【週俳6月7月の俳句を読む】
雑読「バチあたり兄さん」
瀬戸正洋
罰(バチ)とは悪事に対する報い。神仏による懲らしめだという。「バチあたり兄さん」とは、バチがあたった兄さんではなく、その真逆の意もある。
卯の花くたし面会謝絶の兄へ羽音 竹岡一郎
卯の花が咲いている。雨の降る日が続く。面会謝絶の兄さん。廊下で羽音を聴いているのは家族である。病室では医者も看護士もバチあたり兄さんも神様も羽音を聴いている。
蛇となる途中の廊下拭き磨く 同
病院の廊下とは蛇のことなのである。その廊下を医者も患者も見舞い客も蛇も歩く。懸命に、廊下を拭き、磨いているのは、にんげんではなく蛇と蛇となる途中の廊下なのである。
鏡工房金魚らの鰭発火まぎは 同
鏡を作る作業場がある。鏡を使って何かを作る作業場がある。金魚らは自分の顔を鏡に映し眺める。金魚らとは金魚とにんげん。今まさに鰭は発火しようとしている。もちろん、にんげんにも鰭はある。それを知らないのはにんげんだけだ。金魚は何もかも承知のうえで鰭を発火させるのだ。
守宮搗く兄のまたたくまの違背 同
違背とは、家族の思いに背くこと。兄さんは兄さんの意思で背いたのではない。何か得体の知れぬおおきな力により背かなくてはならなくなってしまったのだ。守宮搗くとは古代中国の俗信。古代人が信じたように私たちも、それを信じなければならない。端午の節句に捕えた守宮を一年間飼って杵で搗く。それを体に塗って貞操を守ろうとすることは正しいことなのである。
道行の浜の軋みは蟹と舟 同
道行とはおとことおんなの逃避行。砂浜には一艘の朽ち果てた小舟。舟首のあたりを蟹が歩いている。砂浜の軋む音とは、おとことおんなが争うから。蟹は砂浜の軋む音をそしらぬ顔で聴いている。また、道行には「十字架の道行き」という、キリストの受難を描いた彫刻や絵を順に辿りながら祈りを捧げるという意味もある。
遠浅や水母と赤子なであへる 同
遠浅の海があり、生まれたばかりの赤ん坊が母親に抱かれて海水浴をしている。そのまわりでゆらゆら揺れている水母に赤ん坊はちょつかいを出す。水母も赤ん坊にちょつかいを出す。ちょつかいを出されたら、ちょつかいで返す。これはあたりまえのことなのである。不安定な危ない遠浅の海の光景。
二百年生きた金魚は兄と化す 同
二百年生きているという金魚がいる。そう言われてみれば、そのような気がしない訳でもない。「輪廻転生」、量子論により実在することが科学的に判明されたなどとどこかに書いてあった。過去の記憶を持つにんげんがいることは、以前から言われているし、いまさら、量子論がどうのこうのと言われても何の興味もない。
祭とほし土偶ほどけて縄となる 同
土偶は縄文時代に作られたということから縄をイメージしたのだろう。だから、壊れたとは言わずほどけたのだとした。土偶は自分の意思によりほどけたのである。祭とほしの「とほし」から縄文時代からの時の流れが感じられる。
幽谷や鞄より出す大鮑 同
千葉県御宿町の民話に「大鮑」がある。触れると必ず海が荒れるという大鮑。海女は若者と会うために毎日、それに触れ、海を荒らして働き者の若者を海へ出さないようにした。ある日、数日分のおおしけがおそってきてたくさんの船が難破した。もちろん、海女のしわざである。海女は若者のことが心配になり沖へこぎ出し大鮑に近づく。若者は海女の船を追ったが海女は船とともに沈んだというものである。
幽谷とは深い谷のことである。そこで、にんげんは、おもむろに鞄より大鮑を取り出す。大鮑は神である。幽谷は神である。にんげんはにんげんなのである。
うねうねと肉削ぐ手際朱夏に得し 同
手際よく肉を削いでいく、うねうねと肉を削いでいく。兄さんは痩せていく。夏の暑さがうねうねと兄さんの肉を削いでいく。
位牌数万山越えてより蕩けあふ 同
数万の位牌は、山を越えるから融けてどろどろになる。融けてどろどろになるのはにんげんの感情も同じ。つまり、山を越えなければいいのである。位牌のことなど考えなければいいのである。
蛸に似るまで坂ころげ迫る兄 同
兄さんは誰かに何かを迫ろうとしている。そのために坂をころげようとしている。蛸に似るまで坂をころげようとしている。何故、蛸でなくてはならなかったのか。蛸には何か特別な思い入れがあったのか。
兄さんは、ただ坂をころげたかったのである。兄さんは、ただ何かに迫りたかったのである。
くしけづる音の奧処の天瓜粉 同
櫛で髪の毛をとかして整える音がする。天瓜粉は、地の果ての奥深いところにある。必要なものは地の果ての奥深いところにある。大切なものは地の果ての奥深いところにある。
明日も生きたいあなたが憑いて瀧ねばる 同
明日も生きたいと思うのは生きとし生けるもののすべての願いなのである。こころとからだはひとつにならなければならない。瀧でさえもそうなのである。瀧は、瀧であるために根気よく、ただひたすらに水を落とし続ける。
小林秀雄は、『講義―「感想―本居宣長をめぐって―」後の学生との対話』<小林英雄「学生との対話」国民文化研究会/新潮社編 新潮文庫>の中で、次のように言う。
自分が本当に何を経験したかなんて、実はよくわかっていないものなんだよ。本当の経験の味わい、経験のリアリティーなどというのは、自分でもよくわからないんだ。何か強烈な経験をした時、直かに来る衝撃が強いでしょう?その強い衝撃で、みんな我を忘れていますよ。(―略―)そういう経験を自分に納得させるためには、一つのフォームが要るのです。そのフォームを創ることこそが創作だよ。
兄去りし町はででむしだらけの夜 同
袋掛桃のいづれかが禁忌
帝劇夜涼割腹あまた揉み消され
青田よりあふぐ暗愚の兄の址
逃げきれぬお前だ合歓を点し消し
「俳句を読むこととは書くことだ。書くことができてはじめて読んだことになる。」これが、私の偏見である。だが、これらの五つの作品は、ただ、ただ、眺めていればいいのだと思う。頭に浮かんだ嘘八百を書き連ねることは止めた方がいいのだと思う。
澪照らし合うて鵜舟とうつほ舟 同
うつほ舟とは神の乗る舟のことである。それが鵜飼いをする舟と水路を照らし合うというのだ。神と「にんげんの生業」、この異なるふたつの舟の水路を照らし合わせることが、救われたいというにんげんの願いを象徴しているのかも知れない。
呪詛生霊三輪素麺で搦めます 同
三輪は素麵発祥の地である。体外に出て自由に動きまわる霊魂を、それも呪いの霊魂を三輪素麵で搦めるのである。呪いの霊魂を三輪素麵で動かないように縛り付けるのである。
怖づ怖づと征きひまはりに振り向かれ 同
身の自由を失い進退窮まった兄さんは神の御心に従っておそるおそるひまわり畑を歩きはじめる。その異様さにひまわりは思わず振り返る。ここは、真夜中のひまわり畑のような気がする。
泣いて無意味な兄も素敵な土用波 同
泣くことが無意味であることを知っている兄さんも、素敵な土用波であることも事実なのである。過去はどうすることもできない。未来には何が待っているのかわからない。ただ、この現実だけを静かに受け止めることが大切なのである。
手花火の終りちかづく誰何かな 同
全てが終る時、呼び止めて、あなたは誰なのかと問いただしてみても何の意味があるのか。手花火を感じる。手花火の玉をじっと見つめる。手花火の玉は迫ってくる闇を追い払おうとして弾ける。そして、落ちる。
草いきれ固めて僕として立たす 同
目の前にあるものは何でも、草いきれであっても、固めることができるのなら、個体にすることができるのなら、固めて兄さんのための召使としょう。
縄目捺されて形代の兄高鳴るや 同
縄目のあとの付いている形代。兄さんは、神の御霊となってしまったのだ。山も野原も風も雨も、自然は高鳴るのである。
まらうどの晴の跫音のいづみ震(ふ)る 同
「晴」には、疑いや心配がなくなる、悩みやしこりなどをなくすという意味がある。訪ねて来たひとの跫音が、そのように聴こえたのだ。そのいづみは小刻みに揺れ動いている。いづみでさえ、明日のために小刻みに揺れ動いている。
最後に言い訳をひとつ。
この作品を読むことは難しかった。普段なら、嘘八百がいくらでも湧いて来た。だが、読んでも眺めても透かしてみても言葉が浮かんで来ない。苦労して書いた作品なのだろうと思った。苦労して書いた作品を読むには、同じだけの苦労が必要なのである。こんな時は、お会いして一献傾けた方がよっぽどの早道なのである。そうすれば、作品を読む手掛かりが得られるだろう。さらに、極論を言ってしまえば、作品など読まなくても、そのひとを知ることができるのである。それで十分なのである。作品を読むということは、そのひとを知るということだと思う。そして、それは、自分自身を知ることに繋がっていくものだとも思う。
第535号
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