【週俳3月の俳句を読む】
言葉にかける思いのようなもの
言葉にかける思いのようなもの
鈴木茂雄
俳句という短い詩形は、言葉そのもの、表現そのものに関心を集めるという詩的機能とは別に、異化作用という言語手法によって、別の角度からの物の見方や感じ方で言語空間の再構築を求められる。その困難さに今回の作品群もまた斬新と陳腐という紙一重の選択を迫られている。そういう観点から「週俳3月の俳句」を読んでみた。
対岸の飛び地へ続くいぬふぐり 篠崎央子
やきそばは半額梅が枝は湾曲 同
「猫の貌」10句をざっと読んだ感想は、この人はとにかく俳句形式を使って悪戯を楽しんでいるということだった。たとえば「やきそばは半額」と「梅が枝は湾曲」は、なぜ並んでいるのか。それは有りそうで無いからだ。「無い」も絶対ないという安易さは書かない。有るかもしれない「無い」を認めて、しばらく彼女の罠にはまってみよう。「対岸の飛び地へ続くいぬふぐり」は、最初は何気なく読み、次に読むと「いぬふぐり」というのは植物だけど、それが「対岸」にあるのなら、あちらにもこちらにもあることになる、と。しかし、「続く」というのだから川(たぶん)を越えたのだろう。だろうという想像は、川の向こうへ渡ったという、動的なその勇姿が春の川のきらきらに相応しい、と思ったり。読むということは考えることだとすると、散文的な読みに終わってしまう。詩を読むということは、誤解をおそれずに言うと、そこに何が書いてあるかということより、如何に書いてあるかということにより関心があって、どうやら詩は悪戯が大好きらしい。
片足の潦水に触れ垣繕ふ 中西亮太
掃く人の椿壊してしまひけり 同
まるで日常から蚕の糸を引き出すようにして詩を書く。その透明感は、たとえば「潦水に触れ」や「椿壊して」など、作者が選んだ漢字や言葉の並びに表現されている。蚕の糸のように言葉を紡いでいく美学なら、少し酔わせられるのも悪くないだろう。
勝てる気の全然しない猫柳 近恵
水を掻くかすかな音も桜の夜
たとえば「勝てる気の全然しない」のは、猫柳「に」ということなのか、それとも猫柳「は」ということなのかだが、どちらにしても「勝てる気の全然しない」という大胆さと、「水を掻く音」それも「桜の夜」にという、ちょっとしたエロスの隠し味のような含みもある繊細さとを、あわせ持った守備範囲の広さが面白さを越えていて、とても奇妙である。奇妙という、そのことにとても詩を感じる。
米屋には亭主が一人春の雨 須藤光
午後四時の寂しき微温春の雨 同
どの句にもやさしい光と影が漂い、その水彩画のようなトーンにどこか洗われたような気分になる。好きで選択した「亭主が一人」とか「午後四時の寂しき微温」というシーンは、いわゆる付き過ぎなのかもしれないが、そこには透明感と存在感があって、なにより繊細さが光っている。もともと作者が言葉にかける思いのようなものが淡白なのかもしれない。
第724号 2021年3月7日 ■篠崎央子 猫の貌 10句 ≫読む
第725号 2021年3月14日 ■中西亮太 祝祭 10句 ≫読む
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