【週俳1月・2月の俳句を読む】
雑文書いて日が暮れてⅩ
瀬戸正洋
文芸読本「横光利一」河出書房新社刊を探したが見つからない。捨てるはずはないと思い何度も探したが見つからない。体中が埃だらけになってしまった。
横光利一は、「横光利一文学談」(聞き手:舟橋聖一、阿部知二)「行動」11月の中で「小説は文学ではない」と答えている。
横光利一は、句集「鶴の眼」(沙羅書店刊)の「序」で「石田波郷氏は俳句とは文学ではないと云つてゐる。」と書いている。
横光は山の茶屋で句会を中心とした「十日会」をはじめた。石田波郷は、石塚友二とともに俳人として参加する。他の参加者は、多田裕計、清水基吉、永井龍男、石川達三、中山義秀、中里恒子等である。石田波郷は、「私は俳人として山の茶屋の十日会に時々出席するようになった。」(「俳句哀歓」)と書いている。「俳人として」とはっきり書いていたのは波郷だけだと思う。
句集「鶴の眼」の刊行は昭和十四年8月。他のことは、全て昭和十年のできごとである。
昭和十年といえば、「純粋小説論」(「改造」4月)がある。そんな訳で、私は、横光の「純粋小説論」が読みたくなった。
余談であるが、昭和十年、横光利一は明治大学文芸科講師となり、昭和十一年、渡欧のため講師を辞任する。2月、石田波郷は東京駅に横光を見送りに行き、3月には明治大学文芸科を中退した。
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やがて木を忘れよ年のワイン新た 青山ゆりえ
ワインを選ぶとき使用されている樽、その熟成の有無など考えたこともない。娘はソムリエなので彼女の持ってくるワインを飲むだけのことだ。年のワイン新たといわれてもよくわからない。
木を忘れることは大切なことなのだと思う。「やがて」とあるので難しいことなのだとは思うが。
恐ろしく照つて脂の鰤切身 青山ゆりえ
鰤の切身の脂とは鰤の怨念のことなのである。下ごしらえした切身を網にのせて強火で焼く。そのあと皿にのせ大根おろし、すだちを添えて醤油をかける。恐ろしく照りだすのはそのときなのだろう。
恐ろしいことに出会ったときは知らん顔するに限る。何もなかったような顔をして食べてしまうに限るのである。
電飾が樅とせりあふ役場の冬 青山ゆりえ
何もわるいことをしている訳ではない。努力しているのだ。何かちぐはぐなのである。せりあっているようにしか見えないのである。電飾がせりあっているのである。樅とせりあっているのである。役場とせりあっているのである。冬とせりあっているのである。とどのつまりは、ひととせりあっているのである。疲れることは極力避ける。これは生きるための鉄則である。
マフラーが賢しげな木に待合す 青山ゆりえ
マフラーは間違っているのかも知れない。賢しげな木にまどわされているのかも知れない。女と女が密会するとき、男と男が密会するとき、女と男が密会するとき、小賢しさは不要である。小賢しさなど捨てた方がいいのだ。
おののくやマスクあまねく受験生 青山ゆりえ
マスクとは守るものである。隠すものである。守られていると思えばいいのである。隠しおおせたと思えばいいのである。誰もが不安なのである。マスクは不安であることを忘れさせてくれる。口を隠せばいいのである。顔を隠せばいいのである。
本音は、何があっても言ってはいけないのである。
年の瀬のノートに君は無敵とあり 青山ゆりえ
ノートに「君は無敵」と書く。年のくれのあわただしさのなかで、一瞬だが非日常が生まれたのである。そんなとき、自分をふり返ってみたのである。何故、「無敵」だと思ったのか。ノートをながめながら「君」のことを、ただひたすら考え続けたのである。
しらじらと艶のすぐれて河豚潔白 青山ゆりえ
潔白であると胸をはって答えられるひとなどどこにもいない。潔白でなくても潔白であると答えなくてはならないのだ。潔白であると自分に言いきかせなくてはならないのだ。ひっそりと淡い感じで、あでやかで、それでいて、きわだっている河豚だからこそ、潔白なのである。毒を持つ河豚だからこそ、潔白なのである。
何もかも忘れて、鮨屋のカウンターで、ひとりでのんびりと鰭酒でも飲みたいと思う。
雪覆坊主に手取り二十万 青山ゆりえ
住職、僧侶、和尚などと呼び名はいろいろあるが、「坊主」は蔑称のイメージがある。収入二十万円は貰い過ぎなのである。雪覆とは、積雪の害を防ぐために物のうえをおおうこととある。手取り二十万の「坊主」におおいをかける。誰がおおいをかけたのだろう。
檀家はつらいのである。「坊主」だってつらいのである。
一条は橋のくれなゐ雪げしき 青山ゆりえ
一条、橋のくれない、雪げしき、JR東海のコマーシャルのようなものだ。映像、雑誌、絵画、音楽、文学等、あらゆるものが混ざり合い現実には存在しない風景を描き出す。そのひと固有の風景を描き出す。「京都」へ行かなくてはいけないのだ。
ひとつの道を不安に押しつぶされながらも何とか歩いていく。「京都」に向かって歩いていく。
満遍なく木にしるされよ今朝の雪 青山ゆりえ
「満遍なく」の世は極楽である。感情が存在しないからである。「木にしるされよ」とは意志なのである。ひとがかかわってくると碌なことはない。その瞬間から堕落がはじまるのである。雪は降ればいい。いくらでも降ればいい。
黒人霊歌諸手で掴む冬の空 小西瞬夏
アメリカで生まれた歌謡である。白人の宗教歌とアフリカの音楽が融合したもの。キリスト教について無知なので、そのくらいのことしか知らない。ひとりで歌うものなのか集団で歌うものかも知らない。冬の空のした両手をひろげ胸をそらせて力いっぱい歌えばいいのかも知れない。
兎追ふ昼の底ひの白むなり 小西瞬夏
昼の底ひとは昼の極まった時刻のことである。白むとは、ただ白くなることである。兎を追えばいいのである。兎だけを見て、何も考えず、ただひたすら全力で追えばいいのである。
叡山の奥処へ椿放らなむ 小西瞬夏
教科書だと、「最澄」「天台宗の総本山」となる。中学校の修学旅行で行ったはずなのだが記憶にない。根本中堂のまえの集合写真が残っている。旅館では騒ぎ、観光バスではひたすら眠る。それが修学旅行なのだ。
西塔周辺には椿堂がある。奥処とは、果てしがない、行く末という意味もある。
はうれん草卵で綴じるやうな夜 小西瞬夏
「炊事、洗濯、掃除他」係である。要するに主夫見習いのようなものである。食事の支度がいちばん難しい。炊飯器の使い方、みそ汁の作り方からはじめた。十カ月近く経ったので、それなりのかたちになってきた。洗いものを少なくするために大皿に何もかも盛るようにしている。
ほうれん草はベーコンといっしょに炒めるが、そのとき、卵で綴じてみようと思う。老妻は「工夫しているじゃない。料理のはばが少しずつだけど広がっていくねえ」などと嫌味を言うだろう。
蛇口より漏るる光やラガー黙 小西瞬夏
「蛇口より漏るる」とはながれる水の光、それとも水のない管に光だけが流れているということなのか。
蛇口をひらいたとき、光はラガーマンのこころを照らしたのである。「黙」とは、怒りなのかも知れない。勝ち負けなどどうでもいいことだ。ただ「黙」することが必要だったのである。自己に対して「怒」ることが必要だったのである。
海しづか鯨が夜を噴き上げて 小西瞬夏
鯨は息をしたのではない。鯨は潮を噴き上げたのでもない。夜を吹き上げたのである。波風は立ててはいけないのである。海を怒らせてはいけないのである。誰にも気づかれることなく夜を吹き上げなければならないのである。
冬暖か髭の猟師の手ぶらなり 小西瞬夏
猟師に髭は不要である。手ぶらであることは罪悪なのである。あたたかな冬は間違っているのである。
故に、猟師には髭は必要なものなのである。ホンモノの猟師は獲物を仕留めなくてもいいのである。冬は暖かくても寒くてもどちらでもいいのである。
たましひの凍てて濃き墨あはき墨 小西瞬夏
たましひとは墨のことなのである。凍てると濃くなることもある。淡くなることもある。たましひは、そとからのちからを避けることはできない。たましいは、そとからのちからにより変幻自在なのである。経験は大切なことなのである。
毒消買ひ寒紅を買ひ桂川 小西瞬夏
桂川は北海道から九州までどこにでもあるありふれた河川の名である。毒消とは食中毒、暑気中り、水中りなどの薬のことである。寒紅とは、寒中に作った紅のことである。
古都京都へのひとり旅。桂川の橋のたもとで毒消売りから毒消を買った。寒紅売りから寒紅も買った。
冬薔薇束ね冬薔薇に紛れ 小西瞬夏
理由があるから束ねたのである。紛れることは正しい生きかたなのである。冬薔薇は冬菫に紛れてはならないのである。冬薔薇は冬薔薇に紛れなくてはならないのである。自然に生きるとは、そういうことなのである。
早起きやすでに割られてゐる氷 五十嵐箏曲
早朝の氷を見たくて早く起きたのである。早朝の氷を割りたくて早く起きたのである。ところが、その氷は、既に割られてしまっていた。そのとき、どう折り合いをつけるかが生きるということなのである。ことばを創りだすということが生きるということなのである。
節分の豆は本気で投げていい 五十嵐箏曲
手ごころを加えることは必要なことなのである。鬼に対しても同様のことなのである。本気で生きていくことは悲しいことなのである。
節分の豆を投げるのである。こころに棲みついている鬼に向かって投げるのである。手ごころを加えて投げることこそ正しい投げかたなのである。
生きることに本気だからこそ手ごころを加えるのである。故に、節分の豆は本気で投げていいのである。
かといつて鬼やらひにも礼儀はある 五十嵐箏曲
誰に対しての礼儀なのかをよくよく考えてみなければならない。それは簡単なことなのである。目を閉じてみればいいのである。そのとき、うかんだすべてのひと、すべてのものに対して「礼儀は必要である」ことを理解する。
節分の豆に対して礼儀を欠くことなどあってはならないのである。
なまはげが来たら今でもたぶん泣く 五十嵐箏曲
自分のことを思いだしているのである。いろいろなことをしてきた。碌でもない人生だった。これから先も、何も変わらないのだ。同じようにしか生きることができないのだ。
なまはげがきて厄を落としてくれる。こんなにありがたいことはないのである。
泣くぐらいのことは何でもないことなのである。泣くことで過去の過ちが何もかも許されるのならこんなにありがたいことはないのである。
浅春の風に揺らめかない鼻毛 五十嵐箏曲
揺らめくものはさびれた繁華街のネオン。裏通りに吹く浅春の風は待ち焦がれたものなのである。それに気づいたとき「春」が来たなと思う。
揺らめかないものはいくらでも存在する。あたりまえのことなのである。目の衰えてきた老人には、ネオンの明るさぐらいでは表情はよくわからない。ひとのこころもよく見えない。目が衰えていくことは悪くないことなのかも知れない。
「病的に素直」が梅の花言葉 五十嵐箏曲
たまの嘘なのである。だが、「病的に素直」は、これらの作品の底流に流れているものなのかも知れない。純真さを失わない心のままでいることは「病的」にならなければ無理である。
闇夜を歩いていて梅の香に気づいたとき、近くに梅の花が咲いていることを知る。「病的に素直」な経験なのである。
春の月たまには近所でも迷ふ 五十嵐箏曲
こころが定まらずゆれ動く状態にあること、死者の霊が妄執に妨げられて成仏できずにいること、それを「迷う」という。「死者」の霊を「生者」の霊と言い換えた方が解りやすいのかも知れない。春の月は五臓六腑に沁みわたる。
迷うことのない「生者」などどこにもいない。迷うことのない「死者」などどこにも存在しない。よく知ったところだからこそ迷うのである。
皮むきのアスパラの筋透けてゐる 五十嵐箏曲
アスパラの皮をむいて茹でたことなど一度もない。そのまま煮立った湯に放りなげていた。皮はむくものだということをはじめて知った。老妻は何も言わない。ふたりして透けているはずの筋も、いっしょに食べていたことになる。
流氷をたぶん一度も見ずに死ぬ 五十嵐箏曲
「たまの嘘」な作品なのである。「病的に素直」な作品なのである。流氷を見ることもなく死ぬのである。旅は嫌いなのである。その日のうちに家に帰りたくなってしまう。寒いところは苦手なのである。家のなかでもダウンジャケットを着たくなる。老妻は、そんな私を見て「呆けがはじまった」などと冷やかす。
陋屋の縁側に寝そべって風を眺めていれば十分なのである。鶯が鳴きはじめている。まいねん、鳴きはじめの鶯は下手だ。何故、下手なのだろうと思う。これから九月が終わるまで鳴き続けるのである。山のはたけの草もみどりが目立ちはじめてきた。草刈りの季節がはじまる。
雪解けの雪は汚いから嫌ひ 五十嵐箏曲
これは戒めのことばである。「老人は汚いから嫌い」。その通りだ。正面からなら何とか誤魔化すことができる。うしろすがたは隠しきれない。雪は、そのことを親身に教えてくれるのである。
残り火や夕日は見るに耐えるものだと思う。こころがひかれる。老人もすこしぐらいは生きがいを見つけた方がいいのかも知れない。
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本の整理に没頭した。軽トラックに積んで古紙のリサイクル業者に運んだ。もういちど読んでみたい本、忘れていた本もずいぶんと出てきた。文芸読本「横光利一」河出書房新社は見つからなかった。不思議なことだと思う。
岩波文庫「日本近代文学評論選」の昭和篇が出てきた。「シェストフ的不安について」三木清も収録されていた。横光の「純粋小説論」といっしょに再読してみるのも悪くはないと思った。
昭和十年の横光利一と石田波郷についても調べてみようと思った。調べるといっても、横光と波郷の作品を自由気ままに読み流すだけのことではあるが。
2019-03-10
【週俳1月・2月の俳句を読む】雑文書いて日が暮れてⅩ 瀬戸正洋
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