2023-03-12

鈴木茂雄【週俳1月~2月の俳句を読む】写生の眼

【週俳1月~2月の俳句を読む】
写生の眼

鈴木茂雄



俳句という短い詩が辛うじて詩としての面目を保ち、ときに宝石の光彩を放つのは、この詩形の中にコトバを象嵌するための定位置というものがあって、そこに日常語をしっかり嵌めると、詩的スパークが発生してコトバの核が変貌するからだろうと考えられる。物事を描く基本の写生という技法が同じ写生という名で呼ばれてはいるが、俳句と絵画の違いがそこにある。なぜ「写生」という言葉をもちだしたか。今回「俳句を読む」対象として与えられた作品をざっと読んで、多かれ少なかれ各々の作品に作者の「写生の眼」を感じたからである。


まず、山口遼也の「叡電」10句に写生の眼を感じた。

竹馬の子の塵取を跨ぎたり  山口遼也

長靴に手毬のぶつかりて弾む

門松の影そつけなく伸びてをり

竹馬の句。この何十年、「竹馬」を目にしたことがない。すると、この句は兼題によって作られたものだろうか。それとも竹馬で遊んだりする地方がいまでもあるのだろうか。中句に「塵取」が出てきたので実景かも知れない。そう思ったりしながら読み進むと「子の、塵取を跨ぎ」と下の句へ続くが、最終の「たり」(「けり」ではなく)の一語がその感を深くさせる。

長靴の句。この句はまさに実景だ。「手毬のぶつか/りて弾む」の句跨りの屈折感に、感じたことを見えるようにする工夫がある。「ぶつかりて」といっても決して強い衝撃があったというのではない。ぶつけられた長靴は軽く揺れ、ぶつかった手毬は2度3度跳ねてゆっくり静止する。

門松の句。「そつけなく」がこの句の鑑賞のすべてだ。日の当たる門松にできた影を見て感じたことを、どうしたら見えるものとして伝えることができるか。その一点に焦点をしぼって、周囲の景色を省略して逆に「影」を生かす。「伸びて」いる門松の影がよく見える。それよりなによりこの句のいいところは、新年の季語を使って新年らしさを消し去ったところにある。およそ正月新年の句といって「正月」の気分を詠み込もうとするあまり、とかく「めでたさ」を前面に押し出すことになる。そこに安易な観念に堕す元凶があり、歳時記の「新年」の項に秀句が少ない所以もそこにあるからだ。


山岸由佳「おのづと」10句を読んだ感想は、作品全般に透明感があるということだった。

一枚の布覆ひたる冬の川  山岸由佳

ジャケットの釦おのづとはづれ月

階段を上る恋猫時間のやう

一枚の布の句。一読、「寒晒し」の風景が思い浮かぶ。布に描かれた絵や柄を冬の川にさらして、布についた糊を落とす作業。冬の冷たい清流で洗うと、布が引き締まり色が鮮やかになる。揚句に描かれた布は「一枚の布(が/を)覆ひたる冬の川」と読める。はたして冬の川は覆われているのか、覆っているのか、と。複数の布だったら布が冬の川を覆っていることになるのだが、この句の場合は一枚の布といっているのだから、冬の川が布を覆うようにして流れている状況を詠んだということになる。という理屈はさておき、一句の印象は清冽の一語に尽きる。

ジャケットの句。一読、葉月とか神無月という呼び名があるように、この句には「はづれ月」という月名が置かれているような錯覚を覚える。意味的な読みでは「ジャケットの釦、おのづと、はづれ、月」となるのだが、なぜか「ジャケットの釦おのづとはづれ、月」と読まず、「ジャケットの釦おのづと、はづれ月」と読んでしまうのは、「おのづとはづれ」と「月」の間に合理的な遮断を感じることができず、そのため「はづれ」が「月」のほうに掛かり、より詩的な新しい関係を成立させるからだろう。

階段の句。この句は「階段を上る恋猫」が「時間のやう」だといっているようにもとれ、「階段を上る」主体がその行為を「恋猫時間」のようだと言っているようにも聞こえる。「やう」が恋猫の闇のように柔らかく囁く。


佐々木紺「声と暴力」10句は視覚より皮膚で感じことを書いている、そんな感じがした。

雪晴れて棘よく刺さるからだの端(は)  佐々木紺

逃げてきてまたあやとりの果ての川

うつしよのあかるさばかり紙雛

雪晴れての句。「棘」といっても指に刺さったトゲなどではなく、身を刺す寒気のことをいっているのだろう。「からだの端(は)」とは素肌のこと。長く降った雪がやんで、暗かった空がきれいに晴れあがった景色を皮膚感覚で捉えた作。「よく」に力がこもって一句に抑揚感が生まれた。

逃げてきての句。実際に暴力から逃れてきたのか、それとも心理的な逃避をいったものなのか。いずれにしてもギリギリのところに作者はいる。「あやとりの果ての川」がそれを象徴している。「あやとり」は争う相手を記号する。

うつしよの句。「紙雛」は何を記号しているのだろう。「うつしよのあかるさ」とひらがなで表記することによって、あくまでも現世の明るさを描いて紙で作られた雛人形に陰影をつける。明るいことに対して「ばかり」と詠嘆したところに、「紙雛」に自己を投影した心の表れがある。


藤井万里「青空」10句を読んで感じたのは、まだ若い人の作品だろうと思ったことだ。

青空のまだ小さくて畑を打つ  藤井万里

寄居虫の砂を巻き込みつつ歩く

やどかりの殻大揺れに波に入る

青空の句。ひたすら対象を写生しようと試みているのが見て取れる。この句は「まだ小さくて」に工夫がある。季語「畑打」は「春蒔きの作物のために畑の土を打ち返すこと。」だが、「まだ小さくて」とは春先の空と同時に畑の面積をも物語っている。打っているのは小さな貸農園の畑なのだろう。

ヤドカリの句。どちらもヤドカリを描こうとしていて、前者は周囲の景色にはいっさい触れず、自ら背に負った貝殻に「砂を巻き込み」ながら歩く様子のみを捉え、後者はその貝殻だけを描いて「波に入る」様子のみを捉えて、ヤドカリそのものの生態を伝えようと苦心している。成功した写生の句というのは、実景より作品の方がさらにリアルで鮮明だ。上掲の2句は決して斬新とは言えないが、ヤドカリを思い描かせるのに成功している。


山口遼也 叡電 10句 ≫読む 第821号 2023年1月15日
山岸由佳 おのづと 10句 ≫読む 第825号 2023年2月12日
佐々木紺 声と暴力 10句 ≫読む 第826号 2023年2月19日
藤井万里 青 空 10句 ≫読む 第827号 2023年2月26日

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