2010-12-26

仮想シンポジウム【「新撰」「超新撰」世代ほぼ150人150句選をめぐって】上田信治

君は定型に、再proposeされたか
仮想シンポジウム【「新撰+超新撰」世代ほぼ150人150句選をめぐって】

上田信治

資料 ≫ 「新撰」「超新撰」世代ほぼ150人150句選

12月23日に行われた、出版記念シンポジウム&パーティー「『超新撰21』竟宴」にお越しいただいた皆さんも、お越しいただけなかった皆さんも、こんばんは。

シンポジウム第二部のパネリストの一人、上田信治です。当日、討議資料として「「新撰」「超新撰」世代ほぼ150人150句選」というものをお配りしましたが、時間が足りず、内容について十分にご説明ができなかった。本日は(本当はこんな感じでしゃべれたらよかったのに、と)しゃべる速度で、キーボードを叩きますので、しばし、お付き合いください(遠慮なく自分で(笑)とか書きますが、そこは、どうかお気になさらず)。





「ほぼ150人150句選」の成り立ち

司会:今年は「ゼロ年代の100句選」が、髙柳さん、高山さん、上田さんと、3通り発表されました(いきさつは、リンク先で)。

≫ 「豈weekly2010/6/6号」豈weeky版ゼロ年代百句 検討篇

≫ 「週刊俳句2010/6/17号」テン年代の俳句はこうなる 私家版「ゼロ年代の俳句100句」─解説篇─ 

それで、今回、討議資料として、『新撰21』『超新撰21』の入集基準(2010年元日時点で50才未満、2000年以前に句集・主要俳句賞の受賞無し)による人選で、同様のアンソロジーを作られたわけですが、ほぼ150人150句という、ふくれあがった規模になってしまった。

上田:はい、もともと、各集の21人から、1句ないし2句、有資格の小論執筆者からもなるべく1句ずつ、と、これでもう60人弱になります。

さらに、どうしても入れたい人や、公募2枠に応募してくださった人、さらに、シンポやパーティーの出席者の名簿がちらっと目に入ってしまい(笑)、いつの間にか、こういう人数になりました。といっても、それは、ぜんぜんサービスとかいうことではなくて、作品は全部すばらしいので、自分が責任を持ちます。

というわけで、ここに集まっているのは、楽に「新撰21」が、もう1、2冊出せる人数の作家と、それと、いつでも取って代われる愉快な仲間達(笑)、というわけです。

司会:このリストの特徴は、前回の100句選につづく「5分類」だと思いますが、この分類は、どうやって出来たのですか?

上田:ゼロ年代100句という企画、自分が3人目だったので、何か趣向はないかな、と思って、「テン年代の俳句はこうなる」っていうあおりを思いついたんですね。よし、と思ったんですけど、え、どうなるんだろう……って(笑)つまり、完全に「あおり」先行の発想だったんですけど。

で、その、いろんな人の句集を読み、年鑑を読み、結社誌を読み、して一句ずつ集めていくんですけど、何十句か集まると、いくつか傾向のようなものが見えてくる。

ただ、その伝統派がいて、前衛派がいて、俳壇の主流となっているのは、こういう感じで、っていうふうな「陣地分け」をやっても、それは止まっている分類なんで、これからこうなるっていう答は見えてこない。

それで、なんとなく俳壇主流の考え方とか、エコール(流派)本意の分類を消しててみたら、ですね、個々の作家の、微細な志向性、ベクトルみたいなものが見えてくる──これが、まあ、工夫のようなものです。


◆1過去志向=擬古典 ロマン主義 反時代性 「季語」が価値

司会:れ○なさんとしては、ここに分類されて、OKでしょうか。

れ○な:もちろん、私は、The Last Romanticをもって任じていますし、先ほど自己紹介で申し上げたように、はじめから近代俳句ではなく、芭蕉・蕪村を手本に書いてきましたから、異存はありません。いっしょに並んでる人たちをみると、どうかなあ、と(笑)思うところはありますが。

上田:れ○なさんや、週刊俳句のほうの100句選の八田木枯さんや真鍋呉夫さんと、いわゆる「伝統」派の人をいっしょにしているのは「伝統」派に対する、問いかけの意図がありました。

ロマン主義っていうのは、いろんなジャンルとか国に広がってますが、だいたいが、過去に物凄くすばらしいものがあったと仮構して、それをもの狂いのような思い込みと情熱で、よみがえらせると信じる、というものです。本居宣長とか、保田與重郎とか、狂王ルートヴィヒとかそういう人の考え方のことです。

自分としては、季語、自然、伝統というのものに、価値を置いて書くためには、それこそ、もの狂いのような思いが、必要だと思うんですよ。そこには、本当ーっにすばらしいものがあるんだ、というまあ、はっきり言ってしまえば、信仰心に近いような思いが。

一句以前に、先行する価値ですからね。信じているもの同士には、さらっと書いても、目配せで通じるんだろうけど。ふつうの日常的な意識から飛ばないような書き方では、信仰を共にしない人には届かないんじゃないだろうか、と。

本日のパネリストの(女性俳人)さんと(女性柳人)さんは、季語の価値というような思考とは、あまり関係ないタイプだと思いますが、分類1の作品を読まれてどうですか。

女性柳人:俳句を読んだという感じはします。

女性俳人:すらすらと読めて、よく分かりますが、どこが面白いのかはよく分からない(笑)。

上田:〈5 山を出てあやめの水になりにけり 庄田宏文〉とかは、素晴らしいと思いませんか。ぐわーっと、地形が見えてくるし、こういう言い方したくないですけど、ほとんど地霊の声のようなものが聞こえてくる。

女性俳人と柳人うーん。

海洋生物学者俳人:それは、いい句ですね! 

上田:でしょう!?

会場から質問:『超新撰』に小論を書いたものです。私は、自然の価値、あるいは自然の生命力というものは、人間も肉体を持つ以上、自然の一部ですから、信仰の対象ではなく、現実の価値だと考えますし、それを表現することは、表現を基礎づける価値となりうると考えますが。

上田:たしかに。自然とか、原始的心性とか。わざわざ信じなくても、身体的条件、歴史的条件、言語的条件に、入ってしまって意識できないような記憶になっているものはありますよね。そういうものを、ゆさぶるものこそ詩なんだ、っていう考え方は正当です。だから、自然は素晴らしい、っていうことを、死にものぐるいで信じる、っていう方法はあると思います。〈あやめの水〉に、私が感動したのは、そういうことかもしれない。

会場にお越しの(60代女性俳人)さんに、ご発言いただいても、いいでしょうか。○○さんに『超新撰』をお送りしたら、私の作品について、好意的に見ていただきながらも、「季語が使えてない」「まだまだ」と、ご指摘くださって(笑)、自分はやっぱり、どこか、大事なことが分かってないのかもなー、と思わされたのですが。

(会場にマイク渡る)あ、じゃあ、作句歴も浅いものが、訳も分からずお訊きするんで、失礼の段はお許しいただきたいのですが、あの……季語の価値というものは、季語の価値を認めるもの同士にしか通用しないんじゃないか、という、疑問をもつ、馬鹿な合理主義者がいるとしたら(笑)、どう答えられますか。

60代女性俳人:○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○。

上田:なるほど。分かりました(笑)。

司会:上田さんは、以前「週刊俳句」の100句選の解説で「現代にはっきり背を向けて、はじめて、俳句には「偉大さ」へ通じる道が開ける──これは直感です」と書いていましたが、あれは、どういう意味ですか。

上田:えーと、ほんと直感なんで、たよんないですが。あの、過去に向かう人って、大きなものが好きなんですよ。あるいは、句柄が大きくなる。反対に、現代に居続けようとする人は、小さなものに執着する。かたや〈詩歌の国や大旦〉かたや〈ダウンジャケット継目に羽毛〉ですから(笑)。たぶん、これって歴史の遠近法が人の意識に影響をおよぼすんだと思うんですよね。直感ですけど。 

ロマンチシズムっていうのは、偉大さの中へ溶けて行ってしまおうっていう志向。ともすれば、誇大妄想と親和性が高い。等身大、なにそれおいしいのっていう話でしょ、本来。だから、季語とか自然を、ふつうの常識的な感情のスケールで描くっていう、平成俳句の一傾向には、ちょっと疑問があって。なんかそこに、もう一要素、猿丸さんに見られるような現代性とか、象徴性とか、無感情とか、をかまさないと面白くならないような気がするんです。


◆2超越志向=強度重視 精神世界 「前衛」的

上田:以前「円錐」誌で、澤好摩さんが「前衛」あるいは「前衛俳句」という括り方はまったくナンセンスで、自分たちこそ、俳句として当り前の俳句を書いている、という意味のことを書かれていて、たしかに「前衛」という言葉が、作家や作品を、ゲットーに押し込めるような、働きをしていた面がある。だから、自分が「前衛」「伝統」と言う時は、常に括弧つきで言っていると思っていただけるとありがたいんですが。

ただ、戦前戦後の前衛芸術運動の影響を受けた、語法が独特な、了解性に重きを置かない、具体的な指示対象をもたない言葉の使い方をするエコール(流派)があることは、間違いない。ただ、語法の問題は本質ではない、と、自分は考えますし、その人たちだけで分けると、孤立したみたいで、真価が分からなくなるんで、精神的な志向性みたいなもので括ってみた

超越志向っていうのは、たとえば、芸術と宗教が不可分だった時代に、人が祈ったり何かを作ったりするとき、その思いが向かった先を志向する、ということで。それは以前田中裕明シンポジウムで、四ッ谷龍さんが「私は人間のため、人生のために俳句を作っているとは思わないんですね。神様のために作っていると思っています。神様ということばを気に入らない方には、人間を超えた未知の力のためと言ってもいい」と言われていたのと、同じことだと思う。

せっかちなんですよ(笑)。彼方のものに触れようとすることは、詩や芸術の本分として当然なんですけど、もう、直接触りに行かずにやまない、という人たちがいる。描写とか、具体物を介してということをしないわけです。

司会:(女性柳人)さんは、意味了解性の低い書き方をされますけど、ご自分が、せっかちだというふうには思われますか。

女性柳人:○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○。

上田:なるほど。

一方で、いわゆる伝統的な作家と見なされている人でも、たとえば村上鞆彦さんとか、言うことは保守的ですけど、あの人が触れようとしているのは、個人的なひじょうに繊細な感覚の世界で、超越性に対する、強い志向があると思います。冨田拓也さんとタイプが似てる。あと、相子智恵さんの場合は言葉のパワーが強くて、具体的なものを描いても、幻想的なものをわしづかみにしてしまうんですね(笑)。


◆3表面性=ミニマリズム ただごと 遊戯性 「写生」

司会:これは上田さんの領域ですよね。

上田:はい。このグループであつかう作家あるいは作品は、前2グループに比べて、言葉に対するニヒリズムがあるように思います。そんなに言葉で偉大なことができると思わないし、いきなり超越的なものに触れられるとも思ってない。ひょっとしたら人間とか芸術もあんまり信じてないかも。それでも作家か、何しに来たんだっていう(笑)話になるんですけど。

その代わりと言ってはなんですが「意味づけされない現実に対する愛」っていうものがある。たぶん。その価値は普遍性が高いと思う。なんでかっていうと、日本語より深いレベルに基盤がある価値だから。

あと「ただごと」に、どういう芸術的価値があると自分が考えるか、については、「週刊俳句」に長く書いたことがあるので、関心のある方はお読み下さい。

≫「ただごとについて」(「週刊俳句」09/6/28~7/12号)

司会:(海洋生物学者俳人)さんの扱う自然ていうのは、ぜんぜん季語ではないんですよね。

海洋生物学者俳人:はい。季語には、いろいろ荷物が載っていて、ロマンとかが含まれているんですけど、季語ではない「ほんものの自然」というものも、俳句になるというふうに考えています。それで、自然のことを描いて、そこに季語を入れたりして、いろいろやっているんですけど。

上田:ロマンではない自然、価値付けされない自然を描くっていうのは、素の現実を描く。そこに、別次元のものが現れる、っていうのは、ある種の「客観写生」とかただごとに接近すると思います。

司会:3と4はかなり、重なっているというか、入れ替え可能なところがないですか。

上田:あ、グループの1と2は「あっちの世界」を希求する、という意味で、近いし、3と4は「あっちの世界」に一見そっぽを向いている、という意味で共通点がある。んーでも、私には、かなりはっきり分けられるんですが。

たとえば3なのに私が出てるっていう意味では〈64 をかしくてをかしくて風船は無理 辻村麻乃〉とかって「私」像が結ばれないですよね、意味が分かんないから。この無意味さは、実は別次元を見よ、っていうサインになってる。つまり、この世的な感情、心性を離れたところに句の実質が立ち上がっている。〈79 髪洗ふ途中で今日も目を瞑る 松尾清隆〉も、これ、そういう私っていうことが言いたいんじゃなくて「人間ってそういうもの、なんの意味もないけど」っていうことが書いてあって「心」じゃない、問題は。

4で、3っぽいのって〈122 貨車ちやいろみづいろちやいろ終戦日 藤幹子〉とかですかね。でもこの「終戦日」の置き方って、私は、その日、終戦の日であることを思った、っていうことだと思うんだけどな。どのへんが、区別付かないですか。〈104 散文的に茹ではうれん草とスパゲティ 久野雅樹〉も、「…という私の散文的な生活」という句ですし。

会場:4に入っている〈121 バス停留所ポール移動や山車出すため 今村豊〉とかって、いわゆるただごとなんじゃないですか。

上田:自分の解釈ですけど、そういう、「おもしろいところを見た」っていう描写は、「ただごと」の表面性は獲得していない。むしろ、「はい、私、見ました!」っていう句だと思うんです。

女性柳人:〈○○○○○○○○○○○○○〉とかは、むしろ4かと。

上田:あ、それは、そうかもしれません(笑)。

女性柳人:この3、4のグループになると、私には、川柳とひじょうに近いところを扱っていると、感じられます。


◆4私性=ノーバディな私による「私」語り

司会:ここで「ノーバディな」私という、限定というか留保がつけられるのは、なぜでしょう。

上田:なんか、すんなり「私」って、言いたくなかったんですよね。輪郭の定かでないような自分が、ミニマムな景に、かそけき自分の声を寄り添わせる。ミニマムな景に追い詰められているというか、外の世界が切り詰められてしまった結果、息苦しいリアリティが立ち上がってくる。

(女性俳人)さんは、もひとつ物足りなかったですか、こういう表現。

女性俳人:そうですね、すこし、ふわふわしているようで。

上田:あ、「ノーバディ」っていうのは「誰でもない」と「NO=BODY」っていうのと、掛けています。だじゃれっぽいですけど。それに比べると(女性俳人)さんの主体は、かなり鮮烈ですもんね、輪郭が。それを近代文学的主体のように思われる人もいるかもしれないんですけど、(女性俳人)さんの場合、いろんな人に憑依するじゃないですか、そのへんが、やっぱり同時代かなあと。

あの会場のカランさんに伺いたいんですけど、こういう俳句の表現と、短歌の「私」性と、共通点、相違点てありますか。

カラン:えー、急に振られて困っておりますが、いつの時代の短歌の「私」か、によって、ぜんぜん違うんです。んー、短歌の現在においては、〈私〉は「てにをは」のレベルで語られるのですが……こう拝見すると、このグループ4の「私」は、わりとそのまま、素材レベルとしての私にすぎない、という印象です。

上田:わりと素朴な「私」だな、という。

カラン:そうですね。

上田:たとえば「てにをは」というのは、「現代詩手帳」の「ゼロ年代の百首」にも選ばれている〈わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる 永井祐〉って、この〈別に〉っていう言い方とかに私性が、濃く託されているってことでしょうか。

カラン:○○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○。○○○○○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○。○○○○○○○○。

上田:ふむふむ。この永井さんのと〈90 コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希〉や〈106 冷蔵庫まづは卵を並べけり 後閑達雄〉は、ねらってるところが似てるような気がするんですが。あるいは〈たすけて枝毛姉さんたすけて西川毛布のタグたすけて夜中になで回す顔 飯田有子〉は、同じ紗希さんになっちゃうけど〈89 ヒーターの中にくるしい水の音 神野紗希〉と、通底していないだろうか。俳句の側が影響を受けてるという可能性もありますけど。

カラン:○○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○。○○○○○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○。○○○○○○○○。

上田:なるほど。あと、文体の革新というのは、しばしば「私」性とか個有性の性急な打ち出しに動機があって、御中虫さんとか、種田スガルさん、高遠朱音のような表現がある。この10年ほど、標準的文体の優位性が言われすぎたことへの、逆噴射かもしれない……選者の側の(笑)

あと、神野さんや相子さんが、数年来、俳句に「主題」を取り戻したほうがいいのかな、的なことを書かれていて、でも、俳句の外側によさげな主題を設定するというのは、社会性俳句の踏んだ轍で、たぶん、主題なんて、馬なりで、俳句に探させるしかない。

ただ、その場合にしても、あらかじめ俳句の外側にある唯一のものが作者だと思うんで、けっきょく自分探しというか、出会うべき主題も「自分」。つまり俳句の外側を考えると、ヒューマニズムに戻るはめになるんですよね。いや、でも、ある種の、人間探求派復活は、あるかもしれない。予想屋っぽく言えば。

あと、あの会場の〈93 箱振ればシリアル出づる寒さかな〉の作者の方、「私」グループに入れられていることとか、ご異存はないでしょうか。

サルマル:○○○○、○○○○○○○○、○○○○(笑・拍手)。

司会:なるほど(笑)。


◆5「    」(空項)=一回転した物語性・内面性

上田:これまでの4分類というのは、作者がそれぞれ、個有性に条件付けられつつ、ばらばらに試行を進めているベクトル、4種だったと思うんですが、この5番目は、ま、それぞれの句が複数のあるいはすべての領域をふくんでいるし、ひとつ頭が抜けている感があって、試行の例としてはふさわしくないと感じられたものです。すでにして名句感があるというか。目指すってもんじゃないのかもしれないけど、時代の成果としてあげておきたい句。

司会:はじめの100句選では、このグループに金子兜太とか入っていて、大物揃いでした。年齢で区切った選で、このグループに入る句があるのかな、と思いました。

会場:いかにも上田さんの選句、っていう感じがしました。

上田:あー、そうですね。自分が好きなものを入れちゃってるかも。

司会:100句選では、寓話性・説話性とされていたのに、「    」(空項)に換えたのは、なぜですか。

上田:あ、これ、たとえばセキさんだったら「異界性」っていうと思うんです。やっぱり、句にね、向こう側に通じるよう穴を「開ける」というか「穴を立ち上げる」ようなことが、大事かなと思うんです。

どんな句でも、向こう側無しには成り立たないんで、そういう意味では同じなんですが、そんな大きめの穴が開いたら、その向う側に、セキさんは「異界」を見る。そこに「美」や「共同体の理想」や「日々の幸福」を見る人もいて、さまざまなんですけど、自分は、振り捨ててきたはずの「物語」や「内面」を見出す。

それで、はじめに「説話・寓話性」って言ったんですけど、たとえばモロに説話・寓話的な句って、土肥あき子さんの〈水温む鯨が海を選んだ日〉とかあって、もちろんいい句で、髙柳さん高山さんの100句選にも入ってますけど、マイ名句とは、ちょっと違うんですよ。

それが「一回転した」と限定を付けたくなったところなんですが、それにしても、俳句はもろに象徴や寓話をねらっていくと、あんまりいい句にならない(当り前ですね)。だいじなのは「    」つまり、より高く名付け得ないものに形を与えることです。

これで、とりあえず、5分類の説明は終わりです。なにかご質問はございますか?



登場する俳人、歌人の発言は、当日の控え室や二次会での発言の印象から、再構成した人格に言わせているもので、文責はすべて上田にあります。

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