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2023-11-26

西原天気【句集を読む】特別の一瞬 茅根知子『赤い金魚』の一句

【句集を読む】
特別の一瞬
茅根知子赤い金魚』の一句

西原天気


溶接の火花に浮かぶかまどうま  茅根知子

溶接の場所は地べた(土かコンクリートかはわかないが)。きっと屋根がある。溶接の経験があるわけでもなく詳しくもないので、あくまで想像。

屋根のある地べたという意味で、そこは家と外のあいだのような場所だと思う。

かまどうまは、秋の虫のなかでは、比較的、家や家の近くで目にする虫。だから、上記のような場所は、とても似つかわしい。

溶接の火花が地面へと落ちる、その刹那、かまどうまを照らし出す。状況は特別でもなんでもないけれど、その瞬間は、やはり特別に思える。とりたてて美しいものではなくとも、特別の一瞬。


茅根知子『赤い金魚』(2021年9月/本阿弥書店)≫版元ウェブサイト


ところで、余談。

「赤い金魚」という句集タイトルを見たとき、ちょっと自分にはつまずく感じがあった。金魚をわざわざ「赤い」と限定したところに反応したのだけれど、考ええてみれば、黒い金魚もいる。それになにより名称には「金」とある。金魚=赤、という繰り返されて刷り込まれた定式に、あらためて思い当たったのでした。「赤い金魚」というタイトルも、私には意義があった、ということだ。

2018-01-21

【週俳12月の俳句を読む】俳句の耐荷重 茅根知子


【週俳12月の俳句を読む】
俳句の耐荷重

茅根知子


「俳句は作者の手を離れたら、読み手のもの=自由に鑑賞してよい」。これは、亡くなった師から教えてもらった言葉である。とはいえ、俳句は読み手の勝手な鑑賞や妄想に、いったいどれくらい耐えられるのだろう。

勘忍と言うて色足袋脱ぎにけり  岸本由香

ここで脱ぐ足袋は、色足袋でなければならない。着物を着ることに慣れていないころは、白の半襟に白足袋という教科書通りの着付けになる。そして着物が身体に馴染んでくると、少し襟を抜いたり、刺繍や色物の半襟にしたり、色足袋を履いたり、お洒落な着こなしをしてみたくなる。着こなしが熟したころ、女は色足袋を脱いで堪忍と言った。一連の妄想はここから始まる。

俳句は一句で鑑賞するときと、複数の作品群で鑑賞するときがあり、それぞれ違った読みになる。

色足袋を脱いで、

次の間に鶴来てをりぬ夜の房事
鶴眠る紅絹の色なる夢を見て

と、頂に向かい、

雪晴や折鶴に息吹き込んで
書きなづむ一片の文しづり雪
山眠る着信音のいつまでも

で、心地よい脱力とともに頂から降りてくる。
俳句がストーリーになったときの面白さを堪能した。

冬蜂のよく死んでいる通学路  桐木知実

「よく」に注目した。たった2文字が気になってしょうがない。「死んでいる」だけだったら、その言葉を信じることができる。が、よく死んでいるなんて言われたら、それはもう法螺吹きって言いたくなる。たとえ本当だったとしても、よくってどういうこと? 何か変だよ、とツッコミたくなる。嘘じゃなくて、愛すべき法螺。嘘か法螺か本当か、確かめてみたくなった。

鴨なくやキリスト教の街宣車  桐木知実

俳句は、音(耳)と文字(目)のどちらで読むかによって解釈が異なることがある。掲句を目で読んで、それから音で聞いたら「鴨鳴く=かもなく」が「可もなく不可もなし」の意味に思えてしまった。それでも俳句の形として成り立ってしまうところが面白い。甚だ勝手な読みではあるが、毎年、街のクリスマスに辟易している者にとって、印象に残るお気に入りの俳句となった。

遠火事といふ祝祭に染まる空  滝川直広

どんな悲劇も、結局は当事者のものでしかない。遠い国の災害や自国の事件も、多くはテレビの中の出来事である。掲句もしかり。火事の当事者は悲しみと絶望のどん底にいる。けれど、作者は「といふ祝祭」と詠んだ。赤く染まる空を見て、図らずも、綺麗…と呟いてしまう。誰の心にも潜んでいる下衆な気持ち。それを意識することは悲しみであり、一方で、ゾワゾワと戸惑っている自分に安心する。

「パサージュの鯨」10句  福田若之

タイトルを見ると、作者の思い入れがあると想像する。が、そこには触れないでおこう。人の気持ちは分からないから。

10句を一気に読んだら、半世紀以上前の記憶が掘り起こされた。幼稚園時代 ― 日本の捕鯨が盛んだったころのある日、何故か先生が鯨の髭を持ってきた。一人ひとり順番に触らせてもらい、みんなが目を輝かせた。ねっとりとした手ざわり、粗い箒みたいな髭、少し甘い匂い、先生の声や教室内の騒ぎまでが、動画となって目の前に現れた。

句会で選句をするとき、その俳句に共感できることが1つの選句基準である。「パサージュの鯨」には、共感というより、昔むかし同じ体験をしたような懐かしさが溢れている。そして10頭の鯨によって、作者の意図とは関係なく、深く埋もれていた記憶が掘り起こされることになった。俳句の力は偉大である。

左右から別の音楽クリスマス  村田篠

街のクリスマスは喧噪である。掲句のポイントは「左右から」。まわりから聞こえる音楽は頭の中で混ざり合い、メロディーが分からなくなり、故に騒音となる。左右から聞こえる音楽は何とか聞き取れてしまうから、騒音よりも始末が悪い。左右から別の音楽を聞くことによって、頭が混乱するほどのクリスマスの喧噪が伝わってくる。


岸本由香 勘忍 10句 ≫読む
松井真吾 フラメンコスタジオ 10句 ≫読む
桐木知実 控え室 10句 ≫読む
鈴木総史 町暮れて 10句 ≫読む
滝川直広 書体 15句 ≫読む
上田信治 朝はパン 10句 ≫読む
福田若之 パサージュの鯨 10句 ≫読む
村田 篠 握手 5句 ≫読む
西原天気 抱擁 5句 ≫読む
岡田由季 接吻 5句 ≫読む

2015-12-27

人が居た場所に立ってみると。 シリーズ「八田木枯の一句」の楽しみ方 茅根知子

人が居た場所に立ってみると。
シリーズ「八田木枯の一句」の楽しみ方

茅根知子



八田木枯の一句は角谷昌子、太田うさぎ、西村麒麟、西原天気の4人が交代で執筆する連載である。執筆者一人の連載と違って、毎回いろんな色の文章が楽しめる。取り上げた俳句について知ることはもちろん、その俳句を取り上げた理由・クセ、解釈の切り口、そして俳句を“どの位置”から見たのか、それぞれの居場所からの発言を読みながら、なるほど…と呟く。

「八田木枯の一句」は、まったく異なる色の4人が書いている。そこで「執筆者×取り上げた俳句」の組み合わせを入れ替え、この人ならこの俳句をどう解釈し、どんな文章を書くのか想像してみる。すると、これがけっこう面白い(執筆者には失礼をお詫びします)。こんなことができるのは、執筆陣の組み合わせが絶妙だから。4人が、付き過ぎあるいは奇を衒ったような取り合わせだったら、この楽しみ方は成立しない。例えばと言って正しいのか分からないけれど、例えば、カツオのたたき×マヨネーズ、お寿司×チリソースといったB級グルメ(邪道というべきか…が、実際にある食べ方でクセになる人がいるとか)的な、もうひとつの楽しみ方である。

「執筆者×取り上げた俳句」を入れ替えて想像すると、画面や紙に張り付いていた俳句が、ぐぐっと三次元となって立ち上がってくる。前後左右の90°方向はもちろん、360°を小刻みにして、どの場所からも俳句を眺めることができる。今まで見たことのない角度から俳句を眺めることによって、新しいことを発見する。イメージとしては、サカナクション「アルクアラウンド」のMV 1:30あたりに出てくる文字みたいな(※)。ある方向から見ると何だか分からない物が、ある一瞬の場所から見ると、形=文字になる。同じ俳句なのに、別の顔がふっと見えてくる。

人が居た場所に改めて立ってみると、まったく違う風景が見える。「八田木枯の一句」は、絶妙な取り合わせの執筆陣により、俳句って只者じゃないなぁと真面目に考えつつも、B級グルメ的面白さを体験することができる。


※サカナクション「アルクアラウンド」(1:30あたり)


2015-07-12

【週俳6月の俳句を読む】遠くから見えるもの 茅根知子

【週俳6月の俳句を読む】
遠くから見えるもの

茅根知子


麦秋や病院よりも白き墓  利普苑るな

菩提寺の隣に大きな病院がある。墓参りのたびに、いつも眺めていた。きっと病院からも墓地が見えるはずだ。こういう状態を人は「よりによって」とか「縁起でもない」と言い、「何だかなぁ」という気持ちになる。けれど、本当の生死の境に立ったら、縁起のことなんて頭をかすめもしない。掲句を読んで、そんなことを思い出した。病院と墓、生と死、離れているようですぐ隣にある。何だかなぁだけど、〈麦秋〉に救われる。


箱庭の作者が映り込む水面  福田若之

小学校の理科の授業で〈箱庭〉があった。もともと理科は好きな科目だったが、殊に箱庭は大好きだった。山を作り、湖を作ってアルミ箔の舟を浮かべた。朝、学校に行くと真っ先に様子を確かめるのだが、舟は必ず沈んでいた。10歳に満たない子どもには何故舟が沈んでしまうのかが分からず、誰かの意地悪だと拗ね、舟を浮かべ直してはまた沈みという毎日を繰り返していた。あの時、水面には悔しくて半泣きの子どもの顔が映っていたのだろう。掲句を読むと、記憶だったものが見えてくる。箱庭に、小さな箱庭と朽ちた子どもが置いてある。


第424号 2015年6月7日
利普苑るな 末 期 10句 ≫読む
第426号2015年6月21日
喪字男 秘密兵器 10句 ≫読む
第427号 2015年6月28日
福田若之 何か書かれて 15句 ≫読む

2015-04-26

今井杏太郎を読む9 句集『海鳴り星』(1) 小川楓子×茅根知子×鴇田智哉×生駒大祐

今井杏太郎を読む9
句集『海鳴り星』(1) 

                                                                              
小川楓子:楓子×茅根知子:知子×鴇田智哉:智哉×生駒大祐:大祐

≫承前
『麥稈帽子』 (1)春 (2)夏 (3)秋 (4)冬
 『通草葛』 (1)春 (2)夏 (3)秋 (4)冬

◆水のなかで揺らいでいるような◆

編集部●では、はじめます。今回から読むのは第3句集の『海鳴り星』です。「魚座」創刊後の最初の句集になりますね。

この句集は小川楓子さんをゲストにお招きして、一緒に読んでいきたいと思います。楓子さん、よろしくお願い致します。まず、気になった1句からお願いできますでしょうか。

楓子よろしくお願い致します。私がいいな、と思ったのは

はくれんの花のまはりの夜が明けぬ

です。

じつはこれまで今井杏太郎さんの句集を読んだことがなかったのですが、この句集を1冊読み通して、水に満たされて1句が立っているような、そんな感じを受けました。その姿は棒立ちではない。棒立ちならば硬直しますが、循環していたり、少し揺らいだりすることでいつでも動き出せる一句、という印象があります。

この句は切れもないし、すっと立っているのみであるからこそ、満たされた水が少し揺らぎ、明け方の暗く青みがかった辺りに、はくれんの花の白さがふわっと伝わってゆく感じがします。「はくれん」も「まはり」もひらがなに開かれていて、時間の流れがゆっくりとなる。その、じんわりと伝わってゆく感じがいいなあと思いました。

大祐意味の伝達のスピードと景そのもののスピードは実際は違うのですが、この句では、夜の明けてゆくスピードに句の読解のスピードを寄り添わせたような感じがありますね。それから、この句は「あ」行の頭韻がとても響くので、全体として明るい印象があります。

技術的なことを言えば、「花のまはりの夜が明け」るというのは、かなりテクニカルな表現だと思います。

楓子はくれんの花はランプシェードが逆さになったような形で、あの形自体白く灯るような印象があります。例えばたんぽぽの花のまわりとは違って、とても効果的な感じがしました。

知子この句にあるもどかしさのようなものが、夜の明けるスピードなのかな、という感じもしますね。「はくれん」というだけで花と分かるのに、さらに「花」と言って、しかも「まはり」と言っています。どれだけ手が届かないものなのか、というもどかしさがあって、でも一読すると、楓子さんがおっしゃったように、確かにはくれんの花が白く浮きあがってくる感じがします。それは偶然ではなくて、やはりテクニックなんでしょうね。

智哉「はくれんの」と言ったあとに、「花の」と一度延ばして、「まはりの」でさらに延ばして、そこまでの段階でわりにはくれんの白さに広がりが出てくる。そこに「夜が明けぬ」だから、ああ、明るくなっているんだな、と分かる。「まはりの」までは空間のことを言っていたはずなのに、「夜が明けぬ」としたことで時間へと繋がっていくんですね。

大祐この句は杏太郎さんの句の中ではムードのある句というか、雰囲気としては少し甘いところもある句だと思うのですが、選者としての杏太郎さんは、そういう句についてどう思われていたのでしょうか。即物的な句をとられたのか、それとも、韻律や調べを重視されたのか、なにを重視されていたのでしょうか。

知子リズムや調べのことはいつも言っていましたね。ただ、選をするときは、即物的な句もとっていたし、こういうムードのある句もとっていました。選は広かったと思います。ただ、「まずは調べだよ」というのはよく言われました。

智哉読者の方には、「はくれん」というものに対する一定のイメージがすでにあるから、そのイメージを借りている句ではあると思います。

大祐杏太郎さんは、基本的に、具体性の強い言葉はあまり使われないので、楓子さんが言われたような、水の中に立っているようなふわふわした感じは、具体性のないところから来ているのかな、という感じがします。この句も具体的には何も言っていなくて、ただ「はくれんの花があって夜が明けた」ということを、読者のイメージを借りて読ませています。

ふだん杏太郎さんの読者ではない方が、そのあたりの感じをどう思うのか、ということが、気になっていました。

編集部●具体性のなさは、本当に特徴的ですね。大祐さん、気になった句はありますか?


◆「種袋」とは何なのか◆

大祐はい。

まずこの句集の印象についてお話しすると、杏太郎さんの方法論がかなり確立されてきていると思います。ただ、第5句集の『風の吹くころ』になるとその方法論のみが前面に出て、句の骨組みが見えるようなつくりになっているのですが、この『海鳴り星』の、特に春の部では、不思議な叙情性のようなものが出てきています。例えば〈北窓をひらく誰かに会ふやうに〉とか〈紅梅にきのふの冷たさがありぬ〉などは叙情性がにじみ出ていて、この句集は好きですね。

そのなかで、僕がいいと思った句は

花種の袋に花の絵がありぬ

です。この句だけを読むと「ただごと俳句」なのですが、句集の流れの中に置かれると華やかさが目立って、単純な「ただごと俳句」というのではない面白味が感じられます。

何の花か書いていない、というのがいいですね。情報量は非常に少ないのですが見えてくるものがあるというところが、俳句らしい句と言えるかな、と思います。

智哉「花種の袋に」と言われると、下にいったい何が来るんだろう、と興味をひかれます。自分が俳句作家であるということもありますが、俳句を読むときって、そういった興味をもって読みますよね。「花種の袋に」のあとに、何か意表を突くおもしろいものが来てほしいな、という期待が生じ、その先を読み進めるわけです。

すると、「花の絵がありぬ」とある。これは当たり前のことのようですが、「あ、そうきたか」という意外さと、はぐらかされた楽しさがあります。付きすぎているところに、或る「ずらし」が生じているんですね。

「北窓」の句でも、「誰かに会ふやうに」とさりげない感じでついていますが、じつは北窓は「誰かに会うために」開くわけではないので、付いているようでずらされている、というところはあります。

知子ふつうの人が見たら当たり前のことなのですが、俳句的な予定調和をずらしている、ということなんでしょうか。

智哉先ほど生駒くんが「何の花か書いていない」と言ったけれど、そもそも歳時記に載っている「花種」という言葉が指し表しているのは、いったい何の花の種なのか、そういったところに考えが及ぶ言葉で、できている句だと思います。

大祐むずかしいのは、「俳句らしくない俳句しか作れない」状態から「俳句らしい俳句を作れる」状態に遷移して、さらにまた元の場所に帰って行くと、その帰っていった地点は最初の地点と同じなのか違うのか、ということです。ただ下手になっただけというのでは困るのですが、杏太郎さんの場合は、調べや韻律が身についているので、発想という観点で「俳句らしくない」地点に戻って来ていて、それを俳句らしく成立させるのを言葉のテクニックで行っている、という感じがします。

楓子花種、花の絵と重ねることで、かえって花の不在を感じます。「絵がありぬ」と来て「あ、花はないんだな」と。

智哉その場には花は現れていないんですね。まさに「種袋」しかない。じゃあ、「種袋」って何でしょう、ということです。「北窓」などはもっとそれが分かりやすくて、実際に北側に窓がある場合もあるけれど、季語としての象徴的な意味合いが含まれているから、「誰かに会ふやうに」という、わりに具体的な生活を連想させる言葉がつくとうまくいくんですね。

大祐「誰かに会ふやうに」というのは、表現として詩的であるようでいて、じつは「北窓を開くってそういうことだよね」と言っている句だと思います。けれど「花種の袋」の場合は「振ったら種の音がした」というような、「花種の袋」の本意はむしろそこにあるのであって、「花の絵がある」というのは本意ではないと思うんです。

日常的な感覚とは一致しているけれど、本意とはズレがある。杏太郎さんの場合、本意とは少しずれているけれど、いかにもその季語らしいところを詠む、というところがあるのかな、と思います。


◆イメージの広がり、意味の解体◆

編集部●知子さん、いかがですか?

知子さきほど「はくれん」の句がありましたが、白のイメージということでいうと、

春の夜の銀座に白い絵がかかり

これも、春の夜でなくてもいい、銀座でなくてもいいと言われてしまうと身も蓋もないし、「花種」の句と同じように「白い絵」と言っているだけで、誰の絵ともどんな絵とも言っていません。杏太郎は銀座が好きでしたので、それで詠んだのでしょうが、春の夜の朧といいますか、上手く言えないのですが、やはりこれは「白い絵」でなくてはならないと思うんです。こういう句はどう思われますか?

大祐面白い句ですよね。「銀座に絵がかかる」と言われるととても豪華な感じがするのですが、「白い絵」とすることによって、「絵」ではなくて「春」の方にピントが合っているような気がします。春の夜を描写することに白い絵が象徴的に効果をもたらしているんです。「白い絵」は比喩とも読めますが、あえて実景と読みたいですね。

こういう象徴性は、それまでの杏太郎さんの句にはそんなに目立たなかったような気がするのですが、最初に申し上げたようなこの句集の叙情性に近づいてゆくのは、そういうところなのかな、と思いました。

この「白い絵」というのは、キャンバスはもともと白いものですから、使われている絵の具が少ない、白っぽい絵ということでしょうか。

楓子この場合はわかりませんが、ほんとに白しか使わない絵ってあるんですよね。この間、まったくの白い絵があって。遠くから見るとただのキャンバスにしか見えないのですが、近づくと筆のタッチが見えるんです。美術を専門にしている友だちに「この絵はどういう絵なのか」と訊いたら、「白というのは始まり、起点という意味がある。白くて何も見えないようだけれど、筆のタッチに意匠があり、見えないけれどあるんだ」と言っていました。この句を読んで、そのことを思い出しました。

智哉銀座という街は、住んでいる場所ではなくて、出かけてくる場所ですよね。それで華やかなイメージがあります。浮き立った気分がある。でも、「白い絵」には逆にちょっと怖いイメージがある。銀座に来て、華やかで、ちょっと浮き立ってはいるのだけれど、細い道に入って画廊には、「白い絵」があった。そこに、ちょっとした愁いのようなものを感じます。

知子ぼんやりぽっと灯ったような感じがしたんです。

智哉ちょっと遠くから絵を見ていますよね。だから、実際何が描かれているかが分からない。遠くからというのは、距離のような気もするし、あるいは意識かもしれない。もし距離的に近くにいたとしても、絵を見ているようで見ていないような、絵が白く発光していて見えないような気分なのかもしれないですね。

大祐全体的にイメージが繋がっている感じはありますね。

智哉この句、「かかる」だと全然良くないですよね。

知子そうですね。「かかり」とふわっと流す感じだからいいんですね。そのへんは巧いですね。

そういえば、あまりにもきっちりとつくると、ここはもう少しゆるくした方がいい、と直されたことはありました。それも「調べ」に対するこだわりかもしれません。

大祐「かかる」だと動作が完結しますが、「かかり」だと時間感覚が長いです。この句に関しては、その長さ、続いてゆく感じを書きたかったのかもしれませんね。

編集部●智哉さん、気になった句はありますか?

智哉はい。

耕され掘り返さるる畑かな

です。この句は畑が主役なんですよね。或る年の春の、或る畑の景色を詠んでいるのですが、毎年毎年、春を繰り返して、その場所に同じ畑が昔からずっとあり続けている、というニュアンスも入っています。

「耕す」というのは春の季語としてあって、当然、能動態の動詞として使う場合は人間が主語となるのですが、それを受身形にして畑を主語にしたところは、案外おもしろいのではないかと思います。

畑を主語にした効果もあって、この句は、畑というのが動かないものだという感じが、よく出ています。ずっと昔から同じ畑が同じ畑としてそこにあり続けている。そう考えていくと、いったい「畑」って何だ、ということになってきます。「畑」は「土」のことではないですよね。土が耕され掘り返されることによって「畑」というものになってゆくわけです。しかも「耕され」て「掘り返さるる」と言っている。耕すことは掘り返すこととは違うんでしょうか、同じなんでしょうか。ここはレトリックなのですが、似た内容の言葉をこうわざわざ言い換えて使うことによって、その背景にある人間的な営み、文化的な営みを感じさせます。構造としても面白い句だと思います。

大祐「耕す」という言葉を引き伸ばしているのですが、ふつうはそういう場合だと主役は人間になることが多いのですが、主役は「畑」なんですよね。そこがとても面白いです。

知子この句をひっくり返して下から読むと、畑というのは耕されて掘り返されるものだよ、と言っていて、「耕し」というと人が主人公になって労働の句になることが多い印象がありますが、この句は畑の気持ちのように読まれているんですね。「かな」で終わるところも面白いです。

楓子「耕され」は少し遠くで見ている感じですが、「掘り返さるる」は近いところで見ている雰囲気で、土の様子が近くに見えるような感じがします。

大祐なるほど。ズームしている感じでしょうか。

知子畑を見てなかなかこういうふうにはつくらないですよね。畑に「かな」をつけるのは、いかにも杏太郎らしいと思います。畑なんかに、と言ってはいけませんが、畑に対する詠嘆が面白いです。

智哉この句も、言葉を解体して行っている感じがありますね。ここまでシンプルな表現には、なかなかできないです。


◆目を閉じないと見えてこない◆

知子みなさんに

老人のあそびに春の睡りあり

という句について訊いてみたいことがあります。
仁平勝さんが「魚座」にいらしたとき、句会で〈老人を起して春の遊びせむ〉という句を出しました。これは杏太郎のこの句がもとになっているということでした。勝さんとって、印象深い句なんだと思います。確かに「老人」「あそび」「睡り」といった杏太郎ワードが入っていますが、代表句になるのかなとか、どのあたりのポジションなんでしょう。

智哉僕の感想を言うとすると、この句はあまり好きではなくて、どちらかというとさきほどの「耕され」のような句の方が好きです。
〈老人のあそびに春の睡りあり〉というと、表面上、人生論的な定義づけに見えますよね。もちろん、この句の「老人」というものをある純化されたイメージ上の老人である、ととらえていくと、違うのかもしれません。杏太郎のある種の「老人」の句には、そういうものが存在します。でも、この句の場合はそうでなくても読めてしまう、人生論的に読めてしまう、という印象が僕には強い。ちょっと、そこが気になります。

大祐杏太郎さんの句をたくさん読んでいくと、あるイメージがわりに反復して出てきますよね。この句が「1句上げるとするとこの句」という句だというのは分かるのですが、この1句自体に杏太郎さんの句として突出した何かがあるかと言われるとそうではなくて、ふわっと広がっているものがひとつの句としてこの句に表れてきている、という感じがします。

智哉わかりやすい句なので、意味で解釈しようとするとできてしまう句です。ただ、そのように解釈された上でのこの句を代表句としてしまうと、そこから全体を解釈しやすくなってしまう部分があるので、それはどうなのだろうか、と思っています。この句を意味で解釈し、その物差しの上で杏太郎の句の全体を見わたすことになると、つまらないことになってしまうような気がするんです。

もちろん、杏太郎は『麥稈帽子』の頃からずっと「老人」が題材だったから、この句は、本人にとってはひとつの到達点と思っていたかもしれませんが。

知子杏太郎にとって「名刺」のような句になっているのでしょうか。

智哉自分が老人になってきている気がしますね。句の中のイメージの老人と、具体的に存在している自分とが重なってきている。それが昔の句とは違う。昔の『麥稈帽子』の頃の〈老人に会うて涼しくなりにけり〉などの句は、本人は老人ではないですから。この句は好きですよ。老人が純化されているから。

楓子老人のいわばしたたかさのようなものを童心で包んだような雰囲気があって、それに反応するかしないか、という感じなのかなあ、と思います。

智哉「春の睡り」って何だ、と考えたとき、たぶん、それは「老人だ」と思ったんでしょうね。

編集部●ほかに気になった句はありませんか?

楓子

てふてふの生れて空に浮きにけり

が気になりました。私は兜太の〈涙なし蝶かんかんと触れ合いて〉で育っているので、「あ、この人の蝶は浮くんだ」と思って。(笑)すごくびっくりしました。

金子兜太はものを硬質に捉えてきたと思うんです。だから、蝶であってもその存在感で勝負してきた。でも杏太郎さんは、蝶が生まれて、もちろん足は動いて羽ばたいているんだけれど「浮いている」と言う。

先ほどの話に戻ってしまいますが、羽ばたいているのではなく、水の中で蝶々がたゆたっているような感じ、その世界が面白いなあと思いました。

少しうしろに〈ゆふかぜの先にうかんで雀の子〉という句もあります。雀は浮かない、というか、浮きあがるためには必ず羽ばたいているはずなのですが、浮かんでいると言っています。それに「ゆふかぜの先」ってどこなんでしょうか。とても抽象化されているんですよね。面白いと思います。

知子杏太郎の句はいろんなものが浮くんですよね。(笑)

大祐「飛ぶ」とか「羽ばたく」とか、生命感のある方へ行くというよりは、ふわっと浮かんで「ああ、そういうものだね」という感じがお好きだったんでしょうか。

「てふてふの生れて」の句はじつはいろいろツッコミ所があって、この「生れる」は卵から生まれるときのことではなく、「羽化」のことですよね。

智哉「生れて」で切れて、そのあとがすごく長いのも面白い。「空に」ではなくてもいいわけですし。ただただ引き伸ばしているので、ふと立ち止まると、「あれ、どういうこと?」という感じになります。

大祐回路に入るとさらっと読んでしまうのですが、一旦立ち止まると「あれ?」となるところがあります。

智哉「生れて」までのところと、「空に」以降では感覚的なスケールが違うんですよね。物差しが変っているんだけど、あたかも変わり目が無かったかのように、表面上スムーズに言葉が繋がれている。

楓子「ゆふかぜの先」もすごく遠いところのはずなのに、それが雀の、しかも子どもだというところまで認識できているのは不思議です。(笑)

智哉どこかで目を閉じないと見えてこない。

楓子心のなかでそれが見えるのがすごくいいな、と思います。

編集部●では、今回はこのへんで。



2014-07-20

今井杏太郎を読む4 麥稈帽子(4)

今井杏太郎を読む4
句集『麥稈帽子』(4) 
                                                                                
茅根知子:知子×生駒大祐:大祐×村田篠:

≫承前
『麥稈帽子』 (1)春 (2)夏 (3)秋

◆これ以上アレンジできない◆

『麥稈帽子』もいよいよ最後の章になりました。今回は「冬」ですね。生駒さん、お願いします

大祐はい。今回僕が話したいのは
十二月三十日の氷かな

です。これこそは杏太郎さんにしか許されない世界だな、と思います。2010年の角川書店『俳句』の6月号の鼎談の中で、大谷弘至さんが「(榮猿丸さんの『季語で埋め尽くしたいんだね』という言葉に応えて)季語だけで五・七・五を詠んでみたい(笑)」ということをおっしゃっていたのですが、この句はその言葉をある種究極的に体現していると思いました。

ただ、大谷さんがおっしゃっているのは、季語という「雅」の世界をどのように変奏してゆくかということなのですが、杏太郎さんの場合はほんとうに「呟けば俳句」というか、日常から地続きの言葉、たまたま季語である言葉が俳句の中に収まっているパターンです。
というより、そのように見えるように作られている。

俳句において季語を中心に句を構成すると、人によっては古典主義の方向に向かいがちなのですが、杏太郎さんは季語を気負いなく使っているところがあって、この句も、単純に日記帳の一行目のような句づくりです。

それは、言葉として考えるとふつうのことですが、俳句としてみるとびっくりする。定型を守ってこうした句をつくってくるというところが、今井杏太郎さんの面白いところだと思います。

おふたりはいかがですか、この句。

知子取り上げていただいて良かったです。訊きたかったんですよ、生駒さんに。評のしようがないですもの。「十二月三十日」でなくても良いのですが、内容が間違っているわけではなく、まさに日記帳の一行目なんです。

大晦日ではなく三十日というところが面白いですよね。

大祐それに、字面もシンプルですよね。画数が少なく、形も四角ですっとしていて、二十九日にするよりはずっと立ち姿がいいです。飯田龍太の〈一月の川一月の谷の中〉も形がスッキリしているとよく言われますが、スッキリ度だけで言えば、杏太郎さんのこの句の方がスッキリしてると思います。

言っていることも、杏太郎の句の方がシンプルですね。龍太の句は「一月」を重ねることで、ひとつ捻りが生まれています。

大祐杏太郎さんの句には衒いがないんですね。変なことをやろうとしているのですが、それが句の形にまで波及していないんです。日常の目で見るとふつうのことを書いているのですが、俳句で書くと異様な世界が立ち上がってくるところが面白いんですね。

また、〈一月の川一月の谷の中〉だったら、良くなるかはともあれ何かアレンジができそうな気がするんです。でも、〈十二月三十日の氷かな〉は、もうこれで完成されていますよね。

「自註現代俳句シリーズ 今井杏太郎集」の中で杏太郎はこの句についてこう書いています。

“氷でなくたっていいじゃないか”と林之助さんが言った。“でも十二月三十日がいいじゃないか”と稚魚さんが言った。

この句について何か言おうとすると、こういうことになりますよね。

大祐これが大晦日だと背景にストーリーが見えそうになりますが、この句ではそういうものを弱めています。

知子わざと弱めるところが面白いんですね。ここまで削ぎ落とされるとアレンジできないのかもしれません。脱力させられますが、誰にもアレンジをさせないんですね。


季語の本意

次は私がいきます。

先生の眠つてをりし蒲団かな

この句集の最後の一句ですね。季語は「蒲団」ですが、じつは、季語としては弱いのかな、とほんの少し思っています。それはどうしてかというと、上が「先生の眠つてをりし」だからなんですね。

杏太郎の句はほんとうに季語をきちんと詠んでいる句がほとんどで、句を読むとその季節、その季語が目に浮かんでくるように感じることが多いのですが、この句の「蒲団」に関しては、「先生の眠つてをりし」という景の印象があまりに強いので、「蒲団」は先生の眠っている場所であるという役割に若干甘んじているのかな、という気がします。

石塚友二先生が亡くなったときの句で、杏太郎にとっては特別な時間を詠んでいます。杏太郎にはめずらしく「眠つてをりし」と比喩を使っているところにも、先生に対する尊敬と追悼の気持ちが感じられます。この「蒲団」には季節はあまり感じませんが、逆にその時間の切実さが伝わってくるように思えます。

知子この句を『麥稈帽子』の最後に置いたことは、句集を編むときに意識されたことだと思います。季語うんぬんよりも、追悼の意を込めたかった、ということなんでしょうね。自分の思いが強く出ている句だと思います。

私たちは友二先生の亡くなったときの句だとわかっているけれど、そういう前情報のまったくない人が読むと、また別の捉え方になるんでしょうか。

どうでしょう。まったく事情を知らない人が読んでも、先生が亡くなったときの句だと分かるような気もしますけど。

大祐ほんとうにただ眠っているだけだったら、ふつうは俳句には詠まないんじゃないでしょうか(笑)。

知子でも、〈ことしまた秋刀魚を焼いてゐたりけり〉なんて句をつくる人ですから(笑)。

大祐すこし迷うところですよね。一句として読むと、杏太郎さんならば単純に眠っている景で詠む気もしますし、一方でわざわざ俳句にしているところ、また、「永眠」という言葉があるところから、半分くらいの確率で人が亡くなってしまった景かなとも思います。でも構成として句集の最後に置かれているところからも、やはりこれは追悼の句だと思います。

ただ、さきほど篠さんが、「蒲団」が季語としては弱いとおっしゃいましたが、僕は、この「蒲団」は季語として機能していると思いました。蒲団は日常性が強いので、どう詠んでもあまり「雅」の世界にはいかないのですが、「畳の上で死にたい」というか、あたたかい蒲団の中で亡くなられた、ということへの安心感といいますか、ああ、それは良かったなあ、という気持ちになります。

ああ……なるほど。

大祐これがもし夏の句だったら、蒲団は夏蒲団ということになって涼しい感じになり、追悼の句としては、ちょっと合わないのかな、という気がします。もちろん、人柄にもよると思いますが。でも、あたたかい蒲団の中で先生が亡くなっているのは、寂しいけれどあたたかい景になって、追悼句としては良い使い方をされていると思いました。

知子そのように読むと、友二先生は幸せに最期を迎えたんだ、と思えますね。じつは私は、「亡くなっている蒲団」ということで、この蒲団から受けたイメージは「冷たい蒲団」だったんです。でも、生駒さんのようにこの句を読むと、友二先生への尊敬の気持ちがうかがわれる良い追悼句なんだな、と改めて思えます。

大祐夏は涼しい蒲団だから「夏蒲団」、冬は寒いからあたたかい「蒲団」、というように季語の本意を素直に読むと、僕の中ではこの句の蒲団はあたたかく思えます。

確かにそうですね。先生への尊敬の気持ちは私もこの句から深く感じましたが、あたたかさを読みとったのは素敵ですねえ。生駒さんの解釈を聞けて良かったです。

大祐それに、この句には死をストレートにイメージする言葉が一見入っていませんが、句の構成や文脈や境涯性から杏太郎さんならではの哀しみが伝わってくる、というところもあると思います。

知子杏太郎は前書きをつけませんからね。この句は、ふつうだったら前書きをつけるでしょう。そういうところもいいですね。

句集の最後に置くことが、杏太郎の気持ちを代弁しているのでしょう。

知子そういう意味で、この句もほかに言い換えができない句と言えるのかもしれません。


「分からない」ことに正直である

では知子さん、お願いします。

知子言葉の使い方を考えてみたいのが

水鳥の眠つてゐるやうにも見ゆる

です。「やうにも見ゆる」ということは「眠っていないかもしれない」ということですよね。そんなことをわざわざ、持って回った言い方で俳句にしています。生駒くんはこの句についてどう思いますか?

大祐この句は、「眠りゐるやうにも見ゆる」だったら五七五に収まるんですが、「眠つてゐる」にすることで少し長くなっています。でも、それが逆にリズムをつくっていて、ゆったりした感じが出ているかな、と思います。

嫌いか好きか、と訊かれると、どちらかと言えば好きな句です。「眠たげな」というふうに言わないところがいいですね。「眠たげな水鳥」というものを言うのに「水鳥の眠たげに○○○けり」という言い方をしないで、「眠つてゐるやうにも見ゆる」というムダ使いな感じが面白いです。

知子自分では気づかなかったのですが、もしかしたらこんなふうにムダ使いをしている句が好きなのかもしれません。

あとは「も」ですね。杏太郎は「〈も〉はあまり使わない方がいい」とよく言っていました。「も」には意味が出てしまいますからね。でもこの句は「水鳥の眠つてゐるやうに見ゆる」でもいいのに「も」を入れています。この「も」はなんでしょうか。

大祐少なくとも「も」を入れることで漠然とします。眠っているようにも見えるし、起きているようにも見える。並列っぽくなります。「眠つてゐるやうに見ゆる」だと、眠っているとほぼ断定することに近くなります。でもこちらで見ていると、眠っているかどうかは本来分からないことですよね。ある意味、「分からない」ということに正直なのではないでしょうか。自分の状態そのままを言っています。

でも、そのままを言うことは意外にむずかしくて、断定する方が簡単だし、そこに驚きが出たりもします。子どもでも言えるようなことをきちんと俳句として言っていて、しかも格調があり、下手には見えないのがすごいな、と思います。

知子同じような情景で、同じような雰囲気で句を詠んでも、この「も」が使えるかどうかは、ちょっと分からないですね。この「も」は杏太郎独得かな、と思います。同じく杏太郎の

馬の仔の風に揺れたりしてをりぬ

という句の「たり」に近いような気がします。その一語を入れるだけでまったく雰囲気が変わってくる、という言葉を、杏太郎はわざわざ入れますね。この語を抜いても句としては成立するのですから。これは計算して入れているんでしょうか。計算なんてしないような気がしますが。

大祐確かに、計算という言葉は杏太郎さんには似つかわしくないようにも思いますね
でも、杏太郎さんは句の推敲を丹念にされた方でしたよね。

知子何度も何度も唱えて、リズムがいいものを選んだらこうなったのでしょうか。

でしょうね。ちょっとした一語を入れたり取り替えたりすることで、とたんに句がなめらかになるという現場を、句会などで何度も見たことがあります。

知子でも、真似をしようとするとやけどするんですよね(笑)。


猿が木にのぼる不思議

冬の部の最初に

道端に水車がまはり茶が咲いて

という句があるのですが、この句はどうでしょうか。

見えたことをそのまんま五七五にしつらえたようで、「道端」という言葉の素朴さも含め、景としてはとても好きな句ですが、切れがなく、句会に出したら「これは説明ですよね」と言われるタイプの句です。ふつうはあまりつくらない句という気がしますが。

大祐切れのない俳句は短歌になる、とよく言われますが、この句は短歌にしたらつまらなくなりそうですね。切れがないのに一句として完成されているのはすごいと思います。かなり自信がないとつくれないですね。

知子そうですね、冬の部の最初の一句ですから。

大祐十一月の句が三句ほど冬の部のはじめに出てきます。

からまつの十一月の林かな
栗いろの十一月の雀らよ
むささびの鳴いて十一月の山

山の風景が繰り返し描写されていて、三句を畳みかけてひとつの像をなす感じになっているのですが、句集ならではの構成で、面白い読ませ方だと思います。

知子杏太郎には十一月の句がわりに多いですよね。「十一月」という季語が好きだったのかな、と思います。十一月は一年の終わりのひとつ手前で、さきほどの「十二月三十日」も一年の終わりの一日前で、そういうのが好きだったのかもしれません。

大祐「十一月」という響きもお好きだったのではないでしょうか。

あと、面白いと思ったのは

杉の木の揺れて大雪とはなりぬ

です。「とは」の「は」は強調ですね。「とはなりぬ」とすることでゆったりしたリズムになっていて、杉の木の大きさや大雪のようすが見えます。

大祐俳句では、因果関係がないものを因果関係があるように見せたいときに「て」を用いることが多いんですね。この句も意味的には「揺れて」で切れますが、形の上でナチュラルに続いてゆくので、因果関係があるように見える、というつくりです。

ただ面白いのは、「杉の木が揺れて」というのは風に揺れた可能性もありますが、雪が積もって枝が折れ、杉の木が揺れて「ああ、大雪なんだ」と気づいた、というふうにも読めます。そう読むと、流れのある自然な景になります。完全な空想ではなく景に即しているところは、杏太郎さんの一貫した姿勢なんだと思います。

知子そう、一見すると変に思えても、景としては間違ってはいないんですよね。

目つむれば何も見えずよ冬の暮

これも面白いです。当たり前のことをわざわざ言っています。「俳人は目をつむったら何かが見えるという句をつくったりしますが」と杏太郎はよく言いましたが、もしかしたらこの句は、そういう風潮に対しての返句のようなものかもしれません。

俳句って不思議ですよね。「目を閉じて何かが見えた」という句があると、ほとんどの人がふつうに共感します。生理学的に言えば杏太郎の句の方が正しいのですが(笑)、俳句にすると、「変な俳句」というふうに思えてしまいます。

大祐杏太郎さんの言葉に

「猿が木から落ちる」という意外性は、前者の常識の範囲のものであり、そこから更に、「猿が上手に木にのぼる」ことの不思議さに思いが到達し得たとき、はじめて思考の「飛躍性」が認識されることになる。(「魚座」1997年6月号)

というのがありますが、この句はまさにこの言葉を体現しているんですね。

杏太郎の重要な言葉がひとつ確認できました。『麥稈帽子』はひとまずこれで終わり、次回からは第2句集『通草葛』を読みます。特別ゲストをお迎えする予定ですので、読者のみなさまには楽しみにお待ちいただければ、と思います。

2014-06-08

今井杏太郎を読む3 麥稈帽子(3)

今井杏太郎を読む3
句集『麥稈帽子』(3) 
                                                                                
茅根知子:知子×生駒大祐:大祐×村田篠:

≫承前
『麥稈帽子』 (1)春 (2)夏

◆俳句以前の「前書き」俳句◆

篠●今回は『麥稈帽子』の秋の部を読みましょう。知子さん、お願いします。

知子●はい。

ことしまた秋刀魚を焼いてゐたりけり

実際にこういうことがあったんだと思うのですが、それを前提として俳句をつくるのがふつうだと思うのです。この句は、堂々と前提を詠んでいるのが、開き直りといいますか(笑)。

誰もが思うけれど誰も詠まなかったことを俳句にして、句集にまで載せてしまったところがすごいな、と思います。

篠●ふつうは俳句にしないことをしてしまったという、論点はそこですね。

知子●でも、結局、今年もここで秋刀魚を焼くことができる幸せ、ということなのかな、と思います。その幸せを詠むのが俳句なのに、その前段階を堂々と俳句にしてしまったところが、杏太郎らしいというか、面白いと思います。一句として読んでみると、とても感慨深く、実際に秋刀魚を焼く人はまずこう思うでしょうから、いい句だなと思いますし、好きです。

大祐●まだ読みが足りないのかもしれませんが、言っていることの希薄さがここまでいくとちょっと評価がむずかしいな、と思います。句の意味はもちろん分かるし、描かれているものが多幸感のようなものだというのも分かるのですが。

嫌いというわけではなく、まだ掴みかねている……この句が存在するモチベーションを掴みかねている、という感じです。

知子●何も言えない、ということですか。好きでも嫌いでもなく。これがもし食事だとしたら、お料理を出されて、箸を出すのをためらっている感じ?

大祐●そうです、そうです。熱いのかな、冷たいのかな、というところから分からない。

篠●掴みきれないから判断できない、と。

大祐●そうですね。でもひとつ言えるのが、型としての破綻は全くないですよね。言いたいことがあって、それを必要十分に五七五にまとめている、そのあたりの隙のなさは、杏太郎さんらしいなと思います。

モチベーションをあえて読み取るとしたら、ほんとうに内容が何もないことを言ったらどうなるんだろう、砂糖水をどこまで薄めていったら甘いんだろう、というような感じなのかな、とは思うのですが。

知子●生駒くんは手をつけない、箸をつけない料理ってことですね。面白い。

篠●この句、べつに秋刀魚のことを言いたい訳じゃないのかな、という気もしますね。ふつうは、秋刀魚を焼いていることを俳句に詠みたいから詠むわけですが、いつもやっていることを今年もやっているんです、ということが言いたいだけ、という句になっているようにも思えます。

知子●詠みたかった、というよりは、杏太郎がよく口にする「呟き」なのでしょうか。今年また秋刀魚を焼いて、さあ俳句を詠みなさいという、その前段階なんですよ。

大祐●前書き、ぐらいな感じですね。

篠●ああ、そうか。前書きなんですね(笑)。

知子●(笑)。前書き俳句。面白いですね。よくぞこの句を句集に入れた、という感じがします。

篠●「魚座」に入ったばかりの頃「今日こういうことがあった、こういうことをした、ということをとりあえず言葉にして、それを五七五に当てはめてゆくと俳句になるんです」と杏太郎から言われたことがありましたが、この句はそういう句に近いですね。

知子●「俳句以前」ということなのかもしれないですね。

篠●でも、俳句を始めたばかりの人は、こうはつくらないような気がします。

知子●避けるでしょうね、逆に。こんなのはつくっちゃいけない、と思うでしょう。これを出せるのはすごいですね。

大祐●そういう意味ではやはり砂糖水の比喩で言えば、おいしい砂糖水をつくろうと思ったとき、良い舌を持っていない人ほど砂糖をいっぱい入れてしまうと思うんです。良い舌を持っているからこそ薄味の領域でとどまっていられる、というのはあると思います。

知子●どこまで薄めていって味がするのだろう、ということなのでしょうか。

大祐●秋刀魚をとことん薄味で詠もうというコンセプチュアル・アートがあったとして、秋刀魚が泳いでいるのはあまり目にしない、特殊な状況だからやめるとすると、ふつうは焼きますよね。それで「秋刀魚焼く」という五文字が生まれます。それを引き延ばすと「秋刀魚を焼いてゐたりけり」となる。

これに「(地名)の」や「口あけし」など、秋刀魚の描写を付けると意味が強くなるから、抽象的なことを付けようとする。その抽象さを「ありふれた表現」という方向性にすると普遍的な言葉がつながりますから、自然と「ことしまた」ということになるんじゃないでしょうか。

秋刀魚を焼いていることについて最も特殊性のないことを言おうとすると、この句が必然性をもって立ち上がってくるのではないか、と思います。

知子●杏太郎は上五のことを「イントロは重要」とよく言っていて、ドカンと入らないでフッと入るのが良いと言っていましたが、その典型かな、と思います。「前書き」という言葉に納得しました。

篠●名言ですね。


◆生きているのは誰なのか?◆

篠●じゃあ、次、私がいきましょうか。むずかしい句だと思うのですが、

生きてゐてつくつくほふし鳴きにけり

です。

この句の「生きてゐて」というのがまず誰のことなのか。ここで軽く切れているので、生きているのはつくつく法師ではなく自分だと思うのですが、じゃあ、そのことと「つくつくほふし鳴きにけり」はどういう関係になるのかな、ということです。

「生きてゐて」についてどう思われますか?

大祐●ほんとうにつくつく法師が生きていることを言いたいのなら、「生きてゐる」にするでしょうね。「て」の軽い切れの効果というのはあると思います。でも、どちらともとれますよね。断定はできないような気がします。

知子●私は自分が生きていると読みました。

篠●私もそうなのですが、そうすると、今度は「生きてゐて」の5音で表される内容が多すぎるというか、伝わってくることが複雑すぎて、戸惑ってしまいます。人が生きていることを「生きてゐて」と5音で言ってしまうのは、潔すぎるというか、大変な冒険という気がします。しかもそのあとに、つくつく法師が鳴いていたという、全く別のことを言っているわけです。

知子●「て」で確実に切れているんですよね。で、下五は「鳴きにけり」なんです。これが、生きているつくつく法師の声を聞いたというのだったらすんなり納得できるかもしれませんが、つまらないと思います。そうではなく、まったく別のことを言っている。そこが面白いと思います。

篠●生きている自分と鳴いているつくつく法師が結びつくというよりは、別々に生きているんだ、ひとつにはならないんだ、という感慨なのかな、という気もします。

大祐●ちょっと面白いと思ったのが、「生きてゐて」の主体が蝉を聞く作中主体だとしても鳴いている蝉だとしても、そのどちらもが生きていないとつくつく法師の鳴き声は聞けないですよね。だから、両者のどちらにもゆるくかかる、という読み方もあるのではないでしょうか。「て」で切れることで「生きている空間」のようなものが形成されて、そのなかに自分もつくつく法師もいて、鳴き声を聞いた、というようなことでもいけるのかな、と。

篠●「生きてゐて」が「生きているということ」といった感じで抽象的に詠まれている、ということですか。

大祐●そうです。仕掛けという点から言うと、「つくつくほふし鳴きにけり」だけだったら先ほどの秋刀魚の句のように何もないんですけど、「生きてゐて」と付けると上に少し重心が掛かって意味が出てくるので、バランスが良くて秋刀魚の句よりも意味が強いのかな、と思います。

篠●なるほど。書き方はさらっとしているのに、何度も何度も最初に戻って読み直してしまうつくり方ですよね。一読して「なるほどね」とは思えない句です。そういうところも面白いです。


◆始まる前に終わってしまう◆

大祐●次は、僕ですね。秋刀魚の句に少し似ているのですが

本当によく晴れてゐて秋の山

です。これはすごい。素直に感心します(笑)。この句について話すのはむずかしいのですが…。

篠●この「本当に」は、さきほどの秋刀魚の句の「ことしまた」と似てますよね。

大祐●そうですね。ふつうの人なら、「よく晴れてゐて秋の山」または「よく晴れている秋の山」という部分ができたとしたら「本当に」とは言わないで、「○○や」というふうに、取り合わせてしまうような気がします。

杏太郎さんの句には、「ここからどうひねるんだろう」と思っているとそのまま終わってしまった、ということがよくあります。いつ事件が始まるんだろうと思っていたら何も起こらなかった推理小説みたいなものです(笑)。すごい。

知子●すごい裏切りですよね(笑)。

大祐●例えば、冬の山や春の山だったら雨模様でもいいですよね。春の雨はしとしとと降ってあたたかい感じで情緒があり、冬の山に雪が降るのは自然です。でも、秋の山はやはり晴れている感じがいい。晴れていることに必然性があります。「秋」が動かない。

句の意味を薄めるときは、ひとつでも動くところがあるとたいがい崩れてしまうような気がします。そういう意味では、晴れている情景と「秋の山」を狙い澄まして付けたんだな、と思います。

多少は雲があっても晴れは晴れなんですが、単なる晴れではなくて「本当によく晴れて」とすることで「快晴」であることを言い表しているのが面白いなあと思います。

知子●いろいろと考えた結果、「本当に」という言葉以外ないと思ったんでしょうね。ふつうだったらここは取り合わせとか、何かかっこいいことを言いたくなります。

大祐●「雲もなく」とか、遠回しな言い方をしてしまいそうですね。

篠●「雲もなく」と言ってしまうと、雲はないのに、どうしてだか雲が目に浮かんでしまいます。

大祐●この句は本当に快晴と山しか目に浮かばないですからね。

篠●読んだ瞬間に笑ってしまうところもすごい。

大祐●笑えることを何も言っていないのに面白いというのがすごいです。俳句をやっていない人がこれを読んでもそこまで笑えないのかもしれませんが。

知子●でも、たしかに、俳句をやっていると笑ってしまいます。


◆五七五だけが韻律ではない◆

大祐●お訊きしたいことがあるのですが

しもふさの背高泡立草を刈りぬ

という句があります。けっこうな字余りで、しかも句跨りになっていてほとんど破調に近いのですが、こういうことに対して、杏太郎さんは何かおっしゃっていましたか? 例えば、字余りの句を句会で出したときに、これは定型にした方がいい、とか。

知子●むしろ上五の場合は逆で、六音にしてもいいから「の」を入れなさい、という指導はありました。ブツッと名詞で切れてしまうのを嫌がっていました。

この句もわざわざ「を」を入れています。「背高泡立草刈りぬ」でも意味は通じるし、理論的にも問題はないのですが。

大祐●「を」を入れるにしても、「背高泡立草を刈る」にしたら少しは字余りが緩和されます。

知子●そういう意味では、字余りだからダメ、ということはあまり言われなかったと思います。むしろ、定型に収めようとしてブチブチ切れてしまうことの方が注意されましたね。

大祐●俳句の韻律というのは、必ずしも「五七五」が定型のリズムではない、ということは考えとしてあって、この句もそんなに違和感はないんです。どう切っても中七と下五は余ります。

杏太郎さんは、定型というものに対して教科書的ではない捉え方をされているんですね。「五七五」というリズムにしても、必然的に決まったのではなく、「そのリズムが気持ちいいよね」ということで自然にできていったものだと思います。ですから、そこから逸脱していても気持ちのいいリズムもあるはずです。そういうところを初期の頃から攻めていた、というのはすごいな、とこの句を見て思いました。

知子●杏太郎は、音が多い分にはいいけれど、わざわざ短くするのはどうだろう、というところがありました。季語でも「春月」などのような縮めた言い方、窮屈さは嫌いでした。

大祐●たしかに音読みが少ないですよね。例えば

手のとどくところにさらしなしようまかな

も中八で字余りなのですが、「ところに」を「場所に」とすると収まるのに、訓読みにしています。漢語を使わないで日本の言葉を使うというところはありますね。

知子●熟語を使わないで、同じ意味の言葉を使っていました。それは大きな特徴で、熟語だとそれだけで意味を持ってしまうので使わない、というのもあったのかもしれません。

大祐●例えば「日没」というと日没というひとつの言葉のイメージしかありませんが、「日が沈む」というと「日」と「沈む動作」の両方が見えます。以前にも言いましたが、そうすると少し長いスパンの時間感覚が表現できて、ゆったりしたリズムを生むのではないかな、と思います。

篠●韻律についてはいろいろな角度から検証したいですね。では今回はこのへんで。

2014-05-04

今井杏太郎を読む2 麥稈帽子(2)

今井杏太郎を読む2
句集『麥稈帽子』(2) 
                                                                                
知子:茅根知子×大祐:生駒大祐×:村田篠

≫承前
『麥稈帽子』 (1)春

◆テクニカルな「切れ」◆

篠●では始めましょう。今回は『麥稈帽子』の「夏の部」を読みます。生駒さんからお願いします。

大祐●僕が気になった句は

朝早く起きて涼しき橋ありぬ

です。切れが面白い句だな、と思います。

杏太郎さんは『魚座』の中で「俳句は切れを中心的に考えなくてはいけない」と書いておられるのですが、「や」「かな」で切れる一般的な切れだけではなくて、強い切れから弱い切れまで、すべての領域に渡って微妙に制御をされているところがあります。

この句は「起きて」で少し切れていますが、「涼しき」は「起きて涼しい」と「涼しき橋がある」のどちらにも読めます。「朝起きたら橋があって、それが涼しい」ということなのですが、テクニカルに切れが使われていて面白いなと思いました。

篠●「朝早く起きて」と「涼しき橋」を、モチーフとして1句の中でつづけてしまうというのはひねった展開だな、と思います。でも、橋が涼しいわけではないですから、じつは「涼しき橋」とはふつうはあまり言わないんですよね。

大祐●「涼しき橋ありぬ」という言い方も杏太郎さんらしいです。朝早く起きたら涼しいのは当たり前で、そこまではほかの人の句でもあると思うんです。でも「涼しき」が「橋」に掛かってゆくところに、変なことを言おうとしているな、という感じが少しあって、そういうところも非常にいいと思います。

知子●この句は、要は「夏の朝は涼しい」ということを言っているんですよね。

私は「起きて涼しき」ではなく「涼しき橋」と読みました。涼しい橋があるわけじゃなくて、ただ「橋を涼しいと思った」それは「朝早く起きたから」イコール「夏の朝は涼しい」と、それだけのことなのです。当たり前の顔をして、実は隠しメッセージを入れているから、何度か読むうちに変な切れに惹かれるのだと思います。

大祐●強い「切れ」にこだわる人だったら、もっと切って〈朝早く起きし涼しさ〉というふうにも詠めるところを、そうせずにひとつながりで詠んで、そのなかで微妙な切れを使ってくるところが杏太郎さんだなあ、という気がします。

前回の「今井杏太郎論(1)の中に書きましたが、説明にならないように気を遣っている、という感じがします。最後に情景だけが読者の前に立ち上がるようにつくられているんですね。自分がそう感じたからそう言っただけ、ということなんです。例えば〈朝早く起きし涼しさ〉だったら「朝早く起きたら涼しいんだよ」という一般的な事実のようになってしまいますが、この句だと、こういうことがあった、一個人が感じた、という書き方になっていて、主観を押しつけないところが好きです。

知子●「涼しさ」にするとその言葉が強調されて季語が目立つのですが、この句では目立たないんです。一読したときは夏の朝のイメージですが、「夏の朝」とは書いていないので、一瞬季語がどこにあるのか分からない、そういうところも面白いですね。

篠●なにかひとつの要素が突出しないで、全体になめらかです。だから、ふわっとした夏の朝の空気感が残る、という感じがします。

大祐●言葉に無理をさせないというのが、杏太郎さんらしさのひとつかなと思います。取り合わせや二物衝撃というのは、言葉の意味や象徴性に作者自身が踏み込むというやり方なのですが、この句のようなやり方だと、自然に立ち上がるものを詠むことになり、言葉に無理をさせない、ということになるのだと思います。


◆「かな」を軽く使う◆

篠●では知子さん、お願いします。

知子●

桐の木が一本あつて夏野かな

です。

例えばこういう句を杏太郎が句会で出したとき、自分の句なのに「じゃあ知子さん、一本じゃなければ夏野じゃないんでしょうかね」と(笑)、わざわざそういうことを訊いてくるんです。たしかに「じゃあ二本だと夏野じゃないのか」と訊く人もいるかもしれません。それを前提とした、杏太郎の教えだと思います。数詞は簡単に雰囲気で使ってしまいがちだけれど、使うときはちゃんと意識しなさいと。面白いなあと思います。

「一本」によって、だだっ広い野原の風景が見えてきます。「一本あつて」というどうでもいいような情報が風景を広げるんですね。

大祐●やっぱり理がつかないようにつくられているんですね。

桐の木は大きいので二本以上あるとうるさいというか、涼しさや爽快感を出すにも、「夏野」というものを観念の上で表すにも「一本」がいいのですが、それを「たまたまあったよ」とさりげなく言っていて、やはり杏太郎さんのなかで統一されている詠み方なんだな、と思います。

篠●かといって、たんなる風景の報告といった風にもならないんですよね。すらっと読むと通りすぎてしまいそうになるのですが、踏みとどまって何度か読むと、根源的に「夏野」というものを捉えようとしているような気がしてきます。

知子●「夏野」と名詞止めをすることもできるのですが、「夏野かな」と「かな」で流すところも杏太郎らしいですね。

大祐●三橋敏雄の句に〈山山の傷は縦傷夏来る〉という句があるのですが、この句は「山々の傷は縦傷である」という断定が面白いんです。ほんとうは横傷もあるかもしれないのだけれど、断定されることによってよりイメージが鮮明になる、更新されるというところがあって、三橋敏雄はわりにそういうつくりかたをしています。

この句も「桐の木が一本あることが夏野をいちばん良く見せるんだよ」というような、ある意味断定するつくりかたでもつくれる可能性はあるのですが、それをしないんです。欲がないというか、意味に対してガツガツしないということなのでしょうか。

知子●「かな」のせいもあるかもしれませんね。

篠●「あつて」で少し切れていることも、断定に至らない理由かもしれません。

大祐●僕のなかの切れの感覚では「かな」も「あつて」も切れとしては強いので、切れてまた切れるという、リズムとしては少しつんのめっているところもあるのですが、内容はすごく好きです。

知子●杏太郎の下五の「かな」は、切れと言うより流している感じがします。こんなことを言うと、「かな」は強い切れだと言われそうですが、少し余韻を感じるんです。

大祐●「かな」を強くうちすぎないように意図的に「あって」と少し切れをつくっているところがあるのかもしれません。

岸本尚毅さんは『高浜虚子 俳句の力』のなかで、

俳句は十七文字の短い滑走路です。そこから飛行機を飛ばすには何らかの仕掛けが必要です。たとえば、滑走路の終端が切り立たたった崖だとすれば、崖の高さを得て飛行機は空中に飛び立ちます。それが「かな」の効果です。

と書き、例として秋櫻子の「かな」を挙げています。杏太郎さんの「かな」はそういう「かな」ではないですね。「かな」を使ってここまで軽いつくりかたというのは面白いです。

ほかに「かな」を使った句では

あらくさのまはりの螢袋かな

とか。

篠●

馬鈴薯の花咲いて雨ばかりかな

というのもあります。

大祐●これも「て」でいったん止まって〈雨ばかりかな〉と続く形です。やはり意識してつくられているんですね。

篠●「雨ばかり」とすることで時間経過の感覚もあって、切れの強さが緩和されています。それにしても、杏太郎にはほんとに「かな」を使った句が多いですね。

知子●多いですよ。私が名詞止めの俳句をつくったら「これは〈かな〉ぐらいで止めるのがいいでしょう」と言われることがありました。「〈かな〉ぐらい」、というのは、余韻を残す感じで使うということなのだろうと思います。


◆泣く老人◆

篠●句集の標題句である

老人が被つて麥稈帽子かな

もこの形です。

大祐●そうですね。この句は、「被る」にすると「中七」でうまく収まるところを、わざわざ「被つて」とすることで「中八」になっています。

「老人が被る」だと「麥稈帽子」を修飾する語になって、詠嘆の「かな」は「麥稈帽子」にしか掛からないことになりますが、「被って」だとそれは動作になって、「かな」が全体にゆるく掛かってゆく形になります。「被つて」にして「たまたま被っていた」と読ませているんですね。

知子●私は、老人が被ることによって真の麥稈帽子になった、ということだと思っています。老人が被ってこそ麥稈帽子だと。これは麥稈帽子に対する愛情の句かもしれないですね。

大祐●あと、麥稈帽子といえば少年が被るというイメージがあるのを、老人が被ったことでまた少し違う風景になる、ということなのでしょうか。

知子●杏太郎は「老人」に涼しさを感じているのかな、と思います。この句の麥稈帽子には、格別の、乾燥した涼しさが感じられるんですよね。

大祐●

老人に会うて涼しくなりにけり

はまさにそういう句ですね。

篠●ちょうど「老人」の話になっているのですが、私が気になったのは

でで蟲を見て老人の泣きにけり

です。

「けり」で終わる強さとか、「でで蟲を見て」が「老人」に掛かっているところなど、今日の話題にはあまり当てはまらない句なのですが、「老人が泣く」ことを俳句にした、というところに、なにか杏太郎のある一面が見られような気がします。どうしてこの句をつくったのかな、と。

知子●これは、自分のことかもしれないですね。

篠●なるほど。自分のことだけれど「こんな人がいたよ」という書き方をしたのでは、ということでしょうか。

「泣く」というのはわりに激しい行為なのですが、例えばこの句集の〈白地着て老人海を見てをりぬ〉や〈老人の坐つてゐたる海の家〉、さきほどの「麥稈帽子」の句や「涼しくなりにけり」の句と並べてみると、そんなに強烈な感じがしません。「でで蟲」だからかもしれませんが、激しさだったり女々しさだったりではなく、衒いのようなものが感じられるんです。

杏太郎は「さびしい」という言葉もよく俳句に使っていますが、ストレートな感情というよりは、言葉としてふわりとそこにある、と感じることが多いです。

知子●背景を想像することに意味はないかもしれないですが、私が勝手に想像すると、たぶんこの老人は、でで蟲と自分を重ねて泣いちゃったのかな、と思いました。泣いたのではなく、泣いちゃった…。

篠●そうだとしたら、私にとっては杏太郎の新たな一面だなあ。

大祐●この句は「でで蟲」をもってきたところが手柄だと思います。「かぶと虫」だとダメで、もうこれしかない、というくらい的確ですね。

篠●力の抜け具合がいいんでしょうね。「でで蟲」と「老人」だからいいんでしょう。そして「泣きにけり」としたことで、単なる取り合わせというよりもずっと有機的な結びつきを感じます。

大祐●杏太郎さんの句の中では比較的謎が多い句ですよね。情景は分かるのですが、背景が分かりにくい。そこに意外性があります。

篠●そして、この句を句集に入れたところもまた、面白いなあ、と。

大祐●この句はどういうところに置くかによってまったく違う句になりますよね。

例えば、震災詠のなかに置いたとしたら、とても意味の強い句になります。でも、そういう場所から切り離されて、杏太郎さんの空間のなかに配されると、「泣く」という行為が抽象化されて、感情的な色合いが薄まります。一句だけだと判断に迷うことがあっても、句集の中で読むと一句の感じが掴めるということはありますね。

篠●では、今回はこのへんで。

2014-03-30

今井杏太郎を読む1 麥稈帽子(1)

今井杏太郎を読む1
句集『麥稈帽子』(1) 
                                                                                
知子:茅根知子×大祐:生駒大祐×:村田篠


●今週号から「今井杏太郎を読む」というコーナーを始めたいと思います。

そもそもは、生駒大祐さんと村田の間で話がまとまり、もうひとり、「魚座」1年目から杏太郎(1928 - 2012)に教えを受けた茅根知子さんにも加わっていただこうということになりました。

生駒さんは杏太郎に直接会ってはいないのですが杏太郎の大ファンであり、茅根さんと篠は「魚座」終刊まで在籍しましたので、「結社」の外と内の両面から杏太郎の俳句に接近し、その魅力を読者の方々にお伝えできれば、と期待しています。どうぞ宜しくお願い致します。

知子大祐●宜しくお願い致します。

●杏太郎は生涯に5冊の句集を出していまして、古い方から順に、第1句集『麥稈帽子』(富士見書房・昭和61年刊) の春の部から読んでいきたいと思います。まず、好きな句を挙げていきましょうか。知子さん、お願いします。


◆あそぶ老人◆

知子●私は

老人のあそんでをりし春の暮

を挙げます。杏太郎の俳句には「老人」がよく登場しますが、「魚座」の句会のとき、私は一切いただきませんでした。偉そうな言い方で申し訳ないのですが、うまい句だなと思っても好きになれなかったんです。当時の私にとって「老人」はただの暗くて乾燥した爺さんでした。

でも時が経って杏太郎の句集を読み返してみると、あのときの爺さんが、なんだか別のものに見えてきました。老いた人ではなく気高さや矜持を持っている人、年齢とか性別といったカテゴリーを超えたまったく「別枠の人」なんだと思いました。

そうしたら、今までとは違ったものが見えてきて「あそんで」のひらがなとか、「をりし」の時間を無視した表現に惹かれ、「春の暮」の切なさが心地よく沁みて好きになりました。

生駒くんは、先生の老人の句をどう思いますか?

大祐●自分の方へ引き寄せてはまだ読めないのですが、素材として老人が否定的ではなく使われているのが面白いと思います。この句の老人は別に暗くないですよね。

●むしろ明るい感じがします。

大祐●でもこの句は意外にむずかしいです。「あそんでいたる春の暮」だったらいま目の前の老人があそんでいるということですが、「あそんでをりし」では時間の倒錯がある。「をりし」で一旦過去に行くのですが「春の暮」は俳句内時間で、現在の春の暮が目の前に浮かびます。そこに屈折、ひねりがありますね。

知子●私もこの句を見て過去形だと思いません。現在形か、むしろ未来の姿のようにも思えます。そういう意味では、文法的な形と実際に感じるものの間に違いがあって、面白いですね。

大祐●杏太郎さんの「し」とか「き」の表す過去を単純に過去と読めない、ということはあって、この句集の最後の句〈先生の眠ってをりし蒲団かな〉も、必ずしも絶対的な過去というわけではないです。

知子●過去ではないですね。石塚友二先生の亡くなったときの句です。

大祐●このへんが、杏太郎さんの独特の感覚が効いている句だなと思いました。必ずしも文法通りというわけではなく、言葉の与えるひとつひとつの印象についてうまくコントロールするところがあるような気がします。

●「あそぶ」という言葉の選び方もあるでしょうね。イメージに広がりがある。杏太郎はわりに「あそぶ」という言葉をよく使っていて、この句集の中にも〈稚魚さんとあそんで茅花流しかな〉とか〈さまざまな冬の木を見てあそびけり〉という句がありますが、「あそぶ」と言いながら具体的にはなにも書いてなくて、明るい空気感だけがあります。漢字で「遊ぶ」と書くときに思い浮かべるものとは違うものを感じますね。

大祐●描写する方ではないですね。輪郭を捉えるというか。老人が何をやっているかというのが重要というよりは、現象として何が起こっているか。

杏太郎さんがご自分の句についてよく「実際にそうだったから仕方がない」というような言い方をされるのは、理がつかない、理に落ちない、ということだと思うんです。「老人があそんでいる」というのが、書き方によっては、社会的な意味合いを持ったりするような、僕が思う「俳句における不純物」みたいなものがなくて、言葉と、それの与える印象だけで構成されているようなところが気持ちいい句です。

知子●だから「あそび」がひらがな表記なのかな、と。

大祐●「老人」という大きな範疇を「あそび」という言葉でちょっとだけ狭めてあげる、という効果がこの句にはあります。

知子●この句から春野の遠景をイメージします。老人かどうかも分からないくらい遠い景。そこに誰かがあそんでいる。杏太郎が詠んだ実際のところはわかりませんが、ようやくこの句を好きになれました。


◆時間感覚のスパンが長い◆

大祐●僕がいいと思ったのは

日の永きころを信州高遠に

です。

杏太郎さんの句の面白さは調べを大切に考えるところ、それから、パッと見の印象ではあたかも内容が無いように見えるけれど、なぜか心に残るところだと思っています。『麥稈帽子』は杏太郎さんの俳句がまだそこまで完成されていないころの句集だと思うのですが、この句には衒いが少なく、目に見える仕掛けがない、という意味で、晩年の句の片鱗があるように感じます。なんでもない感じが好きでした。

それから、「を」の使い方ですね。「日の永きころの信州高遠に」にしてもほぼ同じ意味なのですが、「を」にすることで違う感じが出ています。この「を」は俳句的な、テクニカルな「を」だと思います。この流れの中では、ふつうは「を」を使わないような気がします。

知子●「日の永きころに」でも意味は通じるんですね。モノに対してではなく、時間に「を」をつけています。省略でしょうか。

●「に」にすると、そのあとに例えば「行った」というようなひとつの行為しか続かないけれど、「を」にすることによっていろいろな含みや広がりが出ますね。

大祐●あえて分析するならば、「日の永きころに」とすると「信州高遠に」の「に」と被るので、調べとして危うい。また、「日の永きころの」とすると、原句と調べはほぼ一緒ですが、今度は切れの観点からみて「信州高遠」と接続が強くなりすぎる。そうすると、調べ、切れの両方の観点から見て、軽い切れを生む「日の永きころを」となる、という感じでしょうか。

それから、地名です。僕が杏太郎さんの句に興味を持ったきっかけのひとつが、角川俳句の震災詠特集に出されていた〈それも夢安達太良山の春霞〉という句でした。「よく眠り、よく食べて、元気になって下さい。」といったコメントが書いてあって、これはすごい人だなあと思ったことがあったのです。

「安達太良山」の句はこの句集にもあるのですが、地名にこだわりのある人なんだろうな、と思います。「信州高遠に」というのは、響きがすごくいいですよね。言葉として美しいと思います。

知子●この句、季語は「日永」ですよね。これを「日の永きころ」と引き伸ばすことについてどう思いますか?

大祐●僕はもともとアリでしたね。「日永」が七十二候などで決まっている言葉ならしょうがないですが、「日永」は気象現象として日が永くなったということなので、引き伸ばして言うのはアリだと思います。

知子●「日永」をまず「日の永き」と伸ばして、さらに「ころ」をつけるという、これは良くも悪くも先生の句の特徴というか、つっこまれやすいところだと思います。

●杏太郎は「ころ」をよく使いますね。時間の輪郭をわざわざ曖昧にするというか。

大祐●杏太郎さんの句には「時間の幅」というのがあって、「日の永きころ」も時間感覚としてスパンが長いですよね。1日だけのことではなくて、数日分の時間感覚のようなものが出ています。ある瞬間を切りとるのではなく総体として詠むというか。言葉の選び方に、時間を引き延ばそうとするところがあるんじゃないでしょうか。杏太郎さんのよく使われる「夕暮れ」という言葉もそうですね。

●そうだと思います。杏太郎が句会で言ったことでよく覚えているのが「俳句における空間、というふうにみなさんよく言いますが、俳句は時間だと私は思っています」といった主旨の言葉でした。そのときはあまりピンとこなかったのですが、今になってみると分かるし、影響も受けていると思います。

大祐●あえていうならば、「ひ」で始まって「しんしゅう」の「し」、最後が「に」で終わるので、調べがよいのではないかと思います。

知子●意図的かどうかは分からないですが、リズムや調べ、軽い切れを気にかけているからなんでしょうか。

●身についてしまっているんでしょうね。

大祐●反射神経があるというか。

知子●日の永き頃の気持ちのいい句ですね。この1句だけを取り上げるとちょっと弱いかもしれませんが、句集の中に置いたとき、居心地の良さみたいなものをこの句は持っているかもしれません。

●私は、一番気になったという意味で

白鳥を離れし春の氷かな

です。もちろん好きな句でもあるのですが。

知子●白鳥と春の氷って、よく併せましたね。

大祐●もっと言うと、白鳥だし春だし氷だし、ですよね。

●この句集には〈氷る田を走りて春の玉霰〉という句も入っていて、よく似たつくりかただなと思います。

ふつうだったら、これだけ季語を突っ込むとどこに重心があるのかわからなくなって、ごちゃごちゃな印象になってしまいます。それにもし「白鳥」と「氷」だけだったら、白鳥も氷もじっと動かない景になるので、単にくどいだけの冬の句になると思うんです。でも、「春の」を入れたことによって句の中に動きが出て、冬から春への季節の移り変わりが一瞬見えるような、春がポッと風景の中に生まれたような印象の句になったと思います。

大祐●この「離れし」はかなり抽象的ですよね。具体的に書こうと思えば、いろんな書き方ができると思います。

知子●私は水の上を離れていったのだと読みました。

●私もそう読みました。杏太郎にしては要素が多いですよね。晩年の句にはこういう句はあまりないので、初期ならではの句という面白さがあります。

知子●晩年だったら、この「離れし」はないかもしれないですね。

大祐●または「かな」がなくて、〈白鳥を離れてゆきし春氷〉とかになるかもしれない。

●それだとまた印象が違いますね。私はむしろ「春の氷かな」という引き延ばしに杏太郎らしさを感じます。

大祐●氷というのは動かないものですが、春になると緩んで薄くなって動きが生まれるわけですから、「春の氷」に「離れし」を使うのはイメージとしてしっくりくる使い方をされています。そして、止まっていた白鳥も動き始めますね。

知子●「春の玉霰」の「春」の使い方も独特ですよね。先生の匂いはします。「離れし」は、使い方によっては説明っぽくなったりすることもある言葉ですね。

●でも、この句ではあまり具体性を持たない使い方をされていて、いい具合だと思います。そういえば、「離れし」もそうですし、「氷る田」の「走りて」もそうですけれど、どちらもモノを主語にした擬人法で、杏太郎にはめずらしいです。


◆「切れがない」ということ◆

大祐●お訊きしたことがあって、

ゆつくりと歩けば桃の花こぼれ

という句があります。連用形で終わっていて、ふつうだったらこの句には切れがないわけじゃないですか。こういう、「切れがない」ことについて、魚座の句会では言及はあったのでしょうか。僕はわりに「切れがないので良くないね」というふうに言われるのですが。

知子●切れが「ない」ことで何か言われることはありませんでした。むしろ「や」は強すぎるとか、切れが「ある」ことで添削されることはありましたが。この句にも「切れがない」ことをそんなに感じません。

●私も「切れがない」ことを指摘されたことはないです。

この句は「歩けば」と「こぼれ」が原因結果になっていないですから、私は「歩けば」のうしろで無意識に少し切って読んでいるような気がします。

大祐●内容的には因果関係がないので「歩けば」のうしろに大きな崖があるんですが、型だけを見れば短歌的な感じでうしろに続きかねないような気がします。

杏太郎さんは、たとえ切れがなくても、そこで引っかかるような句作りはされない人だという気がするのです。僕は、「型として不自然ではないけれど変なことを言っている」(笑)ような句が杏太郎さんの俳句だと思っているので、この句は、変なことを言っていて、型としても少し違和感があるというか、まだ完成型じゃないのかなという気がします。

知子●杏太郎が聞いたら喜ぶでしょうね(笑)。変なこと言っている、なんて。

大祐●例えば「ゆっくりと歩けばこぼれ桃の花」とすると切れができます。

●逆にそういう形にすることを避けているのかな、という気がします。下五の名詞に収斂して終わるような句は、杏太郎には意外に少ない。「桃の花」そのものより「桃の花がこぼれた」ことに意識が動いているな、という感じもします。

知子●ズラすんですよ、そのへんを。

大祐●あと、わりと変わっているなと思ったのは

風船の離れたる手をポケットに

です。これも切れがない。

知子●手を降ろすのではなくポケットに入れた思い切りの良さが、「あきらめなさい」と自分に言い聞かせるさびしさに思えて、私もこの句は好きです。

大祐●つぶやきっぽいのですが、ふつうに上手いですよね。この「離れ」も「白鳥を」の句と同じように自動詞で、自分がどうしたではなくて、起こったことだけを抽出しているつくり方です。

知子●そういえば、杏太郎は他動詞はダメと言っていました。「水を流して」ではなくて「水の流れて」にしなさい、と。他動詞を使うとだいたい直されましたね。

そういえば、この句の「ポケット」はめずらしいですね。杏太郎はカタカナが嫌いでしたから。

●地名を使うことはありますが、カタカナのモノを俳句に使うのはめずらしいかもしれないですね。

知子●人工物、ビルとか鉄塔とか、鉄でできたモノも嫌いでした。あと「リュック」はダメで、「リュックサック」にしなさい、と。言葉の省略にもうるさかった。

●でも「リュックサック」では文字数が多くなってしまう。

知子●だから結局「使うな」ということだったんでしょうね(笑)。

こだわりといえば、この句集に

流木と海苔採舟とゆき違ふ

という句があります。杏太郎は「流木」にとてもこだわっていて、砂浜に打ち上げられている木を「流木」と詠む人が多いけれど、あれは流れていないから流木ではない、と言っていました。この「流木」は確かに流れている木だから、杏太郎の言う正しい「流木」です。

この句は『自註現代俳句シリーズ』での杏太郎の文章が感慨深くて、印象に残っています。

●読んでみましょうか。

「戦後間もない頃、父も母も木更津で死んだ。棺と薪を乗せたリヤカーを火葬場まで曳いて行ったが、そのときは誰に会うこともなかった。」

杏太郎の来歴を伺うことのできる一文ですね。ちょっと切ない。

知子●こういう背景があると普通は前書きをつけたくなりますが、杏太郎は一切前書きはつけませんでした。句の説明をしない、気持ちをわかってほしいなどと思わない、そこに俳句の潔さみたいなものを感じました。


◆「人」とは誰なのか?◆

大祐●あとは

雲を見てをり春の雲ばかりかな

という句です。「をり」で一度ちゃんと切れて、また「かな」で切れがある。こういうつくり方、ほかにも何句かありますね。

知子●「空を」じゃないんですか、と言う人がまずいると思います。

大祐●当たり前だという批判を、あたかも待ち構えていたかのように作られているんです。ふつうの日本人だと「空を見てをり」です。

知子●「雲を見てをり」だとぐんぐんとフォーカスされますよね。雲から春の雲へ。そこにはちゃんと考えがあったのだと思います。

大祐●この句は杏太郎さんの「かな」について考えるきっかけになった句なんです。蛇笏などが「かな」を使うと格調高くなったりするのですが、杏太郎さんはわりと軽く使いますよね。一句の重心をどこかに傾けすぎないようにしているのかもしれないという気がします。

知子●詠嘆ではなくて、ふにゃっと詠んだという感じでしょうか。杏太郎には「かな」の句が多いと思いますよ。名詞止めにもできるのにわざわざ「かな」で終わる句があります。何かあるんでしょうね、重心をとるためのなのかどうなのか。



雪解けの大きな山を見てをりぬ

という句も気になります。好きな句ですし、魚座ではよく見られた型なのですが、「大きな山を見てをりぬ」というのは、生駒さんから見てどうでしょうか。「小学生の句みたい」と突っ込まれそうでもあって。

大祐●この句も変な句ですが、その「変」は言葉の距離感の上手さから来ているのだと思います。「大きな川を見てをりぬ」だと「雪解け」と「川」が近いです。そこを「山」にしてバランスをとっている。「雪解けの山」って意外に当たり前じゃないですよね。

●確かに。そしてそれを「大きい」と感じることもわりにめずらしいことかもしれないです。

大祐●いろんなものが省略された結果としてこれが残ったということだと思います。杏太郎さんの句は季語が句の中心に座っていることが多く、下手するとベタベタの句になってしまうところを、季語がちゃんと空気感として生きている。そういうところが好きですね。

知子●これは「雪解けのころの」ということなんでしょうね。雪解けのころの全体感が出ています。

●ほかにランダムに挙げると

山あいを流れてゆきし春の川

とか。春じゃないといけないのか、というのもありますが、もっと突きつめると「春の川」って何だ?と考えてしまうようなつくりかたをしています。

大祐●春の川といえば

春の川おもしろさうに流れけり

というのもあります(笑)。これも完全に擬人化で、どうなんだろう、と。面白味ということでいえば好きなんですけど。

知子●「楽しさうに」ではなくて「おもしろさうに」なんですね。

春じゃないといけないのか、というところで言うと、

人のゐるところに春の水たまり

でしょうか。夏でも秋でもいいのかな、と思って入れてみると、やっぱり春なのかな、と納得するところもあります。

大祐●あと、「人のゐるところ」ってどこだよ、「人」って誰だよ、というところですね。基本的に杏太郎さんは「広い」名詞を使います。

●「人」は私も魚座に入ってから使うようになりましたが、ふつうはあまり俳句で使わないですね。

知子●私も「人」の句は多いです。誰のことも、親戚一族も全部「人」です。具体的な人称にするよりも「人」が持つさびしさみたいなものが好きですなんです。それにしても、この句は「水たまり」しか残りませんね(笑)。

●ゆっくり読んでゆくと、1句1句にひっかかってしまいます。

知子●ツッコミどころ満載(笑)。そして何か言えば杏太郎からツッコミ返しがくるでしょうね。実際の情景には、雨が降った、水たまりができた、という時間や意味があったと思います。それをぐるぐるぐるぐる考えて反芻した結果、すとんとこの俳句に落ちたんだと思います。

大祐●でも、感覚的につくるというわけでもない。理屈を排していって残った結晶、かたまりがこういうものだという感じです。

杏太郎さんの句の中には嘘の景がない。実際に目に浮かぶし、空想とかではなく実際にある景なんだけれども、言葉の上では不思議なものになっている。そのへんがすごいなと思います。その方法論を発見したのがすごい。

●こういうつくり方は、やはり杏太郎の発見なんでしょうか。

大祐●そうだと思います。この連載の中で、それらの「発見」をたくさん発見できたらよいな、と思います。

2013-11-10

「あんばさまの町図絵」のこと 鳥が見た町 茅根知子

鳥が見た町

茅根 知子


「いわき市の文化財を学び津波被災地を訪問するツアー(企画:プロジェクト傳)」のレポートが、『週刊俳句』で幾度か取り上げられている(※)。この度、ツアーで訪れた被災地域を復元した「あんばさまの町図絵」が発行となった。

あんば様は、利根川流域や福島以北の太平洋岸の漁村で信仰される、厄病や海の安全を守る漁業の守り神である。「あんばさまの町図絵」は、いわき市平の豊間、薄磯、沼ノ内の3地区が瑞々しいイラストで描かれている。

  (「あんばさまの町図絵」より)

航空写真で見る町は、機上からの眺めに似ている。が、「あんばさまの町図絵」は、見る者を鳥にする。ゆっくり空を飛んでいる自分を想像させる。鳥瞰する家々からは挨拶の声、笑い声、泣き声、たくさんの市井の人の息遣いが聞こえてくるようだ。神社や灯台は写真で見るよりも身近で、穏やかな気持ちになる。

「あんばさまの町図絵」に描かれた家のほとんどが、今はもうない。その事実を考えると、震災前の景観を復元すること、震災の事実を後世に伝えることの意義はとても大きい。いつか鳥が見たであろう穏やかな町並みを、ずっと記憶にとどめておきたい。

今回、「あんばさまの町図絵」製作に尽力したすべての方々に、心より敬意を表します。

(※)
この地を見よ(関悦史)

2013-08-11

【週俳7月の俳句を読む】はじめの一歩 茅根知子

【週俳7月の俳句を読む】
はじめの一歩

茅根知子



とりあえず墓はあります梅漬ける  小野富美子

昨今「終活」というのが流行っている。何でもかんでも「○活」とするのはいかがなものかと思うが、とまれ人生の最期を意識するのは悪くないだろう。そこで掲句。本当はもっともっと他に考えるべきことがあるんだけど、とりあえず墓があることで一安心。そこで豪華なランチをするわけでもなく、優雅に遊ぶわけでもなく〈梅漬ける〉。この地味でカッコ悪い作業(個人的意見です)を斡旋するところが、カッコ良い。


わが肘を伝ひ歩める蠅涼し  岸本尚毅

「心頭を滅却すれば…」と言うが、作者はその域に達しているのだろう。修行が足りない筆者なんて蠅がとまっただけで大騒ぎするのに、作者は〈蠅涼し〉とまで言ってのける。蠅がクローズアップされて、やや汗ばんだ腕が見えてくる。蠅が歩いているだけだったら「ふぅ~ん」で終わるところだが、〈蠅涼し〉としたことで浄化された。新しい〈涼し〉である。


どんみりと枇杷の実のありうす情け  鳥居真里子

〈どんみり〉という言葉がわからなかった…。わからないまま読んで、音として〈枇杷の実〉との相性の良さに惹かれた。そして、上五を「どんより」にしてもう一度読んでみると、つまらない。〈どんみり〉で感じた枇杷の重さとか、まわりの暗さとかが伝わってこない。〈うす情け〉と響き合わないのである。意味ではなく音で立ち上がった一句。


まつり笛あの日のままにしたたりぬ   鳥居真里子

〈まつり笛蔵の鏡につきあたる(真里子)〉と重なる。すると、〈あの日〉がなんとなく理解できる。毎年俳句を作っていると、意識せずとも定点観測をしていることに気がつく。毎年の俳句達は紐で繋がれ、いつかふっと大きな輪になる…って感じ。


夏霧をひときわ低くロ短調  ことり

〈ロ短調〉は#が2つ。だが、ここでは#2つはあまり関係ない。惹かれたのは「ロ」の音。Rの発音に苦労した人は多いだろう。舌を反り返らせて「うぅ・るっ・ろ」と音を重ねて一気に吐き出した。Rの舌の感触が〈夏霧〉のもんやりした風景を明確にする。発音練習はやり過ぎると舌の根本がつっぱった。そんなとき、くぐもった低い声になったっけ。

わが舟は麻の葉仕立て乗らんかね  ことり

羅生門の婆を思い出した。場所の設定や台詞は違うが、どことなく通じる。要するに、何だかわからないけど怖い。〈麻の葉〉の手にざらつく感じとか、そんなの舟にしないでよとか。究極は〈乗らんかね〉なんて言われたら、乗ってしまいそうなこと。人が道を踏み外すときの、はじめの一歩。


第324号 2013年7月7日
マイマイ ハッピーアイスクリーム 10句 ≫読む

第325号 2013年7月14日
小野富美子 亜流 10句 ≫読む
岸本尚毅 ちよび髭 10句 ≫読む

第326号 2013年7月21日
藤 幹子 やまをり線 10句 ≫読む
ぺぺ女 遠 泳 11句 ≫読む

第327号2013年7月28日
鳥居真里子 玉虫色 10句 ≫読む
ことり わが舟 10句 ≫読む

2008-09-14

茅根知子 なぜか廊下の奥にあるミシン

〔週俳8月の俳句を読む〕茅根知子
なぜか廊下の奥にあるミシン



ゆく夏のシンクに水の伸びゆける  山口優夢

シンクの水は表面張力によって島のような形をしている。しばらく見ていると、力は均衡を失い、島の「縁」はどんどん形を変えてゆく。縁が歪み、伸び、枝になり、枝が合わさり、排水口へ流れ落ちてゆく。

どんどん形を変える水の縁に、蟻をおいたことがある。蟻は水の動きを察知して、シンクの中を行き先もわからないままただ走る。たかがシンクに流れる水が津波のように思えて、その遊びを繰り返した。夏の、ある一日。

〈ゆく夏〉のころの気だるさと寂しさを感じながらも、眼前にある水の動きが、生き生きとよく見えてくる。



夏の野にタイヤ半分生えており  小林鮎美

「タイヤって硬いんだ・・・」。それを初めて知ったのは、公園だった。車とはまったく無縁だったため、タイヤに触る機会がなかったのだ。公園のタイヤはカラフルな色が塗られ、等間隔に地中に埋められていた。半分食べたドーナツみたいに。

〈夏の野〉にタイヤがあった。ただそれだけのことを〈生えており〉と表現したことで、タイヤの形と位置が明確になってくる。下五の言葉の斡旋が成功している。

その他、〈ガレージの前は花火をするところ〉〈明け方に通り雨あり秋に入る〉の言い切りが気持ちいい。また、〈じゃがいもを潰す厨の暗さかな〉など、すべて身の回りの出来事である。言葉は、身の回りに無限に散らばっている。それを、どうやって掬い取るか。その大切さを教えてくれる作品群である。



けふすでにきのふに似たる鰯雲  山田露結

日の出と日の入りは、たぶん(今、生きている人間にとっては)永遠に繰り返される。何事もない同じような日々に多くの人は安堵し、幸せを感じるのだろう。

掲句の着目は〈似たる〉である。昨日と今日は似ている。けれど、同じではない。ともすると、安堵の幸せに呆けてしまいそうな日々だが、着実に(秒よりも細かい単位で)歳を重ね、残された時間は減ってゆく。人が、その光景に懐かしさを感じるのは、「いつかの私」が見た・見るであろう〈鰯雲〉だからだ。



親類を仏間へとほす扇風機  田口 武

〈親類〉という言葉に惹かれた。親戚でもない、親族でもない「しんるい」。あまりにもフツーの生活が、そこにある。鴨居にかけられている服、ピアノの上のフランス人形、なぜか廊下の奥にあるミシン、そして仏間(!)。これらの情景に〈扇風機〉が見事に合っていて、浮き立ってくる。

雑草の根性をむしつてをりぬ〉〈水中花お箸が転んでも笑ふ〉〈交際の範囲の広い黒揚羽〉〈蒸し暑しSUICAを鞄から出しぬ〉の、「根性」「お箸が転んで」「交際」「SUICA」など、言葉を、時代とややずれたところから拾っていて、面白い。


西川火尖 「敗色豊か」 10句 →読む 山口優夢 「家」 10句 →読む 津久井健之 「蝉」 10句 →読む 中原寛也 「あなた」 10句 →読む 小林鮎美 「帰省」 10句 →読む 山田露結 「森の絵」 10句 →読む 関 悦史 「皮膜」 10句 →読む
田口 武 「雑草」 10句 →読む