【週俳1月・2月の俳句を読む】
そうでもない
曾根 毅
電飾が樅とせりあふ役場の冬 青山ゆりえ
電飾と樅とくればクリスマスツリーを連想する。役場の敷地内にも、装飾の施されたクリスマスツリーが立っているのだろう。電飾の巻かれた状態を「せりあふ」と表現したところ、どうやら雁字搦めの状態であるらしい。
この身動きのままならない様は、役場内の人間模様にも通じているようだ。口や態度で拘束し、部下に身動きを取らせない電飾のようなA氏。樅の木のような部下のB氏は、鋭い葉を四方に突き出しながら、したたかに高木を目指している。役場のそこかしこに、同じような状況の増ゆ(冬)。
おののくやマスクあまねく受験生 同
「おののくや」という語が、どこかユーモラスな響きをもって慄きの状態を表している。「マスクあまねく」などという物言いが、この上五の表現の面白さを助長しているのだろう。受験生たちは真剣に試験に取り組んでいるのだが、それを客観視している目線には、それを面白がっているニュアンスが感じられる。例えば道教に現れる道士のような目線だ。
白い封で口を閉ざされた成長途上の若者たち。終始無言で解答用紙に向き合い、人生の成功を掴まえたと喜ぶ者も、敗れて他の道を探し始める者も。いずれも道にあらず、といったところか。
しらじらと艶のすぐれて河豚潔白 同
それぞれの言葉が一句の中で微妙な交わりを結びつつ、「潔白」でそのあたりの不確実性を一手に引き受ける構造か。その構造の面白さがある。しかし、どうもこの句を読み通したときに、「艶」が「潔白」であると読めてしまう。河豚による毒の連想や、艶にまつわる婀娜っぽいイメージを、「潔白」で収めるのだろう。潔白が河豚の味覚などに関連してくるのか。あるいは、潔白ををどう捉えるのかを読み手は問われる。
一条は橋のくれなゐ雪げしき 同
一読、京都の一条戻橋などを想わせるが、そうではないらしい。実際、戻橋に赤い欄干は見当たらない。札幌に一条大橋が実在するが、ここにも朱色は無さそうだ。
一条二条と区画されるような整然とした街に、しんしんと雪が降り積もる。凍る川、橋の紅色が雪景色の中に映える。そんな静かな情景を、一条と名付けてみるのもいい。
兎追ふ昼の底ひの白むなり 小西瞬夏
上野の西郷隆盛銅像は、犬の散歩姿ではない。連れているのは猟犬で、上野の山で兎狩りをしている像だと聞く。兎狩りは、現在でいうところのゴルフに例えられるような、紳士のスポーツであったらしい。西郷は寄生虫による病気によって、陰嚢が肥大化して悩まされていた。狩などに出かけるときには、ウサギの毛皮を二枚縫い合わせた袋の中に陰嚢をおさめて歩いた。この袋を装着すれば、何里歩いても擦れて痛むことはなかったという。
余談が過ぎたが、この句を一読して西郷のことを想った。伝記や内村鑑三の『代表的日本人』の西郷を想えば、当たらずと雖も遠からずと思えてくる。詩の読みは、作者の創作の志向を追うのと同時に、読者が積極的に創作の志向に向いながら読まなければ読めない。俳句の読者が俳人である所以と思う。
海しづか鯨が夜を噴き上げて 同
鯨の状態を描いているが、どことなく暗示的である。なだらかな夜の海と、その静かな海に包まれた大柄な哺乳類の鯨。夜を噴き上げるというフレーズなど、全体的にエロチックな雰囲気を漂わせている。例えば、永田耕衣の「近海に鯛睦み居る涅槃像」よりも、直接的な勢いが感じられる。
冬暖か髭の猟師の手ぶらなり 同
髭を蓄えた猟師が手ぶらで歩いている。大物を仕留める日もあれば、手ぶらの日もあるに違いない。それでも手ぶらの猟師は、無防備な気分のままで歩きはしないだろう。脱力したように見えて、五感をアンテナのように張っている。髭を吹かせて、素振りは見せないまでも、周囲の変化にいつでも対応できる準備は出来ている。猟師の弛緩の容態に、冬の厳しさと暖かさを受け止めた。
早起きやすでに割られてゐる氷 五十嵐箏曲
普段よりも早起きをする。何か特別な用事でもあるのだろう。家を出た暗がりの中、寒さで張っていた氷が、人為的に割られていることに気が付く。実際に割るかどうかは別として、自分も氷を割りたいような気分の朝だが、ともかく先にやられてしまっている。振りかざす前に手を降ろさざるを得ないというような、まだ日が昇る前のやり場のない情況が見えてくる。
春の月たまには近所でも迷ふ 同
凡庸な春の月に照らされながら、生活圏を漂っている。「迷う」は道に迷うと素直に読むこともできるが、この場合、少し迷っていたいという願望にも似た気分が込められているのではないか。例えば、家庭内でもやもやした事があるとか、それでも家族を捨てて飛び出すわけにはいかないといったしがらみなど。迷いの中に情を秘め、それでいてシャイな気分が感じられる。
雪解けの雪は汚いから嫌ひ 同
一見散文的な物言いだが、「キ」と「イ」の音にアクセントを付けてリズムを取っている。汚いから嫌いだと言い放つところに、斜に構えた気分が醸し出されている。なぜなら逆に、きれいな雪であれば好きかといえば、そうでもないはずだ。
2019-03-10
【週俳1月・2月の俳句を読む】そうでもない 曾根毅
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 comments:
コメントを投稿