〔週俳10月の俳句を読む〕
堀本 吟 現代俳句の帰結その他
1 横書きは読みにくいなあ
このウエブマガジンは人気があるというので、好奇心が湧いてはいるが、私としては、依然としてこのスタイルの句の並べ方には馴染まない。が、これも慣れの問題だろう。
ともかく、九月三十日号から十月二十八日号までの七人の七十句、つらつらと句群を眺めた。この量では作家としての全体の輪廓がよく分からないが作家論が期待されているわけではない。出された言葉そのものを読み切る、そういう作品評の場である。そう、ここは読み切り雑誌のページなのだ。にしては一行の文字面を読み下しながらしみじみ味わうという縦書き俳句があたえる楽しみにちょっと及ばない。といっても、別の視点からみると、縦書き俳句は溢れてはいるが、しみじみ〜というのがすくない不全感は、他の総合誌や同人誌の句についても同じである。それはこの雑誌の本質的な欠点ではないのである。ともかくもこういうメディアが出てきたんだなあ、と私はもともともの解りがいいヒトなので、つくづくとながめ、しみじみ考える良い機会となった。
最初はどれもいちおう手触りが(目触り?)がなめらかである、句のかたちがととのっていて抵抗感がすくない。破綻がすくない。それを、「巧い句」「良い句」というべきだろうか?「俳句は、巧くなければいけない」、とある友人が言った。私は、俳句をあまり巧く作れないヒトなので、こういう意見にはおたおたするが。巧さを愛でるときと、しみじみ良い句だなあ、とおもわせるものにあう楽しみ、その両方がここにもあった。
2 「俳句」2007年11月号の筑紫・櫂発言
ところで、「俳句」十一月号誌上、鼎談で、大輪靖宏、筑紫磐井、櫂未知子のはなしは、現況のインターネットを使った句会や俳句青年の関わり方にはそうとう否定的である。ネット句会に、集まる若い人を、「句会や自作の発表を軽く見ている」「勝負の場」とはみていない、と櫂などは、かなり真剣に非難している。これは、どう取ればいいのだろうか?ここに挙げられたモノにも句会、それもネット句会での作品がいくつかはあるはずだが。あまり拘りを感じない。
さいばら天気が、この鼎談の流れについて「ネット句会と週刊俳句は違う」、といなしていたが(10月28日号)、それはそうだ。筑紫発言「安倍内閣とおなじでお友達俳句会の様な気はする」。これも、当事者としては神経を逆なでされただろう、でも、『俳句』の誌面自体が、いまや巨大な規模のお友達関係のメディアに見えるし、「現代俳句協会」でも、「豈」でも、協力関係のあるところでは潤滑油として良い意味で仲良くならねばなにもすすまない、とくに日本では。例の安倍さんはかわいそうなほどあっち立てこっち立ての律儀なヒトだったんだろう。政治の場と文学の場はすこし違うが、週刊俳句は始まったばかりのメディアである。仲良しグループ自体は上り坂のときには、良い活力源となるはずだ。大きくても小さくてもメディアは公器であるから、読者を馬鹿にしたなれ合いは困るけど、そういうようには見えない。
だが、この鼎談のポイントは、週刊俳句賞の応募作品の選考委員をした筑紫磐井の感想の方が大事ではないだろうか?
筑紫「普通の句会や他の賞の選考のときとは、感じが違うなという印象はうけました。櫂さん、あの応募作品の傾向、わりとみな均一化されているとは思うませんでしたか」。櫂「しました。/あのホームページを見に行っている人が応募したのだから、どうしても運営している人たちと近い人が多かったですね。個性という点では淡かった」。筑紫「安倍内閣と同じで…云々」。とつづく。
二人のはなしがおむむくところ「言葉も、そこでした約束も軽くなっている。インターネット全般の傾向」(筑紫)。「句会を勝負の場だと思っていない」(櫂)。句会は顔が見えすぎると言う弊害もあるから、私も時々は、別の方法をかんがえぬでもないが、臨場感というなら、やはりそこに行かねばわからぬものがたくさんある。いますぐに結論の出る話ではないが、ネット俳句の定着をはかっているひとたちは、こういう意見に対して、とくにお互いの顔が見えない、無名化への懸念を、本気でひきうけるのかどうか、というところに立っているように思う。
だいたい、その時代の流れに乗って、一番新しそうなことをするのが未熟な(失礼!)青年の特権であるから、一見軽いと言うことだけでは、彼らのその作家精神ははかれない。結社のお友達関係、師弟関係を基盤に55年間やってきた角川俳句のメディアとは、違うスポットが俳壇を揺るがせるかどうかが、これからの見所である。それが、俳句や短詩形メディア全体を活性化するはずだ。その全体の状況に危機感を感じているのなら、新時代のリーダーたる方々は、もうすこし本質を穿った親切な忠告をしなければならない。天気さんもがんばってほしいが、俳壇と新潮流をつなぐ位置にいる「俳句空間ー豈」の看板スター筑紫磐井サンはとくにがんばって兄貴分として的確なアドバイスをしてあげてほしい。
この二人の句をあらためて読みなおすと、世界に対する勝負の姿勢は、さすがにはっきりしていて、暴力的というほど一個の作家としての文体が確立している。いまもって後続の句群の及ばない迫力やエネルギーがある。勝負意識の希薄化、と彼らがネット俳人のことを物足りなく感じているならば、彼らの位置からのそういう批判は正しいのである。
しかし現代の表現の世界は、発語したことをそのまま時代の言葉として定着させる要素が、以前とはどこか違ってきているわけだから、軽い言葉遊びの途中に、抜きがたい存在の不条理がのぞいたり、重々しいのにどこか滑稽なレトリックがつかわれていたり、そんなふうな反語的意味が流れている言語状況なのではないか?それは若者への非難としてではなく、世代をこえた我々のジャンル自体の転換、としてのりこえるほかはない、そのための忠告が必要なのだ。「週刊俳句」のような、表に躍り出てネット上を流れている表層の言葉を扱っていると、彼らを巻き込んでいる集合意識とどこかでからんでくるはすだ。
3 柿本多映の「虚空」
ということで、ここではまず、若手に混じって最年長の柿本多映が出している俳句を見ておこう。筑紫や櫂のショッキングなはでなパフォーマンス俳句に比べたらおとなしい。
触 れ な ば や 天 の 川 か ら 水 零 れ 柿本多映
後 頭 に 虚 空 ひ ろ が り 蓼 の 花
野 に 穴 を 想 へ ば 月 の 欠 け は じ む
大きな景と小さな自己を対比させながら、内面の感覚を形象化している。「触れてしまったのでしょうね、どこかで誰かが。たから、天の河から水がこぼれ落ちてくる・・」。「野に大きな穴がある、と思いはじめらほらごらんなさい。天上の月が欠けはじめたでしょう?」、とこんなふうに形而上学のような物語がいくつもできる。さすがたいした包含力である。しかし、これら「天の川」「虚空」「野、穴、月」など天体の使い方には既視感がありすぎる。宇宙の測りがたさそのものではなく、身体感覚の喩におさまったりする。これは、自分が自足するための宇宙であり、自分の外に浮く天体ではない。私は、柿本多映の、非在のものの形象化の巧みさにはいつも惹かれるのだ。ただ、私の地上的感性からはこの天上感が近すぎる。むしろ思い切って実感に即して出てきた光景、
舌 を 出 す 倣 ひ 通 草 は 宙 に 熟 れ 多映
が意外な場所に肉感というもののかたち描き出していて、おもしろかった。
発表された頃眼にして、ぞくっときたのが、
通草(あけび)ほどつめたき舌はなかりけり 宮入 聖
『遊悲』(昭和六十年、冬青社)
いらい「通草」と「舌」は切り離せない。熟れて笑った通草の形状はやや淫靡な舌(タネの入った柔らかな嚢)である。そのあらわしかたのおかしさ。
また、柿本句の言葉の面白さは、次のようなところにあらわれる。
階 下 で は 煮 込 ん で ゐ ま す 鵙 の 贄
鶏 頭 の 殺 気 ス ペ イ ン ま で 行 く か
彼女はすなわち世界を感受するありかたが特異である。鵙の贄をさらに、人間の贄にするために、「もう煮えたかしら」という茶化しかたをする。ブラックユーモアのからんだ世界がふっと顕れる。彼女は、ナルシシストであるから、自分の宇宙で複雑な感受性の層をさぐり奔放にたわむれることが、それが寛恕の安息なのである。しかし、耕衣、信子、閒石ら新興俳句の思索的な俳人の宇宙感覚にふれてくぐってきた、その内的な体験がやはりものを言っていて、既視感があるとしても余人は多映の句境を簡単に真似できない、個性の中に溶けこんでしまった「虚空」。余人の句柄とはちがう雰囲気を発散させている。
4 アトランダムにアニミズムの面白さをさぐってみる
水 葬 の 意 気 込 み 果 て ん 菊 見 て は 五十嵐秀彦
水 葬 の 足 袋 眩 し か ろ 秋 の 蜘 蛛 大畑等
たまたま同じく「水葬」を詠んだ二人の句。両者は嗜好がかなりちかいのだろう。昔は奇想といったがいまは自在という。そのきわにあそぶ言葉の動きが死を詠っているのに生き生きしている。いま俳句を作っている若い人たちは自在といわれて幸せだろうか?馬鹿にされたとは思わないだろうか?自在か奇想か、すれすれのところで、大畑句は虫愛ずるアニミズムの境地である。
五十嵐句の方は、すこし意味が取りにくかった。大畑句のほうがよくわかった、「秋の蜘蛛」が水葬に付される死体の「白足袋」をまぶしくみている。死がどこかよそ事にされている。蜘蛛が見ているのが屍体の足袋だということが、あり得る様なあり得ないような異様な水辺の風景である。
五十嵐句がわかりにくいのは、「意気込み果てん」とするのが、「菊を見て」いる人なのか、「屍体」なのかがわからず、またその死者が何を意気込んでいるのか、言わなかったことへの想像力のとっかかりがないからだ。意味づけのときにかなりごちゃごちゃする、しかし、これも、死を厳粛なできごととする境地からは遠い、遠いということがはっきり意識されているので、そこで詩になっている。
幹 く だ る 魂 の 鱗 や 居 待 月 秀彦
髪 型 が 姉 と 同 じ の 飛 蝗 と ぶ 等
この範囲では、奇想ではないのだろうが、できあがったのはどちらもなかなか奇怪である。木の肌や、飛蝗の頭部のおかしさ、シュールリアリズムである。
5 現代台所俳句…コーヒータイムが必要だ
漆 黒 の コ ー ヒ ー い れ む 秋 灯 津川絵里子
秋 風 や 紅 茶 の あ と は 畝 傍 山 振り子
舞 茸 の 軽 し 芭 蕉 像 な ほ 軽 し 岩淵喜代子
流石にこのコーヒーにはこくがある。が、秋風の紅茶も単純だがあじがある。「お茶しましょうよ」、としばしばわれわれは休息するのだが、部屋にこもっているだけでは休息にはならない、こころを拡げる広い場所へゆくことも精神安定には大事である。橿原市にいた頃にはこうしてよく畝傍山にのぼった。岩淵喜代子が。舞茸」から「芭蕉像」を引き出したところは連想が面白い。この三人には、女性の日常文化の内側からでてくる感受性が、それもたしかな肯定的な感覚でよこたわっている。台所俳句の発展形態とも言えよう。表現活動は、は生活の中では多面的な役割をする。知を求めながら、心理のある部分ではそこをはなれた時間や感興をもとめているところがある。
ただし、彼女達は流石に単純な生活者ではない。
霧 の な か 灯 と も し て 家 目 覚 め け り 絵里子
彼 方 と い ふ 喇 叭 の 遺 品 あ り に け り 振り子
出 棺 に 真 昼 間 使 ふ 烏 瓜 喜代子
平凡なお三時の休息のときもあるが、だまし絵風の奇抜な取り合わせの描写もならぶ。家に灯が点って家族がめざめはじめたのだが、それを包む世界はまだ霧の中、入れ子的な繊細な自意識の「家」と思える。「喇叭」が遺品なのだが、ここにはなく、遠い幻視の裡に確実な「死」がある。死の実感がここでも薄れている。日常のモノを見詰めながら、わたしたちに胚胎している現実の裏側への旅。又隣り合わせの非現実の世界への参画がはたされる。俳句形式のなんたるかを、いろんな切り口で見せてくれたのだった。ただ、こういう日常詠を基盤にした俳句には、均一化とは思わないが、生活感のなかに飢えとか欲望から生まれる感覚の棘がなくなっている。もっと刺すようなイロニーがあっても良いのではないだろうか。
6 日常が錆びてゆく・斎藤朝比古の不思議さ
この人を最後に残したのは、年齢など詳細はわからないものの一種のグレーっぽい俳諧性を感じて、俳句言語としてはむしろ正統と思われるのに、この中では異質な印象すらいだいたのである。そして、これが、磐井等の言う言葉の均一化状況を先取りし追認し、それを俳句化したのではないかとおもったからである。書かれているのは個々人の内面などではなく、あくまで外部の、それも時代状況の風景ではないか、と思ったからだ。攝津幸彦は思いきって戦前に戻ってそれを虚構にしたのだが、斎藤はちょっとだけ前代にかえっている。
標 本 の や う に 秋 刀 魚 の 喰 は れ け り 斎藤朝比古
何 に で も 醤 油 の 父 や 秋 の 山
す こ し づ つ は だ け て き た る 踊 か な
先 生 の 服 の を か し き 運 動 会
やや古くさい風景だしモチーフもそうだ、生活の場所も都会の真ん中ではなくむしろ農村のようにも思える。「秋刀魚」をこのようにつくづくと眺め扱う習慣は、都会人のモノでも地方人のモノでもない。「何にでも醤油の父」なんて、一昔前なら立派な生活詠である。が、いまや嘘っぽい。この「踊り」方も踊りの本意を知ってたくみにずらしている。
錆 色 に 並 ぶ 自 転 車 花 野 風 朝比古
錆びていても自転車は永遠に古びてそのままおかれている。いつかは走り出すだろうが、むしろ野山の方が枯れる前の命の花をめいっぱい咲かせているのである。滅ぶのは自然ではなく人間がつくりあげた取り替えのきかないこの文明である。その自明のことが自嘲もなく自明のものとして切り取られている。
もし、このような句柄に何か、思想のようなものを感じとるならば、「おやじよぉ。お兄さん達よぉ。けっきょくこうなったんだよ、どうするのさ」といった類の醒めたドキュメント。ただならぬただごと趣味にはそんなだいそれたものはないのかも知れない。しかし、なにか、作品化する視線にひそむ憐憫と恐怖を感じ、また、屈折した批評の視線を感じとるのだ。
斎藤がもつこのテーマが単純な復古調反近代性のあかしならば、いまさらながら世界観が甘い、と言わざるを得ない。それに対して、若い者はうんぬんと世代論はいくつも言えるだろうが、新しい世代が、いま、あらためて過去の方角に目を向け始めたときに目にとめた世界の廃墟化、そのなかの体温すら感じさせるヒトの動き、救いでもあるが危機感も持つ。現代の存在のありかたを書き留めるには、軽み重くれ全体を書きうる抜群の技巧が必要だ、彼は思っているのかも知れない。そういう複雑な感受性が動いているように見える。じつは一番つまらない地味な作風とみえたこの作品群が、これが戦後俳句のその後の現代俳句の帰結と思った瞬間、さいごにいちばん面白くみえてきたのだ。
こんなことで、お茶をにごした感じ。おもったより難しかった。ご意見は謙虚にうけとめますから。作者に異論があれば、コメント下さい。
■齋藤朝比古「新しき夜」10句 →読む■振り子「遺 品」10句 →読む■五十嵐秀彦 「魂の鱗」 10句 →読む■大畑 等 「ねじ式(マリア頌)」10句 →読む■岩淵喜代子 「迢空忌」10句 →読む■柿本多映 「いつより」10句 →読む■津川絵理子 「ねぐら」10句 →読む
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2007-11-04
堀本 吟 現代俳句の帰結その他
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12 comments:
とりあえず、というか、ニーズに応えて、というか、
2「俳句」2007年11月号の筑紫・櫂発言
の部分について。
細かいことはさておいて、この手のことが語られるとき、「ネット俳句」というものが存在するという前提があるようです。
>ネット俳句の定着をはかっているひとたち(堀本吟さん・以下引用同)
堀本さんに限りません。『俳句』2007年11月号鼎談も同様。
しかしながら、です。
ネット俳句とは、いったい何をさしているのでしょう?
ネット上に発表された俳句? それならば、例えば今号で俳句作品をお寄せいただいた久保山さんと鴇田さんは「ネット俳句をつくる人=ネット俳人」wということになってしまいます。あるいは11月の一週目だけはネット俳人? 落選展の出品作もまたネット俳句? 「紙の俳句」になりそこねて、ネット俳句になっっちゃった?w そんなはずはない。
そうではなくて、いわゆる「ネット句会」に並んだを「ネット俳句」と呼ぶ?
>ここに挙げられたモノにも句会、それもネット句会での作品がいくつかはあるはずだが。
あまりないと思いますが、もしあるとすれば、ひとりの俳人の作品に「ネット俳句」と「非・ネット俳句」が混在することになります。
「インターネット俳句」と、皆さんが呼び、語っていらっしゃるものが、いったいなんのことなのか、私にはわかりません。
そのせいでもないでしょうが、「インターネット俳句」と呼べるような対象が存在するかのごとく、また互いに了解したような気で「インターネット俳句」が語られるのを見ていると、ほとんどが、通俗的なインターネット観(無名性・希薄なコミュニケーション等々)を「俳句」に投影させているに過ぎないように見えます。結果、どこまでも上滑りにしか思えない。
私の捉え方は、「ネット俳句は存在しない」というものです。
近いうちに書く「俳句とインターネット」も、それが出発点になります。
(書いているうちに私の予測を裏切って「ネット俳句」なるものが見つかるかもしれません。「おお! これがあのネット俳句というものだったのか!」w それはそれで楽しいことです)
ちなみに、『俳句界』12月号に「週刊俳句」について寄稿しました。ボツにならなければ掲載されるはずです。そこでも「インターネット俳句といった捉え方を信じない」と書きました。
これからさき、「ネット俳句」が存在するとの前提でそれを語る人たちと、そうじゃない私との議論は、ひょっとしたらおもしろい局面が出てくるかもしれません。
最初の引用に戻れば、私には、「ネット俳句を定着させよう」などという気はさらさらない。だって存在しないんだから。「ネット俳句」や「ネット俳人」といったものを擁護する気もない。だって存在しないのですから。
(以上の書き込みは、記事の予告でもあり、草稿でもあり。記事で繰り返すことになるでしょう。そんときの重複ご容赦)
皆さま
少し悪乗りをしますが、櫂未知子氏には、きちんと事物を確かめずに雰囲気で言葉の勝負をするところがありそうですね。私は、腰に刀を差さずして勝負をしようなどど無謀なことはしませんが、
いきいきと死んでゐるなり水中花
この句、変だと思いませんか。玄関やお墓に飾る生花が「いきいきと死んでゐる」のはわかります。でも、水中花は、造花ですよ。一度も生きたことはない、それが死ぬわけはない。
一度も生きたことはないものをとりあげてその生死を描くことで、何がいいたいのか。
そこで、水中花が造花だということを知らないで作ったとしか思えません。
とすれば、この問題は、俳句が「いわない」ということとは関係がない事実認識の錯誤です。
鮟鱇こと獅子鮟鱇でした。
↑はい、悪乗りだと思いますw
そんな話ではないので。
追記;上の鮟鱇さんのコメントを、読者の皆さん、ことに櫂さんは、スルー(無視)してくださるよう、個人的にお願いします。
テーマは、そんなことではありません。
ああしんど。やっと、ここでの意見交換の方法に慣れてきました、やりかたがわかりました。コメントへのコメントができます、といったところです。なんでも、わかるとイージーなんですね。ともかく拙文のニーズに応えてくださって感謝します。ウェブマガジンにデビューしたものとしては、処女のように少女のようにどきどきしておりまして。
天気さんへのミクシィメッセージにも書いたたように、インターネットを駆使する技術を持った人だけが味わえる俳句空間、それがネット俳句じゃないんですか?インターネット俳句空間が存在するしアミーバのように増殖しつつある。と言うのが実感です。
言葉の意味内容は、世上の常識を踏襲していることはもちろんです。だれしも。未だネット上の執筆の専門家ではありません。
しかし、未だ幻想に過ぎなくても、当誌を覗き、ファイルをうつしたり、磐井さんのように参考文や句をプリントしたりしていると、活字媒体とは違う感触が明らかに湧いてきて、それは、やはり「俳句」を読んだり、句集を開いているのとは、別の感覚です。
うまくいえないけれど、キーを打つ指先は最新情報社会にふれているんだけれど、脳裏の内側の想像力の動きは、斎藤朝比古さんの句の世界のような人間くささにひたってしまう、そんな肌合いと似ていました。
というようなことで、
こういう書き方発表のしかたが、近い将来大きな現実となるのなら、伝統詩の書き手にはどういう表現戦略がいるのかなあ、と言うような思いです。
天気さんは「ひとりでこれをはじめた」とかいておられましたね、「失敗こいたとき被害が自分だけにかかってくることですむから。」失敗こいてもやる価値があるでしょうね。おおいなる先取りの実践だと思います。
ただし、言葉はだんだん淘汰されてここにあうことばが開発されてくるはずです。
一例として思いついたことをいいますと、
私の文章中、引用句にルビがあったので、わざわざワードで、ここにあわせて横書きにして、ルビを打って原稿をおくりましたが、
あけび通草よりつめたき舌はなかりけり 宮入聖
となってましたね。原句では「通草」のルビが「あけび」なんです。
これは美しい装丁の句集『遊悲』に納められているんですが、非常にデリケートな韻書を与える一行縦書きです。ここでは作者にもうしわけないほどこっけいにうつりました。眼に触れて「ぞくっとした」私の感触をネット上の文章で伝えることができなかったです。
しかし、今号の久保山さん達の俳句は、これは、その十句だけの縦書きのシンプルな世界が、むしろ紙のうえでよむより味わいがありました。
私は誤入力の常連なので、おおきなことはいえないし、これを、非難とか攻撃していると取られては困ります。当誌の性格を確かめているのです。
こういう指摘があって、色々改善の方向が出てくるでしょう。
ここは、生き生きしたコメントの応酬の中で作られている現在進行形のインターネット内の俳句メディアだと思いますね。ぜひ良質の感性やタレントを集めて道に迷わないでほしいモノです。私などの、手作り派のばかまじめな飛び入りも一興と思います。
いろんな傾向の作家がここを経験されるのが良いと思います。
「ネット俳句とは、いったい何をさしているのでしょう?
ネット上に発表された俳句? それならば、例えば今号で俳句作品をお寄せいただいた久保山さんと鴇田さんは「ネット俳句をつくる人=ネット俳人」wということになってしまいます。あるいは11月の一週目だけはネット俳人? 落選展の出品作もまたネット俳句? 「紙の俳句」になりそこねて、ネット俳句になっっちゃった?w そんなはずはない。」(天気)
そうですよ、私は、この28号とコメントしている時間だけのネット俳人です。
そうなんです。本誌にたどり着くことのできたすべての俳句の書き手は、みなネット俳人だと思います。皆さんの息づかい自体がバーチャルせすもの。
私を含めて、離れたところで結社俳人だし。角川俳句の常連俳人、なになに賞俳人であっても。多田の詩オルトであっても。
そこで、世俗の埃を被った権威をはらいおとして行けばいいじゃありませんか。
面白いじゃありませんか。
興が乗ると雄弁になる性分なので、もういちど評論書いた気分になりました。ああ、おもしろかった。いい経験をさせて下さってありがとう。お休みなさい。もう寝ます。吟
ファンキーだなあ。
あけび通草 の箇所、直しておきました。
(ワードファイルにルビ、は想定外。ベンキョウになりました)
技術格差が問題にならぬよう配慮をしてきたつもりですが(ファクスでの入稿もありましたし)、今後とも努力していきます。
6 日常が錆びてゆく・斎藤朝比古の不思議さ
きわめて興味深い作家論だと思いました。
褒めて頂くと、くすぐったい。ですが、ありがとう。
↑堀本さんが、あわてんぼうで「匿名」で書き込んでしまったにちがいない。
〔コメントの書き込み方〕
「個人情報を選択 Choose an identity」の箇所は
「その他 Other」を選ぶと、お名前を書き込むことができます。
いわれたとおりに、やってみよう。
縦書き、横書きも問題ですが、、この書き込み、ってたいへんね。「インターネット俳句」
は、インターネットができる人の眼前にだけたちあらわれる。それが、できない人には無縁の文学である。
活字俳句は、当用漢字が読めたら一応わかる。
できた、!!! ・・吟
活字(字)が人を排除しないと思うのは大まちがいですよ。
目の見えない人は、読めません。字の読めない人は読めません。どんな形式(手段)も、程度の差こそあれ、受け手を排除するのです。
私は、「目の見えない人、字の読めないには自分の俳句(や言葉)が伝わらなくてもいい」なんて、絶対に思わない。受け手を排除しようとするかしないかは、形式(手段)の問題ではなく、意思、気持ちの問題です。
「週刊俳句」が、読者(受け手)も除外しないという「気持ち」を備えたものでありさえすれば、ネットがどうのパソコン操作がどうのは小さな問題です。
あたりまえの話ですが、週刊俳句は、「インターネットがやりたい」わけではありません。インターネットは手段に過ぎません。
● 趣旨は天気さんのおっしゃるとおりですね。活字「も」人を差別する。
縦書き横書きは、慣れの問題、だろうと、拙文の最初にいってますので、ひとりあるきしそうな。その議論は私の文章の主要な説を離れています。皆さんも私も、技術的には両用使い分けていると思います。
ただ、ルビを振るのが、作柄、方法のうち、という多行俳句、とか、宮崎二健の回文など。これらは発表のままの姿に読んであげたいですね。
● こんな記事を目にしました。
(俳句11について)「週刊俳句第28号」では、明らかな反論があった。堀本吟さん、鈴木茂雄さんの記事がそれである。
特に鈴木茂雄さんの記事は激烈で「インターネット句会に参加している者として看過できないものがあった」「言いたい放題。「紙」様を信仰するのは自由だが、」etc.と、なかなか楽しい。
いずれにしても両記事とも面白いので未読の方は是非一読を。
そんななか秀彦さんのブログを読んでなんとなく合点がいった。いつものことだけど問題が良く整理されている。
「二人の発言は、皮肉なことに、それこそネット上のおしゃべりのように軽かった」そういえば。
「無意識に、出版メディアのほうが上、と思っている様子が見える」なるほど、そういうことは俳句に限らずよく見かけるのでかえって気付かなかった。」
私が心配するようなことでは無論ないのだが、櫂さんも筑紫さんもこういった記事は完全に黙殺してほしい。大家らしく(?)「烏合の衆がピーチクパーチクと」ぐらいに歯牙にもかけないという態度を期待しています。「二人ともまだ老け込む齢ではないはずなのに、まるで老人のような言い方で」なんて物言いに反応してはいけません。
ええと、教えてくれた人がいて、天気さんのブログからいったところに「葉月のスズキ」さん?お名前間違ってたら、ごめんなさい。が書いておられたことです・
私(堀本)がこれ以上いうようなことでもないので、この記事黙殺しても良いのですが、
「俳句11号の筑紫さん櫂さんのおしゃべり」についていった意見を「堀本と鈴木」を「ぴーちくぱーちくの烏合の衆」とか、「大家らしく黙殺しろ」とか、かわった見方をするんですね。わたしは、インターネット句会などやったことがありません。いっぺんやってみたいけど、パソコンができないので面倒で。となりの烏さんのこともぞんじあげません。
俳句11月号の記事、あれはタイムリーだったので、読みました、と挨拶仕手、本論に入ったんです。内容的にその必要があると思いませんか?でも、私としては、それ以上のものではありません。
筑紫さんは、けっこう言い得ているところもありますし、向こうも気楽に言っておられるから、こっちも気楽に意見を述べただけ。
おふたりとも、この「週刊俳句」というあきらかに若いエネルギーの結集に興味を持ったから、選者もひきうけ、なおかついまの骨同形態や、感受性の違いから来る違和感も表明しておく、というああいう関心の吐露となったんでしょう。この媒体を最近知ったばかりのおばあちゃんの私すらが、なにかかわってみたい気にさせますからね。
そんなに悪気もなく裃脱いで悪口を言っているおふたりに「大家らしく」とか大家呼ばわりはかえって失礼なのでは?一方通行では健全なジャーナルは建設されません。(職員室の先生のうわさ話という橋本直さんの書き方の方がまだ毒がない)
●、 それから、私の文章の目的は、「一〇月の俳句を読む」ということなので、一生懸命書いたんだから、ここにあげられた俳人の「俳句作品」自体の鑑賞もよろしく。どういう媒体にだしても通用するよい俳句がでているとおもいます。(吟)
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