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2018-02-11

俳句の要件 金子兜太の場合 今井聖

俳句の要件 金子兜太の場合

今井 聖

『街』2017年10月号より転載

俳句が俳句であるための要件とは何でしょうか。

定型は絶対でしょうか。字余りも含めた十七音定型は俳句の絶対条件とする俳人は多いのですが、それすら要件としない自由律俳句のような主張もあります。一般的に考えられる次の重大要件としては、季語(虚子は「季題」と言いましたがここでは同義と考えて「季語」に統一します)でしょうか。あとは付随するものとして文語使用、切字などが考えられます。俳句で表現すべき「詩」つまり「情趣」についてはどうでしょうか。「情趣」に要件があるの?と思われる方がいるかもしれません。俳句の情趣は芭蕉が「わび、さび」を提起して以来、その情趣に基づいた「詩」が俳句固有のものとなりました。季語もその情趣と密接に結びついています。

俳句の要件とその「情趣」について高濱虚子と金子兜太を比べてみたいと思います。

大寺を包みてわめく木の芽かな  高濱虚子〔*1〕

遠山に日の当りたる枯野かな  同

此村を出でばやと思ふ畦を焼く  同

これらの句はいわゆる「伝統俳句」、

きょお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中  金子兜太〔*2〕

屋上に洗濯の妻空母海に  同

石炭を口開け見惚れ旅すすむ  同

これらはいわゆる「前衛俳句」と呼ばれてきました。

伝統と前衛を区分するものは何でしょう。

「わかりやすさ」と「難解さ」でしょうか。

僕はそうは思いません。

それぞれ一句ずつを比較してみましょう。

まずは両者の冒頭の二句。

虚子の句は大きな寺を包んでいる木々の芽吹きがまるでわめいているかのように一斉に噴き出していると表現しています。喚(ルビ・わめ)くという比喩を通して春の芽吹きのエネルギーが伝わってきます。

兜太の句は、汽車の汽笛が「きょお!」と音を高らかに発して、噎せ返るような新緑の闇の中を進んで行きます。

汽笛の音にポーとかボーとか擬音を配するのは陳腐。詩人の為せる表現ではありません。汽笛が「きょお」と喚くのと芽吹きが「わめく」のは同じ。両者とも詩人の独自の把握が生かされていると言えましょう。

次に両者の二句目。

虚子の句は遠近法。遠景に山を配し、作者の眼の位置である手前の方まで枯野が続いています。遠近法の構成。

兜太の句は遠近法の中に動的なカメラワークが加わります。屋上に洗濯物を干している妻をまずは近景から映し、そこから俯瞰する位置にまでカメラを引いてくると沖合にある空母が視野に入る。遠近法の構成の中に突如介入してくる現代の危険な異物。無季の作品です。

最後に両者の三句目。

虚子の句は農村の苦しい生活の中で、都市部での就職やら出稼ぎやらを望みながら畦を焼いている現実を描いています。農村の現実は社会状況。虚子の眼は、因習や貧しさの中で喘ぐ「個人」の在り方に向いています。

兜太の句は、経済の高度成長政策に伴って大量の石炭が採掘されているさまを描いています。また、ここにはその情景を口を開けて見るしかない「個人」が描かれています。
虚子も兜太も現実を起点として、その中に呑み込まれていく「個人」の存在へと思いを向けています。

こういうふうに見て行くと虚子も兜太も少しも難解ではなく共通する点も多い。実にわかりやすい内容です。

しかし内容的に理解は「簡単」なのに、虚子と兜太を「伝統」と「前衛」に分ける理由は何でしょうか。

それは一つには俳句を俳句たらしめている要件に対する考え方の違いと、その要件を用いて俳句が表現すべき情趣つまり「詩」というものの目標設定の違いにあります。

きょお!と喚いてこの汽車は行く新緑の夜中

には、これまでの俳句の概念では禁忌とされた要素が細かく言えば三つあります。一つは俳句の中にイクスクラメーションマーク(!)を用いたこと。二つ目は大幅な字余り。三つ目は季語の用法で、季語「新緑」は、昼間の可視の範囲で緑が横溢している初夏の景に限定されるという「本意」を無視したこと。「伝統俳句」は「夜の新緑」を認めません。
兜太はもちろんこれらの禁忌を百も承知で用いています。

その理由も明解です。俳句を俳句たらしめている特徴を「俳句性」と呼ぶとすると、俳句性は「定型」以外には無いというのです。表記も季語の有無も自由。季語の「本意」を尊重するかどうかももちろん自由。表現というのはそもそも自由なものだという考え方で、俳句性の唯一の縛りは「定型」であると日頃から述べています。

それにしてはこの句、大幅な字余りじゃないかと思うのは考え方の違い。兜太は十七音定型という基本の縛りがあるからこそ字余りも存在価値が出てくる。定型を意識するからこその破調なのだという考え方です。

虚子にとっての要件はまず季語。「花鳥諷詠」の最大の要件は「四季」を詠むこと。連歌以来の約束事として季語を尊重することという考え方は理解できますが、「俳句性」にとって季語は絶対不可欠という「規定」は偏狭に過ぎるような気もします。

兜太の二句目のように「写す」という俳句の手法を生かしながら、風景の中で空母と遭遇するという命に響くような「驚き」も俳句で表現し得る「詩」の範囲と考えます。

もう一つ、季語を使う場合は、歳時記に記された「本意」を詠むことに心を砕くのではなくて、「自分」に引き付けて詠むこと。「新緑は木々の緑。蘇つたやうな木々の葉の艶やかな色栄え。」(虚子編新歳時記)という「初夏の明るい昼間の緑」という本意に対して兜太は敢えて「新緑の夜中」と詠みます。兜太が意図したのは、木々の息吹が噴き出す夜中の雰囲気を五感で捉えてその中を突き進む「この汽車」を設定する。「この汽車」がその時「自分」になります。季節によって、自然によって生かされている受け身の自分ではなくて、季節を含む現実の空気を呼吸しながら驀進する主体としての自分が見えてくるのです。


〔*1〕高濱虚子『五百句』1937年
〔*2〕金子兜太『少年』1955年

2007-10-07

俳句と詩の会「高浜虚子を読む」

俳句と詩の会 「高浜虚子を読む」


「俳句と詩の会」は、高柳克弘と三木昌子の呼びかけによって発足した、若い詩人と俳人による、俳句と詩の相互研究の会です。

「高浜虚子を読む」は、俳人研究の2回目(1回目は飯田龍太)。

参加メンバーは、あらかじめ、上田選による虚子の300+α句から、各自20句(特撰1句)を選び、それも元に、句会形式でディスカッションを行なった。

ディスカッション終了後、上田による虚子句についてのスピーチ(「二階に上がるということ」)と、質疑応答があった。(上田・記)


当日参加メンバー
杉本徹 手塚敦史 佐原怜 佐藤雄一 白鳥央堂 三木昌子
村上鞘彦 高柳克弘 神野紗希 上田信治

2007年8月26日 於・高田馬場ルノアール




虚子300句
(上田信治選)
メンバーによる20句選    →読む

ディスカッション「高浜虚子を読む」 →読む

二階に上がるということ ……上田信治 →読む

〈季語〉の幽霊性について ……佐藤雄一 →読む




profile

村上鞆彦 むらかみ・ともひこ
1979年生まれ、「南風」同人。

神野紗希 こうの・さき
1983年愛媛県生まれ。俳句甲子園をきっかけに作句を始める。句集に『星の地図』。第一回芝不器男俳句新人賞坪内稔典奨励賞受賞。

高柳克弘 たかやなぎ・かつひろ
1980年生まれ。静岡県出身。「鷹」編集長。今年10月末に第一評論集『凛然たる青春』(富士見書房)発刊予定。

杉本 徹 すぎもと・とおる
1962年、名古屋市生まれ。2003年、詩集『十字公園』(ふらんす堂)。第二詩集は来年刊行の予定。今年、「現代詩手帖」の詩書月評を担当。

手塚敦史 てづか・あつし
1981年、山梨生れ。204年、第一詩集『詩日記』(ふらんす堂)により、中原中也賞最終候補。06年、第二詩集『数奇な木立ち』(思潮社)は、シリーズ「新しい詩人」の中の一冊。「豆」同人。

佐原 怜 さわら・さとし
1980年、青森県生。
2006年、現代詩新人賞評論部門奨励賞受賞。

佐藤雄一 さとう・ゆういち
1983年札幌市生まれ。第45回現代詩手帖賞受賞。

白鳥央堂 しらとり・ひさたか
1987年静岡県生まれ。

三木昌子 みき・まさこ
1982年生まれ。詩集『漂流腕』(2007年・私家版)


虚子300句(上田信治選) メンバーによる20句選

虚子300句(上田信治選) メンバーによる20句選



風が吹く仏来給ふけはひあり  高柳  『五百句』明治時代

怒濤岩を噛む我を神かと朧の夜 神野

海に入りて生まれかはらう朧月

鶏の空時つくる野分かな

間道の藤多き辺に出でたりし

蒲団かたぐ人も乗せたり渡舟

雨に濡れ日に乾きたる幟かな  上田

遠山に日の当りたる枯野かな  佐藤 三木 村上 神野

亀鳴くや皆愚かなる村のもの  高柳

打水に暫く藤の雫かな

秋風や眼中のもの皆俳句    手塚

大海のうしほはあれど旱かな  村上特  神野

村の名も法隆寺なり麦を蒔く

冬の山低きところや法隆寺   上田

桐一葉日当りながら落ちにけり 杉本 佐藤 神野

ぢぢと鳴く蝉草にある夕立かな

金亀子擲つ闇の深さかな    佐原 村上 神野

凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり 杉本 神野

春風や闘志いだきて丘に立つ  大正時代

大寺を包みてわめく木の芽かな

一つ根に離れ浮く葉や春の水  佐藤 村上

年を以て巨人としたり歩み去る 杉本

鎌倉を驚かしたる余寒あり   杉本 佐藤 三木 村上 上田

葡萄の種吐き出して事を決しけり 手塚

烏飛んでそこに通草のありにけり

露の幹静に蝉の歩き居り

大空に又わき出でし小鳥かな  杉本 佐藤 神野

木曽川の今こそ光れ渡り鳥

人間吏となるも風流胡瓜の曲がるも亦

蛇逃げて我を見し眼の草に残る 佐原 三木

天の川のもとに天智天皇と臣虚子と

能すみし面の衰へ暮の秋

秋天の下に野菊の花瓣欠く

夏痩の頬を流れたる冠紐

蚰蜒を打てば屑々になりにけり 佐原

冬帝先づ日をなげかけて駒ヶ嶽

雪解の雫すれ\/に干蒲団   高柳

日覆に松の落葉の生れけり

天日のうつりて暗し蝌蚪の水  上田

晩涼に池の萍皆動く      佐藤 村上

棕櫚の花こぼれて掃くも五六日

風鈴に大きな月のかかりけり  杉本 手塚

白牡丹といふといへども紅ほのか 手塚 三木 高柳

其中に金鈴をふる虫一つ

大空に伸び傾ける冬木かな   村上 上田

うなり落つ蜂や大地を怒り這ふ 昭和時代

百官の衣更へにし奈良の朝

なつかしきあやめの水の行方かな        

わだつみに物の命のくらげかな

東山静に羽子の舞ひ落ちぬ

ふるさとの月の港をよぎるのみ

はなやぎて月の面にかかる雲

われが来し南の国のザボンかな 佐原 高柳

枝豆を喰へば雨月の情あり

ふみはづす蝗の顔の見ゆるかな

流れ行く大根の葉の早さかな  手塚 佐藤 白鳥 三木 神野 上田

虻落ちてもがけば丁字香るなり

石ころも露けきものの一つかな 手塚 白鳥 杉本

春潮といへば必ず門司を思ふ  村上 神野

炎天の空美しや高野山     村上

われの星燃えてをるなり星月夜

我心漸く楽し草を焼く

聾青畝ひとり離れて花下に笑む 

燕のゆるく飛び居る何の意ぞ

春の浜大いなる輪が画いてある 佐原 白鳥 三木

夏草に黄色き魚を釣り上げし

襟巻の狐の顔は別に在り

凍蝶の己が魂追うて飛ぶ

鴨の嘴よりたら\/と春の泥

神にませばまこと美はし那智の滝

囀や絶えず二三羽こぼれ飛び

顔抱いて犬が寝てをり菊の宿  杉本 白鳥

焼芋がこぼれて田舎源氏かな

白雲と冬木と終にかかはらず  佐原 高柳

事務多忙頭を上げて春惜しむ      

酌婦来る灯取蟲より汚きが   高柳 上田

水飯に味噌を落して濁しけり

大いなるものが過ぎ行く野分かな 佐原 高柳

秋風や何の煙か薮にしむ

川を見るバナナの皮は手より落ち 手塚 上田特

緑蔭を出れば明るし芥子は実に

かわ\/と大きくゆるく寒鴉  杉本

大空に羽子の白妙とゞまれり  村上

その中に小さき神や壺すみれ  杉本『五百句時代』

冬の山うね\/として入日かな

大粒の雨になりけりほとゝぎす

昼の蚊の大きくなりぬ秋の風

冬川の石にちらばる木の葉かな

夏川に魚踏まへたるはだしかな

紫の石おびただゞし春の水

春雨や布団の上の謡本

茶の花に朝日冷たき畑かな

凩や水かれはてて石を吹く  手塚

古池は氷の上の落葉かな

音たてて春の潮の流れけり

ばう然と野分の中を我来たり

茨の花二軒並んで貸家あり

貧にして孝なる相撲負けにけり

蝶々のもの食ふ音の静かさよ  杉本 白鳥特 高柳特

金屏におしつけて生けし櫻かな

何触れて薔薇散りけん卓の上  高柳 白鳥

薔薇剪つて短き詩をぞ作りける 手塚

炭をもて炭割る音やひびくなり

三つ食へば葉三片や櫻餅    神野

昼寝さめて其まゝ雲を見居るなり 杉本

下駄傘の新しければ雨涼し   白鳥

宿屋出て銭湯に行く時雨かな

袷著て仮の世にある我等かな

春寒や砂より出でし松の幹   上田

年々に見古るす家や梅の道

舟べりにとまりてうすき螢かな 杉本 白鳥

石の上の埃に降るや秋の雨   杉本 佐藤 白鳥 

我汗の流るゝ音の聞こゆなり

生涯の今の心や金魚見る    杉本 村上

初空や大悪人虚子の頭上に

手をこぼれて土に達するまでの種 杉本 手塚 白鳥 神野

遠花火ちよぼ\/として涼しさよ 杉本

明日死ぬる命めでたし小豆粥  杉本

浪音の由比ヶ浜より初電車   村上

てのひらの上そよ\/と流れ海苔

この庭の遅日の石のいつまでも 上田 村上 佐藤

水に浮く柄杓の上の春の雪   白鳥

箱庭の人に古りゆく月日かな

咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり 村上

泥落ちてとけつゝ沈む芹の水

白玉にとけのこりたる砂糖かな

帚木に影といふものありにけり  杉本 三木 白鳥 佐藤特 高柳

ちらばりてまだ遊船に乗らぬなり 白鳥

青き葉の火となりて行く焚火かな

船蟲の波に洗はれ何も無し

鶏を吹きほそめたる野分かな

下駄はいて這入つて行くや春の海

手より手に渡りて屏風運ばるゝ  上田

餅花の賽は鯛より大きけれ 

鴨の中の一つの鴨を見てゐたり  杉本 神野  『五百五十句』

枯れ果てしものの中なる藤袴

宝石の大塊のごと春の雲

麻の中雨すい\/と見ゆるかな  手塚

秋の風衣と膚吹き分つ      白鳥

必ずしも鯊を釣らんとにはあらず

箒あり即ちとつて落葉掃く

加留多取る皆美しく負けまじく

双六に負けおとなしく美しく

マスクして我と汝でありしかな

そのまゝに君紅梅の下に立て

重の内暖にして柏餅

たゝみ来る浮葉の波のたえまなく

急がしく煽ぐ団扇の紅は浮く

実をつけてかなしき程の小草かな 杉本

秋天に赤き筋ある如くなり

静かさに耐へずして降る落葉かな 手塚

冬日柔らか冬木柔らか何れぞや  高柳

人形の前に崩れぬ寒牡丹 

旗のごとなびく冬日をふと見たり 杉本 神野 白鳥 高柳 上田

潮の中和布を刈る鎌の行くが見ゆ

肴屑俎にあり花の宿

バスの棚の夏帽のよく落ちること 神野

梅雨傘をさげて丸ビル通り抜け

我思ふまゝに孑孑うき沈み

もの置けばそこに生まれぬ秋の蔭 杉本特 佐藤 三木 高柳

金屏にともし火の濃きところかな 杉本

龍の玉深く蔵すといふことを   村上

初蝶を夢の如くに見失ふ     杉本 高柳

細き幹伝ひ流るゝ木瓜の雨

麦飯もよし稗飯も辞退せず

祖を守り俳諧を守り守武忌  朝日新聞の需めにより、開戦記念日を迎ふる句

手毬唄かなしきことをうつくしく 杉本 白鳥 村上

向き\/に羽子ついてゐる広場かな

大寒の埃の如く人死ぬる     佐原 佐藤 村上

大寒の見舞に行けば死んでをり

鎌倉に実朝忌あり美しき

おほどかに日を遮りぬ春の雲

牡丹花の雨なやましく晴れんとす

秋風や相逢はざるも亦よろし

営々と蝿を捕りをり蝿捕器

立ち昇る茶碗の湯気の紅葉晴

よろ\/と棹がのび来て柿挟む  佐藤 白鳥 三木 上田 

雲なきに時雨を落す空が好き

おでんやを立ち出でしより低唱す

マスクして我を見る目の遠くより

我が生は淋しからずや日記買ふ  三木 神野

橋をゆく人悉く息白し      佐藤

左手は無きが如くに懐手

美しく耕しありぬ冬菜畑

冬日濃しなべて生きとし生けるもの

フランスの女美し木の芽また   手塚  『五百五十句時代』
だん\/に我に似てくる爽やかに 石井鶴三アトリエ塑像制作 
バスが着き郵船が出る波止場かな

映画出て火事のポスター見て立てり  『六百句』

公園の茶屋の亭主の無愛想

春雨の傘の柄漏りも懐しく

襖みなはづして鴨居縦横に

水打てば夏蝶そこに生れけり   高柳 白鳥

自転車に跨がり蝉の木を見上げ

暖かき茶をふくみつゝ萩の雨

冬の空少し濁りしかと思ふ    三木

大根を水くしや\/にして洗ふ

たんぽゝの黄が目に残り障子に黄

春惜しむベンチがあれば腰おろし

ぼうたんに風あり虻を寄らしめず

夕風に浮かみて罌粟の散りにけり 上田

霧の中舟の掃除をはじめけり

悲しさはいつも酒気ある夜学の師

茄子畠は紺一色や秋の風

天地の間にほろと時雨かな

猫いまは冬菜畑を歩きをり

枯園を見つつありしが障子閉め

いと低き土塀わたりぬ冬木中

温泉の客の皆夕立を眺めをり   杉本

枯菊に尚ほ或物をとどめずや

石に腰しばらくかけて冷たくて

白酒の紐の如くにつがれけり

犬ふぐり星のまたゝく如くなり  杉本

根切蟲あたらしきことしてくれし

美しき蜘蛛居る薔薇を剪りにけり

日のくれと子供が言ひて秋の暮  上田 白鳥

金の輪の春の眠りにはひりけり  高柳  『六百句時代』
ぼうたんの花の上なる蝶の空

白酒の餅の如くに濃かりけり

鶏にやる田芹摘みにと来し我ぞ  『小諸百句』
初蝶来何色と問ふ黄と答ふ    佐藤 村上 神野

山国の蝶をあらしと思はずや

蛍火の鞠の如しやはね上り

見事なる生椎茸に岩魚添へ

虹立ちて忽ち君のある如し    佐原

虹消えて忽ち君の無き如し    佐原

虹消えて小説は尚ほ続きをり

ラヂヲよく聞こえ北佐久秋の晴

見下ろしてやがて鳴きけり寒鴉  上田

日凍てて空にかゝるといふのみぞ

綿羊の子はおでこにて桃の花   白鳥  『小諸時代』

蜘蛛よりもががんぼ音がして陽気

孫の手といふものもあり蠅叩   手塚

日課なる昼寝をすませ健康に   上田    

我行けば枝一つ下り寒鴉     『六百五十句』

溝板の上につういと風花が

雛あられ染める染粉は町で買ひ

美しきぬるき炬燵や雛の間

洗ひたる花烏賊墨をすこし吐き

皿洗ふ絵模様抜けて飛ぶ蝶か

藍がめにひそみたる蚊の染まりつゝ

蝉の木をあす伐らばやと思ひけり

物の本西瓜の汁をこぼしたる

烈日の下に不思議の露を見し   手塚 高柳

水鉢にかぶさり萩のうねりかな

秋風や静かに動く萩芒

水仙の花活け会に規約なし    上田

春雨のかくまで暗くなるものか  手塚 佐藤 三木

春水に逆さになりて手を洗ふ

茎右往左往菓子器のさくらんぼ  上田

黒蝶の何の誇りもなく飛びぬ   手塚

惨として日をとゞめたる大夏木

割合に小さき擂粉木胡麻をすり

爛々と昼の星見え菌生え     三木 神野

念力のゆるみし小春日和かな   三木

海女とても陸こそよけれ桃の花  白鳥

古庭のででむしの皆動きをり

秋天にわれがぐん\/ぐん\/と 佐原

やはらかき餅の如くに冬日かな

虚子一人銀河と共に西へ行く

人生は陳腐なるかな走馬燈 

食ひかけの林檎をハンドバッグに入れ

海底に珊瑚花咲く鯊を釣る

わが終り銀河の中に身を投げん

だぶ\/の足袋を好みてはきにけり

手で顔を撫づれば鼻の冷たさよ

大空の片隅にある冬日かな

鎌倉や牡丹の根に蟹遊ぶ

見る人に少しそよぎて萩の花

彼一語我一語秋深みかも     手塚 村上

掃き出す萩と芒の間の塵

去年今年貫く棒の如きもの    杉本 三木 高柳 神野

おでんやの娘愚かに美しき    手塚

門松を立てていよ\/淋しき町

汝がくれし胡瓜を妻が早もむか   『六百五十句時代』

蜜豆を食べるでもなくよく話す

片蔭を通れば酢屋の匂ひかな

干す和布に似たるものも干す   佐原

ゆらぎ見ゆ百の椿が三百に    佐藤 白鳥  『七百五十句』

ふと春の宵なりけりと思ふ時   杉本 佐藤 上田 

朝寝して今朝が最も幸福な    手塚

苔寺を出てその辺の秋の暮    上田

降つてゐるその春雨を感じをり 

犬の舌赤く伸びたり水温む

一匹の蝿一本の蠅叩       佐原

明易や花鳥諷詠南無阿弥陀
 
すぐ来いといふ子規の夢明易き

コスモスの花あそびをる虚空かな 杉本

地球一万余回転冬日にこ\/   三木特 佐原 播水、八重子結婚三十周年

蠅叩にはじまり蠅叩に終る

炎天の干し物落ちて乾きをり

考へを文字に移して梅の花    上田

蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな 神野

花の雨強くなりつゝ明るさよ   杉本 三木

我生の美しき虹皆消えぬ

風生と死の話して涼しさよ    村上   

我が庭や冬日健康冬木健康

門を出る人春光の包み去る

女涼し窓に腰かけ落ちもせず   白鳥

いつもこの紺朝顔の垣根かな

藤豆の垂れたるノの字ノの字かな 手塚特

ほのかなる空の匂ひや秋の晴   杉本

光りつゝ冬雲消えて失せんとす 

薮の中冬日見えたり見えなんだり 佐原

幹にちよと花簪のやうな花

春の山屍をうめて空しかり    高柳

覗きをる土管の口や菖蒲の芽   『七百五十句時代』

涼風のとめどなく来る蜂が来る  三木

カーテンを引いて見えざる冬の庭 白鳥

よき家や銀河の下に寝しづまり

乳かけて苺の砂糖崩れつつ

春光の包める一木々々かな

永き日を君あくびでもしてゐるか 三木  古白一周忌『慶弔贈答句』

子規逝くや十七日の月明に    子規逝く

ワガハイノカイミヤウモナキスヽキカナ 杉本  漱石の猫の訃報に返電

とめどなき涙の果ての昼寝かな  女児を失ひし木国に

鍬取つて国常立の尊かな     念腹ブラジル渡航

野路ゆけば野菊を摘んで相かざす 誓子新婚

たとふれば独楽のはじける如くなり 神野特 碧梧桐追悼

君と共に四十年の秋を見し    王城追悼

強霜に友情春の如き人      小野蕪子逝く

素袷の心にはなり得ざりしや   自殺せる若柳敏三郎を悼む

木の芽雨又病むときく加餐せよ  たかしに

秋蝉も泣き蓑蟲も泣くのみぞ   詔勅を拝し奉りて朝日新聞の需めに応じて    

敵といふもの今は無し秋の月    同

まつしぐら炉にとび込みし如くなり 素逝追悼

似てゐても似てゐなくても時雨かな 佐原 三木 風生銅像除幕式
独り句の推敲をして遅き日を    句仏十七回忌 

   

ディスカッション 高浜虚子を読む

ディスカッション 高浜虚子を読む


遠山に日の当りたる枯野かな
村上「なんとも言いにくい。いかにも俳句。自然と正面から向き合っている」
神野 「龍太が、この句について「句碑にならない句」と書いていて、たしかに、特定の場所を必要としていない句。それは、普遍的な単語ばかりで組み立てられているからかもしれない。目の前にある景だけど、こちら側でもあちら側でもある。ここに無さそうなものを呼び起こされるところが好き」
高柳「たぶん、この句を面白いと感じる価値観は、人間に生来ある感覚からは生じえない、たとえば無垢な子供にとっては面白くないはずだと思う。近代の「俳句的なもの」自体の成立に、虚子の評価が深く関わっている。言い換えれば、この句をふくんで成立している、ある評価基準によって評価されている句だと思う」
三木「すごく人工的。新しい西洋的な物の見方、たとえば遠近法とかを野心的に取り入れようとしているのか」
高柳「信治さん、この句、好きでした?」
上田「すごい好き。空間の見せ方があざやかで。〈遠山〉を先に見せて、〈枯野〉を後から言って、こう視線が降りてくる、で、日の当っている〈遠山〉、あるいは空間全体をもういちど、見せなおすという、このあざやかさ。ここには、ひらけた空間、いい景色という生理的な快感があると思うんだけど」

大海のうしほはあれど旱かな
村上「さいきん日照のように暑かったので、特選にしました」
上田「ぼくは、これ、分らない。面白俳句なんですか?」
村上「理屈を言っているようにも思えますが、それを消すようにして海の青さが迫ってくる」
高柳「岸本尚毅さんが、この句を高く評価していて、よく、この句について発言しています。さいきんの岸本さんの句にもこういう傾向のものがあって、天の川の中を流れ星が流れる、なんていう句を平気でつくってしまう。
たしかに理知の句ですが、こっちのほうが〈遠山〉の句に比べて、全く俳句を知らない人にも、分かりやすいおもしろさだと思います。理屈とか理知のほうが、人間の原初的な「感動」っていうんでしょうか、そういうものに近いと思う。景色に感動するとか、人間の理知に越えた自然に感動することのほうが現代的な感覚であって、江戸時代以前には、理知的なものに詩情を感じていた。詩情のあり方がちがうんです。虚子は、一部に江戸俳諧の影響を色濃く残していて、前時代的なものをひきずっていたと思う。その端的なあらわれ」

桐一葉日当りながら落ちにけり
杉本「こうして虚子の句を一気に大量につづけて読んでいると、この句の独特のおさまりのよさが少しわかる気もした。桐の葉が日と影の両方をまとう動的なわずかな時間を、無時間の一筆が描きとめたというか」
佐藤 「流れ行くものを、切字で切ることによって、景を提示している」
神野「ばかばかしいというか、けっきょく桐の葉が落ちてるだけなのを、じっとみてるところがおもしろい」
上田「〈桐一葉〉には、文学的含意があるわけですけど、ぼくは、この言い方のひらひらしてるところが面白くて、〈桐一葉〉の含意がじゃまに感じる」

鎌倉を驚かしたる余寒あり
佐藤「国木田独歩が「喫驚(びっくり)したいというのが僕の願なんです」「宇宙の不思議を知りたいという願ではない、不思議なる宇宙を驚きたいという願です!」ということを、小説の登場人物に言わせている。ロマン派から移行する際に「驚く」ということがリアリズムにとって重要だった。しかも〈鎌倉〉という、普遍的な最大公約数的なものが、ここでは驚いている」
上田「これ、リアリズムじゃないんじゃない? 既存の情緒+レトリックで」
佐藤「その実感とレファレンス的なものとの差違が、現在と過去の落差に驚くことで、そこにリアリズムの嚆矢がある」

葡萄の種吐き出して事を決しけり
手塚「葡萄の種を吐き出すときに、思い出してしまいそうな、口誦性、独り言のような、思い出しやすさがある。たいした決意じゃないというところも、面白い」
神野「虚子は、こういう句では、サービス精神をもって演じていると思う」

大空に又わき出でし小鳥かな
神野「〈遠山〉の句と同じく、言葉はすごい簡単でそのまんまなんだけど、小鳥が出たり入ったりすることで、大空が大空なんだなあという感じになる。大空が動かなくて小鳥が動いてるのが、生命全てにあてはまるのがいいのかな」
佐藤「〈又〉というのは、過去の回帰する驚き。虚子がなぜ、季語を手放さなかったか。季語は回帰する物だから。だから過去と現在の落差に驚ける。配合の句じゃないことも、人工性じゃなくて、リアリズムを指向している」

雪解の雫すれすれに干蒲団

高柳「詩的なものと卑俗なものの対比ということかな。こういう対比をやってしまうところが、虚子の、なかなか近代になりにくかったところで、愛すべきところだと思います」
上田「白くて質感の違う物が、日光と雪と蒲団の三つある。その中に水分と乾燥、熱と冷たさが交錯していて、非常に読みどころの多い句だと思う」

晩涼に池の萍皆動く
村上「美しいんですけど、じっと見ていると、その動きが不気味に思えてくる。「や」じゃなくて「に」としたところも不気味」

白牡丹といふといへども紅ほのか
高柳「さっきも言った理知の句としての評価です。現代俳人なら〈いふといへども〉をけずる。古俳諧には、青といえども唐辛子、とか、こういう否定表現がけっこうあって、こういうものも、現代俳句が失ってやせてしまったものの一つだと思う」
上田「飯島晴子が、この句をふくむ虚子の代表句について、伝統芸能に見られるかたちの美しさ、上質な気どりの感覚というようなことを言っていて。これは、虚子のかっこよさを代表する句」

われが来し南の国のザボンかな
高柳「自意識の句だと思う。俺が来た国のザボンだという、ロマンがあっていい。波郷が好きだった句」
村上「波郷はこの句を、黒板に書いて卒業したという逸話がある」
神野「でも、卒業の句じゃないですよね(笑)」

流れ行く大根の葉の早さかな
白鳥「この句は、〈大根の葉〉に、自分の中の喪失感を寄り添わせたのだ、という、高校時代の寺山修司の解釈を読んで、そうかなと」 
佐原「その寺山の解釈は詩人的すぎるかも」
上田「この句がすごく語られるのは、そのあまりのそっけなさ、運動しか書いてないことにみんな驚いたんだと思う。」
手塚「この句は〈大根〉だからいい(一同驚)。人参だったらダメ。〈大根〉という重さがある野菜があって、その葉っぱに注目するから、早さが強調される」
神野「〈大根〉って、ちょっと悲しい感じ、味もすくないし。ここの野菜は、何でもいいようで、なんでもよくない」
佐藤「切字で、文字通り下に流れていくものを切ってる。情景でもなく抒情でもなく」
高柳「さっき手塚さんや、神野さんが言われていた〈大根〉そのものがイメージとして浮かぶというのは、面白い話で、山本健吉が俳句には、時間性がないみたいなことを言っていて、飯島晴子も似たようなことを言っていたかな、十七音を字で読むとき全体がいっぺんに目に入ってしまうから。ただ、それを頭から読み下していくものだとすれば、いっしゅん、大根がうかんで、葉の早さと対比が出る。
虚子は謡曲の家に生まれたんですが、虚子の残した朗読の録音を聴くと、謡のようにゆっくり読んでいる。だから、ゆっくり読むのが虚子の句としてはいいのかもしれない」
佐原「後期の虚子の句は、うしろに時間が隠されている句が多い。すごく時間性が出てくる」

石ころも露けきものの一つかな
杉本「このあたり、少し好きですね。<露けきもの>が生きてる」
三木「説教くさくないですか」
佐原「この〈露〉に、儚さの象徴という意味が含まれてるかどうかですね」
上田「あと〈一つかな〉の解釈で、ぼくは、庭かなにか見える範囲ぜんたいが露にぬれていて、〈石ころも〉と、とるけど」
杉本「ぼくも、そうとってしまったけれど」
三木「自分を〈露けき〉と言ってるかと思って、なんといやみな、と」
白鳥「ぼくは、そっちでとりました」

炎天の空美しや高野山
村上「なにも言ってないのに忘れられない。下手といえば下手な句で、天と空が重なるし、ストレートに〈美し〉とかいってるし」
高柳「〈高野山〉きいてるんですかね?」
上田「効いてるでしょう!坊主の頭がいっぱいあって、そこに日がかーっとあたって(一同笑)。で、結果、空はめらめら燃えてるのに、高野山はヒンヤリしている」

春の浜大いなる輪が画いてある
佐原
「輪が本当に描いてあったというよりも、海の持つある種時間的な大きさを、景色から〈輪〉というかたちで作為的につかみ取ったのではないか。写生というよりは、景色の向うから「大いなる時間的なもの」を引き出すというか感じとっており、そこに虚子の個性がある」
     
酌婦来る灯取蟲より汚きが
三木・杉本「これは笑ったよなー」
高柳「これは、いい。いまは差別とか、うるさいことを言う人がいますけど」

蝶々のもの食ふ音の静かさよ
白鳥「たとえばキッチンがすごく静かな時、鍋が静かかというと、静かな鍋というふうには思わない。ほんとうに静かな景色の中には、静かなものはない。
静かな景色っていうものがあって、それを感じてそれを書く、そのとき、〈もの食ふ音〉が〈静かさ〉の発信源というように感じられたんじゃないか。〈静かさ〉が、そこに集約されて、全体にひろがっていく。逆に〈蝶々〉が〈もの喰ふ〉ときは、世界が静かになるんだというように。時間性がないというより、時間をとめてしまうような魅力がある」
高柳「蝶は蜜を吸うわけですが、それを〈食ふ〉と言ってしまうところに、虚子の大きさがある。小さな、せせこましいものを、大きく表わしてしまう豊かさ」

手をこぼれて土に達するまでの種
手塚「萩原朔太郎の詩、てのひらのうえで花を育てるみたいな詩を、思い出して好きだった」 
神野「蒔いたというより、蒔こうとおもって手においてたら、あ、落ちた、という。短い時間をスローモーションのように延ばしている。種を最後にもってきてるのも、種を見せたいというねらいがよく分る」 
白鳥「ぼくは、ちょっとちがって、種目線で(一同笑)本質を書いたのかと。土にもぐってこそ、種の本領なので、ここに書かれた落ちるまでは、種にとっての「種」の時間。そこが面白いと思いました」

箒木に影といふものありにけり
杉本
「<箒木>も、<影>も、あるかないかわからないものをとらえて、異様に美しい、静かな立ち姿。写生もつきつめれば、単なる写生じゃなくなり、地上から浮き上がるというか、虚子が花鳥諷詠ということを言った怖ろしさの、ひとつの極点だと思う。<箒木>という言葉の歴史的価値にとどまらない、この句でのみ実現されたプラスアルファがある」
佐藤「やっぱり、〈箒木〉からは、新古今のようなレファレンスを想像する。子規がレファレンスから生じる月並みを否定したことを、虚子は丸ごと受けとらなかったということの代表。
同じ<影>の句でも、近世、例えば其角の〈名月や畳の上に松の影〉を読むと、<この私>が見ているという実感、はかなさ、たよりなさが感じられない。その叙景はスタティックであるように思う。虚子はそれとは違う。
<影>に驚く虚子は、季節の推移をプレテクストに即した句で詠みそれを共有する共同体のなかで安寧しているように思えない。ここでの驚きは、そのようなプレテクストをベースにした共同体には埋没しえない自分が、移ろいやすい影をみているという<孤心>がある。
ノスタルジーの字義通りの意味「故郷へ戻りたいと願うが、二度と目にすることがかなわないかも知れないという恐れを伴う病人の心の痛み」を読み取ることが可能であると思う。その意味で虚子は単純な中世回帰の俳人ではないし、また子規のようなある種密室的実験性とも異なる。いわば前者と後者のあいだに引き裂かれた<孤心>をこの句では<驚き>として詠んだように思える。
過去にあった、あるいは自分がいた共同体から切り離されているという<孤心>を逆説的な共通項とするのが国民国家という共同体であるから、虚子の<驚き>は実は国民大衆と共有することが容易。ゆえに虚子は、季節によって国民に等しく回帰してくる<孤心>を、<影>のような叙景で詠むことで、自身の句は国民一般に共有される抒情性をもつという確信があった。その確信によって虚子は作家から国民作家になったのだと思う。
あるいはもう自身がそこにいないあるいは忘却されたところの過去を季節によって例えば<驚き>として<リアル>に召還する俳句を虚子は<国民>に回帰するオブセッションとして位置づけていたのではないか。」
三木「回帰してくるものって言ってたけど、二回目に人がみつけるものっていうのは、すごく大きい。でもこの句にはこれ以後、何も重なってこない。一回きりの、言ってやったぜ!という句。すごい抒情性がある」
上田「〈箒木〉の抒情性?」
三木「〈影〉の抒情性」
高柳「写生は描写じゃないということに気づかせてくれる句。なにも具体的な描写はないけれども、〈箒木〉のあわあわとした存在感と、うすい影がよく見えてくる。ことばの使い方ですよね。あと、ここは〈箒木〉のような、古典的情緒をおった季語じゃないと、おもしろくない。虚子は俗的なものがよくわかっていた。そこが、子規の理論先行のボンボン的な発想と違うところで、大衆が俳句に求めているものは何か、という、ウケどころのようなものが、よく分っていた」
上田「それは、自分の感覚のツボをはずさないってことじゃなくて?」
高柳「自分の感覚か、意識されたものなのか。生来のもので作っていたのか、必要があって作っていたのか。虚子にとって俳句はお家芸ですから、ちゃんと人にウケなきゃいけない、という、子規とは違った必要性に迫られていた。子規には、俳句を革新しようということだけがあって、ビジネスとかそういうことは考えてなかったんで、はっきり言って、子規の俳句はおもしろくない」
上田「ただ、大衆性っていうのものこそ、才能そのものであって、もともと自分の中に大衆性を持ってない人がやろうとしたってできないと思う」
高柳「それはそうかもしれません」
神野「人を喜ばせるのが好きな人だったのかも、いろんな句があるし。サービス精神が旺盛な気がします」
佐原「でも彼はそんなに「人のため」に書いてたんでしょうか。人は埃のように死ぬもんだ、みたいなことをさらっと言うのを見ると、疑わしくも思えますが」
神野「いや、それは綾小路きみまろとかも言うし。じゅうぶん、うけねらいだったのかも」

旗のごとなびく冬日をふと見たり
上田「これ、すごい好き。語順がおかしいんです。起こったことの順番通りに書くのなら、ふと見ればー冬日はー旗のごとなびく、と書くのが、人間の認識の順番として正しい語順なんですけど、〈旗のごとなびく冬日〉っていう幻想的視覚像がまず提示されて、〈ふと〉見た瞬間、その幻想の中にがーっと主体が引っ張り込まれていく。言い方によって、すごいマジックリアリズムみたいな事がおこっている」
高柳「これ眼目は〈旗のごとなびく冬日〉につきてるんですけど、そのあと〈ふと見たり〉と、重要であるはずの最後の納めかたが、こんなだっていうところがね」
上田「うん、単に、大事なことから順に言っていった結果なのかもしれない。ただその結果が、おもしろいことになってる」

もの置けばそこに生まれぬ秋の蔭 
杉本「やはり写生の極まりを感じる。あえていえば、発句する自分自身までをも否応なく見てしまうというか、その心が静まっているところを見つめる、見つめるしかないという、一句のかかえた無時間のひろがりのようなものを感じる。
子規から虚子、虚子から尾崎放哉につながるような、あるいはひょっとして西行なんかにもつながるような、そんな接線がもし引けるとしたら、そうした日本語の一行における写生の、あるひとつの本質を考えさせるものがあると思う。<生涯の今の心や金魚見る>も、その意味ではストレートに、見つめる心のひろがりが見えて、おもしろかった。ただ、この<秋の蔭>の句は、句自体の陰翳が深々としていて……。このあたりが、ぼくがいちばん好きな何句かでした」

手毬唄かなしきことをうつくしく
村上「そっけないおおざっぱさ。でも〈かなしきことをうつくしく〉という曲折を持たせて言ったところが、いいんじゃないですか」

大寒の埃の如く人死ぬる
佐原「何かをわかっちゃってる句という感じ。虚子の幅の広さ、と言うよりふてぶてしさがよく出ている」
杉本「その横(大寒の見舞に行けば死んでをり)も笑えるよね、このへんからギャグがね。〈営々と蝿を捕りをり蝿捕器〉もおかしい」
高柳「これは、そんなに面白いと思わない。中世的な無常観からすれば、いまさら、というかんじ」
村上「埃に無常観といった意味的なものを託してるのかなと思うと、あんまりそんなこともない」
神野「人は埃、自分神、みたいな目線があるような気がしておもしろい」
村上「冬の日差しに浮かぶ埃って綺麗ですよね」
高柳「人のはかなさを、塵にたとえるのはよくあるけど、〈埃〉というのが、新しいのかな」

よろよろと棹がのび来て柿挟む 
上田「〈柿〉にまつわる情緒はなにもないけど、青空を見せる句ですね。これは、語順の通りにものが起こるところがおかしい」
神野「4コママンガみたい」

我が生は淋しからずや日記買ふ 
三木「歌謡曲みたいな感じで、とっちゃった」
神野「ここまで、べたにやられると、、、日記買っちゃうかも(笑)」 
佐原「虚子だから読ませる句ですね。〈わが生は淋しい〉とかいうことを、ベタかもしれないけど、わりと強固に思っていた人だったんだろうと思わせる」
神野「〈吾を神かと〉とか言ってたひとが、ふと弱気をみせたところが、かわいいというか」
杉本「ほんとに日記買ったんですかね」
一同「絶対買ってないです」

フランスの女美し木の芽また 
手塚「〈また〉でおわってるところが、言いきってなくていいなあ」
杉本「<美し>まで書いて、あとが一瞬つづかなくなったのかなとも思う」

日課なる昼寝をすませ健康に 
上田「こういう句、この時代のこの人、けっこう沢山あるんですけど、この会のために300句選ぶのに、入れては外しをやっていて、こういうので残る句って、そんなにないんです。不朽の名句と並べると負ける」
佐原「でもこのばかばかしい中に、虚子の本質のひとつがある」
上田「うん、まさに。それで、これは意外にも捨てられなかった句です」  
  
虹立ちて忽ち君のある如し
虹消えて忽ち君の無き如し

佐原「〈和布〉の句もそうなんですけど、類似してはいるけれどちょっとだけ違っている二つのものを対比とか、Aと、Aとちょっと違うもの、という二つのものを併置とかする句が、後期になると多くなる。虚子の場合は、そのちょっとの違いの中に人の「ある/無し」も含まれてしまう」
神野「片方だけど、なに甘いこと言ってるんだとなっちゃうけど、両方あるから」

日凍てて空にかゝるといふのみぞ
上田
「うわごとに近いですが、なんとも、いい」
村上「いいですね。日とか空とか詠むのはむずかしいですけど、これは」

水仙の花活け会に規約なし 
上田「これは不朽の句(一同笑)。はずしてもはずしても、戻ってくる」
高柳「そこを聞きたいですねえ」
上田「謎なんですよ。うーん、この句、〈水仙〉ないんですよね、〈会〉の話だから。で、〈規約〉の話になっちゃって〈会〉の人たちもいないし。で、最終的に〈規約〉もないのね。何にもないんです、この句」
高柳「フリーダムな感じがいいんでしょうか。」
上田「うーん」
村上「〈花活け会〉じゃなく、〈花活け〉で意味的に切れるんだと思います」
高柳「それじゃ、おもしろくないでしょう」
上田「同じ句集の前後にこういう句いっぱいあるのか、、と見ると、ここまで下らない句はこれしかない。俳句がこういう句ばっかりになったらさすがに困るという句なんですが、さすがの虚子も、そうはたくさん、こんなのは書かない」
村上「虚子だから、読んでもらえますけど、虚子じゃなかったらだれも読まない。めぐまれてる」

春雨のかくまで暗くなるものか 
手塚「〈なるものか〉っていう、疑問形で終らせてるところが、さらさらっていうかんじで、春の雨の感覚出来そうでできないあいまいさで」
三木「〈かく〉で読者にあずけたところがうまい」

爛々と昼の星見えきのこ菌生え  
神野「きのこが、きれいじゃないところ、きたないものなところがいい。いろいろ見えにくそうなものが、ぶわーっと出てきそうで」
上田「ジブリか、みたいな」

去年今年貫く棒の如きもの
高柳「これは名句。川崎展宏さんが、有名な評を書いていて「この棒には毛が生えている」(一同笑)その解釈で生かされる句」
神野「もうちょっと説明を」
高柳「いや、満足しました。村上さん採ってないですか?」
村上「ちょっと理屈っぽいというか」
高柳「これって〈闘志抱きて丘に立つ〉系の句なんですかね」
佐原「〈大いなるものが過ぎ行く野分かな〉の句と似てる」
神野「私の中では〈大根の葉〉に近い。そういう動的なものを見えるものに、可視化してる。そうしたいという根本のモチーフを感じる。あと、ときどきエロス俳句っていうテーマで書く人がいるけど、そこになぜか入っている」(笑)

和布干す和布に似たるものも干す  
佐原「虚子は、写生という、対象物の細かいところに注目する方法を唱えたわけだけれど、なのに一方でこの句のように、「雑」に対象物をとらえることがしばしばあって、そうした句は特に後期になると増えてくるようです。この〈和布干す〉の句なんて、いかにも「雑」なとらえ方ですよね。
虚子はある時から、写生で描かれた対象物そのものよりも、描かれた対象物の背後にある時間の蓄積の方が重要だと感じるようになったのではないか。写生は、限られた時間の中にある対象物を「地上目線」で描写するので、句の時間性は限られたものとなる。
じゃあこの 〈和布〉の句に見られるような、写生とは対照的な「いいかげん」な視線というのはどこから来るのかと考えると、おそらくそれは〈天〉からなのではないか。例えば虚子の後期に〈秋天に我がぐんぐん\/と〉という句がありますが、〈天〉には四季の時間が、「大いなる時間」みたいなものが、ゆったりと巡っているんです。で、そんな「大いなる時間」と〈我〉とが一体化するとき、地上のこまごまとした物体は、虚子にとっては大した違いのないものとして見えてくる、だから「雑」なとらえ方をする句ができるんじゃないか。
時間的なものは、実際の個別的な経験、例えば春に花を見てはっと驚くような、そうした一回性の経験としても現れるし、物体の背後に感じられる時間、言わば〈大いなるもの〉につながる永遠性のようなものとして、四季とともに回帰するものとしても現われる。写生の方法では、ひとは個別の自然物に対して一回性をもって驚くけど、「大いなる時間」の側から見てしまえば、〈埃の如く人死ぬる〉の句のように、人間だって埃のように移り変わる存在に見えてくる。多彩な自然物は、〈和布〉と〈和布に似たもの〉というちょっとの間に入ってしまうんです。
虚子の後期に、〈だん\/に我に似てくる爽やかに〉という、自分の胸像ができるのを待っているときの句があるんですが、こういう句を見ていると、今まで言った〈天〉の方からものを見る、対象をつき離して客観的に見る視線のなかに、虚子はついには自分をも入れてしまっていたように思える」

藤豆の垂れたるノの字ノの字かな  
手塚「ノの字の不安定さが、風にゆれているようで、素敵な句だなと」

たとふれば独楽のはじける如くなり 
神野「事情を知らなくても、関係が想像できる。あと、言い方がかっこよい」





二階に上がるということ 上田信治

二階に上がるということ ……上田信治


「俳句と詩の会 高浜虚子を読む」におけるスピーチ原稿




俳句は、どちらかといえば、弱い、ちいさな表現方法だと思います。

強い表現方法というのは、虚子が憧れた小説とか、映画とか、マンガも入れてもいいかもしれない。弱い表現方法というのは、たとえば、生け花とか、コラージュとか、口笛とか。俳句は短いですしね。

ただし、虚子の句業は非常に幅が広くて、俳句がちいさな表現方法だということを忘れさせるような、大きなもの、りっぱなもの、強いものを、含みます。それは、前回やった龍太もそうですね。俳句の世界には、ときどき巨人のような、傑物のような人がまぎれこんで、小人たちをとまどわせるんですが、それは、ともかく。

虚子が龍太とちがうのは、虚子の句には、平然と「どうでもいいもの」や「ダメなもの」がある、俳句の弱さに開き直ったような「俳句なんてこんなもん」「こんなもんでいいの俳句は」という句があることです。

そして、そういう句は、ほんとにすごくない。〈くれといふダンサーにやる扇かな〉(笑)。昭和5年の、虚子欧行の折の句なんですが、実に、どうでもいい。

〈なんとなく秋の扇をくれにけり〉これは平成の田中裕明さんの句ですが、こうして、時代を超えて「すごくないもの」が、継承されているわけです。

自分が、同時代の表現として可能性を感じるのは、こっちの、どうでもいい、ダメなほうの俳句です。

これは個人的な話ですが、ぼくが、俳句という表現を発見したのは、ある種のサブカル的な心性のなせるワザであったかもしれません。つまり「立派なもの」「美しいもの」を、真っ正面から指向することを逃れて、心にかなうものを探すという性向です。

ただ、この世の「ダメなもの」というのは、ほとんどの場合、ほんとうにダメなんですよ(笑)。「ダメ」な表現物は、当り前ですけど、平板で醜いことが多い。「そこが、かえって、いい」なんて、そんな、甘ったれたことがあるわけない。

だから「ダメ」なものの中に「ダメゆえに実現されるなにかすばらしいもの」があるとしたら、それはやっぱり、すばらしいことだと思う。俳句には、そういう、どうでもいいものや、ダメなものの良さに対する、感受性の蓄積というものが、あると思います。

佐原「それは、書かれた対象がダメということと、句自体がダメというのはまた別ですよね」

それはもちろんそうで、虚子は、積極的に、小さなもの、つまらないものを、俳句の対象にすることを押し進めた人です。落葉やきのこを季題にしよう、冷蔵庫やマスクを季題にしようと、いうことをしているんですが。その一方で、そういうんじゃない、ダメな句というのがある。

それを代表する句が〈川を見るバナナの皮の手より落ち〉です。

ここには、美しいものや、すごいもの、真善美といったものはないです。この世で、よいとされているものは、何もない。でも、ここには、「ダメゆえに実現されるなにか」があると思います。

なぜ、ダメゆえに、かというと、この世で、あらかじめ「良し」とされているものは、かえって邪魔になる場合があるからです。

なにかすばらしいものを「二階」だとして、「二階」に上がることがほんとうの目的なのだとすると、その場合、美とか詩とかいうのは、しばしば「中二階」にあたる。

ほんとうは二階にあがりたいのに、「中二階」を目指して、そこを通って「二階」に行ければ、なんの問題もないんですが、そこに上がって満足してしまうということが起こりうる。それくらいだったら、はじめから、美でも詩でもない、馬鹿げたもののほうが、すぱっと本当のものに達することができる……のかもしれない。美と詩をいっしょにしては、いけないのかもしれませんが、じゃあ、美しくもすごくもないものが「二階」に上がってたら、ぼくは、うれしい。ダメなものが好きだから。

バナナの句は、ある一日に、たまたまあった、そういう放心の瞬間を、描写した句です。

放心の瞬間を、内側と外側の両方から書いている。自分が川を見ている。他人なら行為ですけど、自分なら内面です。いま、自分は川を見ている、という自己意識ともいえないような自己意識があって。その視界に落ちていくバナナの皮です。
「あ、バナナの皮、落とした」。

もう、ほんとに、どうでもいい偶然のできごとが、不朽のーどこからも腐ってこないような、100年は楽に保つと思われる言葉で、語られています。

ここにぼくは、言葉が、美の力も、物語の力も借りずに、二階に上がっている手応えを感じます。

内容ではない。ただもうそれは、言葉の仕業です。まちがっても、ここに無とか空とか、俳人格とかを見てはいけない。それは、錯誤だと思うんです。

〈酌婦来る灯取蟲より汚きが〉ここでも、ある偶然の感情が、永遠の形象を与えられて、我々の前に残されている。これも、具体的なものが、みんな消えちゃう句なんですね、酌婦の像が描けない。酌婦のイメージに灯取蟲のイメージがのっかっちゃって〈より汚きが〉で、なんだ比較かよってなって、具体的な像がみんな消えてしまう。灯りがギラッてなって酌婦と蛾のキメラみたいなものが見えて、ああ、いやなものに触れた、ということが残る。これは、波多野爽波が、虚子の最高の句として挙げている句なんですが、書かれているのは、またしても、まったくいいところのない、むしろ下衆な心性で、それが、みごとな言葉のワザで、定型と内容が、それと意識させないほど一体化して書かれている。

さて。ここでなにが起こっているか。

日常語というのは、話者が、言葉で、先行する指示対象を、指すように言うものです。指示対象に言葉が遅れて現われる、というのが日常語で、言いたいことを言うために、言葉を探す。それは、ものを書くときも同じです。

ところが、あまりにぴったりと過不足無しに言えた言葉というのは、受け手から見ると、その遅れをまぬがれているように、つまり、言葉と指示対象が、同時に出現したように見えるんです。

そうすると、それだけで、言葉が「詩語」として立つんですよ。言葉が「もの化」する、なんてよく言いますが、小さな時間の彫刻のようなものができあがる。

それは、おそらく俳句の定型と、短さに、すごく関係がある。

山本健吉が「俳句が志すものは波ではない。もっと実体的なもの、ひとつの刻印である」と書き「いったん十七音の様式に定着してそこに俳句的イメージを形成するや否や、その様式の時間性は失われる」(「挨拶と滑稽」1946)と書いたのは、まさに、このあたりのことだったんだと思います。

以前は、この人が、俳句は時間性を拒否するとか言うのを、えー、だって時間あるじゃんと思っていたものですが、自分が間違ってました。

もちろん、そこに言葉が読まれていく時間、あるいは、そこに描出される時間というものは「ある」んですが、その幅の時間をふくめた、なおかつ一目ですべてを見て、直覚できるような、彫刻的なもの、そういう表現物が、受け手の側に立ち上がる。うまくやれば、ですが。

こういう言葉のハナレワザは、非常に頭を喜ばせる。「あ、バナナ落ちた」なんてことが、言葉であざやかに追体験できるというのは「なにごと」か、なんですよ。

出来ちゃってるのを見ててもわかりにくいんで、例をあげます。

さる有名俳人の、あまり知られていない句に〈骰子の目の赤き一点山笑ふ〉というのがあって、波多野爽波の句集のタイトルにもなっている代表句に〈骰子の一の目赤し春の山〉というのがある。たいへん珍しい、まったく同じ内容の違う句です。(書かれたのは爽波の句が後らしい)。

骰子の目の赤き一点山笑ふ  
骰子の一の目赤し春の山   

爽波の句は、これ、ある段階に達して、何ごとかを実現している、ていうか、名句ですよね。〈赤き一点〉の句は、、、です。

〈赤き一点〉の句は、頭の中に先行するイメージがあって、それを「言おう言おう」として、言葉が対象を追いかけてしまっている。爽波の句は、そういうかんじがしないでしょう。言ってるというかんじがしない。誰かが言ったというより、そこに生えたというか、昔からあるみたいな、ことわざとか、そういうかんじ。

これが「あまりにぴったりと過不足無しに言えた言葉」というもので、これは、ほとんど、内容と、定型に「言わされている」言葉なわけですから。まったく、話者の責任というものがない。

それを、言葉の側から言えば、言葉が、話者の存在から解放されている、ということになる。
〈赤き一点〉の句は、575にはなってるんだけど、まだまだ、作者が成仏してないわけです。

繰り返しになりますが、虚子の「バナナ」の句や、爽波の「骰子」の句で、なにが起こっているか。

言葉が、定型と指示対象、双方の要求をぴったり満たしたとき。
言葉は、発話という行為の痕跡であることから解放される。

……いや、それがそんなたいしたことか、どうか、分らないんですけど(笑)。自分が、こうした句から感じている、楽しみ喜びを、それこそ地を這うようにして、ベタに言葉にしてみると、こうなる。

その条件を満たしても、下らない句っていうのは、いっぱいあると思います。自分もこういうのに憧れて、いろいろ作るんですが。「スプーンに小スプーンの混じりをり」「電線にあるくるくるとした部分」……、自分のこういう句を見るとね、やっぱり内容も大切なんじゃないかと(笑)、思うんですが。

これは、写生という方法に準備されていて、より明確には高野素十によって、示された行き方です。鬼城・蛇笏・石鼎といった人も、視覚的造形の確かな句を書くんですが、やっぱり物語性とか、季語の情緒とか、それこそ美とか、そういう価値を目指して書かれている。素十という人は、ちょっと頭おかしくて、ほんとうに没価値的に、ぴったり書くだけで、すごくおもしろいですよ、ということを発見したように思います。

昭和以前の虚子の写生句には両方あって、「露の幹静かに蝉の歩きをり」とか、これは客観写生の名作と呼ばれている句なんですけど、やっぱり、けっこう、言葉で追っかけてる句だと、思うんですよ。何を追っかけてるかっていうと、あらかじめ価値とされる、季語の情緒であるとか、美とされるような景を、追いかけている。

それだったら、ぼくは、俳句じゃなくてもいいような気がする。なぜなら、俳句は弱い表現なんで、ほかでできることだったら、そっちにまかせたほうがいい。

〈春寒や砂より出でし松の幹〉
この句は怖い句ですね。お送りした資料(*)で、澁澤龍彦のいっていた、物自体というのは、こういう句のことかもしれない。

(*) 現象世界の事物のひとつをクローズアップすることによって、現象世界の背後から、不気味な物自体がぬっと顔を出したような印象を私は受ける。この石ころ、この大根の葉は、現象であると同時に物自体でもあるような気が私にはする。物自体とは、申すまでもなくカント哲学の概念であり、要するに私たちが見たり聞いたりすることのできる現象の背後にあって、この現象の原因となる不可知物のことである。「物の世界に遊ぶ」(朝日文庫「高浜虚子集」解説 1984)

「幹が、砂から生えている」って言えば、それは、日常的な把握になるなんですけど〈出でし〉という言い方はちょっとした発明で、松は「生えて」るものなんだけど、〈出でし〉という言い方で、視線の動きを取り込んでいるんですね。

ちょっとの言い方で、見えるように言うというのが、俳句の写生というもので、これはカンペキ感に達しやすい道です。

言葉とか意志によって、注意・志向性が働くとき、人は「春寒」や「砂」や「松」をばらばらに分節してしか認識できないんですが、言葉や注意の下でうごめいてる人間の認識は、それら全てに、もっと同時に触れているんじゃないか。その同時にいろんなものに触れているかんじを、この句全体が表象してるような気がします。

ところで、この句には、季語がありますよね。そして、さっきのバナナと違って、この句の季語は、すごく働いている。句の中にものすごい情報量をもちこんでいるんです。

これがなかったら、この句、すごくコラージュめくんです。砂の上に松の写真を切って置いたみたいな、言葉だけ、構図だけの句になってたと思うんですが、ここでは、季語が生きた砂、生きた松を、この場に呼び出しているように思える。

ただ、そのあたりを敷衍することは、たぶん、ぼくの任ではない。あとの回の担当の方におまかせしたいと思います。

ただ、季語自体を価値として、季語というものがいいものなんだから、それに奉仕する俳句がいい俳句なんだ、という立場は、ぼくはよく分らない。外側の価値としての、自然や季語ではなくて、季語が、俳句の中でどう働いているかを問題にしたい。俳句には、自然ってすばらしいよね、ということと関係なく、読むべきものがあると思います。

ともかく、美しくもすごくもないものが、滋味掬すべきものとして、俳句では扱われてきた。バナナの句を、虚子も捨てなかったし、みんなも捨てなかった、という、その針に、ぼくは引っかかったというわけです。

質疑応答 :

佐原「先ほどおっしゃった、違うものを書いて、「二階」に至ろうという言い方だと、やはりある種の真善美の概念に俳句が支えられるという、旧来の「詩的」な価値に戻ってしまいませんか。そういうのとは違う上昇のしかたがありうるということを、こういう句が示していると言ったほうが正確かと思うのですが」

上田「昭和のはじめ以降の虚子は、特にあきれるほど自由で、それこそ俗なものから、崇高なものまで、書いてますけど、その中で、あ、こんなものも俳句になっちゃった、ていうのを楽しんでただけなんじゃないか。特に、方法論を意識するということは、なかったんじゃないかと」

佐原「どうでもいいものを書くということが、至上の目的のように固定化させてしまったらだめだということですよね」

上田「それは、もちろんそうですね」

高柳「発話性から言葉を解放するというのは、意味を伝達するという言葉の本来の機能を、詩によって屈折させるということだと思います。

たしかに〈川を見る〉という句は、そういう虚子の一面の現われた句で、俳句性という意味では信治さんのいうことにほとんど賛成なんですけど、虚子の本質、虚子の面白みがそこにあったかというと疑問もある。

さっき、私が言った俗受けするというのは、マスコミを意識するとか人間関係を意識するとかも、もちろんあるけれど、美の力とか、物語の力を利用するというのも、多分に俗受けに含まれていると思っていて。

やっぱり虚子は美を志向した人でしょうし、既成の世俗の物語みたいなのものを非常に敏感に感じ取って、句に生かした人だったと思う。〈川を見る〉というのは、虚子の中では珍しい句で、偶発的にできたのか、意識的にこういうものを目指して書かれたのかはわかりませんけれど、虚子の中では例外的な句だったと思う」

佐原「虚子が、碧梧桐の「温泉百句」の中のある句に、取り合せが悪い、調和がないと批判している。虚子の価値観の中にはもともと「調和」という観念が入っていたわけですね。だから虚子にとっては、写生という方法から美的なものや主観的なものは切り離し得なかった」

上田「虚子という作家の評価としては、お二人の言われるとおりだと思います。ただ、もちろん、作家の意図に沿って読む必要はないわけで」

高柳「それとも関わってくるところなんですけど、俳句という文芸の面白みはどこにあるか、信治さんの言われたようなことは、むしろ自由詩のほうで実現されるものであって、俳句は美や物語から解放されうるのか。短いからこそ、そう言う力を借りないと見られる作品としてなりたたないんじゃないかという疑問がある。

そのことが、詩であることと同義かどうかは分らない、むしろ、そういう意味では、俳句は詩じゃないかもしれないんですけど、そのことは、やはり、それは虚子を読むときも、俳句を考えることにも重要だと思います。

ほんとに、中二階を経由せずに、二階へ到達することが俳句にとって、価値をもつのかどうか」

佐原「それは子規の考えに近いのかもしれない。ただ、さっきの骰子の二つの句の評価は、それだけではできないと思う」

上田「そう、うーん、あの〈骰子の一の目赤し春の山〉って、美しいんだよねー」(笑)

高柳「その美しさがどこから来るか、ですよね」

上田「そういうことですね」


2007-05-27

山国の蝶 虚子と小諸時代 田沼文雄

〔復刻転載〕
山国の蝶 虚子と小諸時代 ……田沼文雄

                                初出 「麦」1981年10月号


最近、ある俳句雑誌から、「戦後俳句のなかから、秀句五句を選べ」というアンケートがきた。山ほどある戦後俳句のなかから、五句とはずいぶん無理な注文だなと思いつつ、漠然と過去の記憶をふりかえったとき、最初に脳裏に浮かびでたのが、

  山国の蝶を荒しと思はずや

 の一句であった。虚子がこの句を得たのは、昭和二十年五月十四日である。だから厳密にいえば戦後俳句とはいえないかもしれないが、発表されたときはすでに戦後である。この句を最初、世に紹介したのは、翌昭和二十一年の「ホトトギス」五月号であるが、当時、波郷は総合雑誌「現代俳句」を創刊し、その編集に当っていた。そして企画のひとつとして、「現代俳句合評」を誌上に載せた。これは波郷が、選出した句を評者に送って得た評をアレンジして、合評の形で誌上に発表したものだという。

ここで波郷は「山国」の句をとりあげたのである。戦後間もない時期であり、まだ俳句雑誌の創刊も数少ない当時に、斬新な企画とひろく正確な展望をしめしたこの雑誌は、波郷の人気とあいまって、いまの時代にはちょっと考えられぬほどの、注目と関心を集めたのである。「戦後のホトトギスは用紙割当制限で部数は三万を越えるといわれていたが、頁数は貧寒たるものだったが、その末尾の方に裏表紙にかけて『句日記』が載っていた。その年の句でなく、前年だか数年前だかの句日記を順次に発表していた。夥しい句で日常触目、句会即事といった句がぎっしりつまっていて通読するだけでも煩を覚える程だったが、その中から『山国の蝶』の句を見出して私は欣喜したのを思い出す」(「四月八日虚子忌」)と波郷は後年書いている。この「欣喜した」には、波郷の喜びの大きさが如実にしめされていて気持がよい。

波郷は作家として、勿論一流であったが、編集者としての力量も、天性のものがあった。だから、波郷の手によって発掘された俳句も多かったわけで、「山国」の句もそのひとつであった。だがこの直截朗々の趣に、あまり興味をしめさぬひともいる。たとえば山本健吉などそのひとりだろう。健吉氏の虚子に関する論稿のなかで、この句を代表句として挙げているのを、私は見た記憶がない。

氏の現代俳句への深い理解をしめした、代表的な俳句鑑賞『現代俳句』高浜虚子の項にも小諸での同時代の作品からは、

  稲刈りて残る案山子や棒の尖
  虹たちて忽ち君の在る如し
  虹消えて忽ち君の無き如し
  初蝶来何色と問ふ黄と答ふ
  茎右往左往菓子器のさくらんぼ
  爛々と昼の星見え菌生え

 の六句を挙げるのみで、「山国」の句には触れられていない。波郷という純粋な作家の感性と、健吉氏の学究的な感性の違いからいえば、これは当然なことかもしれない。健吉氏の抱懐する俳句の在り方は、滑稽と挨拶こそ固有の目的であるとする原則論の側に立つものであるから、奔放な詩情の流露や、実験的なイメージの造型など認めるわけはない。

それはそれとして、いまふりかえってみると、私がいつ、どのような理由からこの「山国」の句に愛着を覚えるようになっていたかは、ほとんど記憶にない。私の記憶力はきわめて怪しいもので、それが記憶として定着するまでには、かなりのフィクショナルな波に洗われるのがつねであって、記憶のたよりなさは、即人生のたよりなさなのである。だからいま、自分の昭和二十年代の記憶をまさぐってみて、この句との蓬着の事実や感銘の鮮やかさを、ことごとしくのべたててみても、それは自分で自分の肝を冷やすだけのことである。

この句は虚子が、第二次大戦の戦火をさけて鎌倉から小諸へ疎開していた、いわゆる小諸時代の作品のひとつである。そして「昭和二十五年五月十四日。年尾、比古来る」の前書が付してある。年尾はいうまでもなく、長子高浜年尾であるが、比古とは田畑比古のことである。『現代俳句辞典』(角川書店刊)からその略歴をひろえば「明治31年4月6日、京都生れ。本名彦一。料理業。妻三千女(昭和33年歿)は虚子の小説『風流懺法』の三千歳のモデル、三千女と共に虚子に句を学び、『緋蕪』『裏日本』『大毎俳句』の選者を経て昭和31年2月『東山』創刊主宰」と書かれていて、虚子の古い門弟のひとりである。

句集『六百句』には、この前書が「五月十四日。年尾、比古来る。小諸山蘆」とあって、この句が疎開先の小諸の假住居で作られたことがわかる。この句を字句どおりに解釈すれば、折から飛翔する蝶を見つけ、「君たち、山国の蝶ってのは、どこか荒々しいと思わんかね」と呼びかけているそのままを句にしたと見てよいだろう。ふたりの訪れのよろこびが、思わず気持を若がえらせた、そんな気分の昴ぶりさえ感じられる句である。

だが、そういう事実の有無をしらなくとも、この句の明るい広々とした情景、よどみない若々しいリズム感は、それだけでも一級の作品として位置づけられるし、愛誦に耐えうる同化性を持っている。
 さらにこの句の良さは、単純明快なそうした事実の裏で、「山国の蝶」といいながら、「山国」そのものを荒しと言っている、べつの虚子の声も聞えてくるところにある。天空を翔ける一羽の蝶の生の荒々しさを前面に感じながら、その背後の緑樹緑蕪の山国の容貌に、親しみをこめた無言の挨拶を送っている虚子の姿も見えるわけで、たくまぬダブル・イメージとして、新しい現代の感覚さえ匂ってくるのである。

  山国の蝶を荒しと思はずや

私は久しぶりにこの句をくちずさみ、明治の青春と戦後の青春、そして日本人の青春にまつわる一抹の悲傷感を、ひそかに味わっていたのである。

虚子が小諸に住んだのは、敗戦時を中にした昭和十九年九月から、昭和二十二年十月までの三カ年とひと月余である。当時、虚子は七十一歳になっていた。七十歳余の老齢、しかも都会生活になれきっていた虚子にとって、この山国生活がいかに大変であったかは、だれにも想像できることである。まして時代は激変のさなかである。

疎開先は娘の高木晴子の縁で、小諸町野岸の旧家小山栄一氏の持ち家を借りた。八畳と六畳の二間でそこに夫婦と女中の三人暮しであったという。小諸は浅間の山裾、高燥の夏はともかく、秋から冬へかけての烈しい気候風土は、ずいぶんと辛いものがあったはずである。

疎開したのが九月四日だから、それから間もない九月十日、高野素十に宛てた葉書で、「野道を歩いてゐて里人に逢ったらこちらから『お早う』とか『今日は』とか言はうと思ってゐるのですが、つい言ひそゝくれて後悔して散歩してゐます。浅間は姿を現すことを惜んでゐますが、現はして見るとたいしたことはありません。尤こゝから見る浅間は男ぶりのよい方ではありません。うちの雪隠が臭いと言っておばさんがぶつぶついってゐますが、それはうち許りではありません。一体に此辺が臭いのですから仕方ありません。私達は小山氏から丁寧に扱はれてをりまして勿体なく思ってゐます」と報じているが、疎開者の土地へ溶けこもうとする努力や、風土との異和感、そして庇護者への遠慮など、八方への気くばりを早々にして体験していることがわかる。

そして冬に入って散歩や外出が意のごとくならぬときは、縁側散歩といって、三間半の廊下を何百遍となく往復して、体力の保持につとめ、夜は切炬燵で寒さを凌ぎながら、女中に本を読んで聞かすというような日毎であったらしい。綿入れの和服を兵庫帯で結び、防寒頭巾で顔中をおおい、わずかに目だけだしている着ぶくれた写真も残されているが、ここには鎮然たる巨匠のおもかげはなく、まさに山国の老爺そのものの姿だけに、哀れさえ感じるのである。

「元旦だと思って七時に起床。おつねは餅の代りに強飯を炊いていた。元旦に餅のない正月をしたことは、生れて六十五年、今年が最初なりと断定しても恐らく間違いでなかろう。長良(次男・病中=筆者注)は強飯をお粥にして食った」と昭和二十年の元旦の日誌に誌したのは、同じ長野県の伊那谷に疎開していた森田草平である。

また里見弴の愛人、遠藤喜久も小諸に近い上田市在に疎開していたが、同じ二十年の八月三日の弴への手紙に「今日はジャガイモの配給でした。そちらも配給になりましたか。この間うちからのべつ食べ続けてゐるので、みんな少々うんざりのていでございますが、まことにもったいないことで……」と書いている。いずれの疎開者も悩みは同じであった。虚子の食生活など、どのようなものであったろうか。いわゆる非農家とよばれた疎開者たちが、余分な食糧を手に入れるのがどれほど困難であったかは、いま五十歳代から上のひとなら、だれでも苦い記憶として思いだすことのできる事実である。『小諸雑記』の一章に、餅をつくから食べに来ないかといわれ、小諸から四、五駅先までいって、そこからさらに小一里先まで餅を食べに行った話が書かれている。

これなど、少ない虚子の食べ物に関する挿話のひとつだが、小諸にいても旅行、句会などで他出することの多かった虚子には、一個所にじっととどまっての生活を余儀なくされた他の疎開者とは違って、日常での飢餓感など、さほど感じることもなかったのだろうか。しかし昭和二十二年四月の山口青邨宛ての便りには「一月半寝ました。やうやく二三日前より起きて縁側の椅子に掛け、又臥せるといふやうになりました。(中略)まだ半月か一カ月は静養する覚悟でなければならぬだろうと思ひます」と書いたりする大病もするのである。

そして「三年余り小諸の山居に仮寓致して居りましたが、子供達が冬の間だけでも鎌倉へ帰ったらどうかとしきりにすすめますので、この冬だけでも帰ることにしようと思ひます。小諸の山蘆はそのまゝにして置きまして、俳句を作る方に留守番をして貰ひます。十月二十四五に帰らうかと思ってゐます」と「ホトトギス」の「虚子消息」に書いて、昭和二十二年十月二十五日、鎌倉へ引きあげるのである。

「私は小諸を去ると決心した時に、杖をついていつも通ってゐた散歩の道を一巡して帰って縁に腰を下した。其時目の前に咲いてゐる紫苑を見た。此の紫苑は昭和十九年の九月に始めてこの家に来た時分に門に入ると、見事に咲いてゐた紫苑であった。盛りの長い其紫苑の花は、常に私の目の前にあった。泊雲の死の伝はった時も、此紫苑が目の前にあった。終戦の詔勅が伝はった時も、此紫苑が目の前にあった。其他くさゞの出来事の時も、常に此紫苑が目の前にあった。軒に聳えてゐる浅間山とともに、此紫苑は常に私の目の前にあった。今此地を去らうとする場合にあって、縁にかけて見る此紫苑には、名残の惜しまれるものがあった」(「紫苑」)という感懐を残して虚子は小諸を去った。七十三歳と十カ月の時である。

この小諸での三年間の生活は、日常的な苦痛は別として、作家としての虚子には、大いにプラスになったのではないかと思う。目新しい風物、峻烈な四季の気候など、老作家の気力をふるいたたせたとしても、それは不思議ではない。名作『虹』を生んだ森田愛子たちとのみずみずしい心の交流、それに俳小屋での末娘章子の夫泰を中心とした稽古会など周囲からの若い情熱も虚子のはげみとなったことであろう。

虚子の長い作家歴を区分して、たとえば明治期、大正期、昭和前期、昭和後期と分けたとすれば、この小諸での三年間だけは、いずれにも属さぬ独立した三年間であり、短くはあるが、他のどの時期と比しても、遜色のない三年間である。いや、むしろこの三年間こそ、作家虚子の名の礎ともなる三年間だろうと思う。

「父の句集に『小諸百句』というのがある。この百句は父の小諸時代の作句の代表句であるが、私はこの百句に父の澄んだ力を見出すことが出来る。戦前の父の句の傾向の中に無いとも云える作句が数多く発見出来る。句境として父は浅間山麓の四季の中に足を踏みしめ、大自然の中に全く解け込んで居った。作句の中に父の息吹を感じとるのは私ひとりではないと思っている。考えようでは戦争疎開ということが、父にその機会を与えてくれたと見てよいとも考えるのである。私は後世の俳人が父のこの小諸時代を高く評価することがあると信じて居る」(『父虚子とともに』)と後年年尾は書いているが、私もまったく同感である。

しかし『小諸百句』は正確にいえば、小諸時代を代表しているとはいえない。収録されたのは刊行された昭和二十一年十二月以前の約二カ年の作品からえらんだもので、あとの一年余りの作品は、『六百五十句』(昭和三十年刊)によらねばならないが、ここに年代順に佳句をいくつか拾ってみる。

  秋の風強し敷居に蝶とまり      (昭和19・9)
  浅間かけて虹の立ちたる君知るや   (19・10)
  汝が盛り久しかりしも紫苑枯れ    (19・10)
  山国の冬は来にけり牛乳(ちち)を飲む(19・11)
  雪深きことはたゞごと山に住み    (20・1)
  蓼科に春の雲今動きをり       (20・3)
  浅間嶺の一つ雷訃を報ず       (20・8)
  大根を鷲づかみにし五六本      (20・11)
  地にとまる蝶の翅にも置く霜か    (20・12)
  有るものを摘み来よ乙女若菜の日   (21・1)
  初蝶来何色と問ふ黄と答ふ      (21・3)
  稲妻にぴしりぴしりとうたれしと   (21・5)
  小諸とは月の裾野に家二千      (21・9)
  冬籠人を送るも一事たり       (21・12)
  春雨のかくまで暗くなるものか    (22・4)
  茎右往左往菓子器のさくらんぼ    (22・7)
  惨として日をとゞめたる大夏木    (22・8)
  濁りしと思へど高し秋の空      (22・8)
  爛々と昼の星見え菌生え       (22・10)

これらの句を通読して、虚子の張りつめた気息と清新な情緒の展開に、年齢を感じさせない若さを感じるのである。

虚子は若くして老成した作家だった。たとえば一代の傑作とされる、

  遠山に日の当りたる枯野かな

の句は、明治三十三年、二十六歳のときの作である。この茫漠たる大景によせる心境は、生死を達観した老熟者の安らぎさえ感じさせる。そして花鳥諷詠をとなえ、客観写生とは花なり鳥なりを向うにおいてそれを写しとることで、自分の心は表にだしてはならぬ、という指導方針をつらぬき通したひとである。だから、生涯の作品を通観すれば、そこに浮きでてくるのは、「桐一葉日当りながら落ちにけり」(明治三十九年)であり、「流れ行く大根の葉の早さかな」(昭和三年)であり、「去年今年貫く棒の如きもの」(昭和二十五年)なのである。

そうした一種の諦観めいた雰囲気は、日本人の心理構造によく合うのである。ようするに、すべてほどほどにという、曖昧さへの共感が虚子の作風をそだて、虚子を中心とした俳句大衆化運動となっていたのである。

だが小諸での環境の変化が、そのベールをはぎとったと言ってもよい。そした従来あまり持続してみられなかった抒情主体の名作を、つづけてこの期に生みだしたのである。

小諸は臼田亜浪の出身地ということで、むしろ反ホトトギス的な土地柄だそうである。だから虚子の疎開も、地元へ与えた影響は、微々たるものであったという。疎開当時は物珍しさもあって関心をしめしたが、虚子の対象も、あくまで全国的なホトトギスの人たちであったから、各地へおもむくことも多く、しぜんに地元との交流も薄くなっていったようで、鎌倉へ引きあげたあとでは、ほとんど忘れられた存在だったという。このことも、一面、虚子に幸いしていたといえばいえぬことはない。煩瑣な人間関係をつくってしまうと、それが従来の虚子のサービス精神を表にだすことになって、あの名作群を生む機会を失っていたであろう。疎開者虚子としての疎外感が、創作意欲への集中となったと、いえぬことはないだろうか。

「小諸といふところに来た時の直覚は何となくすべてのものが荒々しいといふ感じであった。家の建築でも、土地の耕作でも、人の挙措でも、また言葉つきでも何処となく荒々しいといふ感じであった。九月始めに移って来たのであったが、だんゞに寒さをそゝってくる秋の風が屋をゆるがして吹いて来た。

  秋風の荒々しくも吹きそめぬ

 翌年の春であった。折節来合はせた年尾と比古とを伴って近郊を散歩した。近郊と言っても大概勾配のある坂道であって、それを登ってゆけばそれだけ浅間の頂上に近くなることになるのであるが、その道の両側にある畑には豌豆の花が咲いて居ったり、青麦の畑があったりする。その上を蝶々が飛んで居る。

  山国の蝶をあらしと思はずや

 と私は二人を顧みた」(「荒々し」)

昭和二十一年十月号の「玉藻」にのせられた短文である。ここには「山国」の句の生まれた経緯とともに、小諸での虚子の生活観が、そこはかとなく滲みでていて胸を打たれる。

だから「山国」の句は、虚子の小諸での全作品のモチーフの核とも、原景ともなっている作品であり、それだけに共感をよせるひとも多い句のひとつである。私ももっとも好きな虚子の一句である。



田沼文雄 (1923-2006) 群馬県に生まれる。1947年、「麦」入会。1989年より2004年まで「麦の会」会長を務める。句集に『田沼文雄句集』『菫色(きんしょく)』『即自』など。

※「山国の蝶…虚子と小諸」は関係各位の許諾を得て転載させていただきました。


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