【週俳11月の俳句を読む】
三者三様
堀田季何
空想を繰返せよと枯葉かな 田中目八
連禱の如く冬星座をわたる 同
氷瀑は異なる知性を記しけり 同
一句目、枯葉が次々に落ちる様とそれにかかる時間が空想の繰り返しというイメージと重なる。二句目、こちらは直喩で、冬星座を次々と渡る行為と次々に祈る(連禱)というイメージが重なる。三句目、水晶は優れた記憶装置になるが、作者にとっては、水晶に似ていながらも遥かに大きくて荒々しい氷瀑こそが異なる知性(古代宇宙飛行士や亜神のようなものだと思ってよいかもしれない)の記憶装置なのだ。
白息やよく燃えさうな小屋の中 大塚凱
火事が遠くてなけなしの葉を降らす 同
鯛焼や晴れただけでは見えない島 同
水を轢くまぶしい車輪だが寒い 同
これらの句は、作者が言い方を実に楽しんでいるのがよくわかる。言い方のためにできている句と言っても過言でない。実だとしても、虚と変らない。私はこれらの句を面白く読むが、十年後には作者自身がこういう狙いの見えた言い回しに飽きているのではないだろうか。
冬しんしん隣は何味のシーシャ 同
〈秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉〉の本歌取、というかパロディーだろう。シ音の繰り返しも技だが、「しんしん」には、寒さが身に沁みとおるという意味の「深深」(芭蕉の句の「深」を意識しているか)と興味「津々」が掛けられているようで、こちらも技。さらに、その興味津々で強引な感じが、上五の字余りと中七から下五にかけての句跨りになっていて、内容と句のリズムが合っているのではないか、とも思ったが、作者はこの辺も狙ったか。
襖開けまた手をかえて襖閉め 鈴木春菜
冬の灯を消して冬の灯のほうへ 同
月一度の茶会を詠んだ連作だろうか。淡い恋の匂いもする。ささやかなモノを繊細に写生することで、静謐な時間を表現している。一連には、一句では屹立しない句もあったが、連作ならではの味だと思う。リフレインが効いている上の二句は、そのまま読んだだけでは茶事の情景であることが全くわからないが、不思議にも、これらはこれらで屹立すると思う。非常に単純化されているがゆえ、読者の想像をかき立てるのだ。
■田中目八 青へ、或は岸辺から 10句 ≫読む
■大塚凱 或る 10句 ≫読む
■鈴木春菜 月一度 10句 ≫読む
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