【週俳11月の俳句を読む】
雑文書いて日が暮れてⅧ
瀬戸正洋
何もしなくてもいい生活にも慣れてきた。やりたいと思ったことだけをやればいいのである。飽きたら止める。疲れたら眠る。ただ、それだけのことだ。庭木の剪定をした。剪定といっても自己流である。草刈りは刈払機を使うが、剪定は剪定ばさみと鋸を使う。からだを動かそうと思っている。小枝と落葉からできあがる灰は白く、細かく、美しい。
はっきりと自覚したことがある。何もしなくても「休日」ではないということだ。先のことを考えて何かをするという考えはなくなった。「今」何をするかだけを決めるのである。
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装置より伸びる両腕秋の昼 中田美子
装置からアームが伸びてきたのではない。装置のかたわらにひとがいる。そのひとの両腕が伸びてきたのである。思いがけない出来事に驚いたのである。そこには「さわやかで透明感がありややさびしげな感じ」のひとが立っていたのである。
秋の蝶螺旋階段上りきる 中田美子
秋の蝶が螺旋階段を上りきった。蝶は螺旋階段を上らなければならない理由があったのである。おくれても羽化しなければならない理由があったのである。上りきったことで何もかもが終わったのである。何もかも終わったということは年を取ったということなのである。何もかも終わったということは哀しいことなのである。
立体を平面にして秋の雲 中田美子
立体を平面にしてとは何でもできるということなのだ。何もしないで、ひたすら空をながめている。刻々と空は変わっていく。暗く怪しげな雲がある。自由で向日的な雲がある。立体を平面にしたひとは立ちあがる。空に向かっておぼつかない足どりで歩きはじめるのである。
菊花展同じ動作を繰り返し 中田美子
同じことを繰り返して行う。それを伝統という。菊花展とは歴史のことなのである。菊を咲かせているひとに「まいねん、繰り返すことはたいへんですね」と言ったら叱られた。伝統とは同じ過ちを繰り返さないことだという。歴史とは同じ過ちを繰り返さないことだという。
からだにとって規則正しい生活をすることは必要なことである。精神にとって規則正しい生活をすることは必要なことである。
タクシーに乗つて大きな紅葉山 中田美子
紅葉山へ行くためにタクシーに乗った訳ではない。「紅葉山」という名の固有の山を指しているのでもない。目の前の紅葉が美しかったのである。目の前の山の紅葉が美しかったのである。タクシーに乗ればいいのである。タクシーに乗り目を閉じる。ただ、それだけのことなのである。
屋上の最前線に秋の空 中田美子
戦場で敵にいちばん近い場所、激しい競争の局面。それを最前線という。屋上に立っているのは作者自身なのである。作者は、ひとりそこに立ち、もがき苦しんでいる。そんなとき、空の高さ、清澄さだけが、こころの均衡を保ってくれるのである。
案山子立ついつのまにやら顔の消え 中田美子
雨と風が顔を消したのである。案山子は顔が消えても何の問題もないのである。顔などないほうがいいのである。自然は、余計なものの存在を許さない。案山子にとって顔は不要であると理解する。それでも、ひとは案山子の顔を描こうとするのである。
脳内の測定装置小鳥来る 中田美子
測定装置が作動する。数値によって右に行くか左に行くかが決まる。こころのおもむくままに立ち止まっている訳でもない。
秋になると小鳥が人里に降りてくる。数値に達したからだ。測定値からは思いやりを感ずることができなければならない。測定装置にはこころがなければならないのである。
金木犀犬の不在に気付いたる 中田美子
犬は在宅していたのである。犬の不在に気付くことは正しいことなのである。気付くことが遅すぎたと思うことは正しいことなのである。「不在」であることは「束縛」から解放されるということなのである。金木犀の黄色い小さな花は「束縛」の象徴だったのである。
秋の空体内時計狂いだす 中田美子
体内時計が狂いだしたということはからだが狂いだしたということなのである。からだが狂いだしたということは精神が狂いだしたということなのである。のんびりと秋の空などながめている場合ではないのである。個人的な感傷に浸っている場合ではないのである。
ゆきひらに冬のはじめの水しづまる 大塚凱
食とはおごそかなものである。生きることもおごそかでなくてはならない。この俳句作品は「トッカータとフーガ二短調」だと思った。ゆびがふれたときに冬のはじめの水は鎮まるのだ。たまたま、CDはその曲を流している。読者は「水」を想い、ただ耳を澄ませてさえいればいいのである。
築地もはやマスクの中の凪ぎごこち 大塚凱
はじまるまでが騒動なのである。おわってしまえばいつのまにか忘れてしまう。マスクをしたときとしないときとでは雲泥の差なのである。マスクをすると楽になる。マスクは、顔もこころも隠してくれる。ここは豊洲ではなく築地なのである。ひとつの歴史がおわるときは熟考した方がいいと思う。
ひおもてをくしやみの粒のながれゆく 大塚凱
ひおもての埃は永遠に浮いている。ひおもてだから見えるのである。見たくないものまで見えてしまうのである。くしゃみの粒が流れていくのは一瞬である。一瞬でも見えてしまうことは不快なのである。おもてよりうらの方がいいと思うのはあたりまえだ。見たくないものは見たくないのである。ほっておいてくれればいいと思う。好きなことだけで生きていけるのは「うら」だからである。自由に生きることができるのは「うら」だからなのである。
鮪の眼曇りながらに雲まだら 大塚凱
晴れるのだろうか。雨になるのだろうか。曇ったままなのだろうか。天気が定まっていないとき、海中の鮪は、いったいどこへ行こうとするのだろうか。何を見ているのだろうか。
鮪の目玉の煮付けはとろとろしている。ゼラチン質でコラーゲンもたっぷりだ。酒好きには生きている鮪より、この「目玉」の方がなじみ深い。この「目玉」は、いったい何を見てきたのだろう。
蟻つたふ二の酉までの鉄パイプ 大塚凱
二の酉は十三日であった。蟻は鉄パイプを使って「時間」を越えたのである。鉄パイプの用途は無限にある。単純な構造、何にでも応用は効く。蟻は知っているのである。歩くことからすべてがはじまるのだということを。だから、歩くのである。自分には「運」しかないことを確信して、ひたすら歩くのである。
もしも松なら悴んだ背へかたむく 大塚凱
悴むとは「生気がなくなりやせ衰える」という意味もある。確かに、松の枝は不自然に曲がっている。松は病んでいるのである。それを見ているひとも病んでいるのである。かたむくとは「正常な状態を失って不安定になる」ことをいう。「背に腹はかえられぬ」ということわざもある。松は不自然であることは承知のうえで傾くのである。
枯萩の透けてくるまで考へる 大塚凱
考えることは大切なことなのである。碌でもないことを考えることは、さらに大切なことなのである。碌でもないことだから考えるのである。考えて、考えて、疲れきって眠ってしまうまで考えるのである。萩は、すっかり葉が落ちてしまっている。萩は考えているから葉が落ちるのである。もう少し考えれば透けてくるのだ。
雪吊の縄ゆれてゐる息のおと 大塚凱
息のおととは、吊られている木のおとなのである。揺れている縄のおとなのである。雪吊をしているひとのおとなのである。何もかもが息をしなくてはならないのだ。空も太陽も風も息をしなくてはならない。雪吊とは、おとをたてて息をすることなのである。
雪吊に選ばれぬ木と触れてゆく 大塚凱
選ばれないことは幸いである。自由を確保することができる。「誰もが私のことを知らない」ということは幸福なことなのである。何をしても黙ってうつむいていればいいのである。作者は雪吊に選ばれなかった木に触れて「よかったな」とつぶやくのだ。
セーターに松葉が刺さる帰らねば 大塚凱
松葉が刺さったのはある意志が働いていたのである。ハンガーに掛けてあったセーターではない。着ているセーターに刺さったのである。松葉が刺さったのは偶然ではない。選ばれてしまったのである。これで眠るまでの自由は奪われたのである。だから、帰らなければならないのである。帰りたくないのに帰らなくてはならないのである。
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ベンチに腰掛け日に数本のバスを待っている。待つ時間もたいせつな「今」だと思わなければならないのである。老いがせっかちである私のこころをなだめてくれる。何もすることのない生活は怠けものの私には性が合っている。十一月の午後の日差しはおだやかだ。このまま、バスが来なくてもかまわないと思う。電話を入れ「行けなくなった」と断ればいいだけのことなのである。
第605号 2018年11月25日
■中田美子 装置 10句 ≫読む
2018-12-09
【週俳11月の俳句を読む】雑文書いて日が暮れてⅧ 瀬戸正洋
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