2023-02-19
宮本佳世乃【句集を読む】金子兜太「生長」を読む
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2018-05-27
【俳誌を読む】金子兜太追悼特集・4誌比較 年譜の観点から 橋本直
【俳誌を読む】
金子兜太追悼特集・4誌比較 年譜の観点から
橋本直
『俳句四季』などを除いて総合誌の兜太追悼特集に一応目を通す。研究者目線で言うと、追悼号はその作家の同時代の評価、著作一覧やその抄出、年譜などが載っているので、著作物や全集以外では作家論に取りかかる時に第一に当たる資料になってくる重要なものだ。だから古書店で総合誌で俳人の追悼号を見つけるとなるべく買うようにしている。
兜太の場合、只今現在である分、同時代の評価をさらに踏み込んで個々の記事の筆者と兜太との関係性からの問も立ちあがるので、いましばらく寝かせておきたくなる。その観点で言えば、比較的いま重要になってくるのは、いつどこで何をしていたのかが記されている年譜。いずれは『金子兜太全集』なり新しい選集なりに詳細なものが出るとしても、ひとまずなるべく詳細な年譜があることは研究者にとってはかなりありがたいことだ。
そういう点で言わせてもらえば、今回別冊まで刷って物量で圧倒している『俳句』の年譜はわずか2ページしかなく、『俳句界』も同様に少ない。
一方、『俳句α』は年譜とは言わずに「金子兜太アルバム」と題し、1から4に分け、豊富な画像を入れつつ、合間合間に記事(執筆者は「「寒雷」時代の金子兜太」石寒太、「金子兜太に惹かれて」マブソン青眼、「これからの金子兜太」田中亜美)を挟む、20ページにもわたる内容となっている。これは新潮社の「文学アルバム」的な作り方と言っても良いだろう。年譜の執筆者の署名はないが、石寒太によるものか。
『俳壇』は、田中亜美編によるほとんど画像を使わない、11ページにわたる三段組の年譜が載っている。ともにかなりの情報量がある。
過去に出たものを除き、当面この2冊の年譜をまずはアテにすることになるのだろう。
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2018-02-11
俳句の要件 金子兜太の場合 今井聖
俳句の要件 金子兜太の場合
今井 聖
俳句が俳句であるための要件とは何でしょうか。
定型は絶対でしょうか。字余りも含めた十七音定型は俳句の絶対条件とする俳人は多いのですが、それすら要件としない自由律俳句のような主張もあります。一般的に考えられる次の重大要件としては、季語(虚子は「季題」と言いましたがここでは同義と考えて「季語」に統一します)でしょうか。あとは付随するものとして文語使用、切字などが考えられます。俳句で表現すべき「詩」つまり「情趣」についてはどうでしょうか。「情趣」に要件があるの?と思われる方がいるかもしれません。俳句の情趣は芭蕉が「わび、さび」を提起して以来、その情趣に基づいた「詩」が俳句固有のものとなりました。季語もその情趣と密接に結びついています。
俳句の要件とその「情趣」について高濱虚子と金子兜太を比べてみたいと思います。
大寺を包みてわめく木の芽かな 高濱虚子〔*1〕
遠山に日の当りたる枯野かな 同
此村を出でばやと思ふ畦を焼く 同
これらの句はいわゆる「伝統俳句」、
きょお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中 金子兜太〔*2〕
屋上に洗濯の妻空母海に 同
石炭を口開け見惚れ旅すすむ 同
これらはいわゆる「前衛俳句」と呼ばれてきました。
伝統と前衛を区分するものは何でしょう。
「わかりやすさ」と「難解さ」でしょうか。
僕はそうは思いません。
それぞれ一句ずつを比較してみましょう。
まずは両者の冒頭の二句。
虚子の句は大きな寺を包んでいる木々の芽吹きがまるでわめいているかのように一斉に噴き出していると表現しています。喚(ルビ・わめ)くという比喩を通して春の芽吹きのエネルギーが伝わってきます。
兜太の句は、汽車の汽笛が「きょお!」と音を高らかに発して、噎せ返るような新緑の闇の中を進んで行きます。
汽笛の音にポーとかボーとか擬音を配するのは陳腐。詩人の為せる表現ではありません。汽笛が「きょお」と喚くのと芽吹きが「わめく」のは同じ。両者とも詩人の独自の把握が生かされていると言えましょう。
次に両者の二句目。
虚子の句は遠近法。遠景に山を配し、作者の眼の位置である手前の方まで枯野が続いています。遠近法の構成。
兜太の句は遠近法の中に動的なカメラワークが加わります。屋上に洗濯物を干している妻をまずは近景から映し、そこから俯瞰する位置にまでカメラを引いてくると沖合にある空母が視野に入る。遠近法の構成の中に突如介入してくる現代の危険な異物。無季の作品です。
最後に両者の三句目。
虚子の句は農村の苦しい生活の中で、都市部での就職やら出稼ぎやらを望みながら畦を焼いている現実を描いています。農村の現実は社会状況。虚子の眼は、因習や貧しさの中で喘ぐ「個人」の在り方に向いています。
兜太の句は、経済の高度成長政策に伴って大量の石炭が採掘されているさまを描いています。また、ここにはその情景を口を開けて見るしかない「個人」が描かれています。
虚子も兜太も現実を起点として、その中に呑み込まれていく「個人」の存在へと思いを向けています。
こういうふうに見て行くと虚子も兜太も少しも難解ではなく共通する点も多い。実にわかりやすい内容です。
しかし内容的に理解は「簡単」なのに、虚子と兜太を「伝統」と「前衛」に分ける理由は何でしょうか。
それは一つには俳句を俳句たらしめている要件に対する考え方の違いと、その要件を用いて俳句が表現すべき情趣つまり「詩」というものの目標設定の違いにあります。
きょお!と喚いてこの汽車は行く新緑の夜中
には、これまでの俳句の概念では禁忌とされた要素が細かく言えば三つあります。一つは俳句の中にイクスクラメーションマーク(!)を用いたこと。二つ目は大幅な字余り。三つ目は季語の用法で、季語「新緑」は、昼間の可視の範囲で緑が横溢している初夏の景に限定されるという「本意」を無視したこと。「伝統俳句」は「夜の新緑」を認めません。
兜太はもちろんこれらの禁忌を百も承知で用いています。
その理由も明解です。俳句を俳句たらしめている特徴を「俳句性」と呼ぶとすると、俳句性は「定型」以外には無いというのです。表記も季語の有無も自由。季語の「本意」を尊重するかどうかももちろん自由。表現というのはそもそも自由なものだという考え方で、俳句性の唯一の縛りは「定型」であると日頃から述べています。
それにしてはこの句、大幅な字余りじゃないかと思うのは考え方の違い。兜太は十七音定型という基本の縛りがあるからこそ字余りも存在価値が出てくる。定型を意識するからこその破調なのだという考え方です。
虚子にとっての要件はまず季語。「花鳥諷詠」の最大の要件は「四季」を詠むこと。連歌以来の約束事として季語を尊重することという考え方は理解できますが、「俳句性」にとって季語は絶対不可欠という「規定」は偏狭に過ぎるような気もします。
兜太の二句目のように「写す」という俳句の手法を生かしながら、風景の中で空母と遭遇するという命に響くような「驚き」も俳句で表現し得る「詩」の範囲と考えます。
もう一つ、季語を使う場合は、歳時記に記された「本意」を詠むことに心を砕くのではなくて、「自分」に引き付けて詠むこと。「新緑は木々の緑。蘇つたやうな木々の葉の艶やかな色栄え。」(虚子編新歳時記)という「初夏の明るい昼間の緑」という本意に対して兜太は敢えて「新緑の夜中」と詠みます。兜太が意図したのは、木々の息吹が噴き出す夜中の雰囲気を五感で捉えてその中を突き進む「この汽車」を設定する。「この汽車」がその時「自分」になります。季節によって、自然によって生かされている受け身の自分ではなくて、季節を含む現実の空気を呼吸しながら驀進する主体としての自分が見えてくるのです。
〔*1〕高濱虚子『五百句』1937年
〔*2〕金子兜太『少年』1955年
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2016-02-21
秩父道場参加の記 関悦史
秩父道場参加の記
関悦史
途中、味噌工場の売店があったが、独り身で土産を買う習慣もないことから何も買わずに過ぎた。夜中に宿の一室に有志が集まって酒宴がはられたが、そこで島ラッキョウか何かと一緒に、昼間買ったという味噌が出てきて、これは買っておけばよかったと後悔した。
いや、その前に吟行後の句会があって、これがメインイベントの一つなのだが、大人数でなかなか終わらず、途中で夕食。夕食の大広間で初めて兜太御大登場となった。参加しなかった人がこの拙稿を読む可能性もあるから念の為に書いておくと、初日の吟行と句会の前半は兜太師は姿を見せていなかったのだ。
二三年ぶりにお目にかかり、動作がスローになった印象はあるもののお元気そうで、つい先日も沖縄に行ったなどと仰るのだが、ちょっとでも変な感じがすると思ったら無理は一切せず、毎夜九時には寝てしまうという。じつに細心なのだ。〈酒止めようかどの本能と遊ぼうか〉の句、最近のような気がしたが、伺ってみたらこれがもう三十年前であった。禁酒後ずいぶん経っているのだ。
考えたら兜太師は私と誕生日が二日しか違わず、どちらも乙女座である。自己管理はお手の物なのかもしれない。噂の秩父音頭が出なかったのは残念。
お食事もゆっくりなので、翌日の昼食も、皆が食べ終えて大広間から去ってしまった後、一人で残っておられた。この時二人きりとなり、戦争の危機やら、最近の報道統制ぶりについてお話したりした。報道統制はネットを見ず、テレビ・新聞が与える世界像だけに接している人には呑み込みにくい話でもあるのだが、兜太師、その辺は実に柔軟に聞き入っていた。
ちなみに「国境なき記者団」が発表している「報道の自由度ランキング二〇一五」では日本は昨年よりさらに二つ下がり、六十二位という低順位であった。「顕著な問題のある国」扱いであり、東アジアでは台湾、韓国より下である。誰も思い出したくもないであろう民主党政権の頃は十一位から二十二位の間だった。つまりあの頃は報道の自由度が高かったから叩き放題だったのである。
兜太師、普段具合の悪いところは特にないが、血糖値を調整する注射を外泊中はご自分で打っているとのことで、朝打つべきところを間違って夜打ってしまった。さあ大変だと思っていたら、それから宿の人からおにぎりを二個もらって助かった、長生きするヤツというのは運が強いんだなどという話もされていたが、こういうのは当人より周りがハラハラする。
句会での兜太師の講評は、採らない句については無論のこと、採っておいてから「何でこの句を採っちまったんだろうなぁ、騙されたな」などとくさし始めることも少なくないので、会員の方にとってはがっくりくることもあるだろうが、せっかく師についていながら褒められてばかりの句会など意味がない。褒められたところもともかく、どこがケナされたかの方が、句の結晶度とか格とかを観る上では余程参考になる。私が入門書的にアウトの細かいところ(季重なりとか何とか)でひっかかった句が、兜太師の裁断で「良い句」になってしまう局面もあった。このとき、句は上手い下手の次元ではなく、詩的位格の次元で鑑定されているわけである。ここを呑みこむのが重要。
もっとも口が悪いのは兜太師に限った話ではなく、その後、帰る間際の頃に参加された中のお一人が、私に「講評のときズバズバ斬ってくれてスカッとした」などと感想を伝えてくれたりもした。こちらとしてはある程度は言葉をやわらげていたつもりであったのでびっくりした。まだまだである。われわれ乙女座は批判精神が旺盛なのですよ。
句会では宮崎斗士さんの司会の手際がいいのに感心した。採った側、採らない側から適宜コメントを取り、時間内にまとめていくワザは人数の多い大結社ならではであろう。私がやったら途中で疲れて注意力散漫になり、何をやっているやらわからなくなったはずである。われわれ外部講師の応対も全部斗士さんの担当であった。かなりの作業量だったはずである。多謝。
二日目はその私と筑紫磐井さんの講演もあったのだが、これは特に話を合わせたりすることもなく、互いに好き勝手なことを話した。磐井さんとは同じ「豈」であるにもかかわらず、直接会うことはそうはない。大きなシンポジウムなどがあるときくらいである。
磐井さんの話は近著『戦後俳句の探求』の概説的なものだったが、これと前著『伝統の探求』の二冊で前衛と伝統を論じており、これで現代俳句の詩学の全域がカバーされたのかと思いながら、何となく得心できずにいたのだが、磐井さんの講演を聞いていて気がついた。この二著からは新興俳句の系譜が抜けているのだ。「豈」創刊者の攝津幸彦の出自が新興系で、磐井さんがその発行を継いでいるので気づきにくかったが、新興系の文学主義はあまりお好きでないらしい。
磐井さんの前に前座というか、私の講演が先に入って、古沢太穂の社会詠の話などしていたのだが、兜太師、朝もゆっくりなので、なかなかお出ましにならない。半分くらいしゃべったところで入って来られて、後ろから励ますように肩を二三度叩かれた。
全日程終わってお別れの時も両手で固く握手。こういうスキンシップ、俳句をやっていても他ではなかなかない。
またお会いしましょう。
●
付記……去る2016年1月31日に榮猿丸、鴇田智哉、トオイダイスケらと、SSTプレゼンツ「hike in three sounds」という朗読イベントを行った。朗読といってもテクノポップのリズムに乗せたものなので、なかば音楽イベントになっていたのだが、この企画、当初はもっとコント的な要素も入る予定だった。
その幻に終わったネタのひとつに、私が「現代思想と俳句」といったような内容で、(一見)生真面目な講演をやり、その背後に、褌ひとつで乾布摩擦をする兜太師の映像をリピートで流し続けるという馬鹿馬鹿しいものがあった。
秩父道場の講師になったので、今度兜太に会うという話をしたら、榮猿丸にそれはぜひとも出演交渉しろとせっつかれ、九十代の文化功労者をこんな企画にひっぱり出せるかと思いつつも、二日目の昼食時に、大広間で兜太師と二人きりになったので、ともかく切り出してみたのだが……
私「じつは今度、榮猿丸や鴇田智哉とかくかくしかじかな朗読イベントの企画がありまして」
兜「ふむ」
私「それでですね、その、金子先生に乾布摩擦していただいて、その映像を私が講演やってるバックで使わせていただけると大変にありがたいのですが…」
兜「はははははは。できるか、そんなこと」
と、破顔一笑、バンバン肩を叩かれ、この企画はあえなく流れたのであった。
ご無礼のほど、平にご容赦を。
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2010-06-13
極私的「金子兜太」体験 今井聖
極私的「金子兜太」体験
今井聖
僕の兜太体験を書いてみようと思った。
僕は昭和46年、21歳のときから「寒雷」にいたから、兜太さんは近しい存在だったはずだが、昭和37年に創刊された「海程」は、そのころ既に前衛の旗手として活発に活動しており、兜太さんは何かの大会のときでもなければ寒雷の句会にみえなかったので、実際に謦咳に接したのはずっとあとになってからである。
加藤楸邨に惹かれて師事した僕にとって、「金子兜太」は同門でありながら最初は否定的な対象であった。どういうところが僕の嗜好に合わなかったのかはあとで述べたい。
それなのに、いつのころからか、しだいに好きになり、大好きになり、それまでいちばん好きだった山口誓子や加藤楸邨と肩を並べるくらいになり、今では、俳句の歴史の根っこにいる子規や芭蕉と並ぶくらいになった。愛してしまったと言ってもいい。とは言っても兜太さんの方はとても僕を評価しているとは思えないので、これは確実に片思いである。
兜太さんは「海程」創刊の言葉で俳句を愛人に喩えた。僕も兜太さんを恋人に喩えよう。最初嫌いだった相手を好きになってしまう、そのサワリのあたりを聞いて欲しい。
昭和三十年代の末、鳥取県米子市の中学生だった僕は近所の粗末な床屋(本当に掘立小屋のようだった)で頭をやってもらっているとき、床屋のオヤジが「趣味は何かいな」と僕に聞いた。
すでに学習雑誌の俳句欄投稿魔で何度か入選を獲ていた僕は得意気に「俳句やっとうだが」と気負って応えた。
ところがオヤジ動ぜず「俳句!? ワシもやっとうが、「ホトトギス」だで」と僕よりも得意気に言った。
オヤジは俳号芹沢友光(せりざわゆうこう)「ホトトギス」、年間入選一、二句の実力だったと思う。
「ほんなら、句会来たらええだが」という誘いに乗って、そのときから僕は「ホトトギス」と「雪解」と「かつらぎ」の人たちの混成からなる10人ほどの句会に出ることになった。平均年齢60歳代の句会だった。
僕は投稿魔だったが、やっぱり俳句は基本と伝統を学ばねばと考え「ホトトギス」に投句しようと思って、友光さんに言うと、「それはええけど、投句は毛筆で書かんといけんで」
そりやだめだ、字の拙さは当時もクラスでトップクラス。書道は一番嫌いな科目だった。
「そんなら「馬酔木」にするけえ」
「「馬酔木」はいけんで。やめた方がええ。新しもん好きなだけだけん」
友光さんは反対したが、毛筆投句に恐れおののいた僕は伝統二番手の「馬酔木」に投句することにした。
その頃の「馬酔木」の一句欄に僕はしばらく載っている。
僕は学校が終るとその床屋に行って、客がいるときは漫画を読んで時間をつぶし、調髪の終るのを待って友光さんと俳句談義をした。思えばヘンな中学生だった。
「こんなんが俳句だか?どげ思う?」と言って、
友光さんが或る日僕の前にポンと一冊の本を置いた。
本は『今日の俳句』。著者金子兜太との初めての出会いだった。
『今日の俳句』(光文社刊)は昭和40年刊。中に書かれているさまざまな俳人の句や兜太自身の句は、一茶や芭蕉の句の模倣から入った中学生にとって、まるで、異国語のような趣だった。
しかし、まるっきり理解不能だったわけではない。
たとえば、
果樹園がシャツ一枚の俺の孤島 兜太
なんじゃあ、これは!これが俳句かと友光さん同様にそのときは思ったが、この句が何を表現したいかを理解できなかったわけではない。
果樹園の真ん中で、あるいは樹の上で、汗にまみれたシャツを着て頑張ってる「俺」の姿だ。それは実際の果樹園ではなく、土に根ざした産業の中で孤軍奮闘している若い「俺」という概念。
つまりそこには労働と若さの典型があると思った。
リアルな果樹園と思えなかった理由は、今思うと、働いている人間は「果樹園で働いています」とは言わないからだ。林檎園とか葡萄園とか具体的に言うだろう。つまり果樹園は概括なのだ。
中学生のときに、そう感じたのかどうか。高校に入ってさまざまな詩歌に触れる機会があってから、そういう思いがあとから芽生えて来たのか、どちらかは覚束ないが、この句に対する嫌悪感は最初見たときからきちんとあって、それは、初めて目にしたものに対する抵抗感などとははっきり異なる。この句の持っている青年性の典型が嫌だったのは確かである。
少年一人秋浜に空気銃打込む 兜太
これもいわゆる「少年」の典型。
希望に燃える溌剌とした若者が類型なように、浅沼稲次郎へのテロ以来特に流行した暗い匕首のような「少年」もまた類型以外の何者でもない。
たとえば、これもそう。
少年来る無心に充分に刺すために 阿部完市
なぜ、僕が若さの典型を描くような表現に嫌悪感を抱いたのかは、僕自身の生活環境に起因している。
僕はその床屋の近くに広大な敷地を有する県営の家畜試験場の中の職員住宅で暮らしていた。
大正八年生まれの父(偶然にも兜太さんと同年)は、戦後の混乱の中で曲折を繰返したため、公吏になったのが三十代になってから。そのため公吏の中に厳然とある学閥と年功による昇進路線に乗れず、かなりの不遇感を抱いていた。母は戦後数学の教職に在ったが、しだいに鬱病傾向となり、当時は入退院を繰り返していた。
母は自分の精神状態と向き合うのが精一杯で子供にかまう余裕はなかったため必然的に父がすべてのことをこまごまと指示し、強制した。ところが、父は困ったことに大酒飲みだった。
職住接近の最たる環境、5時に終業のサイレンが鳴ると5時5分にはもう帰宅してちびちびと二級酒を始める。
父は自分の不遇感の裏返しで僕をエリートに育てようとしていた。
そのためには、世俗的な心情を排し、小さな価値観にまとまらぬようにと思ったのだろう。徹底的に僕の持っている価値観を攻撃し否定してみせた。
しかし、この程度のことはどこの家庭にでもあることだろう。僕は自分の意識過剰な不幸物語を聞かせようとしているのだろうか。
そう思ってはみるが、やはり、父は普通ではなかった。
たとえば、中学校のとき良い先生に当たってよかったとにこやかに学校の話を告げた僕に、父は学校の教師のいうことは聞く必要がないと断じた。奴らは師範学校出身で馬鹿だからというのがその理由だった。師範なんて村でも一番馬鹿が行ったんだ、そんな奴らを信じてはならない。教育学部なんか行ってはならぬ、あんなのは大学でやる学問じゃない。
「先生」に憧れ、教師を志すかもしれぬ息子を父は牽制したのだった。父はあらゆる一般的通念や正論のごときものを素朴に主張する息子に対し、「現実の実相」を知らしめることで徹底して否定してみせた。
回りはお前を騙そうとしている。騙されるな、真実に気づけ。見え透いたことをするな。独自性をもて。
青いマフラーを自分の小遣いを貯めて買ってきた僕に父は、「色気づきやがって。青なんて色はそのへんのアンちゃんが着るもんだ」
そのマフラーを僕は一度も首に巻くことができなかった。
だが、僕は酒を飲んでいないときの父は嫌いではなかった。獣医だった父は僕を豚のお産に立ち合わせ、職場の高性能の電子顕微鏡をのぞかせてくれたりした。
一般的通念を指す「らしさ」とか、「典型」に抵抗して自分だけの独自性をもつこと、僕が達した認識は酒乱の父に精一杯歩み寄った理解だったように思う。
皮肉っぽいひねた中学生だった。
中学二年生のときに俳句を始めたのも、その嗜好があったのだろう。人がやらぬことをやる。「典型」を忌避することが、愛憎半ばする父との妥協点だった。
高校に入ると僕は古着屋でサラリーマンふうの長いコートと中折れ帽を買い、ステッキを持ち、父が昔使ったという鼈甲縁の丸い眼鏡をつけて放課後や日曜には米子の町を歩いた。友人に会うと中折れ帽を昭和天皇のように持ち上げて、挨拶してみせた。
果樹園を孤島と見立ててシャツ一枚で屹立する「俺」には若さの「典型」が匂った。見え透いた若さだと思った。
見え透いていることはもうひとつあった。
洋風であることである。
この句の果樹園はどう考えてもフランスやイタリアあたりの果樹園に思えた。働いている「俺」は日本人ではなく、アラン・ドロンやマストロヤンニの「俺」である。当時は、「太陽がいっぱい」の貧しいドロンのシャツ姿や「ひまわり」の中のバス代も払えないマストロヤンニの風情が人気を呼んだ。果樹園の「俺」はふんどし姿の三船敏郎ではない。孤島という比喩も決して日本的ではない。だいたい日本には「孤島」なんてモダンな言葉に相当する島があるのか。
この句は借り物のモダニズムだと感じた。当時はもちろんそんな気の効いた言葉は知らない。ポエジーの意図が見え透いていると思ったのだった。
「馬酔木」の出発以降の近代俳句の流れは、「ホトトギス」の花鳥諷詠という情緒に対する反発であり、一方でそこから敷衍した新興俳句は、見えるものを写すという方法に対する反発が中心にあった。
しかし、情緒に関して言えば、花鳥諷詠がもっぱら神社仏閣老病死に限定された情緒を詠ったのに対して、俳句のモダニズムが洋風の情緒を旨としたというほどの差異である。少なくとも僕にはそう見えた。神社仏閣老病死が抹香臭くて洋風の風景なら新しいというわけでもあるまい。問題はそこではない。「写す」という方法に対する懐疑だったのだが、僕はそれさえも的外れに思えたのだった。
見えるものを写すという方法に対する懐疑は、例えば、
頭の中で白い夏野となっている 高屋窓秋
などに解説的に示されているが、見えるものを写さなくてもいいではないかというのはその通りだが、ならば、それに勝るリアリティを「言葉」で構築された俳句が獲得したのだろうか。いまの段階では否というしかないように思える。そもそも古い情緒が「写生」に起因するものだという捉え方が誤りであった。
僕は高校生のころそう思った。その思いに的確な言葉は与えられず、年月が経つにつれてしだいに思いを論めいたものしていったのだったが、最初の確信は今日まで変ることはない。
抹香臭い俳句的情緒を否定して洋風な嗜好をみせる俳人も浅薄単純に思えた。
縄跳びの寒暮傷みし馬車通る 佐藤鬼房
鬼房さんの代表句として喧伝されているこの句が好きになれず、今でも鬼房さん一級の作品とは思えないのはこの句の馬車がどこか洋風だからである。
東北の村の道、あるいは軒の低い貧しい日本の戦後の街並みをぼたぼたと糞を落としながらすすむ馬車というよりは、ヨーロッパの石畳を走る馬車に思えた。だいたい日本に馬に引かせて人が乗る馬車という乗り物があったのかどうか。あってもそれは皇室の祝い事や国葬のような儀礼的な場での例外だろう。
当時の映画でいうと「鞍馬天狗」より「ローハイド」の方が若者向きだというのは商業主義の作戦である。
夜が明けたら一番早い汽車に乗って この町を出るのさ
と唄ったのは浅川マキ。
今夜の夜汽車で旅立つ俺だよ
と唄ったのはかまやつひろし。
トラベリンバスでのその日ぐらしがどんなものなのかわかっているのかい
と家出してきた少女に諭すのは矢沢永吉。
「この町」も「夜汽車」も「トラベリンバス」も間違っても八戸や長万部を想定しない。国籍不明のなんとなく「洋風」な対象である。
身をそらす虹の/絶顛/処刑台 高柳重信
虹が見える公開処刑の処刑台はどこの風景だ。マリーアントワネットか、ルイなにがしか。これはモボ、モガ憧れの国おフランスの景だろう。
月下の宿帳/先客の名はリラダン伯爵 重信
も同じ。19世紀フランスの伝奇的な伯爵の名をもってくれば句がモダンになるという嗜好は見え透いているというべきだろう。
兜太作品への反発はもうひとつ。
言葉の喧騒感とでもいうべきものであった。
奴隷の自由という語寒卵皿に澄み
朝空に痰はかがやき蛞蝓ゆく
港湾ここに腐れトマトと泳ぐ子供 兜太
名詞が多く、字余りが多く、リズムが悪い。何よりもひとつひとつの言葉がどぎつい。言葉がざわついていると思ったのだった。
僕は、「静謐」が秀句の条件だと信じていた。
例えば、当時、僕がしだいに惹かれていったのは山口誓子であった。
高きより雪降り松に沿ひ下る
ボート裏返す最後の一滴まで
雪敷きて海に近寄ることもなし
城を出し落花一片いまもとぶ
波にのり波にのり鵜のさびしさは
悲しさの極みに誰か枯木折る 誓子
等々、好きな誓子句をあげるときりがないが、誓子の句は「静謐」な詩情が詠まれていると感じ、それが心にしみた。
「静謐」な新しい詩情。それは作り手としては最高に困難なことのように思えた。
西東三鬼も僕と同じ思いだったような気がする。
春ゆふべあまたのびつこ跳ねゆけり
右の眼に大河左の眼に騎兵
月夜少女小公園の木の股に 三鬼
三鬼の句のこの喧騒ぶりはどうだ。同時代の「現代詩」から引いてきたモダニズムを志向した三鬼が誓子の
夏の河赤き鉄鎖のはし浸る 誓子
を至上の句として絶賛している。
「喧騒」の三鬼は、それを自覚していたがゆえに誓子の句の「静謐」を限りなく憧憬したのだった。
僕には「静謐」が「喧騒」の一段上の詩情に思えた。
兜太さんに最初感じた印象は、「若さの典型」「知的洋風の趣」「言葉の喧騒感」だった。
それが最初好きになれなかった理由である。
兜太作品に対する嫌悪感がしだいに感動に変わっていったのは、やはり加藤楸邨を通してである。
僕は山口誓子作品に出会ったとき、初めて同時代的感興を俳句に感じることができた。古い俳句的情緒を脱し、それでいて自由詩の趣に阿らない。見えるものを写すリアルの中にいて、洋風も若さの押し付けも老人趣味もない。俳句にしか出来ない新しい方法を示しているように思えた。硬質で構成的な「写生」と溢れんばかりの抒情の間の振幅で僕の胸をゆさぶった誓子作品は、しかし、しだいにそのスタンスを前者に収斂してゆく。
僕は20歳のころ楸邨の
狐を見てゐていつか狐に見られてをり 楸邨
のような実存的な傾向を眼にして、40年代以降の誓子に抱いた懐疑からの出口をここに求めようと思った。
「寒雷」に来た当時、楸邨句のイメージは
おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ 楸邨
のように先入観通り、実存的傾向の楸邨だったのだが、
そのうち、僕にとっては極めて重大なことに気づいた。
楸邨は結果的にどんな観念句になろうと、かならず現実の実体から得られる実感を入り口にしている。ものから自分の五感を通して受け取ったものを起点として観念にとぶという順序が徹底されているのである。
しづかなる力満ちゆき螇蚸(はたはた)とぶ 楸邨
喧伝されているこの句、人生忍耐だ。我慢だ。の寓意の類がテーマと思い、とても秀句だとは思えなかったのだが、あるとき螇蚸を見ていて気づいた。飛ぶ前に実際に螇蚸の体がぎゅっと縮むのだ。縮んで引き絞ってバネをきかせて飛ぶ。しづかなる力満ちゆきは寓意ではなく、写生的事実だったのだ。
歯に咬んで薔薇のはなびらうまからず 楸邨
こんな、どちらかといえば失敗作の中身が楸邨の本質を表している。薔薇を先入観でとらえない。言葉のイメージでとらえない。目の前の薔薇つまりそのときその瞬間の薔薇を、見て、触れて、嗅いで、ついには歯でかんでみる。この五感把握が楸邨だ。
そこにそのときその瞬間の生きている自分と対象との邂逅がある。「もの」をとおして初めて一個の自己が実感されるのである。
そのことの証明に幾百の楸邨句を引いてくることができるが、それはここでのテーマではない。
僕はそういう楸邨の「観念」の特質に気づいたとき、兜太さんの句が一気に理解できた気がした。それまでは楸邨と兜太さんがなぜ師弟なのか、どこに共通性があるのかがいまひとつ理解できていなかった。兜太さんは楸邨から、現実から観念へという順序の基本を学んだのだった。
僕は兜太作品を読み解く鍵を手に入れたと思った。
オーバーにかかり荷馬息過ぐ駅の灯見ゆ 兜太
荷馬息過ぐのナマな実感。
車窓擦過の坂の一つの焚火怒る 兜太
焚火怒るは造型。しかし、それは車窓擦過の現実が起点になっている。焚火怒るはいわゆる唄のサビではない。サビは車窓擦過。
屋上に洗濯の妻沖に空母 兜太
反戦がテーマというより、現実そのもの。優れて映像的な写生句である。思想が主張されない。映像がしずかに現実を突きつけるのだ。
「どもり治る」ビラべた貼りの霧笛の街 兜太
「どもり治る」のリアル。個人の精神的屈折に起因するどもりがまず描かれ、そこから高度経済成長のひずみにはまりこむ人間性が暗喩される。
二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり 兜太
東京オリンピック当時だから「二十のテレビ」の驚きになる。黒人のリアルから入って、今なら、ヤマダ電機の百のテレビになるであろう。この二十が「時代」なのだ。
怒気の早さで飯食う一番鶏の土間 兜太
ああ、まさに五感的把握。「早さ」は怒気の早さであると同時にこの句を読み下すリズムの早さにもなっている。
もちろん楸邨流順序だけではなく、そこから派生してくるオリジナルな魅力も多岐にわたる。
例えば、
彎曲し火傷し爆心地のマラソン 兜太
の魅力は、彎曲しの主語と火傷しの主語が書かれていないことに大きく掛かっている。何が彎曲するのか、何が火傷するのか、爆心地のマラソンはそれらとどう関わるのか。
彎曲する鉄骨や橋や柱。火傷する人や犬やすべての生き物。それら、主語がないゆえに広範に広がる主語候補の映像とマラソンの走者が重なり映る。ドキュメンタリーの重層的映像。さまざまな角度から重層的に対象を捉えるピカソの手法も思わせる。文法的には滅茶苦茶。だからこそ伝わってくる叫びのエネルギー。
この句も反戦の意図を伝える作品ではない。現実の複合的なリアルが眼目。
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく 兜太
も僕は後年理解ができた作品。
いわゆる社会性俳句は、第一次産業の労働者と会社の底辺労働者の「正義」、つまり貧しさと正しさを詠った。知的エリート俳人もこぞってこのポーズをとって詠った。それゆえ、経済成長が果たされて底辺の底上げが成就したとき、貧しさ俳句は終焉を迎える。あとは、社会性は党派俳人の専門分野となり、嘘貧乏の知的エリートたちはいっせいに花鳥諷詠へ先祖返りを始める。晩年のための賢い処世でもあった。
この句が対象としたのは、正しさや貧しさとは無縁の銀行員。初めて俳句が対象とした新しい労働の情緒であった。ここには金のない悲哀やプロレタリアートの正義の代わりに「気分」があった。気分と感情を乗せた「現在」が息づいている。
「造型俳句六章」もさまざまな時間の上に乗った複合された感情や気分が俳句のテーマとして提唱されている。それはまさしく兜太さんのオリジナル。
兜太さんは固定化された修辞的手法を駆使し熟達してゆく作り方ではないので、己れの培った堅実な境地を見せる俳人とは対極にいる。
だから一句一句に果敢な試みを乗せる。当然失敗作も多いが、突然、ものすごい秀句が出現する。この点も楸邨と同じ。
近年の作では、
子馬が街を走つていたよ夜明けのこと 兜太
には驚いた。
僕に映像を演出させてもらえるなら、霞ヶ関かニューヨークかパリの夜明けの街路を子馬を走らせる。解き放たれた子馬を街の人々は微笑みながら見ている。解放や自由をまとった疾走だ。
まだまだ書きたいことはある。草田男と兜太さんの関係。高柳重信系と兜太さん系の論争のこと。「海程」の代表から主宰への移行のこと。性的なテーマのこと等々。しかし、もう締め切りの日をかなりすぎてしまった。この辺で極私的な小文をひとまず終えたい。
黴の中言葉となればもう古し 楸邨
という句がある。言葉にしてしまったら、もう、原初の思いと一体になれないこと、それにもかかわらず、思いを言葉で言うしかないという二律背反の上に僕ら表現者は立たされている。たかが言葉されど言葉というべきか。楸邨と兜太さんはその認識の上に立っている。
僕もまたそうありたいと願いつつ。
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