【週俳4月の俳句を読む】
人生と実存と
堺谷真人
姫子松一樹「上顎にまんぢゆう」には、幾重にも記憶を塗り重ねた人生の手触りがある。
卒業や粉いつぱいのチョーク受け 姫子松一樹
黒板の溝がチョークの粉でいっぱいになっている。卒業式目前の某日。掃除当番の一人がそれに気づき、黒板消しと雑巾でチョーク受けを清掃しようとしている。立つ鳥跡を濁さず。お世話になった黒板への感謝の気持ちが素直に現れている。
伊賀焼のみどりひとすぢ春の雨 姫子松一樹
川端康成はノーベル賞受賞記念講演「美しい日本の私」の中で、わび、さびを代表する焼き物として古伊賀を採りあげ絶賛した。古伊賀の茶陶の肌に走る一筋の緑のビードロ(ガラス質)には、遠い春の日の雨の記憶が凝結している。
上顎にまんぢゆうの皮朧月 姫子松一樹
山の芋を練り込んだ上用饅頭。餡から分離した薄皮の一部が上顎に付着している。(まれに海苔でも同様のことが起きる)夜空に貼り付いた朧月と饅頭の皮との不思議な相似形。月との連想でいえば、この饅頭は黄色い葬式饅頭なのかもしれない。故人への断ち切れない思いも一緒になって上顎に付着している。
しばらくを地にくつついて石鹸玉 姫子松一樹
石鹸玉にも一生がある。ストローの尖端に生まれ出たばかりの幼少期。青雲の志を抱いて上昇する少壮の頃。風に流されて空中に浮遊する中年時代。そして下降して遂に地上に擱座する余生。滅するまでのたまゆら表面に七色の彩文のゆらめくのは、恍惚として往時を回顧する最晩年か。この句は最晩年の石鹸玉を詠じてまことに秀逸。
春ショール鉄棒に掛け逆上がり 姫子松一樹
早春。ショールを巻いた妙齢の女性が鉄棒の前に立っている。小学生の頃に得意だった逆上がりをふとやってみる気になる。鉄棒を握り地面を蹴ろうとした刹那、ショールを巻いたままであることに気づき、頸から外して二つ折りにし、鉄棒に掛ける。花柄のプリント地か、それとも落ち着いたアースカラーか。鉄棒の前にもどって来るまでの人生の軌跡が、一枚のショールによって鮮明に視覚化されるのだ。
以下の句からも人生の香りがする。境涯俳句の類いで
はない。名優が一分間の演技の中で登場人物の人生の
来し方、行く末を濃縮するあの手ぶりが見えるのだ。
身の内に海光満ちて若布干す 姫子松一樹
諸子釣る婚姻色のひかりかな 同
田の水の泡の纏はる春の鮒 同
蟻穴を出づれば荷物届きけり 同
義士祭帰りに友の家に寄る 同
横井来季「吐き気」には、実存の軋みのようなある種
の疼き、酩酊感がある。
母校燃やす煙よ凧と軋みつつ 横井来季
作中主体は母校に対し愛憎相半ばする両義的な感情を引きずっているのであろうか。凧を軋ませるほどに熱く濃い煙。それはどこか焚書の愉悦すら連想させる光景である。母校とは、過去の自己を呪縛してきた知識体系のシンボルであり、子の独り立ちを阻むグレート・マザーそのものなのだ。母校との決別は人が成長してゆくうえで必要不可避なイニシエーションなのかもしれない。
火酒叩くなづきの部屋を一つづつ 横井来季
宿酲(ふつかよい)のひどい頭痛。脳の中に並ぶ小部屋のドアを順番に激しくノックされているように痛む。だが、このような肉体的苦痛も、火酒を擬人化した途端、なぜか奇妙にユーモラスな景へと転ずるのだ。正岡子規の絶筆を例に出すまでもなく、俳句という詩形には自己を客体視させる薬効成分が含まれている。
ボートレースまんぢゆうの濡れ朽ちてをり 横井来季
競艇場の観客席で雨に打たれている饅頭。あと一歩のところで大当たりを外してしまった甘党のギャンブラーが、食べさしの饅頭を投げ捨てて去ったあとなのか。姫子松作品の饅頭が断ち切れない思いの表象であるとすれば、横井作品の饅頭は断ち切りたい思いの残影である。
ハンドルに脚かけて寝る花見かな 横井来季
外回りの営業マンが、堤防にクルマを停めてつかのまの仮眠を貪っている。桜が満開の花見時。シートを倒し、両脚をハンドルにかけた寝相はいかにも行儀が悪い。彼は知る由もない。昼休み、花見の場所取りに来た得意先の女子社員に寝姿を目撃されたことを。
春暑し吐き気は眼窩へと集ふ 横井来季
サルトルの代表作『嘔吐』の原題「La Nausée」の直訳は「吐き気」。吐き気は本人が受容し難い何かに直面していることの身体的発現である場合がある。それが眼窩へと集まり、ゲシュタルト崩壊を起こしかけているとすれば、容易ならざる事態である。
以下の句からも実存のゆらぎが垣間見える。菫や付箋などささやかなものを媒介として、荘周と同様に胡蝶の夢の世界へとワープする没入感がここにはある。
眠りかたを毎夜忘れてしまふよ菫 横井来季
付箋剝がれかけゐる陽炎の出口 同
夕焼の模様に渇く春田かな 同
小銭入れて自販機光る春の泥 同
アイマスク越しに障子の蝶がうごく 同
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