【週俳6月7月の俳句を読む】
「コメダ珈琲店大井松田店」にてⅡ
瀬戸正洋
熱いおしぼり。モーニングサービスの温かい「ゆでたまご」。たまに、殻の剥けないほどの熱すぎる「ゆでたまご」。これが何ともいえない。昔ながらの、ゆっくりと寛げる珈琲店である。
珈琲を飲みながら、句集「ミルク飲み人形」山田千里を読んでいる。今泉康弘の跋文「童話と情念-山田千里の世界」の通りである。この句集には、半世紀近く俳句に執着してきた理由が書いてある。
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寸幾天之多ガーベラ絮となつて飛ぶ 津髙里永子
寸幾天之多がよく解らなかった。解らないときは、何も考えず文字をただ眺めることにしている。それで充分なのだと思う。何もかもを解ろうとすることは不遜なことなのだ。このことばを繰り返し思い出すことができれば、それでいいのだと思う。
香水の香を分け合へる男女かな 津髙里永子
分け合わなくてはならないのである。分け合うものは香水の香なのである。分け合っているのは男と女なのである。淡々とした叙述である。そんな場面にはなかなか出会うことはできない。不思議な場面である。そんな場面に出会ったことが不思議なことなのかも知れない。
遠雷に寝つく夜明けの天邪鬼 津髙里永子
天邪鬼とは悪鬼神もしくは小鬼、または日本では妖怪の一種とある。ひねくれた性格という意味であり対義語は素直とある。
夜明けに寝つくことは素直であるということなのかも知れない。遠くで鳴っている雷がひねくれているということなのかも知れない。
ジャズ聞いてご飯の余る手巻き寿司 津髙里永子
ご飯とは余るものなのである。それはジャズを聞いていたからなのである。あるいはジャズそのものの存在ということなのである。家族団欒などということは幻想である。ともだち同士和気あいあいなどということも幻想なのである。
ひとりで手巻き寿司を食べている。ジャズが流れている。そして、ご飯が余った。ただ、それだけのことなのである。
練乳の賞味期限や苺買ふ 津髙里永子
練乳の賞味期限が近づいて来たので苺を買った。練乳の賞味期限にかかわりなく苺を買った。苺が食べたくなったので苺を買った。それほど食べたくなかったがなんとなく苺を買った。苺を買うにも様々な理由がある。
疑へば疑ひ合へり梅雨の薔薇 津髙里永子
疑いはじめると切りがない。疑いは深くなる。疑いは広がっていく。薔薇の花言葉は色によって異なる。本数によっても異なる。その花言葉を羅列してみる。胡散臭さが増してくる。だから、梅雨なのかなどと思う。
家族のみ夫のみ愛せ滝の音 津髙里永子
家族を愛することは難しい。夫を愛することは難しい。自分を愛することは更に難しい。問題は、家族のみを愛せということである。夫のみを愛せということである。
遠くで滝の音が聞こえる。聞こえることで愛が解れていくような気がしている。
滴りの洞にぬかるむ空と海 津髙里永子
空と海がぬかるむのである。洞の先の空と海があるのではない。空と海のはじまりに滴りの洞があるのである。立ち位置がぬかるんでいる。その先の何もかもがぬかるんでいるような気になる。
機関車の前輪くぐる鳩涼し 津髙里永子
機関車の前輪をくぐる。鳩の素早い動きに涼しさを感じた。もしかしたら現実と記憶が入り混じった光景だったのかも知れない。
水なき噴水沖縄慰霊の日 津髙里永子
水の無い噴水は噴水ではない。違和感を覚えている。七十七年前のことを知るべきだと思う。目の前の小さな違和感が、あらゆる「もの」、あらゆる「こと」のはじまりと結果なのだと思う。
明易のひかりが池に凝りけり 森賀まり
凝るとは凝結すること、気体が液体に転化することである。ひかりは、明け急ぐ夜を嘆いている。嘆いているひかりは、池のまえで立ち止まる。
二人乗りして青柿の尻見えて 森賀まり
柿の木の近くを通りがかった。枝とぶつかりそうになったのかも知れない。手で枝を払ったときに青柿の尻が見えた。
自転車を乗ると尻が痛くなる。その痛さが楽しかった思い出だったのかも知れない。
虹彩のいよいよ細く麦青む 森賀まり
虹彩は瞳孔の大きさを調節して網膜に入るひかりの量を調節する役割を持っている。麦畑はあざやかなみどりいろとなった。目を閉じても麦畑はひろがっていく。目と麦畑との距離を感じたりもする。
棕櫚咲いて菜食の人小さき声 森賀まり
菜食とは動物性食品の一部または全部を避けることである。棕櫚の花のように目立たずしずかに生きていきたい。余計なことはしたくない。分相応な暮らし。黙って生きていくのだ。それが叶わないときは、せめて小さな声で意志を示したい。
留守の家さだかに白し蠅生る 森賀まり
蛆が蠅に羽化する。気分の悪いものである。家とはそういうものなのかも知れない。留守のとき家は白くなる。あながち間違ってはいないのかも知れない。硝子戸の内には白いレースのカーテンが見えたりもする。
製錬所青蔦を冷えのぼりけり 森賀まり
鉱石を還元することにより金属を取り出す過程のことを「製錬」という。すつかり冷たくなることを「冷えのぼる」という。
遠くの製錬所が見える。製錬所の壁がみどりいろに浸食されていく。
下闇を行く狼爪を浮かせたる 森賀まり
ニホンオオカミが鬱蒼と茂る木立の下、爪を浮かせている。爪を浮かせるとは、何かをはじめたいという意思なのである。過去のしがらみから解き放たれたいという意思なのである。
松ばかり砂に垂れゐる溽暑かな 森賀まり
目が眩むほどの暑さである。松の枝も力が抜けてしまったような気がした。松ばかり見ているからそう思ったのかも知れない。
砂浜にいるすべてのひとの両腕が砂のうえに垂れ下がっている。
裸子の髪の根ふかく梳かしやる 森賀まり
裸は子どもの特権である。汗にまみれ、もつれた髪をゆっくりとたっぷりと梳かしてやる。愛情を感じる。
夏の雨肘ひからせて伝ひけり 森賀まり
肘とは、上腕と前腕をつなぐ関節、さらに、それを取り巻く筋や腱のことをいう。半袖を着ているときでしか雨の伝わる肘を見ることはできない。
渋滞のたうに起りて明易し 杉原祐之
明け急ぐ夜を嘆く間もなく渋滞は起こる。活気のある街である。活気に酔っている街である。活気に騙されてしまっている街である。
蠅の如沸き起こり来るバイクかな 杉原祐之
何十代ものバイク、何百台ものバイクが道路から溢れるように走っている。荒々しい熱気を感じる。同じ方向であることに何の疑いも持たない。ひとの本質なのだと思う。
開発の取り残さるる日向水 杉原祐之
取り残された水たまりがある。強い夏の日差しがそれを温めている。
開発とは破壊することではない。立ち止まることである。立ち止まったときに、それが何であったのかを気付かせてくれるものなのである。
ジプニーの煤を落とせる日向水 杉原祐之
日向水が排気ガスの煤を洗い落とす。経験を繰り返すことで少しずつ進んでいく。一足飛びは無理なことなのである。進んだ先にあるものが幸か不幸かは別のはなしなのである。
片蔭に死を待つ如しホームレス 杉原祐之
ひと(ひとに限らず)は、死を待つことが生きているということなのである。ホームレスだけのことではない。片蔭に身を潜めているのはひとの知恵なのである。
破れたる途端の屋根を夕立打つ 杉原祐之
途端とはシャレである。ちょうどその瞬間という意である。不謹慎なことなのかも知れない。夕立に感動しているのである。
スコールの靄街中を覆ひたる 杉原祐之
スコールの靄が街中を覆う。隠そうとしているのだ。隠さなければならないものが視えているのだと思う。スコールとは激しい天候変化、短時間のうちに雨風が激しくなることである。
スコールの跳ね上げてバス来たりけり 杉原祐之
スコールの街にバスがやって来る。スコールなど無かったかのように。ひとのたくましさや強さをあらためて感じる。
夕凪のホームに人の溢れたる 杉原祐之
日本なら、さしずめ江ノ電のとある駅である。そこで溢れているひとは観光客である。だが、このホームに溢れているひとは労働者である。一日の仕事の終えた労働者たちが帰宅するためホームは、ひとで溢れている。街も人も太陽も何もかもがぎらぎらとしている。
冷房の強き新興国のビル 杉原祐之
新興国のひとたちは荒々しい。力強い。未来に希望を持っている。
日本で暮らす老人は、何もかもが真逆である。からだのため、節約のため、ほどよい室内温度を保つように努力する。からだも生活も壊れやすいのは、老いて疲れているからである。
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