【週俳1月2月の俳句を読む】
様々な存在
谷村行海
水滴のやうに蠅をり日向ぼこ 山口遼也
「水滴」で画像検索をかけると、複数の水滴が点在する画像がたくさん出てくる。だが、この比喩としての水滴は複数の水滴ではなく、一滴のものと思われる。個人的な感覚かもしれないが、蝿がじっとしている場合には、その存在はそこまで気にならない。飛び回るからこそ煩わしい存在に感じられる。同様に、水が一気に飛び跳ねてしまうと煩わしいが、たった一滴だけであれば気にもならない。つまり、この蝿は煩わしい存在ではなく、日向ぼこを共にするようなほほえましい存在。長い時間蝿がそこにじっとしているようで、のどかな午後のひと時を感じさせてくれる。
底冷や魚拓は目玉まで写し 山口遼也
きわめて残酷な句に感じられた。魚拓をとる場合、目玉には墨を塗らない。魚拓に描かれた目の絵は筆によるものとなる。そのため、目の絵を描くまでは、目の部分のみがぽっかりと空くことにある。また、魚拓をとった後の魚は人の胃袋に収まってしまう。このようなことを考えると、ぽっかりと空くように写された魚拓の目玉の部分は、その魚の無念さを印象付けてくれる。人の目と同様、魚の目も多くのものを語ってくれるのだ。
階段を上る恋猫時間のやう 山岸由佳
猫は非常に気まぐれな生き物。ぱっと移動することもあれば、ゆっくりと移動することもある。ふと見た時に階段にいて、またふと見た時にはそのさらに上の段にいる。それは集中しているときには短く、何もすることがない時には長く感じられる時間というもののようにも思えてくる。この猫にはぷくぷくとしていてほしい。
ふりかけの酸つぱい春の夜のラジオ 山岸由佳
ラジオは表現コードが緩い。一昔前のテレビのような会話が繰り広げられる番組もあれば、やけに政治色の濃い番組もある。だが、それらに共通するのはリスナーとの距離の近さ。だからこそ、ラジオからふと聞こえてきた内容にどきりとさせられてしまうことも多い。ふりかけを酸っぱく感じてしまうのは、単にそのふりかけの味のせいだけではない。ラジオを通してはるか向こうにいる他のリスナーとも感覚的につながっているのだ。
雪晴れて棘よく刺さるからだの端 佐々木紺
言われてみると、確かに棘が刺さるのは指先や足先などのからだの端のほうだ。腹や胸など、からだの中心には棘が刺さることはほとんどない。見方を変えれば、棘が刺さるということは、意志でもってそれだけその指先などを動かしているということにもなる。そのことに気付いた時、からだを動かすということがまた楽しいことのようにも思えてくる。
陽炎や老人になる息子たち 佐々木紺
単純に読めば、自分の子どもが自分と同じように高齢になったと読める。だが、どうにもそう読んではいけない句のように思う。息子たちを眺めているのは、そもそも人間なのだろうか。人間以外のもっと大きな存在のように私には思えてくる。神や仏のような、神羅万象の世界観がある不思議な句だ。
寄居虫の砂を巻き込みつつ歩く 藤井万里
やどかりの殻大揺れに波に入る 藤井万里
このやどかりの二句には映像的な感覚がある。まず、一句目では砂の上を歩いているわけだが、この景を見るためには視点をやどかりに接近させる必要がある。つまり、映画などであれば、やどかりの足から次第にカメラが離れていき、やどかりの全体像を徐々に見せていくことになる。続く二句目では、全体像から再びやどかりにカメラが接近し、そしてまたカメラは離れ、波にのまれるやどかり全体を映す。要するに、この二句では「近づく→離れる→近づく→離れる」とカメラがいったりきたりを繰り返す。これにより、やどかりの存在感というものを読者に強く印象付けることになる。また、一句目では砂粒(小さいもの)を描き、そのうえで二句目で波(大きいもの)を描くことにより、これまたやどかりの存在を強調させているように思えた。
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