【句集を読む】
三冊の句集のこと
Ⅱ. 安里琉太句集『式日』を読む
上田信治
藤田哲史、安里琉太、生駒大祐の三冊の句集から、俳句の現在を考えるシリーズ。藤田哲史『楡の茂る頃とその前後』につづいて、今回は、安里琉太『式日』を読みます。
Ⅱ. 安里琉太句集『式日』
句集について書く場合、なんとか作家論になるように書きたいと思っている。
俳句は、究極的には、一句一句読まれるものだろうけれど、その句に到る作家の「文脈」というものは(とくに今日)そんなに一目瞭然と分かるものではない。
だから、一句が十全に読まれるために、作家論が(できれば複数)必要だと思う。
●
安里琉太句集『式日』は、先日読んだ藤田哲史の句集と似て、編年体ではなく、かといって明確に作品傾向によって章分けするのでもない、考え甲斐のある構成になっている。
ページに一句立てで強調されている句があり(他のページは二句立て)、それは多くの人がする工夫だけれど、『式日』は、その一句立ての句が、わりと多めだ。
そこで、その強調句(と以下呼ぶ)を、まず並べてみる。そこを、あからさまにすることは、作者の希望ではないかもしれないが、それらは、彼自身が「まず、ここを見てほしい」と考えた句に違いないはずだ。
『式日』の強調句
「忘音」
ひいふつとゆふまぐれくる氷かな
異様の寒の牡丹がうち敷かれ
夏を澄む飾りあふぎの狗けもの
をみならの白き日傘の遠忌かな
「未生」
しづけさに五月のペンは鳥を書く
ジェラートを売る青年の空腹よ
炎昼は未生の鳥を浮かべたる
初雪が全ての瓶に映りこむ
郵政や鳩あをあをとして冬は
野馬はためく名付け忘れしいくつもの
流れつくものに海市の組み上がる
「雲籠」
あららぎのみづかげろふも夏のもの
川音や次第に見えて蜘蛛の糸
雲籠めの白花愛しかたつむり
「夢屑」
摘草やいづれも濡れて陸の貝
残夢かな花たちばなを雨の打つ
金蠅や夜どほし濤の崩れ去る
『式日』は、今年の俳人協会新人賞を受賞した。しかし、この17ある強調句は、自分がイメージする俳人協会新人賞の水準よりも、やってることがややこしいと思う。
強調句のいくつかを、なるべく一語一語読んでみよう。
ひいふつとゆふまぐれくる氷かな
〈ひいふつと〉は「平家物語」にあらわれる矢の飛ぶ時のオノマトペだそうで、矢がひゅうっと飛んで的にあたるように夕方が来た、氷であった、というのだ。「氷」は、日々姿を変えるけれど、今ここに動かないもの。動かない氷のところに、いきなり夕方という時間が来た(そして、驚いた)という内容、おもしろい。氷の白が、夕まぐれに見えなくなるというイメージもよい。
ただ「ゆふまぐれ」の一語は、けっこうややこしい。語意は「夕べに目が見えなくなるころ」だから、矢のように来るには「ゆふまぐれ」の持つ時間の幅が、じゃまにならないか。「ゆふがたのくる」とか「夜のきたりし」だったら、すっきりするのだけど、作者はそうはしなかった(栞で鴇田智哉は「ゆふまぐれくる」という複合動詞として読みたいと、擁護をしている)。巻頭句ということもあって、話題にされがちな句だけれど、ちょっとひっかかりつつ、次の句へ。
異様の寒の牡丹がうち敷かれ
「異様」を「ことよう」と読むか「ことざま」と読むか(自分は音的に「ことよう」と読みたい)、異様=普通じゃないというのだから、派手にまだらの入った牡丹だろうか。「うち敷かれ」というのは布の見立ての入った言葉だから、豪奢かつアブノーマルな模様の布地という含みを持つ。寒牡丹は室(むろ)をかけたりして、だいじに育てるもののようだけれど、それがいっせいに散っていたら、たしかに異様(いよう)な光景だ。
この句は「異様(ことよう、またはことざま)」と古風に言っておいて、その実態は「異様(いよう)」という現代語のニュアンスを含むというダブルミーニングが面白い。
この二句「ひいふつと」「異様の」というやや違和感のある言葉、明治以来の俳句とは別文脈の語彙を、コラージュ的に「ぶっこむ」ことで、純歳時記的なモチーフで描かれた景を軋ませることに、狙いがある。
この「異様」は〈ときじくのいかづち鳴つて冷やかに〉(岸本尚毅)の「ときじく」に似てるなと思ったら、めくったページに〈悴みて水源はときじくの碧〉があった(この「ときじく」は「不変の」という意味)。
自分の、作者の意図に関する推察は、だいたい当たっているということだろう。
夏を澄む飾りあふぎの狗けもの
堀下翔が、この句の「夏を澄む」は魚目から来ていること、「飾り扇」は涼しくなるようなものじゃない、ということを指摘している。
https://note.com/ayumi_iechika/n/n5303cc9eaee7
それを言うなら「狗けもの」も、魚目の〈鶏うさぎ生れて木曽の青あらし〉からだろうけれど、「狗けもの」という言い方は、あまりない。「飾り扇」は京都あたりで売っている工芸品で、確かにあまり趣味のいいものではない。「狗」と古い字を使ったところを見ると、琳派展に出るような光悦か宗達の動物モチーフの扇絵を想像すべきなのだろうか。サイドボードか何かの上で、風も起こさず、ただ澄んでいる「飾りあふぎ」。その存在感はすごい。絵柄の「狗」が、どう効いているかというと、なかなか読み切れないが。
安里が「力を入れた」であろう句にあらわれる、この「ややこしさ」「いかつさ」は、生駒大祐の句にも見られるもので、ほとんど「下手」に見えることもあるけれど、彼らの方法は、句の一語一語を意識的かつ操作的に(つまり不自然な方法で)再構成するので、その「手術跡」が目立つのだ。
ただ「ゆふまぐれ」のがちゃつきが、句をすこし濁らせると同時に、分厚くしているのも確かだ。「異様(いよう)」な散牡丹はやばいし、飾り扇がぎらぎらと夏を「澄む」ことも、堀下の指摘どおりマジカルだ。
をみならの白き日傘の遠忌かな
「遠忌」は、五十年忌、百年忌のような、ふつうの人の死を悼むのではないスケールの法要のことを言うらしいのだけれど、この句は「遠」の字の効き方がすばらしい。
法要に日傘の女性たちが集うという景が「遠」の一字で、だいぶ遠景なのだと感じられ、視点となっている私から「をみなら」は遠く、さらに、はるか遠い昔に死んだ人がいる。
自分・・・・・・・をみな・・忌・・・・・・・死
それは、自分は「死」から遠く、「をみな」たちは「死」に近いということなのだが、そんな遠近法ってある?「白日傘 → 白き日傘」とゆったり言葉を広げたことも「をみな」と古語にしたことも、この句の力点である「距離感」を作る上でよく働いている。「遠忌」という語が、にせの季語のようにあることで、この「日傘」に重みがかかっていないことも、浮遊感を生んでいる。
この句は、ふつうに完璧だと思う。
この句の「遠」のように、文字が、一字ずつコノテーションを効かせていることに、作者の際だった技巧を見る。若さに似合わぬとは言わない。こんな力業は、脳みそがバキバキに新鮮であるから出来ることなのだから。
以上の句が一句立てで入っている「忘音」の章には、こんな句もある。
竹秋の貝が泳いで洗ひ桶
ひとり寝てしばらく海のきりぎりす
小鳥来るほほゑみに似て疎なる川
柱みな蔦の中なる狐狸の國
〈ひとり寝て〉については、以前、週刊俳句で書かせてもらった。ひじょうに気持ちのいい句(2017年「落選展を読む」 この時は、まだ彼のやっていることが、見えていなかったと思う)。〈竹秋の〉は「竹」と「桶」の字が響きあっているところが味。〈柱みな〉は幻想画めいていて〈夏を澄む〉にも通じる。
〈小鳥来る〉は角川俳句賞に出したら、意味不明と叩かれそうだけど、面白い。「疎なる川」は意味が取れるかギリギリのところだけれど「水の少ない川から(私は)無言のほほえみを思った」と読んだ。「小鳥来る」が句の中心に「私」を呼び入れている。
他に〈書き出しの〉〈臘梅を〉〈芹の根を〉〈金亀子〉〈うすらひに〉〈桜湯の〉など、温順で構成手堅く、すこし新しみもあるという句が並ぶ。
●
二つ目の章「風紋」には、強調句がない。三つ目の章「未生」は、この二句が、それぞれ一句立てで向かい合わせに置かれている。
ジェラートを売る青年の空腹よ
炎昼は未生の鳥を浮かべたる
「ジェラート」の句は、彼の19才のときの芝不器男俳句新人賞の応募作100句に入っていたから、ほんとうに最初期の句だ。「未生」の句は、章タイトルにもなっていて、二重の強調線が引かれているような句。
この向かい合わせの二句は、二句で一つの景に見える。この二句に挿入されてい鍵語は「空腹」と「未生の鳥」──青年の中心には「空腹」、炎天の中心には「未生の鳥」。書き手の自意識を託されているという点において、二つの要素は等価なのだ。
「未生の鳥」はこの世に生を得なかった鳥の幻影が飛んでいるとも読めるし、卵の中の育ちかけのあれがただ浮いているとも読める(胃袋みたいにw)。この二句の並びは句集ならではの見せ方で、とても面白い(読みすぎかもしれないけれど、その狙いがなかったら〈ジェラート〉の句は、一句立てにしないのではと思う)。
初雪が全ての瓶に映りこむ
特別にあたらしい、きよらかな雪だから、全ての瓶にあまねく映る(べきだ)と、宣言する作者は、自分がそれを「言っていい」という全能感に高揚している。意図を絵にはめたイラストのような句だけれど、その純情に魅力がある。
郵政や鳩あをあをとして冬は
野馬はためく名付け忘れしいくつもの
「郵政」は、ひじょうにコラージュらしいコラージュで、異化効果がすごい。この「郵政」は、人の内面で使われることのない、詩語とは論理的レイヤーの違う言葉だ(ほとんど田島健一さんのような書きぶり)。「鳩あをあをとして冬は」のフレーズのナイーブな可愛さが「郵政」のぶっこみで詩になっていて、おかげで、読者は、この鳩の美しさを俳句として記憶することができる。「ハト、アヲアヲ、ト、シテ、フユ、ハ」の二音一音の繰り返しと、ユウセイの四音の対照も楽しい。
〈野馬はためく〉「野馬」はかげろうの別名だけれど、この句では「はためく野生馬」が二重写しになっていると読むべきだろう(文字単位で含意を効かせるのが彼の方法だから、ということもあるし、かげろうに「はためく」は、スケール感がおかしい)。
名付けないまま過去に置いてきた、いくつもの「何か」(思い?)が、幻想の馬として、かげろうのように吹かれている。それは、時間の流れの中で、忘れられることに抗うように、たなびいているのだ。
この二句の、詩想が動くに任せたような言葉の跳ねかたを、自分はひじょうに楽しんだ。作者は、自分の俳句の可動域をひろげることについて、意識的だと感じる。
「風紋」と「未生」の章には、こんな句もある。
春昼を祀りて殊に猫の神
涼しさや石より雲の彫り出され
電話ボックスあまねく夏空を映し
鶉飼ふ皿のうすずみ櫻かな
〈春昼を〉は、一句立てのない「風紋」の章の一句目。準強調句といっていいと思うけれど、なんなんでしょうw そういえば、猫神様って、あんまりいない。私的にいろいろな神に儀式をささげてしまう、春の昼であることよ、ということか。
二句め三句めは、雲と空がぎゅーっと人工物にかたどられるというモチーフが共通(夏空と初雪の句で「映る」がかぶるのは、まあ、両方いい句だとはいえ、句集で読むと、すこし気になる)。〈鶉飼ふ〉の句も、うすずみ櫻は皿に押し込められ、鶉は皿の上だけで飼われているのだろうかと思われ(餌の皿なら、そう書かないと、伝わらない)ちょっと不気味。この句も「ひいふつと」同様、叙述の強引さからくる句の「濁り」が、面白みになっている。
他にも〈風吹けば〉〈乾電池〉〈岩と岩を〉〈稲妻の真芯が見えて飯田橋〉などの句のユーモアが印象的だった(あ、稲妻の句も田島さんだ、そういえば)。
式日や実石榴に日の枯れてをる
句集名となった一句。「式日」は、特定の行事、儀式、職務にあてられた日と辞書にある。これは、さっき見た「遠忌」と同じで、デコイのような偽の季語。この語があるので、切れ字の入った堅牢な二句一章なのに、この句は軽い。
〈実石榴に日の枯れてをる〉は、一日の終わりの日の衰えを言ったわけだけれど、果実として充実しているはずのその「実」に、日の「枯」をぶつけた、イメージの反転に眼目がある。「式」の字も、ザクロの「石」の字も、この句にあっては「日の枯」(生命の衰え)の味方をしている。
●
「雲籠」「夢屑」の章の強調句は、これまでの章と比べると、ややふつうで大人しいのだけれど、よく見ると、やはり少しおかしい。
あららぎのみづかげろふも夏のもの
「あららぎ」ググるか辞書を見るかしていただきたいのですが、斎宮(いつきのみや)でいう、「仏塔」の忌み詞、または「のびる」の異名、または「いちい」の異名、って、確定しにくいなw みずかげろう(光線が反射して壁などに映る水紋)が映りやすいのはどれか、というだけで考え込んでしまうのだけれど、すべては熱中症気味の脳裏に映る、幻影なのかもしれない。
雲籠めの白花愛しかたつむり
「籠め」は、取り「込む」はめ「込む」という時の、「こむ」の接尾語化したもので、「〜ごと」「〜ぐるみ」の意。「雲籠めの白花」は、何の花だろう。夏雲と「籠目」にからみつくように一つに見える白い花、サルスベリだろうか。雲とからみあって輪郭の定かでなくなった白花の木に、かたつむりが居る。イメージの描きにくさが「白花」の尊さ、高さに相応していると読むべきか。
摘草やいづれも濡れて陸の貝
金蠅や夜どほし濤の崩れ去る
〈摘草や〉も「週刊俳句」で書かせてもらった。写実のようで写実でない若冲の絵を思わせる幻想的な句。「竹桶」の句があるのが、ちょっと惜しいんだけど、どちらもいい句。
〈金蠅や〉は、またややこしい。〈夜どほし濤の崩れ去る〉のは、そこが室内でも屋外でも、闇でなければいけないでしょう。この圧倒的な力感は。だったら、この金蠅はどこにいるか。まっ暗闇の中、一点の「金」は幻視されてある。「夜どほし」の一語の含意は「崩れつづける濤」が夜全体という持続する時間の表徴だということで、それは朝になればあとかたもなく消え去るということを含んでいる。ならば「金蠅」の金は、まだ予兆もない朝日の「金」を待つ、闇中の一点と読むか。あ、とてもいい句ですね、これ。
「雲籠」「飲食」「夢屑」から注目句。
きらきらと日焼の雨を帰りけり
老鶯や斜めに弱る竹箒
沼に浮く傘のふしぎを葛の花
三人に鶉の籠の暮れてをり
花びらを凍てのぼりゆく夢はじめ
海鼠嚙む風蝕の日を高く吊り
そちらから見えて風船葛かな
ぼら釣の印度よ風が目にしみる
たそがれの雲間の凧をふと見たり
〈きらきらと〉天気雨の句なのだろう。「日焼」は子供たちの換喩ととるのがふつうだろうけれど「日焼の雨」という、すばらしく清潔で蠱惑的な幻像が立ちあらわれる。〈老鶯〉は山だと、竹箒の存在感が弱すぎなので、これは町中かも。「老」の一字を、鶯のきおいも天候も裏切っていて、竹箒だけが弱っているというw。〈沼に浮く〉ふしぎをは、魚目の〈不思議のこゑを〉か。ふしぎとまで言うのだから、この傘、ひらいてて、逆さに浮かんでるととりたい。
〈三人に〉はひじょうに面白い。この句集、鴇田智哉の影響を感じる句がいくつかあって、他の句とトーンが合わない気がしたのだけれど、この句は古典的な風姿があって、鴇田風ではなく、かつ、そのふしぎな論理の輸入に成功している。〈そちらから〉は、裕明でしょうか。裕明は、糸瓜棚とのうぜんでしたが。あと、この〈印度〉はきっと龍太なんだろうな。
〈海鼠嚙む〉には、虚子の〈日凍てて空にかゝるといふのみぞ〉が響いている。そのことは〈たそがれ〉の句が虚子の〈旗のごと〉なので確信に変わった。〈風蝕の日〉は〈旗のごと〉の〈冬日〉でもあって、ぼろぼろの冬日というイメージが作者にある。そして料理された〈海鼠〉も、また、むしばまれた「円」だという。用語の危機感とウラハラに、オシャレに構成された句。
そうそう〈たそがれ〉の句、「栞」の岸本尚毅の鑑賞がみごとだった。「雲間の凧」というのは、凧として高すぎる、それはありえない幻想なんだ、だから、ふと見えてしまったりするのだと(そうやって、虚子の元句の幻想味を引き継いだのだということだろう)。
●
ここまで、いつもの句集評より、多めに句を読んでいるのは、この句集、いい句が多いのはもちろんだけれど、作者の「やっていること」が、一つの「方法」に収斂して見えては「こない」だろうという見込みがあったからでもある。
たとえば、まだ触れていない句に〈書き出しのすでに日暮れて浮寝鳥〉〈臘梅をきれいな川の照りかへす〉〈金亀子飛ぶことごとく遺作の繪〉〈陶枕の雲の冷えともつかぬもの〉〈ゆかりなき秋の神輿とすこし行く〉〈風吹けば高さのそろふ夏の草〉〈猫の子が枕の中を知りたがる〉〈涸るる沼見てをれば背を思ひ出す〉〈春の蚊のそよそよとふきすぼめられ〉〈それぞれに淡き服着て春の海〉と、だいぶ、いろいろの傾向がある(俳人協会新人賞は、これらの句に与えられたのかな、とも)。
しかし、自分は、作者の選んだ強調句に見てとれる、彼の方法に可能性を感じる。
●
安里琉太句集『式日』から、作者が一句立てにして強調した句を中心に、注目句を精読した結果、次のような志向性と方法を見出すことが出来た。
・歳時記内的な素材と、そこから派生する美意識から離れない。
・意識的な言語操作を通じて、句のなかに、人工的な美の空間を作る。
・そこに作者は、住んでいない。
・俳句の通常の語彙や統語からはみだす語を、コラージュ的に挿入し、異化効果を生む。
・語を構成する一文字が、他の語句や文字と審美的な照応関係を結ぶことがあり、そのテクニックは巧緻を極める。
・その意識された人工性が、語の有機的連関を、しばしばガチャガチャにしている。ただ、その混乱が呼びこむ「濁り」が、一句に、無意識領域にわたる「厚み」を生んでいるようにも思う。
・岸本尚毅は「栞」で〈たそがれの雲間の凧をふと見たり〉の〈たそがれの〉を「ベタな上五」、〈ふと見たり〉を「不用意すれすれ」と書き、だからこそ「あるはずのない〈雲間の凧〉を、うかつにも、ふと見てしまう」と、評している(一句目に取り上げているので、この句自体は、高く評価されている)。
つまり、岸本は、これほど方法的かつ意識的に、言語操作を加えて一句を成す作者に「だいぶ『天然』が入ってますね(意訳)」と言っているのだ。「それが、現時点での、あなたの魅力かもしれませんね(だいぶ意訳)」と。
・それは、自分が感じた、ガチャガチャした、濁り、などの印象とも共通している。
つまり、彼は、技術で俳句を書こうとしているように見えるけれど、その技術には、まだ洗練されるべき余地があるということか。
いや、そうとは言い切れない。
・彼は、ある範囲で完成した句を書くことは、もうできる(この句集にもたくさんある)。ただ、その完成は、彼にとって既に「足りない」ものなので、方法的にその限界を拡張しようとしている。
そこで歳時記「内」の美の世界が、軋む。
あるいは、俳句に彼が求める「美」は、まだ生まれていないのに、彼は、それをあるものとして、産ませようとしている。
現時点での未完成は、彼の方法なのだ。
●
自分は、彼の〈眩暈とはビニール袋詰めの蝶〉の句(未収録)をおぼえていた。彼が今よりさらに若い頃の作だ。なんという無理筋!
しかし、無理筋を志向できること自体、才能だろう。
完成形がこの世にまだないものを志向する人は、長い未完成の時期を過ごさざるを得ない。しかし、必ずしも、それは修業時代ではなく、むしろ未完成のまま、全盛期(いちばんいいものが書ける時期)が始まっていたりする。
安里はそういう書き手なのではないか。
〈夏を澄む〉〈雲籠めの〉〈疎なる川〉〈郵政や〉──なんという、無い物ねだり。もちろん、無い物ねだりができることは才能で、これらの句は、無い物ねだりにガッツリ形を与えた句だから価値がある。
〈ぼら釣の印度よ風が目にしみる〉〈蝶に似し茸や此処も風が吹く〉のような句には、また別の方法的拡張がはじまっていることを感じる。
●
をみならの白き日傘の遠忌かな
郵政や鳩あをあをとして冬は
野馬はためく名付け忘れしいくつもの
ひとり寝てしばらく海のきりぎりす
式日や実石榴に日の枯れてをる
金蠅や夜どほし濤の崩れ去る
きらきらと日焼の雨を帰りけり
三人に鶉の籠の暮れてをり
あらためて、特に印象に残る句を引いた。
これらの句のいくつかは、たとえば魚目とか裕明とか、あと澤好摩さんとかでもいいんだけど、明らかに優れた俳人の句集に、ひょっと並んでいても、それほど違和感ないでしょう?(上田の句をそういうところに並べると、すごく違和感があります)。
やはり、この人は技術的にも感覚的にも確かなものを持っていると思う。
これらの句、美と感情が、空間を殺し合わず、完全な二重写しとして成立している。こういうのは、俳句の理想なんだなと、あらためて気づかせてもらえた。
そして、もちろん無理筋の句があるから、これらの珠玉の句があるのだろう。ありえないほどの高さを目指すことのない完成に、自分は、もう、あまり価値を感じられないので。
句集『式日』は、安里琉太という才質豊かな書き手の現在地を示すもので、すでに多くの佳句があり、将来の更なる達成に期待を抱かせる。
この句集が俳人協会新人賞を得たことは、近年、刊行された何冊かの句集が示した、俳句の方法と意識の拡張が、俳句の現在に、ついに、必要とされ始めたということかもしれない。
次回は、そのことを書いて、この稿のまとめとしたい。
(つづく)
0 comments:
コメントを投稿