俳句とは何だろう ……鴇田智哉
第9回 俳句における時間 9
初出『雲』2007年9月号(改稿)
実験の二日目。
住宅の塀に沿って走っていると、塀の上に突然、長い耳の垂れた犬がぬっと顔を出して吠えてきた。揺れている耳が髪の毛のように見えて一瞬、人かと思い、どきんとしたが、しばらく走りながら、これを句にしてみようと思いついた。季語はどうしよう。さらに走りながら考える。さっきの家の塀に三椏の花が見えていたような気がする。そこで、
人の顔の犬が顔出すみつまた咲く
となった。
家に帰って見てみると、この句もちょっと、「意味」にしばられているようである。特に〈人の顔の犬が顔出す〉の部分が説明的で面白くない感じだ。
あとで、犬でなく三椏を主人公にして直してみた。
三椏の花が人間めいてくる
実験の二日目を終えて、私はちょっと方針を変えることにした。頭を使ってしまっている原因は何か。その原因の一つは、無理に季語を入れようとしていること。もう一つは、何かを「見」て、それを言葉にしようとしていることだと思った。さっき私が書いた文では、「しばらく走りながら、これを句にしてみようと思いついた」という部分と、「季語はどうしよう」という部分がそれにあたる。走っているのに、あたかも机にいるときのように考えてしまっているのである。頭をできるだけ空っぽにした状態でやりたい実験なのに、そこがうまくいっていないのである。
そこで私は、ひとまず、季語はなくてもよいことにした。
また、必ずしも何かを「見」てはいなくても、ふと思いついた言葉や、口をついて出た言葉を大事にしてみようと考えたのである。
それから、できるだけ五・七・五には近づけるのがよいけれども、そうなっていない断片的なものができた場合でも、それを残すことにした。
三日目。
走っていて、こんな断片が口をついて出た。
とんでみてくれザリガニなら
しばらく走っていると、もう一つ出た。
壜なんて澄ましてばかり
これら二つのフレーズは、走っていて、かなり頭が空っぽの状態で出てきたものであるが、どちらも何らかの意味は表している。言葉というものは、もともと意味があるものだし、その上で更に、普段使い続けているためか、やはり意味を伴って表れてくるものだと思う。言葉である以上、「意味」というものはどのようにであれ、必ず生じてくるということがわかる。ともあれこの言葉が浮かんだとき、走っている自分が置かれていた状態としては、「1」の時間、つまり「?の時間」にあったといえる。
ところで、〈ザリガニ〉の方は上五を付け、〈壜〉の方は、下五に何か季語を付ければ俳句になりそうである。
火星までとんでみてくれザリガニなら
壜なんて澄ましてばかり雲の峰
一句目は、理屈っぽい青年が作ったような句になり、二句目はすねた女性が作ったような句になった。口をついて出た言葉を生かそうとすると、意外と、作者の人格が固定されにくいことがわかる。
四日目。
走りながらふと、「自動車には顔がある」と思った。つまり、ヘッドライトが、人の顔の「目」に見え、バンパーやナンバーが口とか髭とかに見えるのである。車の後ろ、テールランプの方も顔に見えることがある。その日、一台の車が、私を追い越していった。テールランプが灯っており、それが顔に見えた。なんともいえない、塞いだ表情をしていた。そのとき、
けむしい。
という言葉が口をついて出た。そのテールランプの、塞いだ顔がそう言っているように感じたのである。「けむしい」などという言葉は存在しない。今考えると、「けむたい」と「さみしい」を組み合わせた造語のようでもあるけれど、そのときは、ほとんど何も考えずに「けむしい」と思ったのだった。いつものように、忘れぬようそれを唱えながら走り、家に戻ってから文字として書いておく。
けむしい
けむしいといふテールランプの車
と書いておいた。その日はそれで終わったのだが、翌日、机の上でちょっとした思いつきのアレンジをしてみた。
毛虫いいとか言つてゐる車かな
言葉の音から「けむしい→毛虫いい」「いふテール→言つてゐる」と連想して直してみた。言葉が言葉を生む、ということがある。そこには音感から来るいわゆる「聞き違い」なども含まれる。
前回、実験の一日目に行ったような、「1」の時間を追体験した「体験による推敲」とは別に、「言葉のつながりに沿った推敲」とか「聞き違いによる推敲」という方法があるのである。ただこの句、〈車かな〉では意味が分からなすぎるので、〈車〉を別の言葉に直してみる。
毛虫いいとか言つてゐる教師かな
毛虫いいとか言つてゐる女の子
この二つをもう少し直してみたくなった。さらに直してみよう。
(続く)
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第7回 俳句における時間 7 →読む
第8回 俳句における時間 8 →読む
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