2023-02-19
宮本佳世乃【句集を読む】金子兜太「生長」を読む
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2018-05-27
【俳誌を読む】金子兜太追悼特集・4誌比較 年譜の観点から 橋本直
【俳誌を読む】
金子兜太追悼特集・4誌比較 年譜の観点から
橋本直
『俳句四季』などを除いて総合誌の兜太追悼特集に一応目を通す。研究者目線で言うと、追悼号はその作家の同時代の評価、著作一覧やその抄出、年譜などが載っているので、著作物や全集以外では作家論に取りかかる時に第一に当たる資料になってくる重要なものだ。だから古書店で総合誌で俳人の追悼号を見つけるとなるべく買うようにしている。
兜太の場合、只今現在である分、同時代の評価をさらに踏み込んで個々の記事の筆者と兜太との関係性からの問も立ちあがるので、いましばらく寝かせておきたくなる。その観点で言えば、比較的いま重要になってくるのは、いつどこで何をしていたのかが記されている年譜。いずれは『金子兜太全集』なり新しい選集なりに詳細なものが出るとしても、ひとまずなるべく詳細な年譜があることは研究者にとってはかなりありがたいことだ。
そういう点で言わせてもらえば、今回別冊まで刷って物量で圧倒している『俳句』の年譜はわずか2ページしかなく、『俳句界』も同様に少ない。
一方、『俳句α』は年譜とは言わずに「金子兜太アルバム」と題し、1から4に分け、豊富な画像を入れつつ、合間合間に記事(執筆者は「「寒雷」時代の金子兜太」石寒太、「金子兜太に惹かれて」マブソン青眼、「これからの金子兜太」田中亜美)を挟む、20ページにもわたる内容となっている。これは新潮社の「文学アルバム」的な作り方と言っても良いだろう。年譜の執筆者の署名はないが、石寒太によるものか。
『俳壇』は、田中亜美編によるほとんど画像を使わない、11ページにわたる三段組の年譜が載っている。ともにかなりの情報量がある。
過去に出たものを除き、当面この2冊の年譜をまずはアテにすることになるのだろう。
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2018-02-11
俳句の要件 金子兜太の場合 今井聖
俳句の要件 金子兜太の場合
今井 聖
俳句が俳句であるための要件とは何でしょうか。
定型は絶対でしょうか。字余りも含めた十七音定型は俳句の絶対条件とする俳人は多いのですが、それすら要件としない自由律俳句のような主張もあります。一般的に考えられる次の重大要件としては、季語(虚子は「季題」と言いましたがここでは同義と考えて「季語」に統一します)でしょうか。あとは付随するものとして文語使用、切字などが考えられます。俳句で表現すべき「詩」つまり「情趣」についてはどうでしょうか。「情趣」に要件があるの?と思われる方がいるかもしれません。俳句の情趣は芭蕉が「わび、さび」を提起して以来、その情趣に基づいた「詩」が俳句固有のものとなりました。季語もその情趣と密接に結びついています。
俳句の要件とその「情趣」について高濱虚子と金子兜太を比べてみたいと思います。
大寺を包みてわめく木の芽かな 高濱虚子〔*1〕
遠山に日の当りたる枯野かな 同
此村を出でばやと思ふ畦を焼く 同
これらの句はいわゆる「伝統俳句」、
きょお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中 金子兜太〔*2〕
屋上に洗濯の妻空母海に 同
石炭を口開け見惚れ旅すすむ 同
これらはいわゆる「前衛俳句」と呼ばれてきました。
伝統と前衛を区分するものは何でしょう。
「わかりやすさ」と「難解さ」でしょうか。
僕はそうは思いません。
それぞれ一句ずつを比較してみましょう。
まずは両者の冒頭の二句。
虚子の句は大きな寺を包んでいる木々の芽吹きがまるでわめいているかのように一斉に噴き出していると表現しています。喚(ルビ・わめ)くという比喩を通して春の芽吹きのエネルギーが伝わってきます。
兜太の句は、汽車の汽笛が「きょお!」と音を高らかに発して、噎せ返るような新緑の闇の中を進んで行きます。
汽笛の音にポーとかボーとか擬音を配するのは陳腐。詩人の為せる表現ではありません。汽笛が「きょお」と喚くのと芽吹きが「わめく」のは同じ。両者とも詩人の独自の把握が生かされていると言えましょう。
次に両者の二句目。
虚子の句は遠近法。遠景に山を配し、作者の眼の位置である手前の方まで枯野が続いています。遠近法の構成。
兜太の句は遠近法の中に動的なカメラワークが加わります。屋上に洗濯物を干している妻をまずは近景から映し、そこから俯瞰する位置にまでカメラを引いてくると沖合にある空母が視野に入る。遠近法の構成の中に突如介入してくる現代の危険な異物。無季の作品です。
最後に両者の三句目。
虚子の句は農村の苦しい生活の中で、都市部での就職やら出稼ぎやらを望みながら畦を焼いている現実を描いています。農村の現実は社会状況。虚子の眼は、因習や貧しさの中で喘ぐ「個人」の在り方に向いています。
兜太の句は、経済の高度成長政策に伴って大量の石炭が採掘されているさまを描いています。また、ここにはその情景を口を開けて見るしかない「個人」が描かれています。
虚子も兜太も現実を起点として、その中に呑み込まれていく「個人」の存在へと思いを向けています。
こういうふうに見て行くと虚子も兜太も少しも難解ではなく共通する点も多い。実にわかりやすい内容です。
しかし内容的に理解は「簡単」なのに、虚子と兜太を「伝統」と「前衛」に分ける理由は何でしょうか。
それは一つには俳句を俳句たらしめている要件に対する考え方の違いと、その要件を用いて俳句が表現すべき情趣つまり「詩」というものの目標設定の違いにあります。
きょお!と喚いてこの汽車は行く新緑の夜中
には、これまでの俳句の概念では禁忌とされた要素が細かく言えば三つあります。一つは俳句の中にイクスクラメーションマーク(!)を用いたこと。二つ目は大幅な字余り。三つ目は季語の用法で、季語「新緑」は、昼間の可視の範囲で緑が横溢している初夏の景に限定されるという「本意」を無視したこと。「伝統俳句」は「夜の新緑」を認めません。
兜太はもちろんこれらの禁忌を百も承知で用いています。
その理由も明解です。俳句を俳句たらしめている特徴を「俳句性」と呼ぶとすると、俳句性は「定型」以外には無いというのです。表記も季語の有無も自由。季語の「本意」を尊重するかどうかももちろん自由。表現というのはそもそも自由なものだという考え方で、俳句性の唯一の縛りは「定型」であると日頃から述べています。
それにしてはこの句、大幅な字余りじゃないかと思うのは考え方の違い。兜太は十七音定型という基本の縛りがあるからこそ字余りも存在価値が出てくる。定型を意識するからこその破調なのだという考え方です。
虚子にとっての要件はまず季語。「花鳥諷詠」の最大の要件は「四季」を詠むこと。連歌以来の約束事として季語を尊重することという考え方は理解できますが、「俳句性」にとって季語は絶対不可欠という「規定」は偏狭に過ぎるような気もします。
兜太の二句目のように「写す」という俳句の手法を生かしながら、風景の中で空母と遭遇するという命に響くような「驚き」も俳句で表現し得る「詩」の範囲と考えます。
もう一つ、季語を使う場合は、歳時記に記された「本意」を詠むことに心を砕くのではなくて、「自分」に引き付けて詠むこと。「新緑は木々の緑。蘇つたやうな木々の葉の艶やかな色栄え。」(虚子編新歳時記)という「初夏の明るい昼間の緑」という本意に対して兜太は敢えて「新緑の夜中」と詠みます。兜太が意図したのは、木々の息吹が噴き出す夜中の雰囲気を五感で捉えてその中を突き進む「この汽車」を設定する。「この汽車」がその時「自分」になります。季節によって、自然によって生かされている受け身の自分ではなくて、季節を含む現実の空気を呼吸しながら驀進する主体としての自分が見えてくるのです。
〔*1〕高濱虚子『五百句』1937年
〔*2〕金子兜太『少年』1955年
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2016-02-21
秩父道場参加の記 関悦史
秩父道場参加の記
関悦史
途中、味噌工場の売店があったが、独り身で土産を買う習慣もないことから何も買わずに過ぎた。夜中に宿の一室に有志が集まって酒宴がはられたが、そこで島ラッキョウか何かと一緒に、昼間買ったという味噌が出てきて、これは買っておけばよかったと後悔した。
いや、その前に吟行後の句会があって、これがメインイベントの一つなのだが、大人数でなかなか終わらず、途中で夕食。夕食の大広間で初めて兜太御大登場となった。参加しなかった人がこの拙稿を読む可能性もあるから念の為に書いておくと、初日の吟行と句会の前半は兜太師は姿を見せていなかったのだ。
二三年ぶりにお目にかかり、動作がスローになった印象はあるもののお元気そうで、つい先日も沖縄に行ったなどと仰るのだが、ちょっとでも変な感じがすると思ったら無理は一切せず、毎夜九時には寝てしまうという。じつに細心なのだ。〈酒止めようかどの本能と遊ぼうか〉の句、最近のような気がしたが、伺ってみたらこれがもう三十年前であった。禁酒後ずいぶん経っているのだ。
考えたら兜太師は私と誕生日が二日しか違わず、どちらも乙女座である。自己管理はお手の物なのかもしれない。噂の秩父音頭が出なかったのは残念。
お食事もゆっくりなので、翌日の昼食も、皆が食べ終えて大広間から去ってしまった後、一人で残っておられた。この時二人きりとなり、戦争の危機やら、最近の報道統制ぶりについてお話したりした。報道統制はネットを見ず、テレビ・新聞が与える世界像だけに接している人には呑み込みにくい話でもあるのだが、兜太師、その辺は実に柔軟に聞き入っていた。
ちなみに「国境なき記者団」が発表している「報道の自由度ランキング二〇一五」では日本は昨年よりさらに二つ下がり、六十二位という低順位であった。「顕著な問題のある国」扱いであり、東アジアでは台湾、韓国より下である。誰も思い出したくもないであろう民主党政権の頃は十一位から二十二位の間だった。つまりあの頃は報道の自由度が高かったから叩き放題だったのである。
兜太師、普段具合の悪いところは特にないが、血糖値を調整する注射を外泊中はご自分で打っているとのことで、朝打つべきところを間違って夜打ってしまった。さあ大変だと思っていたら、それから宿の人からおにぎりを二個もらって助かった、長生きするヤツというのは運が強いんだなどという話もされていたが、こういうのは当人より周りがハラハラする。
句会での兜太師の講評は、採らない句については無論のこと、採っておいてから「何でこの句を採っちまったんだろうなぁ、騙されたな」などとくさし始めることも少なくないので、会員の方にとってはがっくりくることもあるだろうが、せっかく師についていながら褒められてばかりの句会など意味がない。褒められたところもともかく、どこがケナされたかの方が、句の結晶度とか格とかを観る上では余程参考になる。私が入門書的にアウトの細かいところ(季重なりとか何とか)でひっかかった句が、兜太師の裁断で「良い句」になってしまう局面もあった。このとき、句は上手い下手の次元ではなく、詩的位格の次元で鑑定されているわけである。ここを呑みこむのが重要。
もっとも口が悪いのは兜太師に限った話ではなく、その後、帰る間際の頃に参加された中のお一人が、私に「講評のときズバズバ斬ってくれてスカッとした」などと感想を伝えてくれたりもした。こちらとしてはある程度は言葉をやわらげていたつもりであったのでびっくりした。まだまだである。われわれ乙女座は批判精神が旺盛なのですよ。
句会では宮崎斗士さんの司会の手際がいいのに感心した。採った側、採らない側から適宜コメントを取り、時間内にまとめていくワザは人数の多い大結社ならではであろう。私がやったら途中で疲れて注意力散漫になり、何をやっているやらわからなくなったはずである。われわれ外部講師の応対も全部斗士さんの担当であった。かなりの作業量だったはずである。多謝。
二日目はその私と筑紫磐井さんの講演もあったのだが、これは特に話を合わせたりすることもなく、互いに好き勝手なことを話した。磐井さんとは同じ「豈」であるにもかかわらず、直接会うことはそうはない。大きなシンポジウムなどがあるときくらいである。
磐井さんの話は近著『戦後俳句の探求』の概説的なものだったが、これと前著『伝統の探求』の二冊で前衛と伝統を論じており、これで現代俳句の詩学の全域がカバーされたのかと思いながら、何となく得心できずにいたのだが、磐井さんの講演を聞いていて気がついた。この二著からは新興俳句の系譜が抜けているのだ。「豈」創刊者の攝津幸彦の出自が新興系で、磐井さんがその発行を継いでいるので気づきにくかったが、新興系の文学主義はあまりお好きでないらしい。
磐井さんの前に前座というか、私の講演が先に入って、古沢太穂の社会詠の話などしていたのだが、兜太師、朝もゆっくりなので、なかなかお出ましにならない。半分くらいしゃべったところで入って来られて、後ろから励ますように肩を二三度叩かれた。
全日程終わってお別れの時も両手で固く握手。こういうスキンシップ、俳句をやっていても他ではなかなかない。
またお会いしましょう。
●
付記……去る2016年1月31日に榮猿丸、鴇田智哉、トオイダイスケらと、SSTプレゼンツ「hike in three sounds」という朗読イベントを行った。朗読といってもテクノポップのリズムに乗せたものなので、なかば音楽イベントになっていたのだが、この企画、当初はもっとコント的な要素も入る予定だった。
その幻に終わったネタのひとつに、私が「現代思想と俳句」といったような内容で、(一見)生真面目な講演をやり、その背後に、褌ひとつで乾布摩擦をする兜太師の映像をリピートで流し続けるという馬鹿馬鹿しいものがあった。
秩父道場の講師になったので、今度兜太に会うという話をしたら、榮猿丸にそれはぜひとも出演交渉しろとせっつかれ、九十代の文化功労者をこんな企画にひっぱり出せるかと思いつつも、二日目の昼食時に、大広間で兜太師と二人きりになったので、ともかく切り出してみたのだが……
私「じつは今度、榮猿丸や鴇田智哉とかくかくしかじかな朗読イベントの企画がありまして」
兜「ふむ」
私「それでですね、その、金子先生に乾布摩擦していただいて、その映像を私が講演やってるバックで使わせていただけると大変にありがたいのですが…」
兜「はははははは。できるか、そんなこと」
と、破顔一笑、バンバン肩を叩かれ、この企画はあえなく流れたのであった。
ご無礼のほど、平にご容赦を。
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2011-07-24
週刊俳句時評・第39回 アニミズムの意味するところ 金子兜太掌篇 五十嵐秀彦
週刊俳句時評・第39回
アニミズムの意味するところ 金子兜太掌論
五十嵐秀彦
先日(2011年6月19日)、金子兜太が北海道現代俳句大会で来道、講演をした。
演題は「生きもの感覚」。
前半を小林一茶について語り、後半は演題にある「生きもの感覚」についてであったが、その中でアニミズムや定住漂泊という彼らしいキーワードがやはり出てくるのであった。
今回は、金子兜太とアニミズムについて少し考えてみたい。
彼は過去しばしばアニミズムということを発言しており、アニミズム俳句論というものがそこにあるような論陣を張ってきた。
しかし、私には彼の本意がいま少し理解できないと感じてきたのである。
アニミズムとは何か。
なぜ「アニミズム」という言葉を使わなければならないのか。
兜太さんが最初に言ったわけでもないだろうが、なんといっても影響力のある人だから、彼がそう言えば多くの追随者が出てくる。
俳句とアニミズム、俳句はアニミズムだ、などという発言は兜太の俳句論を背景にして発せられてきた。
私の違和感は、けっして反発や批判というところのものではない。
私も「そのような」感覚は理解できる。
兜太さんが言わずとも、この国にはそういう地霊的な信仰、あらゆるものに神が宿る、という文化がおそらく2千年以上にわたって続いているし、仏教が来てからもそれを「山川草木悉皆成仏」というように日本的に変化させてきたのだから、理解できるのは当たり前のことかもしれない。
だがしかし、それは「アニミズム」なのだろうか。そう表現することが妥当なのだろうか。
兜太さんが「アニミズム」と言う。それを聴いた人は、日本人が古代から持ち続けてきた自然信仰にそれを置き変えて、わかったようなつもりでいる。
当たらずしも遠からず?
そうだろうか。
アニミズムとは、欧米の思想から生まれた言葉で、知られているところでは、イギリスの人類学者E.B.タイラーの『原始文化』あたりから始まったもののようだ。
語源はラテン語のアニマ。意味は、気息・霊魂・生命というものらしい。
彼は「すべての物や自然現象に、霊魂や精神が宿るという思考」をアニミズムと定義し、宗教の原始的な初期段階としたのである。
そこから西洋に人類学が始まり、特にタイラーの強い影響を受けたフレーザーによる人類学の古典的大作『金枝篇』によって文化人類学、社会人類学という学問が一般に受け入れられるようになった。
彼らはキリスト教以前の宗教や民俗風習を調べることで、人類の文化の生い立ちと「進化」を知ろうとしたのである。(この流れがケンブリッジ・リチュアリズムと呼ばれる学問の流れとなり、実は折口信夫の民俗学的アプローチに影響を与えたとも考えられるのであるが、それを語るのはまた別な機会としたい。)
しかし、東洋人である私には、その初期の文化人類学というものにどこか共鳴できないものを感じる。
そこには、ヨーロッパ人が造りあげたキリスト教文化を最も進んだものとする優越性が彼らの中に動かぬものとして存在し、それ以前の文化や風習を全て原始的で未開なものとする偏見がある。
《真理とは、仮説を繰り返し検証し、まやかしを排除してはじめてようやく引き出されるものだ。とどのつまり、われわれが真理と呼ぶものは、最も有効とわかった仮説にほかならないのである。そこで、未開時代や未開人のものの考え方や慣習を研究するにあたっては、彼らの誤りは真理を探究するときに避けられないふとした間違いにすぎないのだと、寛大に考え、大目にみるのが望ましい》 J.G.フレーザー『金枝篇(上)』(講談社学術文庫・吉岡晶子訳)p230より
アニミズムもその文脈の中で使われてきた言葉のはずだ。
《未開人にとっては、この世界全体が生命ある存在で、樹木や植物も例外ではなかった。未開人は、樹木や植物にも人間と同じように霊魂があると考え、人間と同じように扱っていた》 (引用元 前例と同じ p142)
アニミズムというのが昔の人類にはあった。しかしそれはキリスト教によって一掃され現在の優れた文化が作り上げられた。まだアニミズムを大事にしている民族がいるが、彼らは未開の民なのである。という意味がこの言葉「アニミズム」の裏にあるように思えてしかたがない。
環境考古学の安田喜憲はその著書で従来のアニミズムについて次のように説明している。
《たとえばキリスト教の聖者が踏みしめているドラゴンこそ、現世的秩序のシンボルである。超越的秩序の宗教が現世的秩序の宗教を弾圧していく。それが、これまでは当然のこととして容認されてきた。/なぜなら現世的秩序をもつアニミズムは、邪悪で猥雑で卑猥であるという考えが世界を支配していたからである。生きとし生けるものに等しい命の価値をみとめ、現世的秩序に最大の価値をおくアニミズムの世界は、超越的秩序の宗教を重視する枢軸文明よりも劣ったもの、邪悪なもの、文明段階以前の野蛮なものとながらく西洋世界ではみなされてきた》安田喜憲『一神教の闇 アニミズムの復権』(ちくま新書)p24より
もちろん、現代では文化人類学においてもそのような思想は古めかしいものとされており、アニミズムも現代社会へのカウンタカルチャーとして注目されているようだ。
だが、どちらにしても同じではないか、と私は思う。
アンチ・キリストも結局は熱烈なキリスト教信仰の裏返しであったことは歴史が証明しているように、自分たちの歴史や文化を基準にして貶めたり持ち上げたりしている西洋思想の限界からアニミズムという概念も無縁ではない。
そんなことを考えるにつけ、なぜ日本の文化を評するのに「アニミズム」と言わねばならないのか、という疑問をもってしまう。
外来語で人を納得させようとするのは、よくインテリや国家がやる常套手段だ。
また、こんなことを言いながら私自身気がつけば、「アジール」だの「マージナル」だのと言っている。それは反省すべきところだろう。
ただ、「アジール」も「マージナル」も幸いにも俳句の世界での言葉として全く勢力を持ってはいない。
それにひきかえ「アニミズム」は、実に多くの俳人の口から出てくるのだ。
金子兜太さんは、その巨頭であると言ってもいいだろう。
彼のような現代俳句の開拓者が、アニミズムということを主唱することに奇妙さはないだろうか。
奇妙だと私は思う。
そもそもどうして兜太はアニミズムという言葉をわざわざ選んだのだろう。
彼がその言葉を使ったせいか知らないが、俳人の間でよくアニミズムという言葉が使われているようだ。
汎神論とか精霊思想とか言うのではなく、アニミズムと言うものだから、そこには何かそう言うだけの意味がなければならないはずだ。
兜太さんがアニミズムをどうとらえているか、それを垣間見ることのできる発言が『語る 俳句・短歌』(藤原書店)の中にあった。
《十八世紀にE.B.タイラーというイギリスの比較人類学者がおりまして、タイラーは「ものにはすべて生きた魂があると見ることがアニミズムだ。抽象的な概念にも生きた魂があると見る。何にでもあると見ることがアニミズムだ」と言っています。だけど私は、こういう、生きた魂があるということにも何か図式性を感じて、もっと生きたものでないといかんと思いますので、これにも賛成しない。これは一応、近現代におけるアニミズムの考え方の典型のようです。私は、人間の表現行為に於いて潜在して働いているなまなましい世界でなければならん。すなわち、さっきのように自然感に触れる、物象感を捉える、それがアニミズムだと、こう思うのです》 金子兜太・佐佐木幸綱『語る 俳句・短歌』(藤原書房)p109より
《本能というのは危ないですね、「煩悩具足五欲兼備」で、本能の場合は悪いこともします。一茶のように本能を基本に認めてくれと言っている男ほど、欲の深いことをしているわけですから。しかし、それにもかかわらず彼の句はみんな生きもの感覚で、アニミズムを感じさせるのです。それは何だろうかと思ってみたら、彼はそういうものを持っている。本能の中にはそれがある。非常に欲どおしいものがあると同時に、美しい生きもの感覚がある。〈花げしのふはつくやうな前歯哉〉という句があります。自分の前歯が浮つきだしたときの句です。自分の前歯がケシの花のようだなんて感覚はすばらしい自然感だ。これこそアニミズムだと思います》 同上p110より
6月の札幌での講演で兜太さんは1時間半を原稿無しで一気にほとんど言い間違いもなく話しとおし、実に圧倒的であった。
その内容はおおむね上記の著書『語る』の内容を敷衍したものであり、その中で、アニミズムということも言ってはいたが、それより「生きもの感覚」という言葉のほうを多用していた。どちらも従来からの兜太的言い回しではあるが、しかし「生きもの感覚」というほうが、私には受け入れやすかったし、彼がそれを演題にしたところに、兜太のアニミズム俳句論の変化を見ることができるような気がした。
これまでアニミズムと言っていたものを「生きもの感覚」と言い替えているようだ。そのことが印象的であった。
そういえばどこかに兜太自身がそのことに触れていたのではなかったか。
探してみると、『金子兜太×池田澄子 兜太百句を読む』の最後にそれはあった。
(金子)「生きもの感覚。ただ「アニミズム」っていうとちょっと生臭いんだ。」 (池田)「そうなんです。「イズム」じゃなくって、もっと素朴な感覚、体を通した実感と言ったらいいでしょうか。無心に腹式呼吸をすると、そのお腹に深く秩父の地霊の土のような匂いがね。届くような感覚。」 (金子)「土の匂い……。山霊ですか、山の魂。山霊。地霊。」
『金子兜太×池田澄子 兜太百句を読む。』(ふらんす堂)p149より
池田さんの受け応えには、私のアニミズムへの違和感に近いものがあるように感じもする。
兜太自身は「ちょっと生臭い」というどのようにも解釈されそうな曖昧な表現にとどまっている。
しかしまあ、「アニミズム」も「生きもの感覚」も兜太のキャッチコピーのようなものなのかもしれない。
その言葉に触角を立てて、彼の俳句の世界に入っていけば、それで良いのであって、キャッチコピーは所詮それだけのことであるのかもしれない。
だから、「アニミズム」という言葉に何か「真実」めいた概念を結びつけるかのように用いるのは考えものだ、とも思う。
無条件の賛同でも、反発でもない、三つ目の道がある。そんな思うが浮かんでくる。
ふと気づくと、それはもう長く自分の中にある思いであるようだ。
民俗学は好きだが、文化人類学は嫌いだ、と、よく知りもしないくせに言い続けてきた私の思いがある。
純粋な客観もなければ、純粋な主観というのもない。
モノを見るというのは、内面を見ることでもあり、内面というものは袋小路ではなく、どこかで底が抜けているように別な世界に通じている。
個であることは同時に全であり、息をするたびに死に、そして生まれるという、一遍上人の教えが、今も表現の支えになると感じてきた私にとって、「アニミズム」という括りはどうも受け入れ難く、かと言って「アニミズム」を否定することも本意ではないと思っていた。
だから、「生きもの感覚」の方が「わかる」気がするのだ。
それはもう「アニミズム」と呼んだときに生まれる探究の道を閉ざす「わかる」なのかもしれないが、明晰さには欠けるかもしれない「わかる」という感覚の方を受け入れてしまう自分を見つける。
それは整理も分析もできない世界を是認することでもあるのだが、それでも良いのだとも思う。
90歳を超え、なお考え、そして感じようとしている男の存在は、それ自体が「意味」である。
答えを見つけることが目的なのではない。
金子兜太の講演は多くのことを聴くものに投げ与える内容だった。それは疑問を生み、またそこから転がり続ける。生命の連鎖と同期をとっているようにも思うのだった。
「生きもの感覚」とは、そのことであるのかもしれない。
2010-09-05
週刊俳句時評 第7回 子規の「写生」と兜太の「造型」の相同性についてツァラとレーニンに訊く 関悦史
週刊俳句時評第8回
子規の「写生」と兜太の「造型」の相同性についてツァラとレーニンに訊く
関 悦史
既に周知のとおり、週刊俳句の編集に当たってくれている山口優夢氏が望月周氏とともに第56回角川俳句賞をめでたく受賞した。「俳句」11月号での作品と選考会の発表が待たれる。
*
「俳句研究2010年[秋の号]」が出たので、前回少し触れた仁平勝の連載「おとなの文学」のマクガフィン(無意味であるがゆえに機能するもの)論の続きを見る。
いわゆる二物衝撃について、仁平勝は藤田湘子『実作俳句入門』から二物(A=季語、B=それ以外のフレーズ)は意味で響きあうのではないという部分を引き以下のような句を例示する。
廻されて電球ともる一葉忌 鷹羽狩行
夏桔梗老女の帯のたしかさよ 草間時彦
これらの句では「一葉忌」「夏桔梗」が季語だが、この季語部分はそれ以外の部分と意味で結びついているわけではない、つまりこれらは暗喩ではなくマクガフィンだというのだが、この言葉は内田樹の『映画の構造分析』から来ているらしく、今回は以下の部分が引用されている(なお物語を起動させるものとしてのマクガフィンについてはウィキペディアの「マクガフィン」の項目に『映画術』からヒッチコック自身の言葉が引かれているのでそちらを参照 ≫Wikipedia)。
《ヒッチコックが看破したとおり、物語を起動させる力はマクガフィンから由来します。マクガフィンが発信するメッセージは「それが意味することの取り消しを求める」ということただ一つであり、それこそすべての人々を終わりなき欲望の運動のうちに巻き込むものなのです。》
意味上二物は離れていなければならず、にもかかわらず、というより、それゆえに二物が「終わりなき欲望の運動」を組織するというのはその限りではいいとして、それが俳句が「座の文学」であることの論拠に据えられてしまうと違和感を禁じえない。
《座とはすなわち、たとえば句会で主宰が「Bに対してAでなければならぬ」といえば、参加者たちがごく自然に納得する場のことだ、つまり「Bに対してAでなければならぬ」という意見が共有される座(句会あるいは結社、広くてもせいぜい俳壇)の内部でしか「二物衝撃」は成立しない。
あらためて強調しておくが、「二物衝撃」とはあくまでも俳句に固有のレトリックである。それは取合せという俳諧の手法が、題材を「曲輪の外」に求めてきたという、座の文学の歴史を抜きにして語ることはできない。ようは新鮮な取合せを求める俳人たちの「終わりなき欲望の運動」がもたらした、俳句だけのお家事情なのです。》
仁平勝「おとなの文学(26) マクガフィン(下の三)」(「俳句研究2010年[秋の号]」 65頁)
私個人は俳句を作り始める以前から、つまりいわゆる「座」の共有とは無縁の地点にいた頃から、詩の一形式として俳句を普通に読んできた。無論そこには二物衝撃の句も含まれる。私はそうした作りの佳句が放射する謎を、詩が開くべき広大な領域への通路の一種と受け取っていたし、また例えば、生前少なくとも座の文学としての俳句を経験したことはおそらくなかったであろうダダの創始者の一人、トリスタン・ツァラがピエール・ルヴェルディの詩作品を論じて、次のような卓抜な二物衝撃論と取れる短文を草したりしてもいるのだ。
《詩的イマージュが、ルヴェルディの詩観を曲解したある批評家たちが主張するように、たがいにかけ離れた各要素の必然性も感動も伴わない冷たい偶然の出会いにすぎないのだとすれば、詩は単なる言葉の操作演習に堕してしまうであろう。(中略)イマージュの精製を主宰する出会いが実効あるものとなるためには、生きられたもの、すなわち感じられ、見られ、詩人の生にとって不可欠な意味を持つモメントに置換され表現されたもの、還元すれば、無動機、無根拠なものではなく、未来の発展に役立つ短絡表現(ラクールシ)であり、詩人の世界像全体に結びついた感動の一単位であり、絶えざる生成発展に必須の一環でなければならない。(中略)詩は行動する。詩は思考の働きに連携するものであり、そのことによって、生命初原の基礎に一致するのであり、認識の方法となりうるのである。》
《ルヴェルディは体験した現実をそれぞれ唯一独特な要素に分解した後、新しい詩的現実を創造するため、かれのみが知る構成法に則ってこれらの要素を配置する、そして、詩はひとつの完全な均衡ある霊感の息吹きを保った閉鎖宇宙となるといえよう。》
トリスタン・ツァラ「ピエール・ルヴェルディの作品におけるイマージュの孤独について」(『詩の堰』宮原庸太郎訳 書肆山田 1989年 270~271頁)
「均衡ある閉鎖宇宙」云々は俳句といささかずれを生じる地点かもしれないが、ルヴェルディの詩における「かけ離れた各要素」が「詩人の世界像全体に結びついた感動の一単位」「絶えざる生成発展に必須の一環」と捉えられ、さらにそこから「生命初原の基礎に一致する」という開けを望見するに至る点は、二物衝撃句の読解にあたって大きな示唆をもたらし得る。さらに先走って言ってしまえば「体験した現実をそれぞれ唯一独特な要素に分解した後、新しい詩的現実を創造するため、かれのみが知る構成法に則ってこれらの要素を配置する」という一節からは金子兜太の造型俳句論への親近性も感じないわけにはいかないが、これについては後で触れる。
この仁平勝の二物衝撃論は前号を見返すと、子規の「写生」を論じる中から派生しているらしい。
《たぶん、俳人たちはあまり気づいていないが、近代俳句における写生とは、じつは取合せに新鮮さを求める方法意識から出てきたものだ。芭蕉が「題の中より出づる事は、よき事はたまたまにて皆ふるし」といったために、許六はひたすら取合せの題材を「曲輪の外」に求めたが、やがて時代とともにそれもマンネリになってきた。そこで俳句を近代化しようとした子規は、さらに新たな「曲輪の外」を求めて、写生という方法に行き着いたのである。》
仁平勝「おとなの文学(25) マクガフィン(下の二)」(「俳句研究2010年[夏の号]」 68頁)
取合せ(配合)の陳腐さを脱するために写生という方法が要請され、それが有効であったという一面は確かにあるのかもしれないのだが、こうした手法的な次元で話が終わってしまうのだとすれば子規の「写生」が抱え持っていた潜勢力の大きさを取り逃がすおそれがある。
《子規の「写生」が、手法面に大きく傾いて受けとられてきたことに不満がある》と述べているのが他でもない金子兜太である。先頃出版された『正岡子規の世界』において、子規の「俳諧反故籠」を閲しつつ兜太が言うところは次のようなものだ
《ここでは想像力や思念を排しているのではない。(中略)いたずらに頭を使ってつくり上げた俳句の空疎化を言っているわけで、実際の生きた景をとことん大切にせよ、それによって胸中の想念を伝えよ、それが「写生」なり、と言っているのである。》
《 混沌ガ二ツニ分レ天トナリ土トナルその土ガタワレハ
われは「土ガタ」なりと明言する子規はだから徒らに虚を凝らした写生には賛成しない。しかし〈維新の子〉の内奥のダイナミズムは虚を実景に込めて、つまり実景によって伝える道を求めていた。〈実に執し実を活かす〉詩法、虚を呑みこんだ実を捕える詩法を「写生」に求めていたのである。したがって、子規が究極で求めていたものは〈実景による暗喩〉ではなかったのか、と私は思っているのだが、その実現を次のような句に見ている。これも死の前々年の作。
鶏頭の十四五本もありぬべし》
金子兜太「子規の「写生」」(『俳句』編集部編『正岡子規の世界』角川学芸出版 2010年 20~21頁)
「実景による暗喩」の「暗喩」の語に字義通りに捕われる必要はおそらくあまりない。さしあたりここでは兜太が子規の写生論を言表不能な「虚」を「実景実事実情」から掴み取るものとして捉えていることが確認できればよい。
詩、引いてはあらゆる芸術は持続(日常の時間)と永遠という二種類の異質な時間のはざまにあり、それらを重ね合わせようとする。《〈持続〉は〈永遠〉と対立する。永遠には始まりなどないし、この永遠ということばは一定不変の、まったき活動能力を有するものについて言われるからである。永遠は無際限の持続でもなければ、この持続の後に〔死後、来世において〕始まる何かでもない。永遠は、持続と共存しているのである》と言うのは『スピノザ―実践の哲学』(鈴木雅大訳 平凡社 1994年)のジル・ドゥルーズである。この「永遠」と「持続」は、芭蕉の言い方で言えば「不易流行」となり、虚子の言い方では「花鳥諷詠」と「客観写生」へとやや位相をずらしつつ別れる。E・M・シオラン流に『歴史とユートピア』という言い方にも変形できるかもしれない。「不易」「花鳥諷詠」「ユートピア」はそれぞれ皆永遠の側を表し、「流行」「客観写生」「歴史」はそれぞれ皆持続の側を表すとしよう。
ではその際、子規の「写生」とは何なのか。それは〈持続〉と〈永遠〉という全く次元の異なる領域を、外部の事物に活き活きと就くことで一挙に一元化してしまおうとする極めて直接的でダイナミックな方法だったのであり、そして兜太の「造型」こそはそのヴァリエーションともいうべき、子規の「写生」の潜勢力を極めて完全に近い形で引き継いだ正統な後継者だったのではないかというのが、現在の私の見通しである。
ここでいささか唐突ながら参照しておきたい示唆的な書物が中沢新一『はじまりのレーニン』である。
子規の3歳下にあたる、つまりほとんど子規と同世代で同時代を体験したレーニンについて、行動を供にしてきたトロツキーがその若き日の姿を活き活きと書き残している。漁師の指導のもとに初めて魚を釣ってみるレーニン、紛糾する合議の最中に紛れ込んできた犬の腹を突然撫で、同時に重大な決断を下すレーニンの姿を引き、中沢新一はレーニンの「客観」についてこう語り直す。
《一九一七年一〇月の決断もふくめて、レーニンの決断はすべて、この意識と無意識の接触面でおこなわれたのだ。ドリン・ドリン! 魚の生命と人間の技術が接触をおこす、釣り針の先。やわらかい犬の腹に触れる、デリケートな手のひらの上。子供の頭をなでる手のひらが毛髪に接触をおこすところ。ある音が別の音に移行していく、音楽が実現する一瞬一瞬の「間」。そこで、人間の意識は、自然と生命と無意識のしめす、思考の外のしなやかな「客観」の運動に触れる。そのとき、「客観」がレーニンに何かを告げる。彼は決断する。》
中沢新一『はじまりのレーニン』(岩波現代文庫 2005年 12~13頁)
《……レーニン的唯物論は、その「物自体」、その「知りえぬもの」の内部にわけいって、思考がその外にあるものに接触していく「実践」の運動の重要性を主張したのだ。実践としての唯物論は、トロツキーの書いているように、「思考の外にあるもの、科学的探究の外にあるもののごく近くにあって」、まるで子供の頭をなでるようにして、あるいはまるで犬のおなかをさするようにして、その「思考の外」や「科学的探究の外」としてあるものの内部を感知しようとする、知性の働きにほかならない。だから、唯物論者であるレーニンは、自分のからだを笑いに波打たせているものの本質を、「知りえぬもの」とは言わない。》
(同書 24頁)
《客観は人間の意識の絶対的な外部にあるのだ。(中略)レーニンの「客観」は記号論も、社会学も、現象学も、心理学も破壊したところに出現する、おそるべき概念なのだ。彼はそれを、「物質」とか「絶対的自然」という言葉をつかって、表現しようとしている。それは、無限の深さと、無限の力能と、無限の階層性と、無限の運動をはらんで、人間の意識の外に、実在している。意識はその物質の運動の中から形成され、自分の中に、物質を反映ないし模写する。(中略)意識と物質は、同一でありながら、たがいに異和的であり、この同一=異和の関係をとおして、意識は客観を「反映」するのだ。》
(同書 53~54頁)
子規の食物や写生画(見るだけではなく病床で自分で筆をとっていた)への関心、無限の作業と自覚した上での俳句分類といった営為、若い頃の哲学志向、病床における異様な活動力などは子規がこうした「物質」の「無限の力能」に極めて近いところにいた、少なくともその近辺を目指していたのではないかと思わせる。その結果できた句群が、陳腐ではないとしても含みに乏しい、無条件に名句と言うにはためらわれる作ばかりと見えるとしても、その見た目の平板さは「無限の力能」を例えば「不易」と「流行」に分けて重層化させることなく一元化してしまおうとする力と意志に貫かれたものであるかもしれないのだ。
「俳句研究」には「読み直す評論」という連載もあり、今回第3回は、筑紫磐井が金子兜太の造型俳句論を《前衛俳句にとどまらない卓抜な思想が展開されている。その意味では、兜太の造型俳句論を現代の目で読み直してみる必要が生じている》として取り上げている。
《兜太は、近代俳句を常に発展段階的に図示した。諷詠的傾向[花鳥諷詠(虚子)と人生諷詠(波郷)]→表現的傾向[象徴的傾向(楸邨・草田男)と主体的傾向(誓子、赤黄男、三鬼)]に歴史的事実を置く表現史論なのだ。(中略)これらを俳句表現の進化の段階に位置づけ、科学的な進化理論を提供したのは兜太一人であったように思う。造型俳句論という背骨があったからこそできた史観なのだ。》
筑紫磐井「造型俳句論の再吟味」(「俳句研究2010年[秋の号]」 268頁)
つまり俳句表現の歴史に、風俗・ゴシップ史的なそれとは全く次元の異なる筋の通った史観を提供する背骨を成したというのが再評価の力点になっているが、ここでは子規の「写生」との関連から造型論を見直してみたい。
いわゆる造型俳句論というのは「俳句の造型について」(「俳句」1957年2~3月)と「造型俳句六章」(「俳句」1961年1~6月)という二つの論文だが、前者の構成を筑紫磐井が整理要約した中に次の部分がある。
《(3)造型俳句の7箇条をあげる。①俳句を作るとき感覚が先行する。②感覚の内容を意識で吟味する(それは「創る自分」が表現のために行なうもの。③「創る自分」の作業過程を「造型」と呼ぶ。④)作業の後「創る自分」がイメージを獲得する。⑤イメージは暗喩を求める。⑥超現実は作業の一部に過ぎない。⑦従って「造型」とは現実の表現のための方法である。》
虚子の「客観写生」がどこかスタティックで、子規の「写生」から重要な何かが失われていると直観している兜太が、虚子の時代を経た後に再び対抗的に組織し直した、これは子規の写生論そのものなのではないか。子規の「俳諧反故籠」を見直してみよう。
《無秩序に排列せられたる美を秩序的に排列し、不規則に配合せられたる玉を規則的に配合するは俳人の手柄なり。故に実景を詠ずる場合にも醜なる処を捨てゝ美なる処のみを取らざるべからず。又時によりては少しづゝ実景実物の位置を変じ、或は主観的に外物を取り来りて実景を修飾することさへあり》
正岡子規「俳諧反故籠」 仁平勝「おとなの文学(25) マクガフィン(下の二)」(「俳句研究2010年[夏の号]」 68頁から孫引き)
子規の言う「無秩序に排列せられたる美」とは師匠の手本絵などではないなまの外界に対して「感覚が先行」させられている状態に他ならないし、「不規則に配合せられたる玉を規則的に配合する」とは「感覚の内容を意識で吟味」した上での「造型」に他ならない。
「造型」「創る自分」という語は誤解を呼びやすい。外界・客観・自然の成り立ちを無視した恣意的な構成物といったものを連想させるからだが、筑紫磐井文によると後に書かれた「造型俳句六章」では、これらの語は後退しているらしい。
「造型俳句六章」の末尾の一章が今号の「俳句研究」に再掲されているのだが、そこではまず、「諷詠的傾向」に対立するものとして、「象徴的傾向」(草田男等)、「主体的傾向」の二つが上げられる。後者は明示されてはいないが兜太自身の拠って立つところと取れる。そして「象徴的傾向」は「個我の直接的な結像」を、「主体的傾向」は「主体の構成的な表出」を目指すとする。《西東三鬼が前者を「吐く」もの、後者を「作る」ものといっていますが、直感的にはこれでよいと思います。》
極めて説明しにくいところなので、「構成的な表出」とか「作る」といった語が出てきてしまい、その結果、どうしても恣意性や強引さのイメージが付きまとうことになるのだが、しかし注意すべきなのは、兜太がここで、個我に執着する「象徴的傾向」の安定性に対し、「主体的傾向」における「主体」の不安定さを述べていることなのだ。
《一方、主体的傾向にとっては、人間の存在はそれほど楽天的ではありません。相対的関心が拡大するにつれ、主体は対他的意味にとらわれ、一義的な自己偏執をさまたげられます。自然的・人間的な純性に拘泥することは、一見はなばなしいが、その実、人間の内面を簡単に割り切って、何事も説明していない場合が多いという結果になります。楽天的といわれる所以でしょう。
そのため、主体にとっては、むしろ主体自身の存在感の全容が問題として意識されるわけです。このことは、主体の現実性を、いつも表現において問いただしていることだ、ともいえます》
金子兜太「造型俳句六章」(「俳句研究2010年[秋の号]」に抜粋再掲載 271頁)
つまり兜太のいう「主体」とは境界に位置するものなのである。確固たる主体が先にあってそれが外界をねじ伏せるように表出することが造型論の本義なのではない。この主体を圧迫する「対他的意味」は論が書かれた当時には専ら社会的関係の中での生活・意識といったものに比重が傾いていたのかもしれないが、現在の兜太がアニミストを自称し、生命に関心が移っていることは周知のとおりである。これを単なる肉体的な加齢のゆえなどと思ってはならない。それだけのことであれば現在の兜太の存在感はあり得まい。兜太のいう「主体」とは、そもそもが「意識と無意識の接触面」なのであり、「物質」や「絶対的自然」の「無限の深さ」「無限の力能」へと開け得ることこそを最大の可能性として予め持っているものだったのだ。
ところで今回たまたま同時に触れることになった仁平勝と金子兜太という並びから思い出される一節がある。勝原士郎が昨年刊行した、筋目を通していて教えられるところの多い評論集『拾う木の実は―同時代俳句不審紙』に「『俳句の射程』(仁平勝)を読む」と題する書評が収録されているのだが、その末尾である。
勝原士郎は仁平勝の言う「俳句の本質論の確立」には、詩型、音律の独自性や独特のメカニズムの追尋だけに留まらず、文学としてのありかたもおろそかにはできないと苦言を呈した上でこう述べているのだ。
《桑原武夫の「第二芸術論」にショックを受けた人たちは、「俳句が第一芸術(?)であることを証明しようとして、社会性俳句、前衛俳句、根源俳句といった新商品」を開発したと著者は言う。「○○俳句」といった時代の新商品云々と。○○俳句は戦後のあだ花であったとみなす著者の持論の繰り返しは、これを「戦後レジームからの脱却」の俳句版と言わずしてなんであろう。
著者が切って捨ててかえりみぬ○○俳句に深くかかわったひとりである金子兜太は、それらの運動の時期を、自らの年輪にきわやかに刻み込んで、著者の安手の評語とは対照的にその存在感を示して重い。》
勝原士郎『拾う木の実は―同時代俳句不審紙』(北宋社・2009年 329頁)
ここから直接敷衍され得る話ではないのだが、ここを読んで私は、兜太の俳句大衆化への熱意、ときに「一千万人」[1]などと口走ってしまったりもする俳句人口の多寡へのこだわりは、「第二芸術論」のトラウマに発しているのではないかとの思いが湧いた。
《俳句は一流性と大衆性の双方を包括する国民文芸なりと、確信する私は、虚子の大衆化のその底に、子規の「写生」を確実に掌握しておきたいと願っているのである》(前出「子規の「写生」」)と、今でも兜太の「国民文芸」への思いは衰えていない。もしその根底に桑原武夫の暴論への抵抗が潜んでいるのだとすれば傷ましいこととも思うが、同じ大衆化とはいっても、写生を上達マニュアルのようなものに変質させてしまった「虚子の大衆化」と「一流性と大衆性の双方を包括する国民文芸」とをきっぱり区別し、その上でユートピアの如き後者を目指すというのは、兜太のうちにあって兜太を突き動かし、「無限の力能」を志向する力の現われの一つであり、その旺盛な作句力と表裏一体を成すものであるのかもしれない。
[1]……金子兜太 その2【全5回】 老若男女が楽しむ俳句、内面を深めると上達も早い | 投資・経済・ビジネスの東洋経済オンライン
http://www.toyokeizai.net/life/column/detail/AC/b30fb92e71cdd4ee5062ef06f1f0816b/
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2010-06-13
極私的「金子兜太」体験 今井聖
極私的「金子兜太」体験
今井聖
僕の兜太体験を書いてみようと思った。
僕は昭和46年、21歳のときから「寒雷」にいたから、兜太さんは近しい存在だったはずだが、昭和37年に創刊された「海程」は、そのころ既に前衛の旗手として活発に活動しており、兜太さんは何かの大会のときでもなければ寒雷の句会にみえなかったので、実際に謦咳に接したのはずっとあとになってからである。
加藤楸邨に惹かれて師事した僕にとって、「金子兜太」は同門でありながら最初は否定的な対象であった。どういうところが僕の嗜好に合わなかったのかはあとで述べたい。
それなのに、いつのころからか、しだいに好きになり、大好きになり、それまでいちばん好きだった山口誓子や加藤楸邨と肩を並べるくらいになり、今では、俳句の歴史の根っこにいる子規や芭蕉と並ぶくらいになった。愛してしまったと言ってもいい。とは言っても兜太さんの方はとても僕を評価しているとは思えないので、これは確実に片思いである。
兜太さんは「海程」創刊の言葉で俳句を愛人に喩えた。僕も兜太さんを恋人に喩えよう。最初嫌いだった相手を好きになってしまう、そのサワリのあたりを聞いて欲しい。
昭和三十年代の末、鳥取県米子市の中学生だった僕は近所の粗末な床屋(本当に掘立小屋のようだった)で頭をやってもらっているとき、床屋のオヤジが「趣味は何かいな」と僕に聞いた。
すでに学習雑誌の俳句欄投稿魔で何度か入選を獲ていた僕は得意気に「俳句やっとうだが」と気負って応えた。
ところがオヤジ動ぜず「俳句!? ワシもやっとうが、「ホトトギス」だで」と僕よりも得意気に言った。
オヤジは俳号芹沢友光(せりざわゆうこう)「ホトトギス」、年間入選一、二句の実力だったと思う。
「ほんなら、句会来たらええだが」という誘いに乗って、そのときから僕は「ホトトギス」と「雪解」と「かつらぎ」の人たちの混成からなる10人ほどの句会に出ることになった。平均年齢60歳代の句会だった。
僕は投稿魔だったが、やっぱり俳句は基本と伝統を学ばねばと考え「ホトトギス」に投句しようと思って、友光さんに言うと、「それはええけど、投句は毛筆で書かんといけんで」
そりやだめだ、字の拙さは当時もクラスでトップクラス。書道は一番嫌いな科目だった。
「そんなら「馬酔木」にするけえ」
「「馬酔木」はいけんで。やめた方がええ。新しもん好きなだけだけん」
友光さんは反対したが、毛筆投句に恐れおののいた僕は伝統二番手の「馬酔木」に投句することにした。
その頃の「馬酔木」の一句欄に僕はしばらく載っている。
僕は学校が終るとその床屋に行って、客がいるときは漫画を読んで時間をつぶし、調髪の終るのを待って友光さんと俳句談義をした。思えばヘンな中学生だった。
「こんなんが俳句だか?どげ思う?」と言って、
友光さんが或る日僕の前にポンと一冊の本を置いた。
本は『今日の俳句』。著者金子兜太との初めての出会いだった。
『今日の俳句』(光文社刊)は昭和40年刊。中に書かれているさまざまな俳人の句や兜太自身の句は、一茶や芭蕉の句の模倣から入った中学生にとって、まるで、異国語のような趣だった。
しかし、まるっきり理解不能だったわけではない。
たとえば、
果樹園がシャツ一枚の俺の孤島 兜太
なんじゃあ、これは!これが俳句かと友光さん同様にそのときは思ったが、この句が何を表現したいかを理解できなかったわけではない。
果樹園の真ん中で、あるいは樹の上で、汗にまみれたシャツを着て頑張ってる「俺」の姿だ。それは実際の果樹園ではなく、土に根ざした産業の中で孤軍奮闘している若い「俺」という概念。
つまりそこには労働と若さの典型があると思った。
リアルな果樹園と思えなかった理由は、今思うと、働いている人間は「果樹園で働いています」とは言わないからだ。林檎園とか葡萄園とか具体的に言うだろう。つまり果樹園は概括なのだ。
中学生のときに、そう感じたのかどうか。高校に入ってさまざまな詩歌に触れる機会があってから、そういう思いがあとから芽生えて来たのか、どちらかは覚束ないが、この句に対する嫌悪感は最初見たときからきちんとあって、それは、初めて目にしたものに対する抵抗感などとははっきり異なる。この句の持っている青年性の典型が嫌だったのは確かである。
少年一人秋浜に空気銃打込む 兜太
これもいわゆる「少年」の典型。
希望に燃える溌剌とした若者が類型なように、浅沼稲次郎へのテロ以来特に流行した暗い匕首のような「少年」もまた類型以外の何者でもない。
たとえば、これもそう。
少年来る無心に充分に刺すために 阿部完市
なぜ、僕が若さの典型を描くような表現に嫌悪感を抱いたのかは、僕自身の生活環境に起因している。
僕はその床屋の近くに広大な敷地を有する県営の家畜試験場の中の職員住宅で暮らしていた。
大正八年生まれの父(偶然にも兜太さんと同年)は、戦後の混乱の中で曲折を繰返したため、公吏になったのが三十代になってから。そのため公吏の中に厳然とある学閥と年功による昇進路線に乗れず、かなりの不遇感を抱いていた。母は戦後数学の教職に在ったが、しだいに鬱病傾向となり、当時は入退院を繰り返していた。
母は自分の精神状態と向き合うのが精一杯で子供にかまう余裕はなかったため必然的に父がすべてのことをこまごまと指示し、強制した。ところが、父は困ったことに大酒飲みだった。
職住接近の最たる環境、5時に終業のサイレンが鳴ると5時5分にはもう帰宅してちびちびと二級酒を始める。
父は自分の不遇感の裏返しで僕をエリートに育てようとしていた。
そのためには、世俗的な心情を排し、小さな価値観にまとまらぬようにと思ったのだろう。徹底的に僕の持っている価値観を攻撃し否定してみせた。
しかし、この程度のことはどこの家庭にでもあることだろう。僕は自分の意識過剰な不幸物語を聞かせようとしているのだろうか。
そう思ってはみるが、やはり、父は普通ではなかった。
たとえば、中学校のとき良い先生に当たってよかったとにこやかに学校の話を告げた僕に、父は学校の教師のいうことは聞く必要がないと断じた。奴らは師範学校出身で馬鹿だからというのがその理由だった。師範なんて村でも一番馬鹿が行ったんだ、そんな奴らを信じてはならない。教育学部なんか行ってはならぬ、あんなのは大学でやる学問じゃない。
「先生」に憧れ、教師を志すかもしれぬ息子を父は牽制したのだった。父はあらゆる一般的通念や正論のごときものを素朴に主張する息子に対し、「現実の実相」を知らしめることで徹底して否定してみせた。
回りはお前を騙そうとしている。騙されるな、真実に気づけ。見え透いたことをするな。独自性をもて。
青いマフラーを自分の小遣いを貯めて買ってきた僕に父は、「色気づきやがって。青なんて色はそのへんのアンちゃんが着るもんだ」
そのマフラーを僕は一度も首に巻くことができなかった。
だが、僕は酒を飲んでいないときの父は嫌いではなかった。獣医だった父は僕を豚のお産に立ち合わせ、職場の高性能の電子顕微鏡をのぞかせてくれたりした。
一般的通念を指す「らしさ」とか、「典型」に抵抗して自分だけの独自性をもつこと、僕が達した認識は酒乱の父に精一杯歩み寄った理解だったように思う。
皮肉っぽいひねた中学生だった。
中学二年生のときに俳句を始めたのも、その嗜好があったのだろう。人がやらぬことをやる。「典型」を忌避することが、愛憎半ばする父との妥協点だった。
高校に入ると僕は古着屋でサラリーマンふうの長いコートと中折れ帽を買い、ステッキを持ち、父が昔使ったという鼈甲縁の丸い眼鏡をつけて放課後や日曜には米子の町を歩いた。友人に会うと中折れ帽を昭和天皇のように持ち上げて、挨拶してみせた。
果樹園を孤島と見立ててシャツ一枚で屹立する「俺」には若さの「典型」が匂った。見え透いた若さだと思った。
見え透いていることはもうひとつあった。
洋風であることである。
この句の果樹園はどう考えてもフランスやイタリアあたりの果樹園に思えた。働いている「俺」は日本人ではなく、アラン・ドロンやマストロヤンニの「俺」である。当時は、「太陽がいっぱい」の貧しいドロンのシャツ姿や「ひまわり」の中のバス代も払えないマストロヤンニの風情が人気を呼んだ。果樹園の「俺」はふんどし姿の三船敏郎ではない。孤島という比喩も決して日本的ではない。だいたい日本には「孤島」なんてモダンな言葉に相当する島があるのか。
この句は借り物のモダニズムだと感じた。当時はもちろんそんな気の効いた言葉は知らない。ポエジーの意図が見え透いていると思ったのだった。
「馬酔木」の出発以降の近代俳句の流れは、「ホトトギス」の花鳥諷詠という情緒に対する反発であり、一方でそこから敷衍した新興俳句は、見えるものを写すという方法に対する反発が中心にあった。
しかし、情緒に関して言えば、花鳥諷詠がもっぱら神社仏閣老病死に限定された情緒を詠ったのに対して、俳句のモダニズムが洋風の情緒を旨としたというほどの差異である。少なくとも僕にはそう見えた。神社仏閣老病死が抹香臭くて洋風の風景なら新しいというわけでもあるまい。問題はそこではない。「写す」という方法に対する懐疑だったのだが、僕はそれさえも的外れに思えたのだった。
見えるものを写すという方法に対する懐疑は、例えば、
頭の中で白い夏野となっている 高屋窓秋
などに解説的に示されているが、見えるものを写さなくてもいいではないかというのはその通りだが、ならば、それに勝るリアリティを「言葉」で構築された俳句が獲得したのだろうか。いまの段階では否というしかないように思える。そもそも古い情緒が「写生」に起因するものだという捉え方が誤りであった。
僕は高校生のころそう思った。その思いに的確な言葉は与えられず、年月が経つにつれてしだいに思いを論めいたものしていったのだったが、最初の確信は今日まで変ることはない。
抹香臭い俳句的情緒を否定して洋風な嗜好をみせる俳人も浅薄単純に思えた。
縄跳びの寒暮傷みし馬車通る 佐藤鬼房
鬼房さんの代表句として喧伝されているこの句が好きになれず、今でも鬼房さん一級の作品とは思えないのはこの句の馬車がどこか洋風だからである。
東北の村の道、あるいは軒の低い貧しい日本の戦後の街並みをぼたぼたと糞を落としながらすすむ馬車というよりは、ヨーロッパの石畳を走る馬車に思えた。だいたい日本に馬に引かせて人が乗る馬車という乗り物があったのかどうか。あってもそれは皇室の祝い事や国葬のような儀礼的な場での例外だろう。
当時の映画でいうと「鞍馬天狗」より「ローハイド」の方が若者向きだというのは商業主義の作戦である。
夜が明けたら一番早い汽車に乗って この町を出るのさ
と唄ったのは浅川マキ。
今夜の夜汽車で旅立つ俺だよ
と唄ったのはかまやつひろし。
トラベリンバスでのその日ぐらしがどんなものなのかわかっているのかい
と家出してきた少女に諭すのは矢沢永吉。
「この町」も「夜汽車」も「トラベリンバス」も間違っても八戸や長万部を想定しない。国籍不明のなんとなく「洋風」な対象である。
身をそらす虹の/絶顛/処刑台 高柳重信
虹が見える公開処刑の処刑台はどこの風景だ。マリーアントワネットか、ルイなにがしか。これはモボ、モガ憧れの国おフランスの景だろう。
月下の宿帳/先客の名はリラダン伯爵 重信
も同じ。19世紀フランスの伝奇的な伯爵の名をもってくれば句がモダンになるという嗜好は見え透いているというべきだろう。
兜太作品への反発はもうひとつ。
言葉の喧騒感とでもいうべきものであった。
奴隷の自由という語寒卵皿に澄み
朝空に痰はかがやき蛞蝓ゆく
港湾ここに腐れトマトと泳ぐ子供 兜太
名詞が多く、字余りが多く、リズムが悪い。何よりもひとつひとつの言葉がどぎつい。言葉がざわついていると思ったのだった。
僕は、「静謐」が秀句の条件だと信じていた。
例えば、当時、僕がしだいに惹かれていったのは山口誓子であった。
高きより雪降り松に沿ひ下る
ボート裏返す最後の一滴まで
雪敷きて海に近寄ることもなし
城を出し落花一片いまもとぶ
波にのり波にのり鵜のさびしさは
悲しさの極みに誰か枯木折る 誓子
等々、好きな誓子句をあげるときりがないが、誓子の句は「静謐」な詩情が詠まれていると感じ、それが心にしみた。
「静謐」な新しい詩情。それは作り手としては最高に困難なことのように思えた。
西東三鬼も僕と同じ思いだったような気がする。
春ゆふべあまたのびつこ跳ねゆけり
右の眼に大河左の眼に騎兵
月夜少女小公園の木の股に 三鬼
三鬼の句のこの喧騒ぶりはどうだ。同時代の「現代詩」から引いてきたモダニズムを志向した三鬼が誓子の
夏の河赤き鉄鎖のはし浸る 誓子
を至上の句として絶賛している。
「喧騒」の三鬼は、それを自覚していたがゆえに誓子の句の「静謐」を限りなく憧憬したのだった。
僕には「静謐」が「喧騒」の一段上の詩情に思えた。
兜太さんに最初感じた印象は、「若さの典型」「知的洋風の趣」「言葉の喧騒感」だった。
それが最初好きになれなかった理由である。
兜太作品に対する嫌悪感がしだいに感動に変わっていったのは、やはり加藤楸邨を通してである。
僕は山口誓子作品に出会ったとき、初めて同時代的感興を俳句に感じることができた。古い俳句的情緒を脱し、それでいて自由詩の趣に阿らない。見えるものを写すリアルの中にいて、洋風も若さの押し付けも老人趣味もない。俳句にしか出来ない新しい方法を示しているように思えた。硬質で構成的な「写生」と溢れんばかりの抒情の間の振幅で僕の胸をゆさぶった誓子作品は、しかし、しだいにそのスタンスを前者に収斂してゆく。
僕は20歳のころ楸邨の
狐を見てゐていつか狐に見られてをり 楸邨
のような実存的な傾向を眼にして、40年代以降の誓子に抱いた懐疑からの出口をここに求めようと思った。
「寒雷」に来た当時、楸邨句のイメージは
おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ 楸邨
のように先入観通り、実存的傾向の楸邨だったのだが、
そのうち、僕にとっては極めて重大なことに気づいた。
楸邨は結果的にどんな観念句になろうと、かならず現実の実体から得られる実感を入り口にしている。ものから自分の五感を通して受け取ったものを起点として観念にとぶという順序が徹底されているのである。
しづかなる力満ちゆき螇蚸(はたはた)とぶ 楸邨
喧伝されているこの句、人生忍耐だ。我慢だ。の寓意の類がテーマと思い、とても秀句だとは思えなかったのだが、あるとき螇蚸を見ていて気づいた。飛ぶ前に実際に螇蚸の体がぎゅっと縮むのだ。縮んで引き絞ってバネをきかせて飛ぶ。しづかなる力満ちゆきは寓意ではなく、写生的事実だったのだ。
歯に咬んで薔薇のはなびらうまからず 楸邨
こんな、どちらかといえば失敗作の中身が楸邨の本質を表している。薔薇を先入観でとらえない。言葉のイメージでとらえない。目の前の薔薇つまりそのときその瞬間の薔薇を、見て、触れて、嗅いで、ついには歯でかんでみる。この五感把握が楸邨だ。
そこにそのときその瞬間の生きている自分と対象との邂逅がある。「もの」をとおして初めて一個の自己が実感されるのである。
そのことの証明に幾百の楸邨句を引いてくることができるが、それはここでのテーマではない。
僕はそういう楸邨の「観念」の特質に気づいたとき、兜太さんの句が一気に理解できた気がした。それまでは楸邨と兜太さんがなぜ師弟なのか、どこに共通性があるのかがいまひとつ理解できていなかった。兜太さんは楸邨から、現実から観念へという順序の基本を学んだのだった。
僕は兜太作品を読み解く鍵を手に入れたと思った。
オーバーにかかり荷馬息過ぐ駅の灯見ゆ 兜太
荷馬息過ぐのナマな実感。
車窓擦過の坂の一つの焚火怒る 兜太
焚火怒るは造型。しかし、それは車窓擦過の現実が起点になっている。焚火怒るはいわゆる唄のサビではない。サビは車窓擦過。
屋上に洗濯の妻沖に空母 兜太
反戦がテーマというより、現実そのもの。優れて映像的な写生句である。思想が主張されない。映像がしずかに現実を突きつけるのだ。
「どもり治る」ビラべた貼りの霧笛の街 兜太
「どもり治る」のリアル。個人の精神的屈折に起因するどもりがまず描かれ、そこから高度経済成長のひずみにはまりこむ人間性が暗喩される。
二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり 兜太
東京オリンピック当時だから「二十のテレビ」の驚きになる。黒人のリアルから入って、今なら、ヤマダ電機の百のテレビになるであろう。この二十が「時代」なのだ。
怒気の早さで飯食う一番鶏の土間 兜太
ああ、まさに五感的把握。「早さ」は怒気の早さであると同時にこの句を読み下すリズムの早さにもなっている。
もちろん楸邨流順序だけではなく、そこから派生してくるオリジナルな魅力も多岐にわたる。
例えば、
彎曲し火傷し爆心地のマラソン 兜太
の魅力は、彎曲しの主語と火傷しの主語が書かれていないことに大きく掛かっている。何が彎曲するのか、何が火傷するのか、爆心地のマラソンはそれらとどう関わるのか。
彎曲する鉄骨や橋や柱。火傷する人や犬やすべての生き物。それら、主語がないゆえに広範に広がる主語候補の映像とマラソンの走者が重なり映る。ドキュメンタリーの重層的映像。さまざまな角度から重層的に対象を捉えるピカソの手法も思わせる。文法的には滅茶苦茶。だからこそ伝わってくる叫びのエネルギー。
この句も反戦の意図を伝える作品ではない。現実の複合的なリアルが眼目。
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく 兜太
も僕は後年理解ができた作品。
いわゆる社会性俳句は、第一次産業の労働者と会社の底辺労働者の「正義」、つまり貧しさと正しさを詠った。知的エリート俳人もこぞってこのポーズをとって詠った。それゆえ、経済成長が果たされて底辺の底上げが成就したとき、貧しさ俳句は終焉を迎える。あとは、社会性は党派俳人の専門分野となり、嘘貧乏の知的エリートたちはいっせいに花鳥諷詠へ先祖返りを始める。晩年のための賢い処世でもあった。
この句が対象としたのは、正しさや貧しさとは無縁の銀行員。初めて俳句が対象とした新しい労働の情緒であった。ここには金のない悲哀やプロレタリアートの正義の代わりに「気分」があった。気分と感情を乗せた「現在」が息づいている。
「造型俳句六章」もさまざまな時間の上に乗った複合された感情や気分が俳句のテーマとして提唱されている。それはまさしく兜太さんのオリジナル。
兜太さんは固定化された修辞的手法を駆使し熟達してゆく作り方ではないので、己れの培った堅実な境地を見せる俳人とは対極にいる。
だから一句一句に果敢な試みを乗せる。当然失敗作も多いが、突然、ものすごい秀句が出現する。この点も楸邨と同じ。
近年の作では、
子馬が街を走つていたよ夜明けのこと 兜太
には驚いた。
僕に映像を演出させてもらえるなら、霞ヶ関かニューヨークかパリの夜明けの街路を子馬を走らせる。解き放たれた子馬を街の人々は微笑みながら見ている。解放や自由をまとった疾走だ。
まだまだ書きたいことはある。草田男と兜太さんの関係。高柳重信系と兜太さん系の論争のこと。「海程」の代表から主宰への移行のこと。性的なテーマのこと等々。しかし、もう締め切りの日をかなりすぎてしまった。この辺で極私的な小文をひとまず終えたい。
黴の中言葉となればもう古し 楸邨
という句がある。言葉にしてしまったら、もう、原初の思いと一体になれないこと、それにもかかわらず、思いを言葉で言うしかないという二律背反の上に僕ら表現者は立たされている。たかが言葉されど言葉というべきか。楸邨と兜太さんはその認識の上に立っている。
僕もまたそうありたいと願いつつ。
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2009-11-22
「前衛俳句」のありどころ(下)金子兜太と林田紀音夫~「伝統」対「反伝統」の空無化 堀本吟
「前衛俳句」のありどころ(下)
堀本 吟
◆金子兜太顕彰の意味
前回、私が特筆したことは、昨年2008年12月の第四回国際俳句フェスティバル・正岡子規国際俳句賞にて、いままで反伝統の中心とされ「前衛俳句」の旗手であった金子兜太と、やはり反俳壇俳句の方向で、高踏性を貫いてきた超マイナー俳人の河原枇杷男が、現今ではもっともグローバルなこういうトロフィーを得たことである。イブ・ボヌフォアやゲーリー・シュナイダーと列ぶ俳句大賞を得た金子兜太は、日本人では初めて。その活動も正岡子規の俳句に直結する俳人である。
また面白いことには、兜太と枇杷男は、戦後俳句史の中では、異端として見られてきた広い意味での「前衛」俳句の作家である。この「前衛俳句」については、かなり曖昧な概念であるのに、俳句史上の存在感がおおきい。その俳句の革新的な傾向、姿勢と方法論がひろく、世界に向けて今見直されたのである。
時間がたてば、状況の中の個人の内面も変わってくる。兜太は「前衛」を掲げた俳句結社「海程」を作り上げ、現在ではそれはあだ名であると言いあまつさえ「国民文芸」と言っているのだから、戦後の大衆化の流れに沿って、そのときの立脚点が変化しているわけである。従って、私は兜太のその場その場の安直な概念規定を信じていないし、どんな場合でも賞というのは現状追認だとおもうが、彼の変容の全体が伝統俳句なる領域を守る位置から評価されているところが、多少今までの顕彰行事とはちがっているように思われる。モダニズムの俳句革新の帰結、あり得べきコースとして、金子兜太は戦後俳句のフロンティア、水先案内人でもあった、ということを「伝統俳句」から評価されたのである。
その時代にジャーナリズムがそのあだ名をつけてしまったものであることは事実だが、しかし、言われた俳人たちもあえてそれを拒もうとはせず、大げさなレッテルを貼られることについて積極的な是正の論を張ることもしていなかったのだから自負はあったはずなのに、いまさら自分は前衛という名前は嫌いだったと言っても仕方がない。
まあ、それはともかくとして、我が国のトップクラスの俳人たちは、「前衛俳句」を「伝統俳句」に寄与したと言う理由で選んでいる。
けっきょく金子兜太を読み直す視点、読者の立っている切り込み位置が変わってきていて、俳句時評はそこに触れるものでなかればならない。大衆化状況の蔓延しているなかで定着している「前衛俳句」の認識が、もちろん、昔のままで再認識されることはたぶんもう無いわけだが、「前衛」「伝統」現代」の俳句の実質がとわれないまま、しかしそのエスプリへの共鳴や関心はかなりつよいものがある。 ただし、「前衛俳句」の固有の時代、その昂揚の意味については、今、若い世代の中に多少見直しの機運ができてきているときに、反省と再見しておきたいものである。
◆伝統俳句活性化への功績?
前回、私(堀本)は、金子兜太の受賞理由の次の箇所を太字にしている。
例えば、前衛俳句は伝統俳句に対立する運動と理解されているが、むしろ氏の活動によって伝統俳句が活気づけられた点を見逃せない。前衛俳句運動によって、伝統俳句の意識が明瞭となり、新しい伝統俳句運動も誕生した。(平成20年「正岡子規国際俳句賞」受賞理由)※太字は堀本による実際良くできている文面である。だが、俳人の立ち位置に考えが及んだときに、「前衛」俳句があだ花のように言われすでに不在でありながら、今でも仮想敵にされているその奇妙さがせり上がってくる。少なくとも、「伝統俳句が活気づけられた」とか、「前衛俳句運動によって、伝統俳句の意識が明瞭となり、新しい伝統俳句運動も誕生した」という言い方ではあまり議論を聞いたことがない(例外に仁平勝の指摘がある。後述)。
◆兜太の方法の提案「造型俳句六章」
で、一体金子兜太とは、具体的にはどういうことをした俳人であるか、といえば、戦中派の戦争体験を俳句にして出発したのは鈴木六林男とおなじである。兜太のほうはとくに大衆運動の組織に優れた力があり、神戸に単身赴任したときには、関西の実感精神旺盛な俳人と興隆し「新俳句懇話会」というサロンを作った(昭和二九年)。それがいわば母胎になって、のちに「前衛俳句」といわれる俳句革新の波、反伝統の動きを作りあげるプールとなった。この談話会の雰囲気の中で一九六一(昭和三十六)年「俳句」一〜六月号に、《造型俳句六章》が書かれた。
「造型俳句」とは、俳句の構造の中に、主体という視点を持ち込んで概念を再構成した新しい俳句造型の方法の提案、ということで、金子兜太を「客観写生」を超克できる現代俳句の理論家として俳句史の表面に押し上げた言説である。業績の評価と言えば、山頭火や小林一茶への傾倒よりも、このことがもっともメインであるべきだ。
その後も、一九六三(昭三十八)年『短詩型文学論』(岡井隆との共著)一九六五(昭四〇)年『今日の俳句』(光文社)。一九七〇(昭四五)『定型の詩法』海程社)。一九八五(昭和四十)年『わが戦後俳句史』(岩波書店・新書版)。とあらわす。
これを見てもわかるのだが、と言うより改めて自覚しなおしたのだが、戦後の俳句と戦後の短歌は、それぞれ前衛俳句前衛短歌として、既成の価値観へのオルタナティブの発言や作品化を追究した。その新し味の探求は、ぎゃくに、兜太の関心にあった故郷土着のテーマの発見につながってゆく。小林一茶や種田山頭火への関心を集約した大著がある。
有季定型、客観写生、や、表現への抵抗克服への評価がその中心ではなく、「むしろ氏の活動によって伝統俳句が活気づけられた点」とあることも、まあ頷けるのだが、よるべき理論的な根拠を喪失しているといういいかたもできるのだ。
後年、その金子兜太の《造型俳句六章》を読んだときに、最後の章で、人間の存在状態を象徴的傾向と主体的傾向にわけて、作品を作る主体の観念を持ちだし、「社会的存在が存在状態を規定するほど拡大した段階を人間の内面と呼び、それ以前の状態を個我とよんできました」(金子兜太掲出書)のところで、大衆の「現実意識」と自身の思索の関わりを追究した同時代の詩人吉本隆明の「自立思想」の提唱などに思いを馳せたものだ。
◆吉本隆明の《蕪村詩のイデオロギイ》
吉本は、与謝蕪村の〈紅梅の落花燃ゆらむ馬の糞〉〈地車のとどろとひびく牡丹かな〉などをあげて、「こういう背景には、地獄絵のような現実社会が横たわっているというふうに、蕪村を理解しようとしたものはいない。」という説き起こしから、十八世紀半ばの江戸、明和の農民一揆や台頭する町人階級の経済力が、武家社会のヒエラルキーのバランスを崩していった社会の軋みとかさねてゆく。(『抒情の論理』1963年・未来社:初出は「三田文学」1955年10月号)。
このように現代詩が批評を内包した主体の意識の表現として述べられ、それと同じ次元で俳諧文学を捉える視点は、この時代だからこそ、はじめて示された。同時代人金子兜太の「造型俳句」論理の展開のありかたも、どこかこの吉本の姿勢とつながるものがある。
優れた詩人の詩意識は、かならずその詩人の現実意識を象徴せずにはおさまらない、というのは詩の持っているもっとも基本的な宿命的な性格であって…(「蕪村詩のイデオロギイ」)金子兜太が種田山頭火や小林一茶、秩父困民党へ注ぐ眼差しは、この時代が要求する現実意識のあらわれであった、と私は考えている。
◆『林田紀音夫全句集』刊行
関西はじつは、「前衛俳句」の発祥地である。なかで、林田紀音夫(昭和一〜平成十一)は「十七音詩」という同人誌により、無季俳句と口語文体を最後まですすめてきた俳句作家である。所属は、金子兜太の「海程」と鈴木六林男の「花曜」。しかし、死後に愛弟子によって編まれた『林田紀音夫全句集』(福田基編・平成十八年・富士見書房)では、二冊の既刊句集に付して、ほぼ一万句の草稿が刊行された。同人誌発表されているものを含めて、句集にならなかった未刊行句には晩年になるほど有季定型の句が殖えてくる、と言う事態であるので、林田があえて句集にしなかった理由はわからない。
舌いちまいを大切に群衆のひとり 林田紀音夫
鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ 同
林田は、このような斬新なレトリックで戦後社会の中の都市の生活句の中から発想する絶唱ともいえる俳句をのこした。俳句性よりも詩性を過剰に感じさせるゆえに彼の俳句がわれわれを魅了したのだが、これらには明らかに複雑な内部意識を喩化してゆこうとする戦後詩の思考のスタイルの影響が入っている。
既刊二句集『風蝕』『幻燈』の無季句に比べて亡くなるまで(大正十三〜平成一〇年)、また阪神大震災のとき復活したかに見える無季句は、下手とは言えないが初期の句に及ばず、有季句にも迫力がない。俳句を作品としてのみ読もうとすれば、文体としてははじめの仕事で完成されていると言う批評がでてくるのもある意味では頷ける類のものだ。
だが、林田がしだいに無季俳句オンリーの姿勢を貫けなくなったこの抵抗の足跡は、「前衛俳句は滅びた」と言われる由縁でもあるとしても。一万句もある佳句や駄句を取りまぜて読むことでひとりの俳人の全生涯を見渡したときに、かえって俳句という小さな詩の大きさが、みえてくる場合がある。そして金子兜太はオルタナティブ半世紀の戦いと変容をとおして、自らに潜む大衆の無思想の場所を言語化したのである。ある意味では前衛性を訊ねつつ報われなかった林田紀音夫のかわりに慰謝として、「伝統俳句に寄与した」金子の名声があるようにも思われてならない。
車窓より拳あらわる旱魃田 金子兜太
霧の村石を放らば父母散らん 金子兜太
行人に影を奪はれ仕事なし 林田紀音夫
◆『現代俳句ハンドブック』の解説
十数年前の『現代俳句ハンドブック』(平成七・雄山閣)(坪内稔典、齋藤愼爾、復本一郎、夏石番矢編集)にその項目が出ている。要旨のみあげる。
前衛俳句
昭和三〇年代に時代意識に関わる内面意識や心理、深層意識などを自覚的に掘り起こし、新たな表現様式の確立に向け果敢な詩的実験を試みた俳句運動を言う。(としてふたつの潮流をあげる)。一つは「二〇年代の社会性俳句の推薦者金子兜太が三二年に提唱した「造型俳句論」に立脚して、創作過程の意識や無意識の世界に注目した流れ。(堀本註。兜太を中心に「海程」へ結集した八木三日女、堀葦男、林田紀音夫等)。*他の一つは、自己の内部現実を詩的内部構造の次元から追及してきた冨澤赤黄男、高柳重信を中心とする「薔薇」から「俳句評論」の流れ。(堀本註。赤尾兜子、加藤郁乎、永田耕衣、河原枇杷男、安井浩司等)。運動は、書く行為の意識化の普及や表現様式の変革に一定の効果をあげる一方、隠喩のコード化や俳句性の逸脱等の問題が派生した。(この項川名大執筆)。
伝統俳句
「新傾向俳句、新興俳句、社会性俳句、前衛俳句に対して有季定型をあくまでも守るという立場から発言された言葉であろう。(中略)。「俳句の困難さとは、この形式に手を染めたが最後、伝統を背負わざるを得ない。」(同書。この項玉川満執筆)。
この事典がいまどれほど読まれているかはわからないが、「伝統俳句」というこの称名は昭和の初め頃から使われ、とりわけ「前衛俳句」という言葉にたいしてうまれたものらしい。とすれば、最初に掲げた金子兜太の存在理由が、新しい「伝統俳句」の運動を起こしていった、というところにおかれた遠い理由もわかる。「伝統俳句」と言う言葉ともに、「あたらしい伝統俳句が昭和の初めに生まれた」と仁平勝が言っている。
これら、用語に関することの参考文献としては、仁平勝によって《新興、伝統、現代》。(『現代俳句の世界』(平成十五年・富士見書房)。《石田波郷『鶴の眼』—伝統俳句の変貌》(『俳句のモダン』(平成十四年・五柳書院)にポイントを押さえた解説がある。
過去からの累積のエッセンスである「伝統」は、現在時の表現に入り込んでのみそこで光を発するものである。俳句は、正岡子規によって連歌俳諧の発句から切り離され一句立てとなった瞬間から、その意味では近代詩としても独特の性格を備えて今日まできている。
概念化されたときからもともと多大な自己矛盾を抱えた詩型、詩意識なのだ。
それは、ぎゃくに有季定型派も「伝統」自体の仮象性をそれと気づかずに露呈していると言うことだ。この賞がしめす客観的な事実は、ひとりひとりのなかにある「伝統」対「反伝統」の対立意識が、空無となっていることだ。無理に「前衛」を名乗る必要はないが内実に関わる自己規定を拒否している。この態度決定の曖昧さ、あるいはこれこそが俳句詩型が創作主体に要求する自己放棄の道なのかもしれないのである。
この数年間、刊行物として目立つのは、物故した戦後俳人の全句集である。『鈴木六林男全句集』『桂信子全句集』『林田紀音夫全句集』「高柳重信読本」(角川学芸出版・二〇〇九)。そして「伝統」俳句系では「高濱虛子の世界」(角川学芸出版・二〇〇九)が刊行された。平成の二十代、三十代の俳人はそれらを、資料として咀嚼しながら、その圏外(つまり現在時)に飛び出しさかんに創作を開始している。さらに言うならば。その新しい世代の俳句の自己規定はまだ確立していないのである。
(了)
※転載に際し、初出の記事タイトルを変えさせていただきました。
2009-11-15
「前衛俳句」のありどころ(上)金子兜太と河原枇杷男~正岡子規国際俳句賞の意味 堀本 吟
「前衛俳句」のありどころ(上)
堀本 吟
◆問題は「俳句人口」ではない
「俳句の状況」ってなんだろう?「俳句時評」ってなんだろう? 俳句が世界にどんどん広がって、とにかく雨後の竹の子のように新しく作られる俳句の数とそれを担う人口があまりに多くなっていることはたしかである。自分が触れる範囲はそうひろくはないので、ふだんはあまり考えないのだが、一体今どれくらいの数の人が俳句を作っているのか、先日、なにげなく「俳句人口」でグーグル検索してみたら、おどろくべき発言があった。金子兜太が、『東洋経済』誌でこういっている。
俳句は老若男女を問わず誰もが親しんでおり、まさに国民文芸となっています。俳句人口は国内で1000万人とも言われますが、私の感触ではもっといますね。海外にも愛好者がいて、100万人以上が短い定型詩として“Haiku”を楽しんでいます。飲料会社の伊藤園俳句大賞の審査員を第1回から務めていますが、18回目の今年は160万句が集まった。(後略)。※太字は堀本によるこの数まさか?…そして「国民文芸」と言ういい方、兜太さんどうも、本気でいっているらしい。この膨大な数の根拠をさらにさぐってみようと思ったが、時間の無駄なような気がした。
(『東洋経済』長老の智恵《金子兜太談。 その2【全5回】老若男女が楽しむ俳句、内面を深めると上達も早い - 08/11/21 | 22:00)
こんどは「週刊俳句」というウェブ俳句週刊誌でさいばら天気が、早くも昨年末に右のおなじ金子発言の部分を引き、揶揄してむしろ本気で怒っているその文章を引用しておく。
ときどき耳にする「俳句人口1000万人」。人と場合によっては、それ以上の数字にもなる(*1)。/すこしでも常識があるなら、その常識によって醸成される実感から、「そんなのあり得ない」と笑ってすませておく類のバカ話なので、(略)、一般の人から「俳人とは誇大妄想狂の集まりか」と思われてしまうのも、かなり当たっているが、ちょっと癪なので、一度くらいは、この「俳句人口」を話題にしておきたい。この「(*1)」の処に、私も引いてある金子談話が引用してある。これ以上の数字が別の人たちからいわれることもあるとか? 私はこれについてはさいばらと同感である。
(俳句人口1000万伝説 いいかげんにしませんか、妄言を垂れ流すのは(「週刊俳句」第85号2008年12月7日)
『レジャー白書』という広く知られる刊行物(年刊)からだと、人口はほぼ400万強、とあって、これも眉唾いい加減な数字で、彼がおおざっぱに調べた個人的な結論では、せいぜい100万人ではないか、と。これもどういう根拠で100万人なのか私にはあまりわからない。数なんか測っても意味がない。
私(堀本)の実感では、所属する同人誌「俳句空間—豈—」が70人を超えたために少数精鋭の同人誌のてづくりシステムあやうくくずれそうである。ここまで来るとテキは100万でも1000万でも関係なく、ともかくこの「雨後の竹の子」、「いちめんのなのはな」みたいな無尽蔵の俳句群にぼうぜんとしているのは確かだ。
ついでに、さいばら天気が触れなかったことについて、わが俳壇の最長老金子兜太氏に敢えて言いたいことは、俳句を「国民文芸」などといういかがわしいものに「格上げ差別」をしないで欲しいのである。文芸的本質に関わる部分で政治的要素がくわわってしまう、94歳で物故した永田耕衣師は、晩年、茶化しの俳句をとなえたものの、「雀百まで」、というべきか、けっしてそういうことはいわれなかった。
◆俳句は「国民文芸」?
『東洋経済』という経済界向けの週刊誌に五回連鎖されている兜太談話は[長老の智慧]というシリーズ、各界の功なり名遂げた人たちの、人生経験から来る訓話みたいなものだから、これはこれで人間味あり親しみやすい。とくに、戦争体験への内省、部下が餓死してゆくのを目の辺りにしてかんがえたこと、そういうことから、復員後に労働運動や反戦思想に傾いたことなど、来し方の自己の体験をまともに文学(俳句)に取り込んでいる。で、私は金子兜太のかような談話にぶつかって、「難解」と言われた次のような俳句にこの私自身が感銘した初学のころを想い出す(そのころ既に戦後四〇年をすぎていた。この「前衛」俳句の影響はまだ生きていた。と思う)。
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく
彎曲し火傷し爆心地のマラソン
果樹園がシャツ一枚の俺の孤島
強し青年干潟に玉葱腐る日も
『金子兜太句集』(昭和三六・風発行所)
という。どれも敗戦直後の生活の再建に向かう、私たちの父母達の若き日の心の立ち姿である。
「日本国民」には違いないが、そう言う類の共生感覚から父母達が苦労して赤子の私たちを育てたのであろうか。「戦後民主主義」、という言葉を私は嫌いだが、当時は、日本人一人一人が生をつなぐために、やはり、戦前の国家とか国民というしばりから解放された心理があったはずで、少なくとも無辜の「国民」一人一人が反軍国主義反ファシズムの、自由をもとめるデモクラートであったはず。その機運の中でうまれた「前衛俳句」の精神は、全体性よりも「個」の自由の発現であったように理解している。
また、兜太のこのような句には、高浜虚子等、「ホトトギス」の客観写生や花鳥諷詠の理念とは一線を引いた「造型」=仮構の世界だということが歴然としている。この新しい俳句理論の提案が当時の金子兜太の最大の功績である。単身赴任中に関西で新俳句懇話会の中心になり、いわゆる「前衛俳句」発生のきっかけになった・・このころの若き兜太やたちのダイナミックな現実感覚は、それを跡づけて当時のガリ版刷りの冊子を読んでいてもつたわる。
その後、金子兜太の名句と思われる句はいくつかあるが、とくに
梅咲いて庭中に青鮫が来ている 兜太 『遊牧』(昭和五六・蒼土舎)
のシュールリアリズムは、戦後社会への現実への直接の対峙というくびきをはずしたときに、この作家本来埋蔵している言語感覚が出てきたものだ、と私は印象けづけられたのだが。これだって、一〇〇〇万人の「国民文芸」概念とは質的に大きく隔たった要素の開花である。
金子自身の姿勢は、大衆化の時流のなかで、多くの俳人がたどっているのと同じ方向で歩いているのだが、俳句隆盛をよろこぶあまり(喜んでばかりもいられないではない)、わけのわからない共同性の次元に持って行くこの短絡は、いかに前向きと言っても現代俳句の第一人者の言だからこそ受け入れがたい。表現に関するおおきな取り違えがあるように思う。(金子の心の下の層には独自の言語領域がまだ健全に生きているのに)。
◆戦後俳句の帰結
ところで、その人が、また大きな賞を貰った。今回は県民のシンボルとして。
賞も、あり方によっては、俳句史の正しい認識をひろめ、あたらしい才能の開発や顕彰のしかたとして、見るべきものの出てくることがある。これ以降は予測出来ないが、今年の選考視点には納得が行く。
「正岡子規国際俳句賞」。事業主体は、「(財)愛媛県文化振興財団。愛媛県、愛媛県教育委員会、NHK松山放送局、愛媛新聞社、(財)自治総合センター」。平成十二年から実施されている。二年ごとに行われ今年は第四回、むろん郷土の偉人正岡子規の名を冠して「愛媛県」のイメージアップを図る目的は否めないのだが、一地方の文化政策の枠をこえていてそうとう視野がひろい。俳句界の良識の力をかたむけて、現状の制約の中で現代俳句の存在理由を体現したしかるべき人物を選んでいる。
今年2009年は「金子兜太」が大賞。以下。この二月十五、六日に松山と東京で、受賞式や記念のシンポジウムが行われた。「金子兜太」の受賞理由は、誰が書いたか知らないが、けだし名文というか、当を得た正論である。
正岡子規国際俳句賞大賞(1名) 金子兜太(男性、八九歳、日本)全文引用せざるを得ない。兜太一人の軌跡をかりて、戦後俳句の帰結と言うべきものが簡要に過不足なく総括されている。この傍線部分、前衛俳句が「伝統」に近づいて金子兜太が「国民文芸」といいだしても不思議ではない俳句人の感情と認識をうまくいいあてている。いまのところ、衆(国民や県民)にとっては、一般読者として俳句は日常的にはこれで良い、ということである。「前衛俳句」は伝統俳句の論理を内包したまま既成俳壇にぶつかっていたから、伝統に固執する弊害に対する真の対立者としての立脚点を無くしていった歴史も自らうきあがってくるのである。
〈受賞理由〉 金子兜太氏は、戦後世代作家として最も活動的な作家である。「俳句は文学の一部なり」(『俳諧大要』)とした正岡子規の精神を最も強く体得し、戦後俳句史の「事件」としての、社会性俳句、造型俳句、前衛俳句という運動や主張を主体的に展開した。のみならずそれらは狭い党派に止まることなく、俳句界全体にその影響を浸透させた。例えば、前衛俳句は伝統俳句に対立する運動と理解されているが、むしろ氏の活動によって伝統俳句が活気づけられた点を見逃せない。前衛俳句運動によって、伝統俳句の意識が明瞭となり、新しい伝統俳句運動も誕生した。氏はその後も、小林一茶や放浪の俳人たち、郷里の秩父など土着性の評価を踏まえて新しい俳句への意欲を燃やし続けている。(平成二年十年「正岡子規国際俳句賞」受賞理由)(太字・堀本)
◆〝存在論的・非日常的〟河原枇杷男の受賞
だが、このイベントは奥が深い。ここにもうひとり、衆になじまない俳人「河原枇杷男」を「俳句賞」に選んだのである。
正岡子規国際俳句賞 俳句賞(1名) 河原枇杷男(男性、78歳、日本)金子兜太とは全く反対の方向に俳句の極限を追いつめた作家に、文学表現としてもっとも重要なところの名誉をあたえている。この人は現代詩の方に受け入れられやすいと、私は、先号に書いたのだが、河原枇杷男は、このような意味に於いて、俳句主流の傾向からは異端的な存在だった。河原など思念的な傾向の句を含めたときに、俳句のポエジーの全景はまた違って見えてくる。
<授賞理由> 河原枇杷男氏は、自然を諷詠の対象とするだけでなく、存在論的な思考と認識の詩としての俳句の創造者である。日常的な世界を超えた詩的真実の別世界を構築し、これをいち早く形象化した短詩型としての俳句作品に、一頭地を抜くものがある。/他のジャンルの人々からも畏怖される存在で、大岡信は「写実写生句のはるか遠方を歩み、人間の持つ謎の世界に存在論的にせまる作風を特徴として」「独特な内部宇宙ともいうべき世界を切り拓いてきた人」と高く評価している。また(略)、わが国の第一級の詩人、作家、歌人、俳人、国文学者から、氏ほどの賞賛を浴びた俳人は稀である。(後略)。(受賞理由本文。太字は堀本)
この二人の受賞は、「前衛俳句が」俳句史の伝統の先端に、ともかくも位置づけられたことを意味している。
(つづく)
※転載に際し、初出の記事タイトルを変えさせていただきました。
