【週俳1月2月の俳句を読む】
K**珈琲店大井松田店にてⅣ
瀬戸正洋
なるべく空いている時間に行くことにしている。「座席№7」と「同 №8」、午前中に日差しの入る数少ない席である。何も考えず誰にも囚われず気ままに過ごす。毎日、同じ音楽が流れている。同じ音楽しか流さない。得てして珈琲店とはそんなものだと思っている。
●
文鳥は首を傾げてお元日 山口遼也
疑問に思っている。不審に思っている。納得がいかない。そう考えているのは文鳥だけではない。それを文鳥に託した。元日であるとした。ひねくれているのかも知れない。温厚であるのかも知れない。元日は特別な日ではない。ふだんと変わることのない日常である。
竹馬の子の塵取を跨ぎたり 山口遼也
塵取がある。それは子の塵取だという。どんな塵取なのか想像してみる。竹馬に乗って塵取を跨いたのは父であるのかも知れない。子であるのかも知れない。それも想像してみる。何故、塵取を跨ぐことになったのか。それも想像してみる。
長靴に手毬のぶつかりて弾む 山口遼也
手毬は長靴にぶつかりたかったのである。手毬は弾んでみたかったのである。女の子がいる。誰もがそんな気持ちになるのかも知れない。「手毬」とは新年の季語、古くは正月二日の男子の行事とあった。
初鴉ゆく叡電とすぢかひに 山口遼也
略称「叡電」、叡山本線と鞍馬線の二路線を運営するとあった。京都のことはよく知らない。「叡電」に乗り初詣に行くことが、そこに住むひとにとっての習慣なのかも知れない。すぢかひとは、斜めに交わる。斜めにずれるということである。基準、標準からはずれる。くいちがうという意味もある。夜明け前に鴉が鳴く。これは偶然の出来事である。元日であることも同様である。
杉に触れ檜に触れて初詣 山口遼也
杉や檜は整然と植えられている。参道である。触れているのは杉や檜も同じである。ひとが触れているだけではない。もちろん、鴉も触れているのである。
凍鶴の見える公衆電話かな 山口遼也
公衆電話とは珍しい。あたりには雪が積もっているのかも知れない。凍鶴と公衆電話の灯。いかにも寒々しい。
水滴のやうに蠅をり日向ぼこ 山口遼也
風のない日だまりでくつろいでいる。無数の蠅がじっとしている。水滴のやうからは気持ちの悪さを感じる。蠅も人も自由である。蠅からも人からも、気持ちの悪さを感じる。自由であることは気持ちの悪いことなのかも知れない。
門松の影そつけなく伸びてをり 山口遼也
「そっけなく」なのである。苦心惨憺の結果だったのである。門松は門松である。太陽は太陽である。影は伸びたり縮んだりする。特別なものなどどこにもないのである。
底冷や魚拓は目玉まで写し 山口遼也
魚拓とは記憶である。記憶とは未練である。目玉のない魚拓があれば面白いと思う。寒いと目玉に集中する。底冷えなのだからなおさら目玉に集中する。
いろいろの湯気の中なる薺打 山口遼也
七草粥である。長寿や無病息災を願うのである。いろいろの湯気の中とは、いろいろな人がいる、いろいろの人生があるということなのである。
一枚の布覆ひたる冬の川 山岸由佳
そのように見えたのである。まるで老人である。何の変化もない。川の周辺の一切が灰色なのである。布とは高級ではない織物である。平ら、水平、横、平行の意を表すこともある。
ジャケットの釦おのづとはづれ月 山岸由佳
外れて欲しかったのかも知れない。外れて欲しくなかったのかも知れない。無月だったのかも知れない。満月だったのかも知れない。まるく大きな釦だったのかも知れない。自ずと外れることは不快である。ひとりでに外れてしまうと困るのである。
秒針や襖のしろき野のひかり 山岸由佳
秒針とは秒を示す針である。一秒はせわしない。秒針は落ち着きがないのである。部屋の障子も廊下の硝子戸も何もかもが開け放たれている。
考えることは厳禁である。ただ「襖のしろき野のひかり」を感じていればいいのかも知れない。
岸暗くなり水鳥の一羽づつ 山岸由佳
水鳥の一羽を見ている。水鳥はせわしなく動いている。つぎの一羽を見ている。さらに、つぎの一羽を見ている。岸辺である。夕暮れである。
階段を上る恋猫時間のやう 山岸由佳
時間とは「出来事や変化を認識するための基礎的な概念」とある。そう言われてもよくわからない。恋に憂き身をやつす猫が階段を上っている。時間とはその猫のことなのかも知れない。
髪はねてゐるよ春の鳥来てゐるよ 山岸由佳
春の鳥といっても様々である。さえずりといっても様々である。野鳥図鑑片手に双眼鏡で調べてみても面白いのかも知れない。
カーテンと窓を開け春の日差しを浴びる。背伸びぐらいはしてみてもいいのかも知れない。そんなときの髪は少しぐらいはねていてもいいのかも知れない。
ふりかけの酸つぱい春の夜のラジオ 山岸由佳
ゆったりとしている。朧である。花の匂う夜である。ラジオからは音楽がながれている。ながれているのは六十年代の流行歌なのかも知れない。
酸っぱかったことに気付く。日本に住んでいることに気付く。日本人であることに気付く。
猫の名を呼ぶ淡雪の扉かな 山岸由佳
淡雪だから猫の名を呼んだのかも知れない。扉があったから猫の名を呼んだのかも知れない。淡雪の扉があったから猫の名を呼んだのかも知れない。猫の名は永遠に呼び続けられていくのかも知れない。
風が歯に当たるバレンタインデー 山岸由佳
バレンタインデーとは風が歯に当たる日のことなのである。バレンタインデーとは歯が風に当たる日のことなのである。男だ、女だ、チョコレートだなどと考えてはいけない。バレンタインデーとは何かが何かに当たる日なのである。
太陽と目玉ふたつの凧 山岸由佳
凧とは人である。太陽も人である。人には目玉がふたつある。凧にも目玉がふたつある。
雪晴れて棘よく刺さるからだの端 佐々木紺
端だからなどと思ってはいけない。棘はからだのど真ん中に突き刺さりたいと願うものなのである。幾日も雪が降り続く。やがて雲ひとつない青空。これが曲者なのである。ここから間違いがはじまるのである。拒みつづけることが大切なのである。
逃げてきてまたあやとりの果ての川 佐々木紺
あやとりの究極は川なのかも知れない。誰でも簡単に作ることができる。そこに落とし穴があるのである。「また」なのである。「果て」なのである。生きるとは逃げ続けることなのかも知れない。
はね橋の弧の外を冬の鷗かな 佐々木紺
弧の内でなくて幸いであった。外であるからかすかに希望が残っている。たとえ冬であっても、冬の鷗であっても未来はあると思う。
押し花のさいごの呼吸しぐれゆく 佐々木紺
押し花は「さいごの呼吸」に反応する。押し花には押し花であるためのとどめのひと押しが必要だったのである。雨は降ったり止んだりしている。もうすぐ、冬がやってくる。
うつしよのあかるさばかり紙雛 佐々木紺
あかるさばかりとは結構なことである。「うつしよ」の、その隙間にあるはずのあかるさが生活のすべてなのである。どこからか音楽がながれてくる。紙雛とは男女一対の立ち姿の紙の雛人形である。
ぜんぶ空耳 蝶がうたつてゐるときの 佐々木紺
そんな気がしたのである。「空耳」と「蝶」のあいだの一文字が空白である。その空白が消えてしまった音なのかも知れない。ぼんやりと寝そべっている。蝶のうたが聴こえてくることがある。
雑音をかさね無言へ花曇 佐々木紺
雑音とは言葉である。正しいと確信した言葉である。それが間違っているのである。黙っていた方がどのくらいましなのかわからない。晴天である。曇天である。さくらの美しさは何も変わらない。
陽炎や老人になる息子たち 佐々木紺
老人になる息子たちがいる。息子たちより若い自分がいる。自分のことはよくわからない。息子たちのこともよくわからない。春のおだやかな時間が続いている。
引用をながし春暮を堰き止める 佐々木紺
引用とは他者の考え方文章などを用いることである。ながすとは、ものを移し動かすこと、あるいは広めることである。必要なことである。何となくもやもやすることもある。立ち止まって考えることも必要である。季節(春暮)を堰き止めるくらいの覚悟が必要なのかも知れない。
膝に風肘に風きて浮氷 藤井万里
膝と肘である。関節にとって最大の敵は寒さである。内からも外からも刺激を受ける。水のなかにある氷とは関節のことなのかも知れない。
青空のまだ小さくて畑を打つ 藤井万里
広がっていく青空である。畑も耕していく。「小」とは、希望のあることばである。
春水やゆすつて閉ぢる釘の箱 藤井万里
ゆすったことの是非はわからない。閉じたことの是非もわからない。世の中、わからないことばかりである。「春水」とは、氷や雪がとけ出して流れる水のことをいう。
涅槃図を巻くに腕章一人をり 藤井万里
涅槃図を片付けている。腕章を巻いている学芸員が一人いる。安堵感と静寂。ちいさな博物館なのかも知れない。
寄居虫の砂を巻き込みつつ歩く 藤井万里
寄居虫は海水を吐くことで移動する。吐くためには吸い込むことが必要である。それを繰り返していく。生きるための基本的な動作のような気もする。
やどかりの殻大揺れに波に入る 藤井万里
殻しか見えていない。大海に船出する小舟をイメージする。やどかりとは人のことなのかも知れない。人は何かを借りなくては生きていけない。借り過ぎても生きていけない。「ほどほど」とはいいことばである。
天井がもつとも眩し雛の家 藤井万里
ひかりは屈折して天井に届いている。毛氈の「赤」がそれに交錯している。ひかりはゆらゆらと揺れている。天井のその先には青空がある。
初桜日はぽつかりと海にあり 藤井万里
「ぽっかり」とは、形のはっきりとしてものが浮き出るさまのことをいう。初桜だからそう感じたのである。
たまるまで暗きバケツよものの芽よ 藤井万里
水がたまる。バケツは銀色にかがやく。春になると草の芽が地面から萌え出る。隠れていたかったのにそれができなくなった。誰の意志なのか解らない。幸不幸の原因はわからない。
よく笑ふひとや春田をたもとほり 藤井万里
行ったり来たりしている人がいる。春を確認しているような気がした。春の気配はそこかしこにある。用もないのに春田を眺めに来る人が増えている。
●
某図書館での句会の日、I氏の発案でG寺の梅を見に行くことになった。満開であった。そこには詩人であり小説家であった人の墓もあった。途中「珈琲庵」という茶房でひと休みした。入った時にはクラッシックが流れていた。入るとジャズに変わった。何故、変えたのかは聞かなかった。気になってしかたがなかった。
私は、K**珈琲店だけに行っている訳ではない。
0 comments:
コメントを投稿