【週俳2月5月の俳句を読む】
苦言・提言・ひとり言今井豊
思ったことを忌憚なく書かせていただきます。まさかとは思いますが、「いい句ですね。お上手ですね。素晴らしいですね。」と傷を舐め合う場所ではないと思うので、本音で行きたいと思います。さらなる向上を目指して呻吟している作者が、他流試合でどう自分の句が評価され、またどう評価されないのか、本音が知りたいと言う作者に本音のメッセージを送りたいものです。もちろん、俳句の評価は多様なのであくまでも私の一視点と言うことです。
失礼なこともたくさん書くと思いますが、そこはご容赦を。
「大炬燵」 工藤 吹
菓子箱に菓子の模様や冬椿 工藤 吹
鳥といふ形が雪の山に残る
白鳥の白や水面のうすにごり
これらの読んで俳句のツボをよく心得て作者だと思った。しかし、面白くない。「こうすれば俳句になる」「こうすれば俳句らしくなる」と全部心得て作っている感じがある。安心して読める代わりにどんな俳句が出て来るのだろうというワクワク感がない。小さくまとまる必要はないと思う。思ったことをもっと大胆に、ありのままに詠んで欲しい。
面白かったのは、こんな句である。
砕氷の音続きゐるおそらくは祖母 工藤 吹
前後の関係も分からなければ、なぜ、氷を砕いているのか、なせ、それが祖母だと思ったのか。分からないことだけだが、その謎が面白い。作者か、家族の誰かが熱を出したのかも知れない。小さな頃の思い出を詠んだのかもしれない。
贈答のハムの転がる冬構 工藤 吹
がつと掴んで牡蠣剥きぬ手のちから
橙は黒ずむ傷の硬さかな
この三句、いずれも面白い上五、中七。「贈答のハムが転がる」で何が出て来るのだろう。「がつと掴んで牡蠣剥きぬ」でどう展開されるのだろう。「橙は黒ずむ傷の」でどう飛躍するのか。大変な期待感があったが下五を読んで、期待がしぼんだ。なぜ、「冬構」なのか、なぜ「手のちから」なのか、なぜ、「硬さかな」なのか。この下五次第では強靱な句になるのにと本当に残念に思った。下五は、上五・中七の補足や説明になっては面白くない。飛躍や展開が必要である。
「あとの音」 阪西敦子
安心して読める。落ち着いた作風。作品十句を象徴する「あとの音」と言う題名がいい。安易に作品中の語片を取ってきて付けたのではない。
注目したのは最初の二句。
春雪や触れたることのなき手摺 阪西敦子
春雪を行き交ひ聴きとれぬ言葉 阪西敦子
一句目。「や」で切って重層構造が成立した。「春の雪」と作者自身の両方が手摺りに触れたことがないようなイメージが広がり、作品の世界が広がっていく。二句目、普通に読めば「聴きとれぬ言葉」は、外国の言葉と言うことになるだろうがそれ限定する必要もないと思う。専門用語でも、声が小さくて聴きとれないなど多様な読みができだろう。ともに季語の「春雪」が効いている。
草に積み草より解け春の雪 阪西敦子
「草より解け」が詩的な表現にもかかわらず、今ひとつ句の中で上手く機能していないのではないかと思った。「早春の犬の白さや吹かれけり」の「や」「けり」は作者としてはOKなのだろうか。
橋と日と鴉を残し春の川 阪西敦子
パンらしきものも映れり春の川
春の日の枝にかかりて傾ける
この最後の三句は、いささか弱かったなと言う感じがした。弱いというのが言い過ぎならば「淡い」。何でも素材にはなるが、何でも俳句になる訳ではない。技がなければ俳句にはならない。
「面白」 福田若之
刺激的な俳句であり、意欲作であると思うが、どこまで成功しているかと言われると難しいとこもある。
この作者も最初の二句に注目した。
姿なす春の泥からヌートリア 福田若之
捉えどころがない。でも、面白い。「姿なす」がわかりにくいが「春の泥からヌートリア」がいい。ヌートリアが本当に「ヌー」現れたような気がした。ヌートリアは外来種のねずみのこと。
春めくということにする吹き出物 福田若之
「春」と「吹き出物」の組合せが絶妙。ただ、組合せが面白いだけではなくて中七の「いうことにする」がこれまた不思議な魅力を出している。「春」と「吹き出物」、近いような気もするが、納得されられる方が強かった。
夜桜をカップラーメンタルな徒歩 福田若之
白すぎて雲は浮かぶよ四月馬鹿
風船がときどき電球に当たる
「夜桜の」の句は言葉を酷使しすぎだろう。「白すぎて」の句はあまりにも平凡。もちろん「四月馬鹿」に飛ぶところが勝負なので、それまでの上五・中七は平凡な方がいいと言うことで意図的だと言うことは理解している。それでもなという感じである。「風船が」の句。歳時記を見れば、「風船」は春の季語と言うことになっている。「かっては春の季語になっていた」と記す歳時記もある。作者は「風船」を季語として使用しているのだろうか。「風船」に季感があるのか。季語としての「風船」なのか、単なるモノとしての「風船」なのか。自由律俳句か、一行詩か、そんなイメージで読んだ。季語があるから俳句だと言われても、ちょっと違うなという感じがした。
「戦場から電話」 山口優夢
自由闊達。発想が柔軟で表現も多彩。なかなか読ませる句が多かった。
しやぼん玉割れてあくびの涙ほど 山口優夢
「涙ほど」に作者独自の感性がある。ここで「涙ほど」とはなかなか、出てこないのではないか。私なら「しやぼん玉割れてあくびを噛み殺す」などとしてしまうところだろう。
死者自身訃報読みたしポピー咲く 山口優夢
この句も独特。死者は自分の訃報を読めないことは自明のことだ。しかし、それを「読みたし」と言う。下五は軽い季語がいいが、「ポピー咲く」でいいかどうか。
夜が手を見せて戦場から電話 山口優夢
何とも不気味な句。「夜が手を見せて」がこの句の核心ではあるが、「戦場から電話」でいいのだろうか。下手な手品の種明かしをされたような気分になった。それと、どうしても田中裕明の「水遊びする子に先生から手紙」を思い出してしまう。この句を思い出すと言うよりは、句集名としての『先生から手紙』を思い出す。それとは別に、題名を一読したとき、電話がいるのかなと正直思った。つまり、「戦場から」もしくは「戦場」だけでいいのではないか。電話と言われ同僚の現地の記者から電話で伝えられたことだと説明されたようで、急に色褪せてしまった。
海底に山中にそのうち月面にかばね 山口優夢
三十二階から一階まで夕焼けでさすがに草
この辺りも意欲作であろう。このような句はチャレンジ精神こそ大事で、完成度を求めたり、ここが駄目、あそこが駄目というのは、御法度だとは思うが、もう少し練って欲しかった。特に「海底に」の句は、原石の輝きがあるのだから。また、無季だと言われてもいいと言う覚悟がないと発表できないだろう。
「桐生が岡動物園にて」 山田耕司
作者のこの感覚を共有できるかどうかが、この俳句群を読めるかどうかの試金石となる。
共有できなければ、まったく分からないと言うことも起こるのではないか。まず、テーマであるが、動物園での嘱目という非常に難しいテーマにチャレンジしている。動物園での吟行と言うのを私もやったことがあるが、ろくな句が出来ず散々な目にあったことがある。
服を着て佇てり〈準備中〉の檻の前 山田耕司
この句に最も注目した。登場する動物なにか分からない。まだ、バックヤードにいる。だから「準備中」なのだ。だから、あえて言うならば登場する動物は「人間」と言うことになる。檻の前で服を着て立っているのは人間(作者?)である。動物には、服を着て佇んでいる人間がどう見えているのか。この逆転の発想がさりげなく、本当にさりげなく示されているのでいい句になった。その哲学的思考を前面に出されたら「あざとい」と思っただろうし、嫌な気分になったことだろう。同じような発想から出来たのかも知れないが、次の句にも注目した。
にんげんとおぼしき者らタヌキを囲む 山田耕司
視点がよく分からないところもあるが、「タヌキ」から見たら、人間は得体の知れないものかも知れない。いや、多分、得体の知れないものだろう。「にんげん」と「タヌキ」は漢字の方がいいのではないかと思ったが、作者はそれでは味わいが亡くなると思ったのだろう。「おぼしき者ら」と言われて、人間の不気味さが際立ったのではないか。
おむすびを出しキリンの目を見てゐる 山田耕司
寝そべりてカンガルーたる五月かな
緑陰が吐き出すものにフラミンゴ
この辺句は少しおとなしい。あるいはすでに詠まれた句。今更、わざわざ詠む必要はない。単なる花鳥諷詠の句を目指しているのではないのならばなおさらであろう。。
0 comments:
コメントを投稿