ一つの秋の色
秋雨や京の住所の長きこと
大花野いまだ眠たき脛を打ち
流星やリュックサックを枕にし
どの窓も金木犀を招き入れ
雪催まばたく毎に過去となる
冬ぬくしラー油の玉の繋がりて
コロッケの冷めゆく重さ細雪
風花や門灯明滅して灯る
寒晴に戻る証明写真機より
自らの声啄んで寒雀
実千両友の無口の親しかり

 

2024-11-17

踏切 高梨章 作品50句

 


 
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 踏切  高梨章

木の芽張るかくしきれない呼気吸気
すみれからすみれの外へ脚を出し  
肩にのるあんずの花のやはらかき 
さへづりや光合成の途中です  
風にどう揺れていこうかピクニック
てふが来てわづかにしづみ花のうく
たんぽぽの黄はすいめんに山ふたつ 
白木蓮(はくれん)のりんかくひかるかんたあた
春の夜ブリキの金魚くつがへる     
いくらかの深さに掘れば春の月 
薄氷やそこでみんなは待つてゐる
死にたればまばらな雲から春の星 
てふてふを離れず川はながれけり  
花冷えの傷ぐちひらく廊下かな 
四角の箱へしかくにたたむ春の家  
春の雨あがればみづのそとは夢     
花は葉にハムからハムをひきはがす
ふしぎな楽器のやう水に浮く茄子
六月の傘をひらいて音になる
蝉の羽化しづかな空を風にする 
坂の上はさへぎりもなき夕映のまた失ヘば得がたきひかり 小野茂樹
夕焼のほうへかたむく歩道かな
卵割る 青葉木菟が鳴きましたね 
遠いドアひらけば音のとどく夏
遠雷をポケツトに入れ青(ブルウ)  
夕立の気配のなかの醤油差し  
数式の中途蟻を見たくなる
いつぽんの見えかくれして瀧となり
風がきて廊下をまがる夜の秋  
四万六千日の夜道かな
草の実の来てゐるぼくのくちぶえ 
犬が犬を嗅ぐ八月の路地に入る  
数珠玉のいつつでならぶ夜空かな
あとがきのない本そらを鳥わたる
鶴わたる海底ケーブル敷設船  
この谷のつくつくばふし谷の空 
秋はみな麒麟のやうにあるきたり 
また跳んでべつの芒でゆれてゐる
壁にあるちひさなへこみ秋風鈴 
月の出のすこし手まへでたち止まり 
宥されてわれは生みたし 硝子・貝・時計のやうに響きあふ子ら 水原紫苑
三日月のひかりをもらひ受胎せり
手をほしがるいきものがゐてながれぼし
コスモスがわたしに気づく日ぐれかな
虫籠を持たされ籠の外にゐる 
ここはかつて海いちがつの昼やすみ 
花八つ手留守番電話の声がする   
雲が切れ海までゆける凍星 
冬銀河水を汲むひと銀の耳 
ほそい手足の雪の角度に傘をさす 
透明のシャープペンシル山ねむる
その奥にゆふぐれのみづ冬椿

卯月 田中惣一郎 作品50句

 

 


 
 

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  卯月   田中惣一郎

自転車の籠に柴犬五月になる
鼻先へ空が押遣るえごの花
虫媒花夏のはじめのくたくたの
子烏の座を選みをり枝暴る
遠に門あり流景に緑さす
新緑の桂に伍する欅かな
野茨は壊るる花と咲きにけり
きはやかに紫蘭の茎の節の色
みな新樹となり一木の枯死を見す
かきつばた鞄に覗くぬひぐるみ
ほろほろと河骨に鉄バクテリア
花菖蒲折皺とてはなかりけり
胴長に石菖なすり沢登り
かはげらもゐもりもゐる溝蓋あけて
又しても青大将か留まらい
実桜の踏みしだかれて痕にのみ
やはらかき辞典一冊さつき咲く
くちくなり夏川黒き昼餉どき
栴檀の花落ちつづく恢復期
寝かしつけて卯の花散らす片辺
石垣の隙が蛇吐く花うつぎ
花うつぎ見ねば忘れて空の貌
柱廊のうつぎ溜りとなりにけり
邂逅に卯月野は弧をなすばかり
麺麭を焼くためだけの火や卯月寒
瑕新た木の下闇のしほれ花
幼くて懇ろに抜く蟻の脚
渦なして雲ふつ飛びぬほととぎす
ばらの色花より外れ吹かれけり
いつかしらつるばらつたふ水は雨
ぬるきサイダーと宿根草の庭
定家葛の花咲くまとふ桜の木
光沢の裂けてざくろの花出だす
台湾栗鼠幹を枝への朴の花
揚羽蝶日輪曳ける二頭立
睡蓮や誰にも言はず好きな色
雲ひとつふたつと育てつつ昼寝
茶につかふ水しまひあり柿若葉
うはごとに頷き返す冷蔵庫
犬川やいよいよ大き誘蛾灯
擬宝珠の花の頭のふくれをり
たまゆらに莕菜乗せたる真鯉かな
息づける泉に揉まれ顔写真
太藺の穂風に起されすぐさま寝
雨蛙これの石より濡れてをり
雲の上にプール開きの笛が鳴る
棗咲く枝満杯にして小さ
公園は日闌けてからが氷菓子
長考に蚊取線香ありにけり
あぢさゐの花たることに疎きかな

2024-11-10

コンソメ 藤田哲史 作品50句

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コンソメ  藤田哲史

風船がみるみる遠い融雪期
花降る日腿上げをして陸上部
告げ得ずに終る彼此(あれこれ)水張田
あめんぼう果たして雨と競いあう
緑蔭が吹かれ揉まれる彼方です
忙しげに回転扉冷房裡
濃あじさい蠶(かいこ)廃れて只の町
箱庭に瓦斯燈灯る眩しくも
葛櫻落語の何か泣けること
零時過ぎ東区驟雨レジを呼ぶ
なりゆきに髪洗いあう昨日今日
噴水の形ゆらめき吹かれる日
見尽くされ更にうすれること虹は
遠泳を孤独の比喩と思うこと
自らに珈琲落とす西日中
衆目にマネキン裸形駅残暑
蜩に夜勤終わりの牛丼並
あさがおのひしめき咲けばしみじみと
たっぷりと桟橋に降り今は秋
犬山は鯖雲散らしそれっきり
秋の雨身支度映す立鏡
コンソメの琥珀をすくう後の月
えのころに人の慕情を託すこと
冷ややかに朝の如雨露の雨溜り
掌に受けて林檎の香り掌に宿る
日短揚油染む紙包み
停留所雨降り止めば冬の入
雪催本屋に待つと会えること
待つ人の鎧のような着込みよう
受付も予防接種に混む季節
路上チェロ寒さも蚤の市のうち
ふと思いおこすようにも降るしぐれ
手袋の片方外す鍵のため
寒卵影一箇持ち物静か
湯麺(タンメン)に甘い白菜母郷とは
白白と花捲(ホアジュアン)出来る淑気です
解け残る三日目の雪だるまです
見るとなくフィギュアスケート映すこと
透明な時間即ち霜柱
上々の小春日和の日のひかり
七五〇cc(ななはん)を駆る裘関ヶ原
春を待つ看板猫も三代目
試験官側の静かな眺めです
卒業の季節と思う今年また
やきそばをせしめれば足る春祭
初蝶に大道芸の後仕舞
一枚のレタス折り敷くパンの上
莫迦猫の散らかすティシューのどかな日
冗談は湯船に誘う春の宵
四月尽寛ぎに来てバーの端